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03 1-1.ボーダー
その時何が起こったのかは、すべて仁科からの伝聞になる。
仁科によると、目が合った瞬間に俺たちは発情したそうだ――ええとつまりその、……致してしまった、ということらしい。
「……」
それを聞いている今は当然事後で……。なんとも受け入れがたい話だが、俺の身体は行為の痕跡を残したままだ。
だって意識が戻ったのはついさっきで、それだって、素っ裸の仁科に肩を揺り起こされたお陰だ。
パニクる俺を鎮めようと仁科が事情をまくしたて、俺は泣きそうになりながらそれを聞いた。
嘘だとは言えなかった。
だって、俺の身体、男なら当たり前に良く知ってる液体で汚れてる……すごい量が腹に飛んで渇きかけの状態でこびりついているし、フローリングにも溢れている。そして尻の狭間も濡れた感じがするんだ……こっちは仁科のなんだろう。尻の表面だけじゃなくて内部にも出されているのは、経験したことのない痛みと腫れぼったさで想像できる。
「は、発情ってなんで――俺ベータだよ……? ベータだよ……⁉」
アルファを誘惑するようなフェロモンなんて、ベータの俺から出るはずがない。でもフェロモンでもなけりゃ、仁科は俺に勃ったりしないだろうし……⁉
「ともかく、シャワー浴びよう? 身体をきれいにして、病院に行くんだ」
「病院……? なんで」
「色々調べないと。ほら、立てるか? 歩けそう?」
仁科に身体を支えられて立ち上がる。腰は痛いし足はぶるぶるするし、尻の奥がずきずき痛い。
「――抱き上げていい……?」
俺の動きのとろさを見かねたのか、仁科がそう訊いてくる。いやいや、そんなの冗談じゃないって……!
「嫌だよ馬鹿!」
盛っていたのはキッチン前から居室入り口に掛けてらしく、玄関からここまで、二人分の服が小山のようにもつれ落ちていた。俺はそれを避けながら浴室へとよろめき歩き、必死になってシャワーを浴びた。触るの怖かったけど、尻の穴にも覚悟を決めて指を突っ込んだ。
……仁科ぁ、お前どんだけ……。
俺は赤くなったり青くなったりしながら尻を清め、全身に泡を塗りつけた。
なんか、足腰を中心に痛いけど肘とかもぶつけたらしいし、胸とかも噛まれたり擦られたりしたのかヒリヒリする。赤くぼってりと腫れた乳首を見て、本当にそんな事が起こっちゃったのかあ……とやるせなくなった。
時間を掛けてシャワーを終えると、浴室の折れ戸の前にタオルと着替えが置いてあった。勝手知ったる仁科が出してくれたのだろう。それを身につけて戻ると、仁科は携帯に向き合っていた。
洗濯機が回り、フローリングは拭かれ、窓が開けられて風が通されている。俺と仁科が起こした〝間違い〟の痕跡は拭い去られ、部屋はいつも通りの姿を取り戻したように見えた。
「――ねえ、なんか、首の後ろもやたら痛いんだけど。触ったらなんか皮めくれてる感じがする。どっかにぶつけて切ったのかも。ちょっと見てくんない?」
難しい顔をして携帯画面を睨んでいた仁科は、隣にかがみ込んだ俺の姿に目を伏せた。
「すまん。俺が噛んだ」
覚えていたんだろう。仁科は見るまでもなくそう謝った。
「……か、噛んだ……?」
あまりの事に俺はどもってしまう。だって、噛んだって……⁉ それって……!
「何考えてんの。俺はオメガじゃないんだぞ……!」
そう――俺はオメガじゃない。ベータだ……!
俺は自分を、ベータだと信じていた。
だってそうだろう? 両親も兄弟も親戚もベータで、第二性別診断結果もベータで、容姿も成績もなにもかもが平凡なんだ。検査結果を素直に信じて何が悪い? 疑いすら持たないに決まってるだろう?
でも……でも現実は――……。
「野上さんは〝ボーダー〟ですね」
仁科に連れてこられたオメガ科で、様々な検査を終えた後に医師は淡々とそう告げた。
「ボーダー……?」
「これは、一般にはあまり知られていないことなのですが。ベータとアルファ、ベータとオメガの間には、実際には〝ボーダー〟と呼ばれる性別が存在します。とても僅少なのですがね。ボーダーの多くはベータのまま生涯を終えますが、稀に変容するのです。貴方のように――野上さん、最近体調が優れなかったということはないですか? 熱っぽかったり怠かったりといった」
俺は目を伏せたまま首を振った。
「…………わかりません」
確かにここ数日体調が優れなかったけれど、それは忙しさのせいだと思っていた。
だってそんなのは、俺にとってはしょっちゅうで。だからあれが前兆だったと言われても、分かるはずがない。
「そうですか」
俺のかたくなな様子を気に留めず、医師は淡々とボーダーの説明を切り上げた。そして仁科に向かって――仁科は診察室にまで同行していた――オメガの抑制剤やリストバンドの説明をはじめた。
俺はそれらが耳を素通りしていくに任せながら、じっと身を固めていた。
医師の診察が終わると、俺と仁科は看護師に連れられて処置室へ移動した。
「緊急避妊薬です」
出された薬に、思わず息を詰めた。
――そっか……。俺がオメガで、仁科がアルファで……その二人が発情期にセックスしたら……。
「あの……?」
俺の様子がおかしかったせいで、看護師が戸惑って仁科を見る。
「大丈夫です。飲みます」
俺は看護師の手から緊急避妊薬を取ると、水と共に飲み下した。
小指の先程もないような本当に小さな塊だったのに、俺はそれを、喉につっかえる程大きく飲み込みがたい物のように感じた。けれどもそれは俺の気持ちとは裏腹に、すーっと喉奥へと落ちていった。
そして胃に届いた感触にふるっと身をふるわせると、看護師が眉をひそめた。
「……野上さん、お顔が赤いですね? 体温測ってみましょうか」
検温は来院してすぐの検査時に済ませていたが、確かに頬がぼうっと熱を持っている感じがする。差し出された体温計を俺は黙って受け取った。
「熱……?」
後ろに立っていた仁科が俺の頬に触れてくる。ひやりとした手だった。
俺はその手の冷たさを心地よく感じながら、仁科に首を振ってみせた。
「――多分疲れが溜まっただけ。八度も出ずに収まるから、平気」
今でこそ普通程度に日常生活を送れるようになったが、昔はしょっちゅう寝込んでいた。どこが悪いという訳でもなく、単に虚弱というか。お陰様で小・中学校は休みがちだった。成長にしたがって丈夫にはなっていったものの、疲労が重なると発熱する癖は残っている。
体温はやはり微熱程度で、七度三分だった。
この程度なら普通に歩けるのに、仁科の心配っぶりは過剰な程だ。待合室に戻った俺を壁際に座らせて、会計と薬の受け取りをやってくれた。行きと同じくタクシーも呼んでくれて、俺は仁科に抱えられるようにして自分のアパートに戻ることになった。
「ベッド入って。体温計どこ?」
「クローゼット開けて、うん……そこのペン立てに挿してる」
持ってきて貰ったので測って。うん……ちょっと疲労度が予想より上だったかな。まあ発情もセックスも初体験だもの、……仕方がない。
測り終えて確認したのをケースに戻そうとしたら、仁科に奪われた。
「……八度越えてんじゃん」
仁科は呻くと、体温計を持ったまま携帯を操作しはじめた――掛けた先はどうやら先程の病院だったらしく、俺の発熱は抑制剤の副作用なのかとか今晩飲む抑制剤は発熱時に飲んでも大丈夫なのか等を確認している。
俺はベッドでじっと横になったまま、仁科の低く通る声を聞いていた。
――本当にただの疲労なのに。
妙に心配してくれるなあ。今まで通りと言えば今まで通りの仁科なのだろうが、ちょっと意外だ。
「――そうですか。はい、有り難うございました」
通話を切った仁科は心配そうに顔を曇らせて、俺を覗き込んできた。
「しんどい?」
「……慣れてるから平気だよ。仁科心配しすぎだ」
安心させようと笑いかけたのだが、仁科は眉根のしわを深くしたしただけだった。
「このまま寝たらいい。俺は買い物してこようと思うけど、何なら食べられる?」
「えー……と」
こういう時の為にゼリー飲料などを買い置きしてあるので、わざわざ買って来て貰うものはないのだ。何度も言うが、慣れている。大学に入ってからも発熱しては、それなりにやり過ごして来たのだから。
「ねえ仁科、帰ってもらっても平気だよ?」
俺としては気を遣ったのだが、仁科はショックを受けたように目を瞠った。
「熱あるのに放って帰れないだろ」
「いや、慣れてるし」
とは言ったものの、仁科は問答無用とばかりに立ち上がってしまう。
「とにかく買い物行くし。洗濯物も乾燥掛けてくる。お前こそ疲れてんだからちゃんと寝てろよ」
洗濯物って――ああ、病院行く前に洗濯機掛けてくれてたやつ……。
俺の視界から消えた仁科は洗濯物をカゴに移しているようだ。物音からそれを知りつつ、俺は目を閉じた。
「じゃ、行ってくる」
寝るしかない状況に追い込まれたせいか、急激に眠気が増していく。仁科が玄関の鍵を掛けた音を聞きながら、俺は眠りに落ち込んで行った――。
――そして再び目を開けると、部屋は暗く静まりかえっていた。
仁科は戻っていないのか、それとも帰ったのか。そう思いながら視線を巡らせれば、我が家唯一の窓際に仁科が居た。ベランダに続く掃き出し窓だ。その端近に座り込み、窓から差す街明かりを頼りに携帯を使っているようだ。
大きな身体をしているくせに、気配なく静かだ。
「仁科」
どうしてそんなに気を遣ってくれるんだろう。
「あ、起きた?」
「……電気付けて良いのに。目ぇ悪くするよ」
「だって良く寝てたから。熱どお?」
やんわりとした笑みを浮かべながらやって来た仁科は、俺の頬に手を当てた。
やっぱりひやっとした手だ。気持ちいい。
「……まだあるっぽいのは分かるけど。それ以上は俺には分かんないや」
済まなそうに体温計を差し出してくる仁科。それを受け取って俺が脇に挟む間に、ぱっと立ち上がった仁科は冷えたペットボトルを持って戻ってきた。
「ほれ、水分補給」
スポーツドリンクである。
「ありがと」
身を起こそうとすると、すかさず背中にクッションを挟んでくれる甲斐甲斐しさだ。
「もう、重ね重ねありがとう」
「どう致しまして」
笑顔も声も朗らかで優しい。
ああ、仁科ってば本当にさあ……。
それを見ていると堪らない気持ちになって、俺は思わず口を開いていた。
「なんでそんなに優しくすんの?」
「え……?」
「俺たち、つがいになっちゃったんだろ? ――フェロモン事故でつがっちゃったオメガなんて、普通は疎ましいもんじゃないの?」
発情中のオメガと交わりながら、アルファがそのうなじを噛む――それはベータだった俺でも知っている、アルファとオメガの契約方法だ。その契約を経て結ばれた二人を〝つがい〟と呼ぶ。
『アルファとオメガのつがい契約』は、ドラマや映画で繰り返し劇的に語られる題材だ。
決して破棄することの出来ない一生に一度の契約。ひいてはそこに至るまでの恋愛模様。世のベータ女性達が熱烈に憧れ羨望するその関係――。
――後戻りの出来ない一生に一度の関係を、俺は仁科と結んでしまったことになる。
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