27 【挿話3 巧】1/2

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27 【挿話3 巧】1/2

 俺がちょっと目を離した隙に水浸しの泥まみれになった野上は、やはり体調を崩した。風呂に入れて暖めても、一旦冷えた身体はすでに風邪を引き込んでしまったらしい。  持参していた解熱剤を飲ませてベッドに入れると、すぐにくったりと眠りはじめた。  ――ひどくならなきゃいいけど……。  俺は野上の頭を撫でてから、そっとその場を離れた。  野上が寝ている間に汚れ物の始末をつけることにする。防水シートで汚れ物をくるみ、コテージ内のランドリーへと移動する。衣類、靴、リュック、そして防水シートをまずは手洗いしてから、それぞれ洗濯機や乾燥機に放り込んでいった。  それを終わらせて廊下に出ると、リビングの方が騒がしい。  野上を風呂に入れている間にサークル員達が戻ったのは気付いていたが、北原の事もあって、そちらに足を向ける気にはならなかった。  部屋に戻ると野上は先程と変わらぬ様子で寝付いていたので、頬や額を撫でてその寝顔を眺めることにする。そうするうちに洗濯の時間が来たので、俺は再びランドリーへ。乾き具合を確かめながら追加の処置を掛けていると、携帯が鳴った。 『今どこ?』  汐見からのメッセである。 『ランドリー』  短く返信すれば、ほどなくしてやって来た汐見は小さなデバイスを持っていた。 「なんだそれ」 「野上君の音楽プレイヤー。濡れていたのを乾かして確認したんだ。君も聞いた方がいいと思って」  汐見はランドリーの扉を閉ざすと、俺の隣のイスに並んで座った。そして俺にイヤホンを差し向ける。  無言でそれを耳に突っ込むと、すぐさま再生が開始される。  僅かなノイズの後に聞こえてきたのは、北原の声だった。 『……で気弱で貧弱そうなベータ上がりの何処がいいのか、私には分からないわ』  悪意の滴るような声、今までに俺が聞いた事のない声だった。  ――これは。  北原に絡まれて野上は咄嗟に録音ボタンを押したのか。機転が利いたんだなと感心しつつも、次々と再生される北原の毒々しい言葉に怒りがわき上がる。胃の底をじりじり炙るような憤りを感じながらプレイヤーを握りしめていると、汐見が肩を撫でてきた。  それに怒りを多少なだめられ、次に思ったのは野上の事である。  野上は気違いじみた女に突然言いがかりを付けられて、どれだけみじめで苦しかったろう。  ――野上は北原に言い返すなんて出来ないだろう。  そう思っていたから、俺はますます野上が可哀想で仕方がなかった。  だが。  次の瞬間にプレイヤーから聞こえて来たのは、野上の毅然とした声だった。  野上が、北原を怒鳴りつけている。  予想外の展開に呆然としていると、 『仁科本人が俺を認めて選んだんだから、俺は……君なんかじゃなくて、『野上は俺の唯一無二のつがいだからな』って笑ってくれた仁科を信じる……!』  とどめの一撃のようなそれが俺の鼓膜を震わせた。いや、鼓膜どころか手足も胸も震えたわ……なにこの最高の信頼宣言。  録音は途中不鮮明になりつつも続き、『野上君どうしたんですかそれ……』という井川の声を最後に途切れた。  聞き終えて俺は、深く溜め息を付いた。 「ね、聞いて良かったでしょう?」  隣に腰掛けて待っていた汐見は、ここぞとばかりにしたり顔をする。いつもならちょっとうざく思うその表情も、今ばかりは拝みたい気分だ。 「ああ、ありがとな」  ――野上、俺の事信じてくれてるんだな。  その事に報われる思いがする。じいんと胸いっぱいになって、ますます野上への愛しさが募っちゃうだろこんなの。 「野上君てさ、一見おどおどしてものも言えなそうな雰囲気なのに、案外言うもんだねえ」 「ああ見えて気の強いところがあるんだぞ」  俺も驚いたが。  やられた分を自分でやり返せたのは本当に素晴らしい。野上自身もすっきりしただろう。  気を良くしていると、汐見がふふっと笑う。 「鼻高々って感じ。好きで仕方がないんだね、野上君の事」 「おう。滅茶苦茶大好きで大事だぞ」  掛け値なしに本気だが軽口めいて答えると、汐見は意味深長な眼差しで再び笑う。 「君が野上君相手に喋ってるの聞くと、かゆくなるよ」 「んあ?」 「だって君、あんなに優しく穏やかに喋れたんだね? 口調も声のトーンも表情も別人かなってくらい全然違うじゃないか」  汐見は微笑ましげだ。 「それはなー……、うちのとーちゃんの真似」  自覚があるだけに、こうして真っ向から指摘されれば恥ずかしさも倍増してしまう。 「やっぱ嫌われたくないからさぁ。確かに俺なんか優しくも穏やかでもないけど、うちのとーちゃんがかーちゃんに対してそんな感じだから見習って真似してる……つもり」  『  』を差し置いて母に選ばれた父にあやかりたい、って気持ちもある。 「そりゃ特別な相手となれば、態度だって変わるよね」  汐見はそこで、意味深に間を置いた。  そして俺を見据えながら、 「――でも君さ、野上君がベータの頃からそんな態度だったんだよね?」  そう言い切った汐見の声は、先程までとは違って低く不穏さを帯びていた。  俺は変貌した汐見をまじまじと見返しそうになったが、瞬くことで誤魔化した。  なんかこう、ヤバい気がする。  そっとしといて欲しいアレを勘づかれていて、つつきまわされそうな気がする。 「そだっけ?」  そらっとぼけたものの、汐見は俺の目を覗き込んできた。 「そうだよ。――それって、野上君が君の『運命のつがい』だからかい?」  今度こそ、取り繕うことも出来ずに俺は目を見開いた。  それを見て、汐見は唇の端を吊りあげた。 「分かるよ。だって彼は、高校の頃に君が付き合ってた子達と全然ちがう。君のタイプからは外れてるじゃないか。タイプの子達と付き合っていても自分本位だった君がさあ……『運命』相手だとこんなに尽くすようになるなんてね。そんなに『運命』って、すごいの?」  喋るほどに、汐見の声と口調は冷たさを帯びていく。俺を見つめる眼差しにも険が宿っていた。  ――汐見は、筋金入りの『運命のつがい否定論者』だ  『運命のつがい』とは何か。  それは『優秀なアルファを生み出すに最適な一対』と言われている。運命のつがいは出会った瞬間に双方が発情状態に陥り、抑制剤でひとたび抑えても、つがい契約を結ばない限りは出会う度に発情するのだとか。  俺は出会った時、野上をオメガだと思った。プロテクターをしていないのを疑問には思ったけど、それでもベータだとは思いつきもしなかった。もちろんこの思い込みは野上自身によって訂正されて、俺はベータの野上と友達関係を深めていくのだが――俺が野上をオメガと誤認しベータと分かったその後も別れがたかったのは、結局は俺たちが『運命のつがい』だったからなのだと思う。  ベータだった野上は『運命のつがい』である俺と出会った事でオメガ因子を覚醒させ、一年掛けて身体を成熟させた。そしてあの日、俺と目を見交わしたのを切っ掛けに発情した。  ――つまり野上は俺と出会わなければ、或いは俺と深い交流を持たなければ、ベータのままでいられたのだ。 「すごいんだろうな。ベータだった野上に俺の意識を釘付けにするくらいなんだから。野上がオメガになるまでは単に『なんか気になるかわいいやつ』って割り切ってたけど」 「割り切ってた?」 「訳が分からなかったからだよ。ふっと会いたくなって矢も盾もたまらなくてアパートに押しかけちゃうくらいの執着を、何で野上に感じるのか。到底説明出来ないからそれで無理矢理納得してたんだよ」 「で、まあ結局それはふたりが運命のつがいだったから――って事かい? 運命のつがいなのは間違いないんだね?」 「俺は間違いないと思ってる――野上の話を聞いても、俺が訪ねるまでは普通にしてたのに俺の顔を見た途端に発情したらしいし。俺も、野上の顔を見た途端に発情したし。ただ、野上は気付いてない。野上の発情に、たまたま俺が居合わせただけだって思ってる」  俺がそう言うと、汐見は目を瞬いた。 「……オメガは運命への感受性が薄いのかな?」 「えー? いやぁ、野上の場合は元々ベータで知識に乏しいだけだろ? 発情期未経験で周期も知らないじゃあ、あの発情がどれだけ特殊だったかなんて気付きようがない」  運命のつがい同士で発現させた発情は、真性発情と呼ばれる強いものだ。俺たちの場合はすぐさま野上を噛んだから、あの程度の強さと期間で済んだんだろうな。 「でもさ、僕の父は君のお母さんを出会った頃から好きだったんだろうけど、君のお母さんはそうでもないじゃないか」  何故ここで突然汐見の父と俺の母の名が出るかというと、その二人が『運命のつがい』だったからだ。  幼稚園の頃に出会った二人は同じ中学に進むも恋仲にならずに進路を分け、高校二年生の時に再会し、発情事件を引き起こす。幼馴染みだった俺の父はこの時も母と同行しており、母を抱いて逃走。母は父とつがいになる道を選び、汐見の父とはその後再会しないまま……らしい。  俺はこの話を、我が家で聞いたことはないけどな。  両親が幼馴染みなのは知っているが、二人がつがう経緯までは聞いた事がない。発情事件なんて大それた話なら当然俺の祖父母や母方の祖父母も承知の出来事だろうが、誰からも聞かされた事がない。  故にこれらはすべて、汐見からの伝聞である。 「そうでもなかったかどうかは知らねーけどな。俺かーちゃんの口からお前の親父さんの話聞いたことないし」 「……僕だって父から君のお母さんの話を聞いたことはないけどさ」  そう。俺たちは共に、両親から直にこれらの話を聞いたことがない。  では何故汐見が知っているかといえば、奴の下らない親族が出所なのである。  親達は多分、子どもには何の関係もない話だからと気遣って、この話を聞かせなかったのだろう。  だが、汐見の親戚はそうじゃなかった。汐見の父が運命のつがいを取り逃がした(・・・・・・)話は醜聞として親戚内で囁かれ続けており、それは当然幼かった汐見の耳にも入る事になる。  そしてそれはやがて、『お前は〝運命〟が生むはずだった子どもよりも優秀になるべきだ』という重圧に変化していったそうだ。  で、それを聞かされるうちに『じゃあ父の運命は今頃どうしてるんだ?』って疑問を湧き上がらせて――汐見的には、俺たち家族が不幸であればあるほど溜飲が下がるって所だったんだろう。  ところが我が仁科家と来たら、二男一女に恵まれた絵に描いたような幸せな家庭だ。長女の環は何をさせても優秀だし、次男の晴も得意な剣道で全国優勝を経験している。それを見て汐見は逆に、仁科家が羨ましくて仕方なくなったんだな。  で、そこですべての憤懣が俺に向かう訳よ。  あんな素晴らしい家に生まれながら、我が侭でだらしなくなにかひとつに精進出来ない、大成できなそうないい加減な奴――汐見は俺をそんな風に思ったらしい。そらまあ俺は陸上に精を出しつつもそれ以外にもやりたいことが多く土日の部活を休みがちで、そしたらタイム的には問題なくても選手に選ばれないんだよなあ。  で、わざと俺が参加するワークショップに潜り込んだ汐見は、俺に嫌がらせだの説教だのを仕掛けて来た――ってのが出会いの真相だ。阿呆らしすぎて野上には言えねー。  だってさ、そのワークショップ、キャンプも兼ねてんだぜ? 坊ちゃん育ちで雨に打たれたことすらないあいつの出る幕なんてなくって、正直俺の独壇場な訳よ。ペグひとつまともに打てずにテントが張れるかっつーの。  めんどくせー坊ちゃんだなあと思いつつ世話やいてやってたら、なんか気を許してきたのか身の上話がはじまって、打ち明けられた両親の縁にえええってなったけどな。  ま、その頃の俺たちって結局中二だったから他愛なくてさ、すぐに怒るけど許すのも簡単だった。  だから俺たちは和解し、微妙な友情を結んだ。  友情の根底にあるのは――『運命のつがいなんざくそくらえ』だ。  汐見の父と俺の母が運命を破ったからこそ、俺たちは生まれて来た訳で。そして運命の子じゃないからこそ、俺たちが優秀じゃないのは当たり前で――俺がそう言ったら、汐見ぽろっと泣いたんだよな……。  ――だからこそ、汐見は『運命のつがい』を否定する。
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