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 クラスメイトらに不審がられぬよう宇津田と齋藤を教室に戻してから、海一は職員室に居る中川を張った。  一方、理科実験室に残った綾香と今泉。  綾香は彼女に、携帯電話で父親に齋藤の献金が完了した旨を伝えるよう指示した。 「それは嘘になるじゃありませんの」  いぶかしむ今泉に、「嘘でいいのよ」とうながす綾香。  電話をする今泉を待ちながら、これで七人分の献金が揃ったという“体”になったなと、綾香は虚空を見つめた。  電話の先から喜ぶ理事長の声が聞こえ、戸惑うような表情でそれを受け止める今泉を視界の隅にとらえる。  どんな家庭状況でも、今泉はただ一人ずつの父親と母親を愛しているのだなと、綾香は複雑な思いがした。 「電話いたしましたわ。これでお父様が確認して献金されていないことが分かったら……」  不安げな表情で綾香に詰め寄る今泉。  綾香より背の低い小柄な彼女の頭を急にぐりぐりと撫でて、綾香はニッと笑った。 「問題ないわ。確認するのは理事長じゃない。よく頑張ってくれたわね、もう大丈夫よ」  訳が分からないと眉間にしわを寄せる今泉に、綾香は顔を近づけて真剣に続けた。 「明日になったら、きっと事態は良い方向に行くから。もう教室に戻っていいよ。あとは私と海一が頑張る番」  そう告げて理科実験室を出ようとする綾香に、今泉は「待って!」と大声を投げる。  くるっと振り返った綾香に、 「あんたたち……一体何者?」  今泉は唾を飲んでから、それしか選べぬセリフを言った。  強張った表情の彼女に、綾香は一瞬迷ったような表情を見せてから、 「お節介なボランティアだってば!」  と言い放って、今度こそ教室を出ていった。  もう二度と会うことのないだろう今泉に背を向けて。  綾香は一時間目の始まった学校を足音を立てず駆け抜けて、十階から一階まで急いだ。エレベーターを使うと教師と鉢合わせてしまう可能性がある。  ヒビの入った腕をいたわることなどすっかり忘れてしまっている。  そして海一に、今泉に電話をかけさせた旨のメールを打った。  加えて理科実験室で伸びている三年の男子生徒らのフォローを本部に依頼するように付け加えて。  綾香から連絡を受けた海一は、死角から職員室の中川を観察しながらSS本部に連絡を取った。  中川にまだ動きはない。授業がないようで、片づけの準備や他教師への挨拶周りをしているようだった。  綾香は階段を二階まで下ってから、ある事実を思い出した。  学校は放課後まで一階を締め切っているんだった、と。  計画では綾香はこの地点で外に出ていなければならず、他に外に出る手段は無いかと二階をうろつく。  廊下や階段の窓は非常時以外は開かないよう固く閉ざされており、トイレの換気口は小さくてとても体を通過させられるようなサイズではない。  三階に戻っても恐らく同じ状態だろうし、窓から飛び出した時のリスクも高くなると考え、しばらく二階を右往左往した。  二階廊下端には図書館の入り口。ここの図書館は窓のない密室だ。  反対側には保健室。 「保健室なら……」  綾香はひらめいた。保健室なら窓が開いているのではないかと。さすがに気分の悪くなった生徒を密室に入れておくとは考えがたい。  綾香は近くのトイレに駆け込んだ。  ポケットから肌色に近い色の口紅を取りだし、唇に器用に塗っていく。何度もなじませてから鏡を覗いてみたら、血色の悪くなった生徒の出来上がりである。  自分の顔を血色悪くメイクアップする矛盾に苦笑いしながら、綾香はトイレを飛び出して保健室へ向かった。  いつも仮病を使う時はクマを濃くしたりしてもっと顔色を悪く見せるのだが、口紅一つで大丈夫かと多少不安に思いつつ扉を開けた。 「すみません……」  SSとしての持ち前の演技力で、気力のない声を出す。  すると中で座っていた年配の女性保健医がこちらに近寄ってきた。 「あら、顔色が悪いね。大丈夫? おうちに連絡して帰る?」  ベッドで休ませるよりまず家に連絡するような、過保護を助長させる学校だったわね、と綾香はこの特殊な学園の校風を思い出した。  言葉を変えて交渉を続ける。 「いえ、少し休ませて頂ければ大丈夫ですわ……」 「あらそう?」  保健医はカツカツと歩いて、保健室から続く隣の部屋の扉を開けた。  綾香もそれに続いて行くと、その部屋にはなんと大きなベッドが六台も用意されていた。こんな豪華なベッドでぐっすり眠ったら、そのまま体が溶けてしまいそうだと綾香は思う。  そんなことを考えていた綾香に、保健医が問う。 「ところで、あなた一人で来たの? 保健委員は付き添ってくれなかったの?」 「あ、いえ……わたくしたった今、車で学校に来たところですの。具合が悪くて病欠しようかと思ったんですけれど、大切な授業ですもの。無理を押して学校に参りましたら、やはりまた急に気分が悪くなってしまって……」  綾香はギクッと思い、とっさに嘘を並べた。  SSになってからというもの、出まかせがとても上手になったなと涙ながらに思う。  保健医は「そうなの」と疑うことなく綾香の嘘を飲みこんで、 「とりあえずクラスと名前を教えてちょうだい、担任の先生に連絡しておくから」  と実務的な話に移る。  綾香は靴を脱いで、一番奥のベッドにゆっくりとした動作で横になり、名前と、もう使うこともないだろう自分の所属する組と番号を口にした。  保健医はポケットから取り出したメモにそれをさらさらと記入し、「ゆっくり休みなさい」と部屋を後にした。  綾香は保健医が部屋を出ていってから、そのカツカツという足音が消えて椅子に着席するまで待ってから、静かにベッドから抜け出した。  ほぼ徹夜で作戦会議をした体はこのベッドの温もりを欲していたけれど、今は休んでいる場合ではない。  綾香は靴を履き直し、足音を立てず素早く窓際に近寄る。やはりここは簡単に鍵が開けられる仕様になっていた。  内心で「よしっ」とガッツポーズをして窓の鍵を解錠する。  外はビル街のはずだが、ここだけは数本背の高い木が植えられていた。流石に保健室から覗く景色が隣のビルの横顔では、余計に気分が悪くなってしまうだろう。  綾香は迷うことなくその木に飛び移った。葉がワサワサと音を立てたが、その時丁度吹いてきた強め風にかき消える。  綾香は落ちそうになりながらもなんとか幹の部分をつかみ、片腕ながら上手に下っていく。  地上に着くとすぐに駆け出し、学園の職員玄関の方に走った。  唇につけた仮病用の口紅を拭きとる。  親切にも仮病の綾香を寝かせてくれた保健医が、誰も居ないベッドを見て仰天する図を想像すると、失礼だが少し笑える綾香だった。  一方、隠れて職員室を覗き見る海一は、理事長室に呼び出された中川の姿を確認した。今日の彼女深い紺のスーツを着ていて、何やら表情が硬い。  自分の読みは外れていなさそうだと、海一は確信を持った。  しばらくして理事長室から出てきた中川は、職員室に戻ると自身の通勤鞄を片手に提げ、足早に職員用エレベーターに向かい「下」ボタンを押した。  その表情は隠し切れない焦りを帯びているように見える。  海一は綾香に中川の動きをメールした。  そして中川がエレベーターの中に消えていくと、海一は階段で地下一階まで急いだ。  連絡を受けた綾香が身をひそめて職員用玄関で張っていると、案の定中川が現れた。早足で学園の外へ出る。  綾香はその後ろに続いた。  昼間から制服の少女が居ても全く怪しまれないこの街は相変わらず狂っていると思いながら、人混みに中川を見失わぬよう、距離を詰めすぎないよう急いだ。  中川が向かった先は近所の大手銀行の支店だった。  流石に制服姿では入り込めず、不自然にならない物陰で出入り口を注意深く観察していた。加えて、海一に銀行の場所をメールする。  メールを受けた海一は、地下一階の送迎車が出入りする口にたどり着いていた。  外へ続く大きなゲートの両端に、警備員が一人ずつ立っている。  海一は彼らに近づいていく。 「すみません」  学校モードの性格を使い、丁寧に話しかける海一。  警備員の一人、割と若めの男が海一を見て、「どうしたんですか?」と応対する。  海一は先程階段を駆け下りながら考えた嘘をすらすらと口にした。 「授業が始まる前に母から連絡があり、父の病状が悪化したので急いで来るように言われたんです……!」  任務の為なら恥をも捨てる海一の迫真の演技に、警備員は同情的に眉をひそめる。 「そうなのか……。君も大変だね。気をつけて、急いで行くんだよ」  そう言ってゲートを開ける警備員。  海一は涙さえこぼれんばかりに「ありがとうございます!」と感謝を示して、外へ飛び出していった。  海一の姿がすっかり見えなくなった後、もう一人の年配の警備員が若い警備員に話しかけた。 「一体何だったんだ? 今の生徒さんは」  大きなゲートを挟んで立っているため会話が聞こえにくかったようだ。年配の警備員は不思議そうな顔をして問う。 「なんでも父親の病状が悪化したらしくて、急いで帰ってくるように母親に言われたそうです」  若い警備員が「大変そうですよねぇ」と同情の気持ちを露にしながら答える。  年配の警備員は首を傾げ、 「何でそんな急いでいる生徒が、たった一人で駐車場から出ていくんだろうか?」  と、疑問を口にした。  若い警備員は少し考えてから、 「保護者の方が迎えに来る予定だったんじゃないですかね?」  と想像を口にする。 「というよりそもそも、帰る生徒が何で手ぶらなんだ?」  遠目から見ていた警備員からは、会話以外の全ての様子が見えていた。とても不自然な様子だったに違いない。 「確かに、そういえば何も持っていなかった気も……」  若い警備員は「まずいな」と思ったのか視線を脇にそらす。 「名前とクラスは訊かなかったのか?」  年配の警備員の問いに、申し訳なさそうにうなずく。海一の迫真の演技と押しにすっかり流されてしまった。 「あっ!」  若い警備員は突然手を打つ。年配の警備員が「なんだなんだ」と驚いてみせると、 「眼鏡をかけた生徒さんでした!」  と答えた。  二人の間を沈黙が通過した後で、 「君、この学校に眼鏡をかけた生徒が何人居るか分かっているのかね」  冷たい圧力があり、 「すみません……」  結局若い警備員は謝らざるを得ないのであった。  しばらくして、綾香がひそむ場所に海一も到着した。 「中川はまだ中か?」 「ええ」  オフィス街のビルとビルの隙間、ちょっとした細い道に隠れ場所を見つけ、二人はそこから出入り口を観察していた。  二人が学校に転入してきたのが二月。今やもう三月。昼間の日差しは少し汗ばむものがあった。  包帯で厚く巻かれた腕が蒸す綾香は、吊った腕に空気を送り込もうとする。海一はネクタイをゆるめて胸元に風を起こした。 「海一はどこから出てきたの?」  そういえば、といった感じで綾香が問う。  海一はしれっと、 「俺は地下駐車場からだ。どうせお前が保健室を利用しているだろうと思ってな」  と言い放つ。  全くもってその通りであり、地下駐車場から出るという手段は思いつかなかった手前、綾香は「そうですか」と一言でその話題に幕を下ろした。 「ここまでは打ち合わせ通りだ。SS本部に証拠書類等を送り、こちらが佳境だということも伝えてある」  綾香は海一の言葉にうなずいた。 「ええ。だからこそ使ったスタンガンですものね」  宇津田に貸していたスタンガンは海一のものだ。その後しっかり回収して、事態に収拾をつける代わりにこのことは決して他言しないよう、齋藤らに強く言い聞かせていた。  前回綾香が今泉の差し向けた男子生徒らに襲撃を受けた時には、任務の続行が危ぶまれるため使用しなかったスタンガン。  今回はクライマックスを予期し、惜しげもなくSSの支給品を活用している。 「最後の仕事だ。元凶・中川由紀子の身柄を確保し、本部に引き渡す」  海一の言葉に、綾香は再び深くうなずく。 「いかなる理由があろうとも、藍季学園の生徒を恐怖と混沌に陥れた罪は重い。そして今から行おうとしているのが……」  海一は言葉を途中で切って、銀行の出入り口に目を細めた。大きなシルバーケースを提げた中川が現れ、路上でタクシーを拾おうと歩みを進めた。 「金を持ち逃げしようとしている中川の確保ね!」  途中で切れた言葉を補って、綾香は中川のもとに飛び出して行った。  人混みで見失わぬよう、海一もすぐに後を追う。  綾香は騒ぎにならないよう背後から静かに中川に忍びより、彼女の腕を後ろに捻りあげる。 「キャッ!」  驚いた中川の悲鳴が周りの歩行者らの目を一瞬引いたが、捻りあげた腕は綾香自身により死角にされている。視線はすぐに散り散りなった。 「中川由紀子さん。お訊きしたいことが沢山あります。そのケースの中身共々、一緒に来て頂きます」  綾香は冷静な声で言いあげる。  中川は振り返ろうとするが、腕を捻りあげられているせいで綾香の顔まではうかがえない。  綾香は片腕でかなり健闘していた。  もがく中川。  その体を海一が確保しようとした時。  なんと中川は、ヒールで綾香の腹を蹴り飛ばしたのだ。  予想外の衝撃に、綾香は反射的に受け身を取ろうと腕を離してしまう。勢いで二メートル程吹っ飛ばされ、路面に放り出された。 「綾香!」  自分に駆け寄ろうとする海一に、 「いいから行って!」  と綾香は一喝する。  まさかこんなに人が沢山居る中でこのような手荒な真似をするとは想定していなかった。  綾香は己の腹を押さえながら何とか立ちあがろうとするが、力が入らない。  人混みの中、遠のいていく海一の靴音を聞きながら歯を食いしばっているしかないなんて。  綾香は悔しくて涙が出そうだった。  その時だった。  黒い影が綾香の目の前を覆った。 「ほら、つかみな」  男はその長身をかがめて、綾香に手を差し伸べている。 「アンタは……」
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