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ついに完成した。
私の長年の研究の成果が今、ようやく形となったのだ。
容器のなかの半透明の液体を目の前に掲げ、私はこれ以上ない充足感に満たされていた。
この液体は、なんと惚れ薬なのだ。
これを飲めば、最初に目にした相手をどうしようもなく好きになってしまう。効果は超強力で、わずかに舐めた程度でもそのすさまじい効力から逃れることはできない。
くっ、と思わず笑いが込み上げる。なぜなら、これで彼女の心は私のものだからだ。
私とて、人間としてこんなやり方が良くないことは承知している。けれど私はチビで小太りで不細工、さらに最近では頭髪も減少気味で、お世辞にも女性に好かれる要素はない。
唯一、私の長所といえば、新薬の研究開発分野に優れていることくらいである。ならば痩せたり身長が伸びたり毛が生えたりする薬を開発すればいいと思うかもしれない。むろんそれらの研究もしてはいたのだ。むしろそちらをメインに研究していて、ある日偶然にも今手にしている惚れ薬ができてしまったというわけだ。
最初はまさか、この薬にそんな効果があるとは思いもしなかったが、マウスの実験で妙な疑問を感じてから、手近なカラスやノラネコに飲ませてみたところ、とたんに私に求愛行動をするようになったため、これが惚れ薬なのだと確信したのだ。
偶然できたこの薬、需要は恐ろしくあるだろうが、商品化どころか他言することもできない。そんなものがこの世に存在すれば、世界は破滅するだろう。
このままだれにも言わず秘密裡に処分しよう、そう思った私に、心の中の誰かがそっとささやいた。
――待て。捨てる前に、一度だけ使ってみないか。
――なに? そんなことは許されん。
――何を言うのだ。これまで病に苦しむ人のために、さんざん苦労してきたんじゃないか。なあに、使ったあとすぐに処分すれば、だれにもわかりはしないさ。
――馬鹿を言うな。
――まったく頭の固いやつだ。だからお前はだめなのだ。
――うるさい、余計なお世話だ
――なぁ、考えてみろ。その薬があれば何もかも思い通り。お前がいつも遠巻きに見ている“彼女”だって意のままさ。
――か、彼女にそんなことできるわけがない!
――無理するなって。本音は違うんだろ?
――絶対だめだ!
――モノは試しっていうだろ?
――ダメだ、ダメだ、ダ……。
結局、私は心の声に負けた。
そうとも、私が開発した新薬で助かった多くの命を思えば、ただの一度くらい私の望みをかなえたとてバチは当たらないはず、そんな傲慢で自分本位な考えに、私は支配されてしまっていた。
頭の隅にひとりの女性のすがたが浮かぶ。他部署にいる柏木エミだ。
長身ですらりとした美しい容姿に明晰な頭脳をもつ彼女は、会社の男性陣から絶大な人気がある。私のような男には、近寄るのもはばかられるような存在だった。
ただ一度だけ、彼女と会話をしたことがある。それは数年前の開発会議のとき、まだ入社間もないころのエミがお茶を用意する係だった。
「お茶のおかわりはいかがですか」
「ありがとう。いただきます」
たったそれだけの会話だったが、彼女の声、所作の美しさはたちまち私の心をとらえ、そのときから私は彼女にかなわぬ想いを抱くようになったのだ。
さあ、あとはこれを彼女に飲ませるだけだ。
私ははやる気持ちをおさえながら白衣を脱ぐと、椅子の背もたれにかけてあった上着を羽織って軽やかに研究室をあとにした。
昼休みの社員食堂は、溢れんばかりの従業員たちでごった返すのが常だ。そんな状態から彼女をさがすのは難しいとわかっていたので、今日は食堂が開く前に着くようにした。あまり人目につかない通路わきで待機する。そうすれば、入り口だけ注意していれば彼女の姿を見つけることができる。
案の定、しばらくすると同僚たちとともにやってくるエミの姿が見えた。すかさず私もランチをとる行列にならぶ。彼女と同じメニューのAセットを手にし、不自然にならないようエミの後ろをついていく。そして彼女がテーブルに着こうとした瞬間、私は肘を思い切り彼女の盆にぶつけた。
「あ!」という声とともに、ガシャンと食器が落ちる音。トレーの上の皿や料理はすべて床に落ち、無残な状態になっていた。
「も、申し訳ない! 大変失礼しました! お怪我はなかったですか?」
「大丈夫ですよ。お気になさらないでください」
エミは怒ることもせず、にこやかに答えてくれた。こんなところも私が彼女に惹かれる理由なのだ。つい見とれてしまいそうになる顔をひきしめ、あわてたふりでウエットティッシュを取り出す。気を利かせた周囲の何人かが雑巾を借りてきて、床を拭いてくれていた。
「すみません、あとは私がやります。ありがとう、助かりました。あ、良かったらこれを食べてください。同じAセットですから」
私はそういって、エミに自分の持っていた盆をさしだした。もちろん、セットのスープには例の薬が入れてあった。
これでいい。これで彼女は……。
それからどうなったか。
結論から言えば、彼女はそのスープを飲まなかった。正しくは、私が彼女に薬を使う決心がつかなかったのだ。
彼女の左手には真新しい銀のリングが光っていた。それを見た私は、冷めたからとウソをつき、彼女に新しいスープを渡したのだった。
相手がいようがいまいが、薬を使えば心は奪える。簡単なことだ。
だが、私はそれをしなかった。彼女の笑顔を見たら、その幸せを奪うことなど、私にはどうしてもできなかったのだ。
今でもふと思う。なぜあのとき、薬を使わなかったのだろう。
いや、これでいい、これでいいのだ。
彼女が幸せであるならば。
ー終ー
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