其の二 「クレーマー」

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其の二 「クレーマー」

  ある朝、誰かが勝手口をぶっ叩く音で俺は目覚めた。現在時刻は午前四時十五分、平日の平均起床時刻より一時間早い。俺はまず水道水で顔をピシャリと叩いて、そのまんま喉を潤した。最低限の身だしなみってヤツ。この時点では、扉を叩いてやがったのが誰だか知らなかったが、目星はついていた。どうせ隣のクレーマーババアだろう。   そいつは近所でも有名なクレーマーで、一度目をつけた住民を引っ越しに追い込むまでは逃さねぇっつうとんでもねぇババアだ。年齢は還暦ちょい前ってとこで、不良の息子がいたんだが上京して今はマシな暮らしをしてるらしいぜ。   ダン、ダン、バン、バン、バン、と雑音は早朝の住宅街に響き渡る。何やらごちゃごちゃ言ってるようだが、俺の耳には届かない。   今出ていったら俺がお陀仏になっちまうと思って、しばらく放っておいたんだが、もう我慢の限界だ。俺は仕方なく奴と顔を合わせることにした。   「あんたなぁ、近所迷惑ってものを…」   「ああ?こっちのセリフよ!昨日の九時頃、騒音を鳴らしてたの、あんたでしょ!!?」   昨日俺が家に到着した時、時刻は既に午後十時を回っていた。とんだ言いがかりだ。ヤクでもやってやがんのかこのババア。大体なんだって今それを言いに来やがんだ。たといそれが正しくったって、なんですぐに言いに来なかったんだ?「昨日も来たのか?」俺は冷静に尋ねたが…。   「じゃかましい!!これだから最近の若い子はまったく…」   これ以上語る必要はあるまい。奴はそのまんまトンズラよ。まあともかく、訳のわからんババアであることに変わりはない。だが、ババアの恐ろしさはこれだけじゃないんだぜ。さっきのはほんの小手調べみたいなもんさ。   俺は二週間ほど家を空けることにした。鍵はお隣さん(まさかババアとは思わねえだろうな)に預けた。シベリア鉄道で最高の旅に出るのさ。嗚呼、二週間後が楽しみだ。ババアがヘマしてパクられてるか、ご近所さんの誰かが引っ越してるか。いずれわかることだ。  *   まったくシベリアはロクな所じゃねぇ。2週間の旅は貴重な財産の損失と疲労を俺にもたらしたに過ぎなかった。それもこれも、向こうでスリなんかに遭っちまったのが原因だよ。   盗まれたのは財布をいっぱいに充たしてたルーブル紙幣と硬貨。なぜか知らんが、昔インドに行った記念に取っておいたルピー硬貨も一緒だった。それだのに、向こうのスリは蛇の抜け殻だけ器用に残しやがって、俺の油断してる隙にみんな持って行っちまった。幸い、ノヴォシビルスクに知り合いがいたんで、なんとか俺は帰国できたワケだが、最悪なことにあのスリのクソガキめ、LSDを俺の財布に紛れ込ませやがった。   クレーマーババアの猛攻に耐えてた方がよっぽどマシだったかもな。無事生きたまま帰国できたのは不幸中の幸いだったってわけだ。   「お隣さん、帰っていらしたんですね」   「ええ、ちょうど今」   「はい、預かってた鍵。それより聞きました? 佐竹さんの息子さん、渋谷で交通事故に遭って重体だって話」   佐竹ってのは、あのクレーマーババアの苗字。どうやらドラ息子が都会で死にかけたんで、見舞いに行ってやってるらしい。   「そいつはいいや、あ、アレの愚息が事故に遭った事じゃないですよ」   「そう思ってしまうのも仕方ありませんよ、この辺りに住んでる人はみんな迷惑してますもの」   土産(例の知り合いのお情け)をお隣さんに渡してから、俺は自宅の前に立った。   何だか妙な胸騒ぎがしてならない。不安に駆られた俺だったが、意を決して内部に突入した。というのも、前にクレーマーが為に退去したご近所さんは、留守にしている間に家をあのババアに荒らされたのだ。警察もババアには目をつけているらしいが、何せ相手はあのババアだ。相談してもまともに取り合ってくれないっぽい。   扉を開けてまず目に飛び込んできたのは、いつも通りの玄関だった。二階建ての住宅に一人暮らししている俺の玄関。靴は5足。場面に合わせて使い分けてる。   何はともあれ、これでババアが帰ってくるまでは安泰だろう。シベリア帰りの俺へのご褒美だったりして。さっとシャワーを浴びて、有り合わせの飯で我慢して、軽く1杯やったその時、俺は夢から醒めた。   「お隣さん、早く逃げないと! 火が出口を塞ぐ前に!」   お隣さんの声がした。俺はソファの上。右手にはルーブル硬貨が握り締められている。確かに俺はシベリアに行ったはずだ。でも、いつ行ったんだっけ。   今は寝ぼけていられるような状況でないことぐらい、俺にだってわかった。誰か(多分だけど、お隣さんがここにいるってことは彼女)が消防に連絡してくれたらしく、外ではけたたましくサイレンが鳴り響いていやがる。こんなことが現実に起こるだなんて、たとい俺が間違った人間でもこんな目に遭うだなんて、夢にも思っていなかった。実際、俺はその夢に翻弄されているのだから。   揮発性の因子に片脚を突っ込んだ俺の責任でもあるんだが、なんだってこんな目に遭うんだ。何度となく俺はそんな風に思わずにいられなかった。   意識が朦朧としてきた。最後にちょっとばかし感じたのは、お隣さんの背中の温もりだけだった。俺よりずっと狭いはずなのに、芯だけは強くて。内側から彼女を燃やし尽くしたのが懐かしい。   待て、どういうことだ。そんな記憶はない。胸の鼓動は嘘をつかない。不整脈なんてありはしない。   その時の俺に冷静な判断を求める方が馬鹿げていたのかもしれねぇな。立ちこめる煙の中、俺は夢の切れ端にしがみついた。
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