夜に咲う

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夜に咲う

昼休み。彼女は黙々と試験勉強をこなしていた。眩しすぎるほどに晴れ渡る初夏の青空。不運にもこの教室の空調は壊れてしまっていた。できる限り気にしまいと強がって平静を装う彼女の首筋をいくつも水滴が伝う。せめてもの足掻きにと誰かが窓を大きく開けた。入ってくるのは熊蝉の合唱を纏った熱風だった。 熱風を一身に受けてしまったのだろう。窓を開けた女生徒が残念そうに先程までいたグループに戻っていく。明るい笑い声とともに再び受け入れられたその女生徒は手元にあった透明な下敷きを団扇代わりにパタパタとあおぎ始めた。そのグループの動向に全ての注意を向けていた彼女は我に返り、座ったまま伸びをして肩をほぐすと机上のノートに意識を向けた。どうして集中しようとしている時ほど周囲に敏感になってしまうのだろう。彼女は悩ましげに自問する。 話し声が嫌でも聞こえてくる。 件のグループは花言葉についての会話に花を咲かせている。誰かがそういった本か何かを持ってきたのだろう。銘々がお気に入りの花を言い合い、それらが持つメッセージについて取り留めのない会話を繰り広げている。 集団の一人が偶々教室に戻って来た男子生徒に好きな花を聞いた。彼は一瞬戸惑ったような素振りを見せたが、すぐに笑顔を見せながら会話に参加した。しばらく先刻と同様の会話が続いた後、不意に教室の後方から歓声が上がった。お調子者の男子生徒が適当に口にした花言葉が存外に的を射ていたようだ。 実在の花言葉に絡めたトークから一転、自作の花言葉を披露するプチ大喜利大会へと移行した。 もし... 心の中で会話に参加しようとしていた彼女はすんでのところで思いとどまり、再び自身の目の前のノートに目を向ける。白紙のままのノートに汗が滴り落ちた。暑さの所為にしては汗をかき過ぎている気がした。 昼休み。彼女は黙々と試験勉強をこなしていたのではない。誰とも話す気になれず、気を紛らわせようとして、あるいは誰からも話しかけて欲しくなくて試験勉強をこなそうとしていたのだ。 それなのにどうして気になってしまうのだろう。 高校3年生である彼女らは本来、大学受験を翌年に控えこれほど脳天気に時間を過ごすことなどできない。しかし、一部の生徒を除き熱心に試験勉強に励む生徒はいない。彼女の通う高校は私立の附属高校で、進学に求められるものは高校における評価のみであった。それ故、倍率の高い学部を狙いでもしていない限り、平均的な成績さえ収めていれば何も問題はないのだ。 見目麗しく、その上面倒見も良いと専らの評判である彼女を慕う級友は性別を問わず決して少なくない。些細なことであっても進んで手を貸す、聖女のような人物だ。彼女を知る人なら誰もそうが評する自身の性格を彼女は決して好きにはなれなかった。無関心な父と、自己投影の激しい母と。かつての自分が手に入れられなかった物を彼女の母は彼女に強く求めた。私の自慢の娘なのよ、と誰にでも彼女を誇る母は自分の意にそぐわない結果を示す彼女を厳しく罰した。言うことを聞かない貴方に価値などない、と折檻された回数などもはや彼女は覚えていない。見放されたくないと言う一心で母に従ってきた彼女が自分を見失うのにそれほど時間は必要なかった。 昼休み前のホームルームで進路調査が行われた。春先から度々行われているソレが彼女にとっては何よりも苦痛だった。留学に行きたい。専門的に学びたい事がある。行く行くは家業を助けたい。クラスメイトが思い思いに夢を語る度、彼女は虚な自身の姿を直視せざるを得なくなるのだった。他人の期待に応えることが最大の目的となってしまっていた彼女にとって、己の夢を捉える事は何にも増して難しかった。他人の役に立たぬ私に価値などない。そう固く信じる彼女は自身の心を他人に知られるのを何より恐れていた。打ち明けでもしようものなら途端に無数の失望の籠った視線が彼女を刺すだろう。彼女はそう信じて疑わなかったのだ。 あぁ。 何も手につかない。 どこへ向かうでもなく、彼女は教室を後にした。 目的地があるわけではなかった。寧ろ歩くことが目的だったのだ。少し体を動かしてリフレッシュできれば。しかしそんな彼女の願いが聞き届けられる事はなかった。 彼女を慕う者は彼女が想像しているよりも遥かに多い。図らずとも高校のちょっとした有名人となってしまっていた彼女に気軽に声をかける生徒たちに、彼女は内心辟易としながらもにこやかに応える。学校内にどこか一人になれそうな場所はないだろうか。気付けば足は彼女の最も安心できる場所へと向いていた。 図書室へと続く廊下の中程で、彼女は角から不意に現れた生徒とぶつかってしまった。 「あぁすみませ...」 そう言いながら顔をあげた彼女はぶつかってしまった相手を見た。その顔を視認するや否や彼女はさっと身を躱し、言いかけた言葉を置き去りに足早に図書室を目指す。 「お、おい」 彼女とぶつかった男子生徒は彼女を呼び止めようとしたが、彼の眼が捉えることができたのは閉まりつつある図書室の扉だった。 流石に図書室内では声を掛けられなかったが、彼女の気持ちが晴れるわけではなかった。どれほど悩もうが誰かが助けてくれる訳ではない。世の中、なるようにしかならないのだ。気分転換できずに昼休みを終えてしまった彼女は、その悶々とした感情を抱えたままその日の授業を終え、帰路についた。 夕刻、幾分か日は傾きつつあるが依然として茹だるような暑さが一帯を支配していた。 例年より暑い夏になりそうだからと、少し早めに箪笥の奥から出してきた浴衣に袖を通す。濃紺に赤や黄色で線香花火があしらわれている彼女のお気に入りだ。 大好きな花火を見れば少しは気が晴れるだろうか。そんな淡い期待を胸に、彼女は家を出た。 いつものように待ち合わせの10分前に集合場所へ到着した。さて、これからどうやって時間を潰そうかと三つ編みの先を指に巻き付けながら彼女は思案する。結局、何をするでもなくただぼーっと人の往来を眺めているうちに時間が経っていた。 こちらもいつも通り、定刻よりも15分ほど遅れて待ち人は姿を現した。しっかりした生地のTシャツにハーフパンツ。右手には近くのコンビニで買って来たであろう棒付きアイスが握られていた。彼女の恋人が口を開く。 「昼休みなんで俺から逃げたの?」 予想通りの第一声に落胆しつつも、決して顔には出さずに彼女は答える。 「ごめんね。逃げたわけじゃなかったんだけど... ちょっと急いでたのとびっくりしちゃったから」 納得した様子では無いが、追求する素振りは見せなかった。話題を変えようと、彼女は努めて明るく振舞う。 「開始までまだ時間あるね。どうしよっか?」 少し話し合った結果、出店を冷やかしながら目的のスポットまでゆっくり向かうことになった。 「時間大丈夫かなぁ。花火がよく見えるところはやっぱり混むから、先に場所とっておいた方が良くない?」 話合いとは言うものの、頑なに自分の意見を曲げない彼が押し切った形だ。それ自体は構わない、と彼女は思っているのだが... 「こういう時しか出店出ないんだから満喫しようぜ。それになんだかんだ上手くいくだろ」 上手くいってるのではなく私が帳尻を合わせてるのよ、と彼女は心の中でツッコミを入れた。尤も、彼はそれを当然の事と捉えている節がある。 誰にでもいい顔をするのだから、恋人である自分には一層献身すべきである、と言うのがどうやら彼の持論らしい。 しばらく並んで出店を回っていたが、ふと彼が彼女から離れた。 「ちょっと小便」 そう言って彼は姿を消す。 彼女は人の波から外れ街路樹の側まで移動し、手持ちの巾着からスマホを取り出した。SNSでも眺めていようかとホーム画面を開くと、彼女の母親からの着信を知らせる通知があった。 すぐに折り返すと、聞き慣れたヒステリックな声が耳を刺す。 「ちょっと、今どこにいるのよ!」 「どこって。伝えていたように花火を観に来ていますが...」 「そんな無駄な事してないですぐに戻って来なさい!今からとても大事なお客様がいらっしゃるのよ!」 「すみません。予定表には書いていなかったと思うのですが」 「当然じゃない。さっき決まったのよ。後一時間ほどでいらっしゃる予定だから、必ず間に合うように帰って来なさい!いいわね!」 彼女が返答するまもなく通話は終了した。お客様、と言うのはどうせコミュニティサイトで知り合った人だろう。家族に惜しみない愛情を注ぐ私、を見てもらうのに娘である私が必要なのだ。冷静にそう分析する彼女だが、実際には余裕などどこにもなかった。彼女の母が指定した時刻は花火が始まる時間だった。行方知れずとなった彼の事もある。彼女はどうしていいかもわからず、その場に立ち尽くしてしまった。 それから5分経っても10分経っても、一向に彼が戻ってくることはなかった。待っている間にも人の波はその大きさを増していく。流れに逆らって留まることが次第に困難になってきた。出店の並ぶ通りを離れ、道すがら目についた小さな公園に駆け込んだ。見晴らしが良くないのが幸いしてか先客はいなかった。目についたベンチに腰を下ろし、彼に電話をかける。花火大会の開始が刻一刻迫ってくるが、一向に電話は繋がらない。公園の前を行く人の流れは次第に大きくなっていく。彼女はしきりにスマホを確認するが、そこには何の変化もないホーム画面が映し出されるだけだった。 スマホを握りしめたまましばらく公園内をウロウロしていると、ようやく振動とともに通知を知らせる音が鳴る。 慌てて確認すると、昼休みに熱風をモロに喰らっていた彼女からのメッセージだった。 「ごめん言うの忘れてた!これからみんなで勉強会するんだけど来れない?」 流行りのキャラクターが頭を下げている可愛らしいスタンプも添えられていた。 「ごめんね。今日は色々と忙しくて。次やるときに参加するね」 彼女は相手と同じスタンプを添えて返信した。後髪を引かれる思いだったが仕方ない。 再びベンチに腰掛け、スマホの画面を眺めているとようやく彼から電話が掛かってきた。居なくなってから2、30分はたっただろうか。 「OBの先輩ん家で映画観ることになったわ。今日は解散で」 開口一番、彼は到底信じられないような事を口にした。何を言っても笑って許される、とでも思っていたのだろうか。 瞬間、彼女の中で何かが弾けた。 「は?」 「だから、これから先輩ん家で映画観るから」 そうとは知らずに彼は変わらぬ口調で繰り返す。 「なんなの?」 「え?」 「だから、何考えてんだって言ってんの!いつもいつも人を奴隷みたいに扱って!ホント何様のつもり?」 「ごめんごめん。じゃあすぐそっち行くから」 ちょっと強く言われたくらいで掌を返すなら初めから言うなよ。 「今日だってアンタが来たいって言うから来たんじゃん!そのくせ細かいとこ全部私に丸投げでさあ!」 言葉に怒気が籠る。 「ごめんって。だから落ち着いて、な」 「落ち着いてって、アンタ自分で何言ってるかわかってるの?ここまで馬鹿な事して許してもらえるとでも思ってたの?ホント、ありえない!」 一呼吸おいて彼女は告げる。 「もう付き合っていられない。金輪際関わってこないでね」 彼女の別離の宣言に、電話口の彼に明らかな焦りの色が現れた。 「そんな一回くらいでそこまで言わなくても、な?」 「一回くらいって、アンタいつも私にどれだけ迷惑かけてるか自覚ないの?」 勢い付いた彼女は彼に追い討ちをかけるべくさらに続ける。彼を諦めさせるつもりで放った言葉は彼女が今までひた隠しにしてきた秘密だった。 「ごめんね。君のことはやっぱり全然好きになれなかったな。今まで黙ってたけど、私ホントは女の子の方が好きなの」 まだ彼は何かを言い続けているようだが、彼女は耳を貸す気はない。ありったけの感情を込めて画面を叩き通話を終了させた彼女は右手を振り上げる。スマホを地面に叩きつけてようとしていた彼女はすんでのところで思い留まり、振りかぶった姿勢のままでしばらく固まっていた。 ゆっくりと右手を下ろし、呼吸を整える。 図らず本心をさらけ出してしまったが、思っていたほどの後悔もない。なんて簡単なことだったんだろう、と彼女は一人微笑する。 なるようにしかならないのではない。したいようにすればいいのだ。 これからどうしようかな。彼女は少し考えると、ある人物にメッセージを送った。 「ごめん、さっき行けないって言ったけど勉強会、今から参加してもいい?よく考えたら大丈夫そうだったから」 すぐに読んだ事を示すマークが付き、返事が返ってきた。 「もちろん!勉強会って言ったけど、ほとんど女子会みたいな感じだけど笑」 躊躇うように文字を打つ手が止まる。が、すぐに動き出した。 「いいね。聞いて欲しい話いっぱいあるんだ」 知らない間に花火大会が始まっていたようだ。 ベンチから立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。 先刻から頻りにスマホが震えている。電話を掛けてきている相手を確認すると、彼女はそのままスマホを巾着に戻した。 高校を卒業したら家を出よう。そんな事を朧げに考えながら、彼女は未来に想いを馳せる。それは彼女にとってかつてないほどに幸福なことであった。 「もし花火にも花言葉があったなら...」 夜空に咲く花火の音を背に、彼女は昼休みの続きを呟いた。 「私を見失わないで、かな」
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