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『俺は生き甲斐を失った。 今まで散々尽くして、幸せにして、一瞬で7年間が無駄になった。 自分が必要ないなんて、ふざけているように聞こえるかもしれない。ただもう終わりにする。誰が悲しんでも、俺の悲しみは乾かない。 全てを終わりにする、じゃあな、俺の28年間。』 高橋康介はノートパソコンに遺書を書き留めて椅子の背にもたれた。果たしてこの文章で自殺の原因を探ることはできるのだろうか。しかしそこは自分の仕事ではない。誰の影響で死を選んだのか、それを判断するのは警察の仕事だ。あとは現世に全てを任せて飛び立つ。立つ鳥跡を濁さずなんて言葉があるものの、今の自分は跡を泥で塗りたくっているのだろう。死への塗装屋。最後の職業にふさわしいと、高橋は笑った。 埼玉県は行田市で生まれ育った高橋は東京への憧れを強く持っていた。何故同年代の人々すら輝いて見えるのか、東京には謎の魔力があるのだろう、高校を卒業してからは吸い寄せられるように上京したのだった。 東叡大学はメディア系の学校だった。テレビの作り方、俳優の成り方、アーティストの成り方。どれも高橋にとっては興味のないものだったが、東京の大学に通っているという事実が心地よかった。知り合った友人と酒を飲んでは夜通し語り合って、いつの間にか就職して大人になる。そう思っていた高橋の前に現れた吉田美嘉は、彼の人生を変えてくれた。 シャープな目にすらっと伸びる鼻筋、小さな唇は笑うとひしゃげていて、常に冷静を装っていたが、高橋はその不器用な笑顔が好きだった。 生まれてからずっと東京に住んでいるという彼女は、高橋に色々なことを教えてくれた。流行りのファッションや飲食、そしてセックス。それまで過ごしてきた21年間は、彼女と出会って僅か数ヶ月で美嘉の色に染まった。 だからこそ、自分は彼女を幸せにするのだと思っていた。子どもの頃に抱いていた夢を捨て、堅苦しいスーツに身を包む。全ては自分に新たな色を見せてくれた美嘉への恩返しだった。決して顔の作りがいいわけでもない自分のために尽くしてくれた彼女に、今度は自分が尽くす。背伸びをして広告代理店に就職したのもそのためだった。 彼女の浮気が発覚したのは2ヶ月前のことだった。 専業主婦として家にいるはずの美嘉が男と並んで歩いているという目撃証言は大学の友人から。最初は人違いだと思っていたが、同じくその姿を見かけたという声がいくつも届き、高橋は街の探偵に縋った。全ては彼女への贖罪である。浮気していると疑ったと自分を責め、彼女の身の潔白を知って謝罪しよう。しかし数十万円をはたいて手に入れた事実は、高校生の時に付き合っていた男との浮気、だった。 もちろん信じられなかった。自分に色々なことを教えて、結婚も視野に入れていた。式場は都内にするか、それとも海外にするのか。そんなことを話し合っていた矢先の出来事だった。 そして高橋が全てを諦めたのは1週間前のこと。きちんと話し合えば分かり合える、浮気相手と別れて自分を選んでくれる、また元の生活に戻ることができる、そんな妄想は彼女の一言で打ち砕かれた。 「あなたには飽きたの。」 正式な別れの言葉もなく家を出て行って、給料を注ぎ込んで購入したマンションの一室がただの箱に変わる。すべてに絶望した瞬間、高橋は迷わず死を選んだ。 もちろんこれから先、生きていれば美嘉よりも素敵な女性に出会えるかもしれない。浮気もせず、自分だけを好んでくれるかもしれない。しかし、裏切られた人間は脳内にマイナスなイメージばかりを植え付けてしまう。こいつも浮気をするかもしれない、そんな状態で別の女性と恋愛を楽しむなどありえなかった。 人がどう傷付くかはその人次第である。仮に交際している女性が浮気をして、それが原因で別れてもすぐに吹っ切れる奴だっていることだろう。ただ自分は違った、ただそれだけだ。 すっかり散らかって足の踏み場もない床をかき分け、冷蔵庫を開ける。電化製品の唸り声だけが今の生活のBGMだ。缶ビールを取り出し、リビングへ移動する。結婚のために購入した女性向け雑誌を投げ捨て、黄土色のソファーに腰掛けた。 2人だけの新居だった空間に、プルトップを開ける音が虚しく響く。泡を零さないように喉に通した。目の前のテーブルは美嘉が選んだ家具の1つで、ガラス張りだった。浮いているように鎮座するソフトパッケージのセブンスターを手にとって、少し凹んだ1本を抜く。 いつの間にか自分の周りには、美嘉を思い出すもので溢れていた。アメ横で自分のために買ってきたというジッポーライターで火をつけ、薄暗い空間に煙を吐く。喉に絡む苦味が少しだけ痛かった。 彼女のことを思い出して泣くことはもうしない。意外にも死を決意すれば悲しむ余裕もないほど日々は過ぎていくのだ。同僚には別れたということをへらへらと伝え、その裏でいつ自殺を図るか考えている、人は何かから吹っ切れると笑顔になれるのだ。 赤ん坊の笑顔は天使の微笑みと呼ばれているらしい。笑おうと思って笑うのではなく、親に気に入られたいと本能が働いて、筋肉が収縮を繰り返して口元が緩むそうだ。生も死もきっと近いのだろう。 (あのライトも美嘉が選んだやつだったっけ。) 天井に吊るされた光のないガラスの球をぼんやりと見つめて、高橋は笑った。
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