01 プロローグ

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01 プロローグ

 平凡なベータの俺が、将来つがいとなるアルファに出会ったのは、大学入学式を数日過ぎた春の日だった。  昼食のうどんのトレーを掲げたまま、俺は空席を求めて学食を彷徨っていた。  人口の少ない田舎で育ったのでこんなに混み合う食堂を体験するのがそもそも初めてだし、ひとりで事前に席を確保しておけるほど要領良くもなかったのだ。  グループで席を確保している人たちは在校生なのだろうか。談笑しあっている姿がとても世慣れて見える。俺はキョロキョロと辺りを見渡すのだが空きはないし、空いたと思えばすぐに誰かが座ってしまう。……こんな事を繰り返し続けていてはうどんが冷める。それに、あまりにも格好悪い姿ではないか。  焦りに冷や汗すらかきながらぐるぐる徘徊していた俺は、突如、どんっと衝撃を感じてつんのめった。 「あ、悪ィ」  そんな軽い声が、それっきり遠ざかっていく。  けれどもバランスを外した俺は手を滑らせてしまって――……。 「あっ!」  俺の手から離れたトレーがひっくり返り、うどんが宙を舞う。その軌跡を目で追った周囲の学生たちが息を呑み、声をあげる。どよめきが沸き起こる中、放物線を描いたうどんは、とある男子学生の後頭部から背中に命中した。茶色いつゆをしたたらせながら、びっちゃりと。 「うぉ……ッ⁉」  驚いた彼はばっと立ち上がり、振り向いて俺を見た。  ぱちっと目が合う。  それは、驚くくらいに顔立ちの整った青年だった。浅黒い肌に彫りの深めな容貌をしていて、とても背が高い。頭上から俺を見つめてくる目は、緑と濃茶が入り混じった不思議な色をしていた。 「す、すみません!」  俺は慌てて彼に駆け寄ると、その背に付いたままのうどんの束をはたき落とす。 「火傷しなかったですか?」  俺が無駄に彷徨ったから冷めていたと思いたい。 「……多分」  いまいち、何が起こったのか掴みきれていないのか、背年は困惑気にうなずく。そして自分の首筋を伝う雫を拭い、その指先をかずんだ。  そうしながら、視線を足元に落とす。 「うどん?」 「はい。引っかけちゃいました、すみませんほんとにすみません……!」  俺が焦って青年に謝り倒している間に、周囲はお店の人を呼んだり椅子や机を動かしたりしてくれたらしい。掃除道具を持った店員さんがすぐさまやって来たので、俺は青年の腕を掴んだ。 「あの! 俺ン家すぐそこなので!」  大学進学と同時に一人暮らしをはじめた俺のアパートは、運の良いことに大学直近である。徒歩三分!  ――とにかく、どうにかしなければ、という気持ちしかなかったのだ。  初対面で名前も歳も知らない相手を自宅に上げる危機感だとかは全く思い浮かべず、ただ、俺がうどんをぶっかけて汚してしまった相手をきれいにせねばと、それだけが頭にあったんである。 「え、ちょ」 「シャワーしてください! その間に服洗うんで!」  俺は青年の腕を掴んで食堂のテラスを抜け、キャンパスを走る。そして大学からも出、住宅街の細く入り組んだ路地を小走りに駆けきって、自分のアパートへと彼を連れ込んだのだった。 「しゃ、シャワー……そこです……」  大学のキャンパス+大学からアパートまで。近いとはいえ、その距離を走りきるのは俺にはきつかった。ゼイゼイ肩で息をしながらどうにか玄関に入り込み、入ってすぐの折れ戸を示す。うちは八畳のワンルームなので、玄関を入れば室内のほぼすべてが見通せる。左手に洗濯機とキッチン、右手にトイレとバスルームだ。そして奥が居室だが、ローテーブルとベッド程度しか家具はない。 「えーと、じゃあ借りるな?」  俺とは対照的に、青年の方は息切れひとつ起こしていない。 「はい。服はこっちに下さい……キッチンでもみ洗いしてから洗濯機で洗います。その後、コインランドリーで乾かして来ます……」  ぜーはー切れる息の合間に説明すると、青年はそれで納得してくれた様子で折れ戸に手を伸ばした。 「お……?」  青年は戸惑った様子でバスルーム内部を見ている。 「ごめんなさい。脱衣所はないからここで脱いでください。狭いもんで申し訳ない」  より広く場所を空ける為に、俺は靴を脱いでキッチン前に進む。 「あ、こっちこそなんかごめんね」  青年は恥じ入るように謝ると服を脱ぎはじめた。厚手のネイビーのブルゾンにグレーのパーカーだ。――……えーっと……。 「……そのブルゾン、洗って大丈夫ですかね……?」 「へ? いーんじゃね? 気にせず洗って。これ復活させないと着るもんないし。あ、でも下の方は平気なんで、上二つだけでいいから!」  青年はそう言ってブルゾンとパーカーだけを俺に押しつける。チノパンと下着はどうやら無事だったようで、それは折れ戸の前に放置して浴室に入って行った。  すぐ響きはじめたシャワーの音を聞きながら、俺はブルゾンとパーカーを流しですすぐ。ブルゾンは色が濃いからうどんつゆの色は目立たないが、ネギや天かすなどが付着していた。そしてパーカーの方は、身頃は平気だけどパーカー部分がうどんつゆでぐっしょりだ。フードのひだには切れたうどんまで入り込んでいた……本当に申し訳ない。俺はそれらを丁寧に取り除いて洗濯機に入れた。 「パーカー、染みちゃったかなあ……」  触って気付いたけど、パーカーもブルゾンも上等そうだ。布地とか縫製とかは良くわかんないけど、お高い服ってそもそも染色が違うじゃん? ネイビーだグレーだとひとくちで言っても、布の織り糸からして見慣れない複雑な色味をしている気がする。  洗濯機がごうごうん回る音を聞きながら、携帯で最寄りのコインランドリーを調べた。駅前の商店街だ。良かった。  そうこうしているうちに、青年が上がって来た。 「あのー……」 「あ、タオルね!」  部屋のクローゼットからバスタオルを取り出して、折れ戸から顔を覗かせている青年に投げ渡す。 「ありがと」  しばらくしてから出て来た青年は、チノパンに上半身裸の姿だった。  ――うっわ……。  なんかすごい。イケメンだなって思ったけど、身体もイケメン?だった。二の腕もごっついし腹も割れてる。細くもなく太くもなく、程よく鍛えられた身体付き。いやもうなんか、同性の俺の目から見てもまばゆいばかりに完璧なんだけど。  だがしかし見とれてもしゃーないし失礼だし、まだ春咲きのひやりとした陽気だ。うどんをぶっかけた上に風邪まで引かせる訳にはいかない。 「あー……ちょっと小さいかもしれないけど」  俺は慌ててクローゼットに走り、そこからシャツを取り出した。 「ウチの兄の物なんだ。洗濯はしてあるから」  引っ越しを手伝ってくれた次兄が、そのまま忘れて行った物である。  兄貴の方が背はちっこい気がするけど、逞しさは勝ってる気がする。 「じゃあ借りるわ」  青年は素直にシャツを着てくれた。……うんちょっと袖が短いかもだけど間に合わせだから許してほしい。 「えーと、そしたら。――改めて、すみませんでした。火傷大丈夫? ひりひりしてないですか?」 「大丈夫。服が分厚かったし、結構冷めてただろ?」  青年は気さくな感じで応じてくれる。なんとなく感じてたけど、おおらかっぽい性格かなあと。本来だったら怒鳴られても可笑しくなかったと思うんだけど、このひと、俺のこと一切責めないのな。 「こっちこそシャワー貸してくれてありがとな。正直俺もまだ不慣れで、着替えを借りるアテもなかったんで助かったよ」  逆にそう言ってくれて。俺はほっとした。 「わ、良かった。自宅に連れ込むとか、犯罪的だったらどうしようって思ってた」 「俺を襲うって? 逆じゃね?」  軽口で応じる青年には、嫌味なくらいの自信とゆとりがある。  そりゃ、この体格差じゃなあ……。目算した感じ彼の身長は一八五はありそうだし、鍛えられた身体なのはさっき目撃した通りだ。対する俺はといえば、かろうじて一七○に到達しただけの、平均体重を満たせないぺらっぺらな身体なのだ。 「良かったら麦茶どうぞー。あと、食事の途中だったでしょう? 良かったらなんか買って来ます」  冷蔵庫から冷たい麦茶を出して、そしたらやっと青年は座ってくれた。 「いや、俺はもう終わりがけだったから。でも、そっちこそ腹へってんじゃないの?」 「はあ、まあ。でもなんか吹っ飛んだっていうか」 「なんでうどんひっくり返したの? けつまづいた?」  問われて俺は眉をひそめた。  そうだ。あれは。 「いや……誰かにぶつかられて……多分」 「多分?」 「『あ、悪ィ』って謝られたから。どんってなったし」 「それでうどんぶちまけちゃったのかぁ」 「――でもそこは、俺がもっとちゃんと持ってれば良かったのかもしれないし」  押された勢いくらいじゃふっとばない身体付きをしてたら良かったのかもしれないし。  自信なさげに俺がそう言うと、彼は顔をしかめた。 「変な事言うね。ぶつかった奴が悪いに決まってるのに」 「そ、そうかな」 「そうだろ? あんだけ混んでるなかで、よろめくくらいに強くひとを押しのけて歩くって馬鹿だろ? お前ならそんなことする?」 「……しない」  そう言われると確かにしない。それに何より、被害者である青年に断言された事が良かった。そっか、俺、悪くないんだ。 「まあそう言ってくれるのは有り難いけども、俺よりもそっちのが被害大きいし。ぶつかって来た奴が責任とれない以上はねぇ」  俺がひっかぶるしかないもんなあ。  と言っているうちに、洗濯機が止まった。 「じゃあ俺、コインランドリーで乾燥掛けてくるね」  俺が立ち上がると、彼も慌てたように立ち上がった。 「ちょ、俺を置いていくつもりかよ……」 「え」  彼の声音には呆れが混じっている。 「でも、付いて来てもつまんないよ?」  乾燥機がぐーるぐーる回るだけだ。……つってもコインランドリーって、行くのも使うのも初めてなんだけど。ウチの田舎にはなかったし。実家には広い軒も、洗濯部屋的に使える空き部屋もあったから。 「つまるつまらないじゃなくて、」  彼ははあ、と息を吐いた。最早呆れている事を隠す気もないようだ。 「そもそも、初対面で名前すら知らないアルファを家に入れるのが不用心だろ? しかも留守番させる? どこの田舎から出て来たんだか知らないけど、オメガの一人暮らしならもうちょっと危機感持たないと駄目じゃん?」  オメガ? え? 誰が? ――て、俺……? 
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