ONEコロ★入りました

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 西本は故郷の神戸市長田区に来ていた。つらいことがあると、生家があった場所が見下ろせる小高い丘に立つのが習慣になっていた。まだ小さかったころ、阪神・淡路大震災で倒壊し、がれきとなって両親を飲み込んだ生家。自分がどうやって助かったかは覚えていない。泣きながら両親を探しているうちにあちこちで火の手が上がり、見知らぬ人と逃げ回った。恐怖と絶望の感情だけが鮮明に焼き付いている。  記憶がはっきりしているのは、在日韓国人の親戚に引き取られ、延焼を免れた小さな家で暮らしたことだ。学校には通ったが、洋服はいつも親戚の子どものお下がりで、食事は給食が一番のご馳走だった。新しいワンピースを着ているクラスメイトがうらやましくて、おばさんにおねだりしてひっぱたかれたこともある。おじさんは勤め先のケミカルシューズの工場が焼けて長く失業していた。「あんたを置いてやっているだけでもありがたく思いな。食費だけでもたいへんなんだからね」。おばさんの口癖だった。貧困への強烈な嫌悪感が植え付けられた原体験だったかもしれない。  西本は救いのない貧乏暮らしを抜け出そうと、必死に勉強し、働いた。新聞配達などを掛け持ちしてカネを溜め、高校に進学すると、大人びたメイクをしてキャバクラで働いた。客の大学生や若いサラリーマンとデートし、ふんだくって稼ぐことも覚えた。ある日帰宅すると、ふぬけになったおじさんが煽るように安酒を飲み、正体不明になっておばさんを殴っていた。西本はその日を境に1人暮らしのボーイフレンドの家を転々とするようになり、大学に合格すると、さっさと大阪で1人暮らしを始めた。親戚一家はその後、夜逃げをしたと風の便りに聞いた。いまではどんな顔をしていたのかもよく思い出せない。  さて三ノ宮に向かおう。この街にくるのも今日が最後だ。長田駅の券売機でチケットを買っていると、上杉の言葉をふと思い出した。上杉は自分を救いたい、と言った。引きこもりだったあの男は、西本を喜ばせようと必死にがんばってきた。どん底から這い上がる姿を自分に重ねて、いつしか気の置けない相手になっていた。恋愛感情はないが、初めてできた友人だったかもしれない。  「でもさ、上杉。私はここで終わりたくないんだよ」。西本はつぶやいた。25年前のあの日、焼け野原で泣いていた私の飢餓感はいまも満たされない。年を重ねるにつれて天を埋め尽くす雨雲のようにむくむくと大きくなり、飲み込まれそうになっている。震災のあの日、上杉が目の前に現れて、救いたいと言ってくれたら私の人生は変わったのだろうか。真新しく生まれ変わった長田駅前を眺め、西本はすこし居心地が悪くなった。ケータイを取り出し、上杉に電話する。  「やあ、連絡があると思っていたよ」。上杉が言った。  「三ノ宮にいるの。中華が食べたくなった。付き合ってくれる」。西本は店の名前を告げて電話を切った。取り返しの付かない最後のデート。上杉はきっと覚悟してやってくる。彼にとっても最初で最後の友人の手で人生を終わらせてもらうために。
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