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123. 過去と今と (書き下ろし部分)
大浴場は半露天風呂となっているようだ。
手前には屋敷の屋根が伸びているが、奥半分は外に出ている。周りから見えないようにしっかりと壁で囲まれていた。
律儀にネルヴィスを待っているのも恥ずかしいので、僕は先に風呂場に入り、遠慮なく湯につかる。ほうと息が漏れた。思ったよりも体が冷えていたようで、次第にほぐれていった。
そこへ遅れて風呂場に来たネルヴィスが、木製の器から赤い花びらを湯へと降らせた。
「失礼します」
「わっ、いい香りですね」
乾燥させた薔薇の花弁は、湯に触れると、ふわりと芳香を放つ。
僕は少し驚いたが、すぐに薔薇の花弁に気をとられた。両手でそっと湯ごとすくいあげ、鼻先を近づけて、目を細める。
「我が家で育てた薔薇ですよ。いくつかはこうして乾燥させて、入浴で使うんです。肌にいいんですよ」
「侯爵夫人がお好きそうですね」
「ええ。父上は母上のために、農園ほどの広さをした薔薇園を所有しています」
つまり庭で育てる分では足りないから、別に薔薇園も運営しているのか。富豪の考えることはスケールが違うと、僕は感心した。
「母上は花が好きなんですよ。薔薇は特にお好きで、薔薇の精油や香水、薔薇茶、薔薇を使ったスウィーツなど、なんでも喜びますよ」
「そうなんですか」
「ディル様はいかがですか。お好きならば、ご用意しますよ」
「薔薇は見ている分には好きですが……。申し訳ないのですが、花茶や食用花は少し苦手で」
花の香りが口に広がる感じは、どうしても苦手だった。
味の好みなどは隠して、おいしいと嘘をついて微笑むくらいはできるが、ネルヴィスには下手な誤魔化しはしたくない。僕が好きならばと、プレゼントの箱を山のように用意しそうだからだ。そうなっては困る。
「ディルレクシア様とは、やはり好みが違うのですね。あの方は、美容に良いものはなんでもお好きでしたから」
自分大好きなディルレクシアなら、確かに好きそうだ。僕は納得した。
「薔薇茶は美容に良いのでしたっけ」
「薔薇水で顔を洗うのも、貴婦人の間では人気ですよ」
「ふうん。どこでも流行は似ているんですね」
僕は感想をつぶやく。前世でも、大事な日の朝には、薔薇が浮かんだ水が用意されていることがあった。
ふいに、ネルヴィスの指が僕の頬を撫でた。
「本当に、あなたの美しい肌に傷がつかなくてよかったです。ところで、体調はいかがですか? まだ寒いようなら、湯の温度を上げますが」
「ちょうどいい温度ですよ。寒気は消えました」
くすぐったさに微笑して、僕は安心させるように言った。おやと思う。
「ネルヴィスが眼鏡をかけていないのは、なんだか新鮮ですね」
紫紺の髪はしっとりと首にはりつき、なんの遮りもない灰色の目が、明るい光の中で静かに輝いている。
僕は顔に熱が集まるのを感じた。
眼鏡をかけていないネルヴィスといえば、閨での彼だ。連鎖的に思い出してしまって、急に照れを覚える。お互いに裸だから、余計に意識してしまう。
ネルヴィスはあからさまに焦りを見せた。
「顔が赤いですよ。のぼせたのでは? 湯から上がってください」
「大丈夫ですよ」
僕はそう返したが、ネルヴィスに促されてしかたがなく湯を出る。洗い場のほうへ連れていかれ、肌触りのいい木製の椅子に座るように言われた。
ネルヴィスはいったん脱衣所に戻り、レモン水入りのグラスを持ってくる。
「ほら、飲んでください」
「おおげさですよ。……おいしい」
僕は平気なのだが、飲んでみるとするりとレモン水が喉を滑り落ちていった。喉がかわいていたようだ。
「気分が悪くはありませんか」
「問題ありませんってば」
洗い場には鏡がかけられており、僕の後ろでしゃがんだネルヴィスが苦笑するのが見えた。
「しつこいと不愉快にさせてしまいましたか? ですが、どうかご理解ください。オメガはか弱いものですから、些細な不調から体調を崩されることが多いので」
ディルレクシアと中身が入れ替わった当初、僕は高熱で死にかけていたのだ。それを思い出すと、ネルヴィスの心配も当然に思える。
「……すみません」
「あなたが謝ることではありません。私の失態ですから。このまま髪を洗いますよ」
「えっ」
「なんです? 世話をしろと言ったのはあなたでしょうに」
「さすがにタルボを呼んでも構いませんよ?」
「ふむ」
ネルヴィスは思案げにつぶやいて、自身のあごを軽くなでる。
「あなたは誤解しているようだ。貴族に世話をさせるのは悪いことだと、あなたはお考えなのでしょうが。婚約者候補とはいえ、好きな人の世話をするのは、罰ではなく褒美ですよ」
「……そうですか?」
「ええ。しかしまあ、焦らすという意味では、罰でしょうけど」
「なんの話です?」
焦らすなんて真似をした覚えがない。僕がきょとんと瞬きをすると、ネルヴィスは残念なものを見る目をした。
「本当に、あなたも小悪魔ですよねえ。無自覚なほうが、性質が悪い」
「もしかして怒ってるんですか?」
僕が眉を下げたせいか、ネルヴィスは笑いながら否定する。
「違いますよ。ただ、あなたのその無垢さは、時に劣情をあおるというだけで」
「ええ?」
困惑する僕に、ネルヴィスは微笑を返す。
もしかしてからかわれたのだろうか。
「また体が冷えてはいけませんね。魔導具のシャワーをかけますよ」
「え? はい」
僕は頷いた。
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