ONEコロ★入りました

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 雲一つない快晴。朝方はまだ冷えるが、洗濯物は乾きそうだ。顔を洗って歯を磨いて掃除したら、洗濯物を干して、と段取りしながら、前頭葉の大部分ではブランチでワインを一本開けちゃおうかな、それとも冷やできゅっといこうかな、などと考えていた。飲食店は軒並み営業休止だから仕方ないが、自宅の昼酒はとことん飲んでしまうので危険だ。気がつくと床に転がって眠ってしまい、喉が渇いて夜に目が覚める。そのまま眠れなくなり、明け方までだらだらドラマを見て夜が明ける。生活のリズムがすっかり崩れて週明けを迎える悪循環が続いていた。出社が唯一の歯止めだったのに、テレワークでそれもなくなる。きょうはすこしペースを考えないとね。  家事をひととおり終えると日差しが暖かくなってきた。これはベランダでワインですなあ。リクライニングチェアを出して一人飲み始める。至福の時間だあ。すると、スマホの着信音が。実家かなと思いながら画面を見ると「DEATH」の文字が。げげっ、死に神だよ。な、なにごとか。まだ一口しか飲んでないのに。一気に盛り下がった。  「あっ、はい、もしもし」  「休みにすまないね。緊急事態なんだよ」。切羽詰まった様子だ  「ど、どうしましたか」  「感染者が出たらしくてね。ホームページにプレスリリースをアップしなきゃならないだろうから、君、総務部長といっしょに対応してくれないか」  「感染って、どなたが。というか、なんで私が」  「職場環境に関わる問題だからね。グループ会社とはいえ、取引先だけでなく、社内に接触者がいないか確認しなければならないし。私は保健所の対応もあるから手が足りないんだよ。じゃあ、頼んだよ」  一方的に電話は切れた。楽しい週末よさようなら。グループ会社ってどこだよ。肝心な情報はなにもない。  キテレツ君に電話するとワンコールで出た。「待ってたよ。駅前で待ち合わせて現場に行きましょう。15分で来られるよね」。  やれやれ。あわてて着替えて化粧してマスクをして自宅を出る。駅近とはいえぎりぎりだ。週末までマスクで息苦しい思いをするとはね。 駅に着くとキテレツ君が待ちかまえていた。  「グループ会社ってどこなんですか」  「技術研究所だよ。居酒屋に行って発症したみたいだからクラスター感染だろうと保健所は見ているようだ。これから社内を消毒だって」  「取引先と社内の濃厚接触者はどれくらいなんでしょうね。技術屋さんだから外部との接触はほとんどないようだ。内部も数人だって。マスク着用を義務づけていたのが幸いだったな」  会社に到着すると、保健所の指導の下、消毒作業の真っ最中だった。感染した社員の足跡をたどって机やその周辺、ドアやトイレ、会議室などにくまなく消毒液を散布していく。塩素のにおいにむせる。  「さて、プレスリリースをつくりますか。想定問答の準備はできてますか?こちらでチェックしますので見せてください」。キテレツ君が総務担当の上杉さんにてきぱきと指示を出す。  「いや、それがですね、保健所の方がリリースしないでくれと申してまして。どうしたらよいかと」  「えっ、なんで。そりゃ義務じゃないけど、ばれたら隠蔽したってネットで炎上するよね。上場企業はみんな開示しているんだからさ」。キテレツ君は明快だ。炎上リスクはあるし、何より他の人が感染場所に寄りつかないよう注意喚起する効果もある。ここはリリースするすべだよね。  「マンパワーが足りないみたいです。居酒屋にはかなりの人数がいたようなので追跡調査がたいへんらしく、このビルのほかのテナントからの問い合わせに対応するだけでパンク状態なんだとおっしゃって」。  「うーん、そこまで言われて強引にリリースもしにくいかなあ」  えっ、いやいや強引に行きましょうよ、そこは。居酒屋の客が感染に気づかずまき散らしたらどうするのさ。明日は我が身なんだから。  「私はリリースしたほうがよいかと。隠蔽したなんて言われたくないですよ」  「仕方ない。支社長に相談するかあ。ここで結論出して、結果責任問われて嫌でしょ」。キテレツ君がケータイで支社長に電話し始めた。 手持ちぶさたの私は上杉さんをねぎらう。「たいへんでしたね。自宅待機の指示はもう済まされたのですか」。  「はい、朝一で。所長を含め管理職で手分けして、社員が接触した可能性のある取引先やテナントにも電話連絡しましたよ。かなりバタバタでした」。無精ひげが疲労の程度を物語っている。  「自宅待機している方に症状が出ないといいですね」  「祈るばかりです。オフィスは閉鎖して明日から全社員テレワークですよ」  「おーい、我々は引き上げるよ」。キテレツ君は「支社長は開示せんでよろしいだとさ。消毒終わったら引き上げてくれって。上杉さん、自宅待機組の様子は随時、連絡してくれますか」。  「はい、もちろんです」。 こんなことがあちこちで起きているのだろうか。感染した自覚もないまま通勤したり出勤したり、家庭で過ごしたりしているひとはいったい何人いるのだろう。  「なんか表情暗いね。感染爆発でも心配しているの?」 帰りの電車でキテレツ君にずばり見抜かれた。「ええ、まあ。だって怖いですよ。注意喚起の機会をつぶしちゃったわけですよね。これで感染拡大したらって思っちゃうんですよね」。  「君はたぶん正しいよ。このツケは面倒くさがりの支店長に払ってもらいましょう」  ツケを払うのは全市民だよ、アホサラリーマンが。怒りがこみ上げる。でも、私も何もできなかった。同類だ。感染者増えないでほしいな。  くたびれて自宅に戻り、シャワーを浴びて塩素くさくなった全身を洗う。ビールを飲みながらテレビをつけると、国営放送に「東京都内、最多143人感染」のテロップが流れていた。「わ、わ、わんはんどれっどふぉーてぃーすりぃー」。
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