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 慣れないスーツ姿で歩くのにも少し疲れて、安人は疏水(そすい)の水路を見下ろすベンチに腰を下ろした。授与されたばかりの卒業証書を賞状筒から取り出し、陽射しの下、感慨深い眼差しでしばらく眺めた。それから元のように丸めながら、遊歩道沿いに植えられた、三分咲きの桜の木を仰ぐ。  卒業、か。  じわりと、目が潤んだ。 「あれ? チュウリ?」  突然、名を呼ばれた。「チュウリ」は中里の音読みだ。  安人同様に黒いスーツを身につけた、がっしりした体格の男は、陸上部の同期、野口だった。安人の種目は短距離と障害、野口は長距離だ。  少しばかり間が悪い。安人は仰向いたまま何度か瞬きをしたが、結局指先で滲んだ涙を軽く拭ってから顔を向けた。 「何してんだ、こんなとこで。ゼミの連中が探してたぞ」  安人は苦笑する。 「そりゃ悪いことしたな」 「ま、謝恩会までどっかで駄弁(だべ)ろうぐらいの気だったんじゃねえかと思うけど」  野口は軽い口調で言いながら近づいてきて、疏水側の柵に背を預けて安人を見た。 「お前は何でこんなとこにいンの」  安人が尋ねると、野口は紙袋を軽く掲げる。 「学位記だの記念品だの持ってんのも邪魔だし、一旦下宿に戻って置いてこようと思ってさ」  野口はすぐ近所に下宿している。この四年間で、安人も何度も足を運んだ六畳二間の古い和室だ。 「そっか」 「邪魔したか? えらくしみじみと咲いてない桜眺めてたけど。総長の祝辞に感動したとか」 「いや―――」  安人は頬に笑みを浮かべ、疏水に視線を投げた。 「ただ、本当に卒業したんだなあと思ってさ」 「何、お前実は単位ヤバかったの」 「一緒にすんなよ」  即座に返すと、野口は笑う。安人は学部どころか大学全体で見ても成績はトップクラスだ。この九月からアメリカの大学院に入学することが決まっている。そう言う野口も所属の農学部で十指に入るだろう。卒業後は大学院に進学すると聞いていた。  安人は、手に持っていた卒業証書を再び広げる。 「俺さ、入学してそのまま同じとこ卒業するの、初めてなんだよな」
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