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5.走り抜けた後で
下り坂は、案外楽なものではなかった。
走るペースをあえて押さえようとしているのに、どうしてもスピードが出すぎてしまう。そして、一度上がってしまったペースは、なかなか下げにくい。足腰への負担も一段と重くなるし、疲労感が激増する。
「はあ、はあ」
だめだ。苦しい。もう、耐えられない。
智夏はついに、白いガードレールに手をついて、立ち止まってしまった。ぜえぜえと、粗い呼吸をつく。
それでも、どうにかこうにか呼吸を整えて、再び走り始めた。
(緒美ちゃんに、がっかりされたくないからね)
どんな形でもいいから、とにかくゴールまで辿り着きたい。どんなに無様であっても、完走したいのだ。智夏の思いはそれだけだ。
もう、後ろから自分を追い抜いていく人はいない。恐らく、自分が最後尾だということだ。最初から、こうなることはわかっていた。けれど今は、そんなことを気にしている余裕はない。
今はとにかく、何も考えずに走るだけだ。親友達が待っている、ゴールを目指して。
「はっはっ……。ふっふっ……。は、は、ふ、ふ」
これはもう、ただの苦行だ。
マラソン愛好家の人には悪いけど、智夏は思わずにいられなかった。
マラソンなんて、大嫌い! と。
仮に、智夏がどんなに努力をして練習してみたところで、好きになれる気がしなかった。きっと、智夏とマラソンは、絶望的に合わない組み合わせなのだろう。
智夏は心の中で毒づきながらも、歯を食い縛り、必死に走った。
◇ ◇ ◇ ◇
何度となく立ち止まったものの、悪戦苦闘した甲斐は確かにあった。
やっとのことで、ゴールであり、スタート地点でもあった広場が見えてきたのだ。
(も、もう少し! 頑張れ、私!)
決して気を緩めたわけじゃない。けれど、ここに来て不運なアクシデントが起こってしまう。
「痛っ!」
ぐき、と嫌な感触。
足元の鈍い痛みに、智夏はよろめいた。
歩道の段差に右足を乗り上げて、捻ってしまったようだ。
「うう」
辛そうに顔をしかめる。
でも、何とか立ってはいられる。大丈夫そうだ。大したことはない、はず。……そう思いたかった。
「う、ぐ……。うぅ」
痛みによって完全にバランスが崩れてしまったけれど、智夏はまだ、完走を諦められなかった。
右足を引きずるようにして、必死に進む。よたよたと、広場に入っていくと……。
「ともちゃん!」
「大丈夫!?」
みんながいた。
トップでゴールをしたのであろう、沙弥と明穂は入り口のところで、待ってくれていた。
そして、緒美も。
「智夏っ!」
「あ……」
珍しく、少し強い口調の緒美。
彼女は智夏に駆け寄り、肩を貸してくれた。
一早く智夏の異変に気付いたのだろう。真剣に、心配しているのだ。
「足、痛めたのでしょ? どうして棄権しようとしなかったの? 私は、無理をしないでと言ったはずだけど」
つい、責めるような言い方になってしまう。
それに対して智夏は、くすっと笑った。大丈夫だよと伝えるために。
「動けない程じゃないから。それに。もう少しだから、行けるかなって思ったんだよ」
「そう。それならいいわ。……じゃあ、ほんの少しだけ、手伝ってあげるわ。あそこまで、ね」
「うん。ありがとう」
ゴールまで、あと百メートルもないけれど、緒美は智夏を支えてくれた。松葉杖代わりといったところ。
クラスのみんなも、待ってくれていた。
智夏は一歩一歩、踏み出して行く。
そして、大勢の人達に見守られながら、最後の走者として完走を果たした。
「ゴール! ゴールだよゴール!」
「やったね、智夏ちゃん!」
沙弥と明穂が喜んでいる。智夏も何だか嬉しい。ビリだけど、一応は完走することができたのだから。目的を果たせて良かったと、心から思った。
「ふう」
「お疲れ様。よく頑張ったわね」
緒美は智夏を芝生の上へと連れていき、座らせた。
「すぐ、手当てしましょ」
「そうだね」
やがて沙弥と明穂が、保険の先生を呼んでくれた。
智夏は運動靴と靴下を脱いで、素足を晒した。
「ひゃっ!」
貼られた湿布が、とても冷たく感じる。
先生が言うには、大した事は無さそうだけど、あまり動かさないようにねとのこと。そんなわけで、しばらく様子見をすることになった。
◇ ◇ ◇ ◇
「で。どっちが勝ったの?」
芝生の上にレジャーシートを広げて、みんなでお弁当タイム。
智夏は、そういえばと思い出して、沙弥と明穂に勝負の結末を聞いてみたのだった。
「はいは~い! 私~! 勝ったよ~!」
笑顔の明穂が手を挙げる。
「ぐぬぬ。悔しいけど、明穂の言う通りだよ」
明穂とは対照的に、悔しそうなのは沙弥。
沙弥が言うには、本当に僅差だったとのこと。多分、ゴールする寸前まで一進一退の攻防を繰り広げたのだろう。
明穂にとっては、陸上部の面目躍如といったところだろうか。
「それで。明穂は沙弥に、何をお願いするのかしら?」
敗者は一日、勝者の言う事を聞かなければならないそうだ。
緒美がそう聞くと……。
「え~とね。えへへへ。私、いっぱい考えてみたんだけどね。今度、晩ご飯作って! おいしいのを!」
残念なイケメン女子とはまさにこれ。中性的で、凛々しい表情もどこへやら。ほわ~んとした緩みきった表情で、明穂はそう言った。
沙弥は見かけによらず、なかなか料理がうまかったりするのだ。それにしてもと、沙弥は思った。
「……は?」
沙弥は明穂の答えに、拍子抜けしたのだ。
そして、何を言っているんだこいつはと、そんなジトーッとした目で最愛の相棒を見つめる。
「あによそれ! なんなん!? そんなん、わざわざお願いするようなことじゃないっしょ!」
頼まれたらいつでもやったるわいと、沙弥は思っているようだ。
「そうかな?」
「そうだよそうだっつーの! 折角相手を一日中服従させられるってんだから、もっとすごいことさせなきゃだめっしょ!」
「例えば?」
首を傾げる明穂。
その様は小動物みたいで可愛いわねと、緒美は思った。
そんな緒美を見て智夏は、浮気の気配を何となく察して、ジトーッとした目でちょっと緒美を睨み付けた。
「例えば? えっと。……それは、その。す、スク水とか着せて! あと、萌え萌えキュンッな猫耳とか頭につけさせて! んで、猫だけに尻尾なんかもつけさせて! そんでもって一日中、語尾に『にゃ』をつけさせるとか! 例えばそんなんよそんなん!」
「あ、いいね~。じゃ、それもお願いするよ」
明穂はあっさりと言ったのだった。
四人の中で一番純粋な心を持つ子は、明穂かもしれないと、みんな揃って思うのだった。
「し、しもた! 墓穴を掘ったあぁぁ!」
沙弥はもはや、狙ってやっているんじゃなかろうか?
賑やかな二人を見ていて、智夏と緒美は笑った。
マラソン自体はなかなか辛くてしんどかったけれど、その後はもう、遠足みたいで楽しかった。
また一年後、やらなきゃいけない季節が訪れるだろうけれど、どうにかやっていこうかなと、智夏は思うのだった。
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