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12. 猛獣が子猫に見えた日 <side: ネルヴィス・ロア・フェルナンド>
ネルヴィス・ロア・フェルナンドにとって、ディルレクシアをあらわす言葉は「クソビッチ」の一言に尽きる。
そもそも、ネルヴィスはオメガになど興味はなかった。
父親が宰相で、侯爵家だ。金も権力も持っており、ネルヴィスには実力もそなわっている。
欲しいものを自力で手に入れるから面白いんであって、オメガの後ろ盾の助けなんか必要ない。
では、どうしてネルヴィスはディルレクシアの婚約者候補になったかというと、ディルレクシアが選んだ婚約者候補が、よりによって第三王子アルフレッドとレイブン卿だったせいだ。
あの性悪男のことだ。
王家とレイブン家の確執を知っていて、わざと選んだのかもしれない。
(何が守られるべき、か弱いオメガだ。あの男は、見た目が美しいだけの爪と牙を隠した猛獣だ。神殿の後ろ盾がなくたって、上手いこと生きていくだろう)
一般的に、オメガのほとんどはか弱い。
子をなせる代償なのか知らないが、アルファやベータの男のように筋力や体力がつきづらく、病気にかかりやすい。この世界では神秘の存在であるため、生き神のようにあがめる狂信者や、子を望む男から守る必要がある。
男の数に比べ、女とオメガの数は少ない。家族が欲しくても、家族を養うだけの財産を持つことという条件を満たせずに、あぶれる者が出る。
オメガとはいえ、ディルレクシアは別だ。傲慢なくせに、相手の懐に入り込むのが上手いのだ。
民衆の前に出る時は、はかなげな花の風情をよそおうので、信者が多い。そのくせ、裏に戻った途端、クソくらえと舌打ちするような輩だ。裏表が激しすぎる。
彼は退屈と不満を抱え、婚約者候補で遊んで、憂さ晴らししていた。
(父上からの“お願い”でなければ、誰があんな奴と交際するか)
ネルヴィスは父親を慕っている。父親は時に冷酷な男だが、身内には甘い。屋敷を留守にしがちな反動か、一人息子であるネルヴィスを溺愛していた。
第三王子とレイブン卿がもめごとを起こすかもと心配した神殿と王家から、婚約者候補の和をたもつバランサーになってほしいと相談された時も、家長として命じるのではなく、「お願い」として話してくれた。代償は払うから、断ってもいい、と。
そんなことをしたら、父親がどんな処罰を受けるか分からない。
敬愛している父親のために、ネルヴィスは受け入れた。
そして、とっとと嫌われて堂々と自由になるという計画は、ディルレクシアの「自分に興味がないのが面白い」というクソみたいな理由で駄目になった。
(興味がないからと、寝屋の相手までさせられるとは……。セフレならともかく、あんな奴と結婚などごめんだ!)
ディルレクシアは性格に多くの難があるが、容姿は抜群に良い。発情期の際、熱を持て余した彼の相手をさせられたが、彼が最中に「へたくそ」とけなすのさえなければ、悪くない取引だった。
それでも、結婚はない。
ネルヴィスは将来、宰相となって、国のために働くつもりだ。そして、侯爵家の後を継ぐ。
侯爵夫人となる相手は、社交と家の采配をこなせる人物でなければならない。
あの勉強嫌いに、侯爵夫人がつとまると思えない。
最悪、仕事は側近に任せるとして、帰宅したらあの猛獣が待ち構えていると思うだけでうんざりする。
何かとケチをつけてくる人物は、どれだけ顔が良くて後ろ盾が立派だろうと、身内にすると迷惑でしかない。
(侯爵夫人としての役目をまっとうできなくても、せめてほっとする存在でなければ、私が鬱になるし、おそらく早死にする!)
どう考えても、地獄の未来図しかえがけないので、ネルヴィスは早いところディルレクシアに飽きられて、「もう来なくていいよ」と言われたかった。
そんなある日、次はこの日に来いと言うディルレクシアとの約束のため、〈楽園〉を訪れた。
ネルヴィスは王立学園を首席で卒業した十八歳以来、王宮で文官として働いている。今でも忙しいのに、貴重な休みをディルレクシアとの謁見に使っていた。
重い病を患っていたディルレクシアが治ったというので、見舞いも用意した。
どうせケチをつけられるだろうと、すでにうんざりした気持ちで薔薇棟に足を運ぶと、珍しくタルボが予定を忘れていたと慌てていた。
ディルレクシアは予定外の訪問を嫌うので、また機嫌をそこねて、あれこれとネルヴィスを下僕扱いして馬鹿にするだろう。いっそこちらからやり返してやると、顔には出さずに決意を固める。
とにかくネルヴィスはディルレクシアに嫌われたい。
「ディルレクシア様は、お庭を散歩されておいでです」
「珍しいこともあるものですね」
日焼けを嫌うディルレクシアは、曇り以外の日中に、外を歩くことはない。彼は陶器のような白い肌を自慢にしていた。
薔薇棟の建物を出て、広大な庭に出る。
オメガの居所は、王妃が住まう離宮レベルだ。
白と黄色の薔薇が咲き乱れる庭園に、青い上着と白いズボンを身に着けた黒髪の青年が立っている。
驚くことに、日傘も帽子も持っていない。
いつもならどうでもいいものを見るような温度の無い目を向けられるが、今日のディルレクシアは、こはくの目を不思議そうにきょとんとさせて、ネルヴィスを見た。わずかに首を傾げる。
(な、なんだ、その子猫みたいな仕草はっ)
ネルヴィスは自分の目を疑った。
ディルレクシアは、いつもは樹上の葉陰から訪問者をじろりと見やる猛獣のようだった。この様子は、まるで木の後ろからそっとのぞきこむ小動物だ。
(昨夜は遅くまで書類を読んでいたからな。きっと寝ぼけているんだろう)
気のせいということにした。きっと幻覚だと判断し、今日こそは一撃くらわせると、意気込みなおす。
「病気をされてから、しおらしいんですよ」
ネルヴィスが何か指摘する前に、タルボが言い訳っぽく口を開いた。
「そんなに大変だったのですか?」
「ええ、高熱が続き、肺炎になりかけて、あのままでしたらお隠れになっていたかもしれません」
「そうですか、お気の毒に」
残念なことだ。
ネルヴィスは心と裏腹なことを返す。
そうなっていたら、第三王子とレイブン卿にとっては絶望的な状況だっただろうが、ネルヴィスにとっては、ネルヴィスに原因がないところで婚約が駄目になったので、大助かりだった。
(いや、あんな奴でも、王国の民だ。さすがに死を願うのはやめておくか。とにかく、あんなにふぬけているなら、今がチャンスだ。絶対にやり返す!)
ネルヴィスは普段の鬱憤を晴らす気満々だ。
タルボはディルレクシアと何か話をしており、数分してようやく近づく許可が出た。
「ディルレクシア様、拝謁かないまして光栄にございます。長らく伏せっておいででしたが、ご機嫌いかがですか」
ネルヴィスがあいさつをすると、いつもならば適当に頷くだけのディルレクシアが、こちらを見てほほ笑んだ。
「いいですよ。ええ。今日は天気が良いので、散策していたのです」
感じの良い返事に、敬語を使うディルレクシア。
ネルヴィスは思わずディルレクシア本人か確認した。ディルレクシアにそっくりな別人かと思ったのだ。だが、どうも本人のようである。ネルヴィスはけげんに問う。
「……私に敬語を? ふむ。噂は本当だったらしい。病をしてから、性格が変わったと大騒ぎですよ」
「ははは」
ディルレクシアは目を泳がせる。
――なんだろう、この違和感は。
出鼻をくじかれたネルヴィスは、何かの策略だろうかと疑い、ディルレクシアを観察する。すると彼は右手を押さえていた。
何か隠しているのかと心配しているふりをして右手を引っ張ると、薔薇のトゲで怪我をしたらしく、白い指先に血がにじんでいた。ディルレクシアが大丈夫だと返したのを見て、ネルヴィスは今こそやり返すタイミングだと行動に出た。
ディルレクシアの指先を、パクッと口に含む。
金臭い味が、口の中に広がった。
ディルレクシアのことだから、不快そうに眉をひそめ、「下僕にしては、よくやった」とひねくれたことを言うに違いない。
そう思っていたのだが。
「~~~~!?」
驚くことに、ディルレクシアは目をまん丸にして、あ然としている。
「し」
「し?」
「失礼しますっ!」
そして、顔を真っ赤にして、その場から逃げ出した。
ネルヴィスはあっけにとられて、ディルレクシアの背中を眺める。
(失礼します、だと?)
去り際の言葉が、エコーをともなって頭の中に響く。
(あんな生娘みたいな反応をするとは……)
やり返すのは成功したのに、なぜか、十倍返しされたような気分になった。
(可愛い。…………ハッ!? 今、何を考えた? しっかりしろ、ネルヴィス。あれは猛獣だぞ。子猫なんてたまじゃない!)
なんとか気を取り戻すと、ネルヴィスはタルボに謝る。
「申し訳ありません。どうやら本当にお疲れのようですね。私は失礼しようかと思います」
「ええ、そうしてください」
タルボは澄まし顔で返したが、ネルヴィスが薔薇棟の一階に入る前に振り返ると、その場に座り込んで爆笑していた。
「今日はおかしな日だな」
あの冷静な男までも、様子が変だ。
狐につままれた気分で、ネルヴィスは薔薇棟から帰路についた。
※お隠れ=死ぬという意味。
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