ONEコロ★入りました

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 「最近、ドゥ課長の奇行が目立ちますよね」。後輩君が小声で話しかけてきた。  「いやいや、ちょっと、あなた距離近いから」。私は肘で後輩君を押しやりながら小声で返す。「あの人の奇行はいまに始まったことじゃないでしょ。奇行界のレジェンドだよ」。  「いやいや磨きかかってますって。さっきの会議、めちゃやばかったですよ。部屋に入るなり、全ての窓をばんばん開けて、卓上用ですって、巨大扇風機を目の前に置いてずっと動かしてるんですよ。テレビ会議で本社がざわついて、役員が『なんだこの音は。ウィン、ウィンて。会話が聞こえないじゃないか』って。ドゥはテレビに映らないじゃないですか、死角だから。ばっちり映っている部長は引きつって、腹話術みたいに『止めろ、止めるんだ』って繰り返してましたけど、ドゥは完無視なんすよ。部長は怒りで青白い顔が白くなってたなあ。風がびゅうびゅう吹き込んで髪も乱れて。あれで巨大な鎌を持たせたら、ほんとタロットカードの死に神っす。女性陣は寒い、寒いってぶつぶつ文句言ってましたよ」。  顔色が悪く、骨張った顔の部長は死に神そっくりだ。タロットカードの死に神ってどんなだったか思い出しながら、「そりゃ、やばいね。ドゥはいよいよメンタルいっちゃってるかもねえ」。  私は、ふぅとため息をついた。マスクをつけて仕事するだけでも息苦しいのに、またドゥと戦うのかと思うと出奔したくなる。つい最近も激戦があった。なんとか勝利したが、かなりダメージを受けた。そのときの疲れが取れないうちにまたやり合うのかと思うと、げんなりする。なぜに「職場環境改善委員」など引き受けてしまったのか。  前回は、ドゥが「トイレは換気が悪い。入り口のドアは常時開放するべきです」と突然、会議で提案して戦闘の火ぶたが切って下ろされた。死に神が「いや、このビルは最新の空調システムがある。トイレも換気しているよ。だいたいトイレには窓がないのにドアを開放しても意味がないだろう」と奇跡的にまともなことを言ってたしなめたが、ドゥは「気分の問題です」と譲らない。女性陣は泣きそうな顔をして「絶対に嫌だよね」「だよねえ」とひそひそやっている。  死に神とドゥの言い争いは会議が終わっても続き、見るに見かねた支店長が「君しかいないよ、な、仕事だから。職場環境の問題だからな」と私に押しつけてきた。「また丸投げかよ」。面倒なことはすべて他人任せの支店長にせがまれ、しかたなくドゥに話しかける。  「課長、すみません。トイレのドアの件なんですが」。  「ああ、さっき開けてきたよ。気分がよいよね」  「女子トイレはどうなんでしょう。みんな嫌がってますけど」  「感染を防ぐのが僕の仕事だから。職場衛生委員なんでね」  「職場環境改善委員の立場から言いますと、やり過ぎです。支店長も最新の空調システムが入っているから大丈夫だとおっしゃっていましたし。気分の問題なら考え直していただけないかと」。  双方一歩も譲らず小一時間。最後は女子社員に取り囲まれ、セクハラだと責め立てられたドゥが涙目で女子トイレのドアを閉めたが、「か、感染したら、せ、責任取れよな」と捨てゼリフを吐いていた。  今度は扇風機だ。これをどうやってやめさせるか。一応、後輩君の意見を聞いてみる。  「あれ卓上用じゃないですよ。そこを徹底的に追及すれば諦めるんじゃないですかね」  「君は甘いなあ。ちょっと小ぶりな別の扇風機を持ち込まれるだけだよ。小型ってモーターもっとうるさいんだから。だいたいこの非常時に会議なんて・・・。あっ、そうか」。私はちゃちゃっと提案書をまとめて 「ちょっと死に神のところに行ってくるわ」と席を立った。我ながらよい考えだ。だいたい、まともな会社はとっくに在宅勤務に移行しており、会議はパソコンだ。フロアに社員がひしめいているのはうちくらいだろう。  「部長、ちょっといいですか。扇風機の件ですけど」。死に神の顔がみるみる白くなる。なるほどこれは怖いね、などと考えながら「うちも思い切ってテレワークにしませんか。扇風機も課長の顔も見なくて済みますよ。感染防止にもなりますし、一挙両得です」と提案書を手渡す。死に神の顔にやや赤みが差した。うれしいのかな(笑)。  「そうだな。支社長に相談してみるか。感染防止は重要だからな」。もっともらしいこと言ってるが、課長の顔を見ないで済むと心が弾んでいるのは明らかだ。  「よろしくお願いします。みんな喜びます」。  部長は軽い足取りで支社長室に向かった。やれやれ、たまった労務管理をやりますか。机に向かうやいなや内線電話だ。「はい。あっ、部長。さきほどはどうも・・・」「支社長室に来てくれないか」。ガチャ。なんだろう。面倒な予感がする。  支社長室はドアが開いており、丸投げ君と死に神がああでもない、こおでもないと言い合っている。本格的に面倒だなと思いつつ「失礼します。お呼びでしょうかね」。着座を勧められたが、ソファは狭い。「近いなあ」とためらっていると、「早く座れ」と丸投げ君。観念するしかあるまい。  「君の提案したテレワークだけどね、そんなに簡単じゃないよ。我が社の仕事はフェイストウフェイスのコミュニケーションで成り立っているんだから。本社の役員もみんな出勤しているのに支社だけテレワークってわけにはいかないよ」。明らかに不機嫌だ。  「いや、そうですよね。僕ももう少し様子を見るべきかなと思いましたが、現場からの強い要望はお伝えすべきかと思いまして」。さすが死に神。あっさり部下を売ったよ。  「はあ。そうですかね。でも、このあたりの会社、みなテレワークですよ。だれも歩いてないですよね。政府も接触70%削減を目標にと言ってますし、本社に掛け合ってみる価値はあるかと。うまくいけば支社長の功績になるかもしれませんし」。心にもないことを言って粘ってみる。扇風機問題はもはやどうでもよくなり、この連中の顔を見たくないという強い思いに突き動かされていた。  「では打診はしてみるかな。現場からの提案ということで感触を探るよ。君、頼んだよ」。丸投げされた死に神は「はう、あう」と意味不明な言語を発すると、私をにらみつけた。「お手数掛けます。よろしくお願いします」  やれやれやっと仕事に戻れるよ。たまりにたまった報告書をでっちあげて楽しい週末を迎えたい。がんばるぞっ、と思ったらまた内線電話。死に神だ。「あっ、はい」。「支社長室にすぐ来て」。がちゃ。今度は何だ。まだ支社長室から戻って15分ですよ。仕事が終わりませんよ、これじゃ。  「お呼びでしょうか・・・」。おや、なにこの和やかな雰囲気。死に神の顔に赤みが。  「ああ、君か。さっきのあれ、テレワークね。本社が乗り気でね。本社も政府要求に応えなきゃなって雰囲気になっていたところへ、支店から提案書が来たって喜んでたよ。これをたたき台にするとお褒めの言葉があった。部長、手際がいいねえ」。  いよいよ得意満面な死に神は「いやいや世の中の動きと言いますか、我が社もそろそろかなと現場に指示を出しておいてよかったです」。おーい、今度は手柄横取りかい?指示なんてなかったですよね。でもいい。これで動物園からしばし、おさらばできる。  「で、テレワークってどうやるの。パソコン持って帰宅するだけでよいのかい?」。丸投げくんに尋ねられると、すかざず死に神が「会議に必要なソフトウエアをインストールしたりいろいろ準備が必要みたいです。提案者と総務部長で環境整備をやってもらいます」。なんですと。いやいやそれはないでしょ。あなたの仕事ですよ。心の声が漏れ出したらしく、死に神は「職場環境改善委員の仕事だよ。総務部長としっかり準備してくれよ。週明けから始めるからね」。「あと2日しかありませんが。間に合うかな」。困った顔を見てもなんのその、死に神は手を振り去って行く。扇風機問題で予期せぬタスクをしょいこんでしまった。痛恨だ。  自席に戻ると後輩君が「どうでした」と聞いてきたが、「ちくしょー、ちくしょー」と頭をかきむしる姿を見てそそくさと退散した。「とにかく総務部長と相談だ。今日中にめどをつけないと楽しい週末がおじゃんになる」。泣きそうになるのをこらえながら、総務部長の内線を呼び出した。  「はい。なんでございましょう」。神経質そうな声だ。めったに会話しない相手とあって明らかに警戒している。平静を装って経緯を説明した。  「というわけで、来週からテレワークが実施できるように準備しなければなりません。門外漢ですので、よろしくお願いしたいのですが」。  「あっ、そういうこと。やっとやる気になりましたか。周回遅れですけどね。まあいいや。予備のパソコン使って一度、管理職のみ数人で試験してみましょうか。こちらで声かけておきますよ」  「お願いします。助かります」  「今日中に準備できますから、試験はあすの午前でよいですかね。会議室を予約しておきますよ」  あっさり決まって良かったあ。意外といいひとだ。誰がキテレツ君なんてあだ名をつけたのだろう。普通の人じゃないですかあ。これで一安心。ちゃちゃっと仕事片付けて帰宅しよっと。窓外を見ると、散り始めた桜の木があかね色に染まりつつある。引力を失ったかのようなオフィス街にはき出され、サラリーマンやOLは急ぎ足で帰途に就く。二度と戻らない街を離れる旅人を見送るような気分だった。  残業に手間取って帰宅が午後11時近くだったせいか疲れが残っているが、テレワークの試験があるので早めに出社せねばならない。早くもテレワークに切り替わったサラリーマンが多いのか、エレベーターですれ違う住人は少ない。玄関前では休校の小学生がサッカーに興じている。エネルギーが有り余っていてうらやましいよ、本当に。会社は徒歩で15分。通勤電車で感染するリスクがなく、運動不足防止にほどよい距離なので気に入っている。近所のコンビニでコーヒーを買って会議室に直行すると、キテレツ君に招集された幹部が雁首をそろえて待っていた。  「な、なんでえ」。丸投げ君に死に神、ドゥだよ。よりによってこのメンツかよ。「遅くなってすみません」。思わず出そうになった悲鳴をこらえて着席した。四人の目の前には試験用のパソコンが置かれている。 「では、パソコンを起動してソフトを起動してください」。キテレツ君がさっそく指示を出す。ここまでは簡単だ。  「テレビ会議のアイコンを選択してなにか発言してください。簡単でしょ」。  「おや?なんだろうね、この物体は」。四分割された画面になにやらテカテカする物体が大写しになる。岩石の表面かな、それとも海藻?おやじの頭頂部はなかなかの衝撃映像で、コーヒーを吹き出しそうになった。  「近い、近い」。「だって声が聞こえないだろう、近づかないと」。「いやいや高性能マイクなんで大丈夫です」。「もしもし、聞こえますかあ」。至近距離だから聞こえるよ、そりゃ。  「なかなか鮮明な画像じゃないか。君の毛穴も見えるよ。わはは」。  それセクハラだよ、あんた。「使えそうですね。では週明けからやるってことで」。  かろうじて笑顔を維持したままお開きを促すと、キテレツ君は「では支社長名で社内LANからソフトをダウンロードしてインストールするようメールで指示してくださいね。僕は週明けから在宅勤務になりますんで宜しくお願いします」と言って予備パソコンを回収し、そそくさと立ち去った。丸投げ君のメールが流れれば、週明けから職場はがらりと変わる。どうかトラブルが起きませんように。気分を週末モードに切り替え、自席で残務処理に取りかかった。  「テレワークの会議、どうでしたか?」。後輩君が期待を込めて訪ねてきた。  「うまくいったよ。週明けから実施。あとで支社長メールが回ってくるから見ておいてね」  「了解です。これでドラマ見放題ですねえ」  「こらこら。定期的にミーティングするし、業績評価もするから気を抜かないでよ」  「わかってますって。この週末は前祝いだなあ」  「なんのお祝いよ。はめ外して感染しないでよ」  「わかってます、わかってます」。こいつは本当にわかっているのかね。電話営業で契約を取るなんてなかなかできないんだよ、まったく。後輩君を軽くにらみつけると、芝居がかったまじめな表情でこちらを見返したが、なんとも楽しげなオーラが漂っていた。
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