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私にはお気に入りの場所がいくつかある。
田園地域の隅でひっそりと経営している、隠れ家風のBar喫茶『カルナヴァル』がその1つだ。
オレンジ屋根の可愛らしい小ぢんまりとした店は、カウンター席が4つと、4人掛けのテーブル席が2つしかない。
けれど狭っ苦しいと思えないのは席同士の間隔が広いからか、それとも置くに据え置かれたグランドピアノが印象的すぎるからか。
ここは名の通り昼はフルーツタルトが自慢の喫茶店であるが、夜は店主がその辣腕を奮う予約制のバーになる。
私は昼間に訪れてランチをする事が多い。金髪の店主は物静かで見目麗しいし、バイトの子は愛想が良い。立地のせいか客足はまばらで居心地がいい上に、何より料理が美味しいのだ。
「いらっしゃいませ~」
カランカランとドアベルを鳴らすと、柔和な笑みを浮かべたバイトの子――龍己が「沙羅さんじゃないですか!」と嬉しそうに駆け寄って来た。
「お久しぶりです~。いつもの席でいいですか?」
龍己に案内されるまま1番手前のカウンター席に腰かける。
「こちらメニュー表になります」
「ありがとう」
赤い表紙の2つ折りの冊子を拡げると、慣れ親しんだメニューの羅列が目の前に広がる。この喫茶店はドリンク類以外の品数が少ないのも特徴的だった。
「それじゃランチセットのA。飲み物はアイスコーヒーでお願い」
「食前でよろしいですか?」
「うん」
慣れた調子でオーダーを取る龍己が裏に引っ込んでいくのを見送ると、タイミング良くスマートフォンが震えた。メッセージアプリを開くと、珍しく和から夕食の誘いきている。”大事な話があるから”と。
”大事な話”? それって何なのだろう。
別れ話だろうか。
けれど彼の性格上、別れを切り出す時はそういう畏まった表現は使わないような気がする。というか平然と複数の相手と関係を持つ男であるので、その程度で自分から別れ話を切り出す事はしないだろう。
だとしたらお金? 借金でもしたんだろうか。彼は酒好きのギャンブル好きであるから、いつの間にか誰かを相手に借金をこさえていてもおかしくない。
「それともまさか子どもが出来てたとか……?」
「え? 子ども?」
悶々としていたらつい口をついて出てしまっていたらしい。いつの間にか隣に来ていた龍己が驚いた声をあげる。慌てて「何でもない」と手を振った。
冷たいアイスコーヒーで心を落ち着ける。
そもそも私はあの男のどこが良いのだろう。
誠実さも堅実さとも無縁な最低最悪の顔だけ男。
彼が知己の者からそう称されるようになったのは中学の終わりの頃だった。
当時年上のお姉さんにちやほやされていたらしい彼は、女の子の扱いがそれはもう上手くて中学の中ぐらいに初めての彼女ができた。
3日で2人になったが。
とっかえひっかえ、同時に不特定多数と。
そんな事を繰り返している内にそんな悪名が囁かれるようになってしまった。女の子に平手打ちを食らっている場面も目撃したし、男子からはそこそこ嫌われていたと思う。
けれども親友と呼べる相手は何人かいるし、女の影が途絶えた事がないのは、やはり彼にはそれ相応の魅力があるのだ。
この所業を間近で見てもずっと焦がれ続けている馬鹿な女もいる事だし。
そうだ、もうずっとだ。
小学校の入学式で1人、ぼんやりと校門前に立ち尽くしていた彼に微笑みかけられた時からずっと好きでいる。
恥ずかしくて声をかけるなんてできなかったが、中学にあがっても高校を卒業して社会人になってもずっと変わらない。
変わらなかったのはきっと当事者ではなかったからだ。
彼がどんなにたくさんの女と関係を持とうと、少し離れた所で眺めるだけの第3者だった。私自身の想いは傷つけられる事もなく、彼のそういう所をそういうものと受け入れたまま、想いの熱量ばかりを募らせ続けていた。
だから当事者になってしまった今、終わりが来るのが恐ろしい。
こんな関係になっても行き場のない熱量を、今更どうしたら良いのかわからないから。
「これが思い出補正……」
食べ終わった器の前で私はがくりと首を折った。
いつの間にか食べ終わっていたハンバーグの味を覚えていない事に愕然としてスマートフォンを睨む。こいつさえ鳴らなければ……。
「何か悩み事ですか?」
器を片付けに来た龍己に訊かれて少し申し訳ない気持ちになる。困ったような笑みを浮かべる私に、彼はにっこりとほほ笑んだ。
「こちら食後のハーブティーです」
「え」
そんなサービスあったっけ?
疑問に思って見上げると龍己は茶目っ気たっぷりに「悩めるお客様には特別に用意してるんです」と人差し指を唇にあてた。
「これはちょっと不思議なお茶なんです」
目の前に広げられたのは小さなガラスのポットとティーカップだ。ポットの中には何やら白い玉が入っているだけで、とてもハーブティーには見えない。
龍己は静かにポットの蓋を外すと、手に持った口の細いドリッパーからお湯を注ぎ始める。
とろとろと流れるお湯がポットの中を満たすと、不思議な事が起こった。
白い玉がほろりと綻んでいくつかに分裂した。ふわふわとその体を揺らしながら形を変えていく。瞬く間にそれは細長い5枚の花弁を持つ真っ白な花達になった。
「オレンジの花だ」
「外国では花嫁の髪飾りにする風習があるそうですよ。花言葉は”純粋”、”可愛らしさ”……」
「”結婚式の祝宴”でしょ?」
「詳しいですね」
「誕生花なの」
なんだか気恥ずかしくて笑いを零せば、龍己は少し驚いてから「それは良い偶然ですね」とカップにハーブティーを注ぎながら言う。
「このお茶に咲くのは近い将来の暗示なんです」
「なにそれ、冗談?」
私にとっては1番縁遠いものなのに。
「占いみたいなものですよ。信じるも信じないもお客様次第って奴です」
「いいねそれ、素敵」
暖かいカップを手に取るとほのかに花の香がした。何の花かはわからないが少なくともオレンジの匂いではない。浮かんでいるのはオレンジの花なのに別の花の香りがするのが少し不思議だった。
1口含めばすっとした花の香りが広がって、胸の奥の方がじんわりと暖かくなる。味は普通に美味しいお茶なのになんでこんなに安心するんだろう。
ふわり、と浮かぶ湯気がどこか不自然に揺れた。それはみるみる内に私を取り巻き、ある情景を象り始める。何故かちっとも怖いとは感じなかった。
「きっと悩み事は解決しますよ」
私の隣で変わらない柔和な笑みを称えた龍己が、不思議な彫刻の施された銀色の短い杖を中空で円を描くように振った。
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