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122. 責任をもって世話してください (※大幅書き換えあり)
池に落っこちた僕は、驚いた拍子に水を飲んでしまい、パニックになった。あいにくと、貴族の教養に泳ぎなんて入っていない。
とっさに葉をつかんだが、まったく頼りにならなかった。
どちらが水面なのかも分からず、闇雲に手足を振り回していると、誰かに左腕を掴まれた。
「ディル様、落ち着いて!」
「ぷはっ」
引っ張り上げられるまま、顔が水の外に出た。思いのほか近くにある灰色の目を目が合って驚く。いつも悠々としているネルヴィスが険しい顔をしていた。
「すみませんが、私にしがみつけますか」
ネルヴィスの必死な様子に気おされ、水を飲んで苦しかったことを少しの間だけ忘れた。僕はネルヴィスの首に腕を回してしがみつき、思い出したようにせきこむ。
「げほごほっ」
ネルヴィスは上着を無事な欄干の手すりに結んで、それを命綱代わりにして、僕を助けるために池に飛び込んだようだった。いくら仕立ての良い上着でも、成人男性二人分の体重を支えるには心もとないようで、メリメリと布地に負荷がかかる嫌な音がした。
「フェルナンド卿、こっちだ!」
欄干の向こうから、シオンとタルボが手を伸ばす。
「ディル様、浮遊の魔導具を使えますか」
「あっ」
そういえば、フェルナンドから浮遊の魔道具のキーホルダーを渡されていたのだった。僕はベルトに下げたままの魔導具を手探りで当てると、真ん中のボタンを押す。
「起動!」
僕の体がふわりと浮かび上がると、フェルナンドは僕を左腕の力で押し上げる。すかさずシオンが僕の右手を掴み、引っ張り上げた。
「ご無事ですか、ディル様」
平らな地面がこんなに素晴らしいとは、僕はこれまで知らなかった。
「げほっ、少し水を飲んだだけだよ」
僕が振り返ると、ネルヴィスがタルボの手を借りて、苦労して橋の上に這い上がったところだった。ぜいはあと肩で息をして、蒼白な顔でうずくまっている。
「どこか怪我でもされたのですか、フェルナンド卿」
タルボが心配そうに問うと、フェルナンドは首を横に振る。
「いえ……実は私は泳げなくて」
「「「え⁉」」」
僕達の声がそろった。
僕も水に落ちた衝撃より、ネルヴィスの暴露への驚きが強い。
「それなのに、僕のために飛び込んだのですか?」
「無我夢中で、気づいたらそうしていただけです。ディル様、お怪我はございませんか。ああ、こんなに濡れて! いったいどうして欄干が壊れたのか。事前に点検はしていたのに……」
ネルヴィスは僕の様子を確認すると、壊れた欄干のほうをにらんだ。静かな怒りが感じられる。僕はようやく周りを見回す余裕ができ、池のほうを確認した。欄干は根本から綺麗に折れていた。恐らく切れ込みが入れられていたのだろう。
「大丈夫ですよ、どこも痛くありません」
僕はそう答えたが、タルボがすぐに僕を診察した。安堵した様子で頷く。
「問題ありませんね」
「風邪を召されるといけません。こちらをどうぞ」
「あ、ありがとう。シオン」
診察が済むなり、シオンが上着を脱いで、僕の肩にかける。
ネルヴィスは僕の前に片膝をついて、頭を垂れる。
「ディル様、こちらの手落ちです。大変申し訳ございませんでした。どうすればあなたを驚かせた罪をつぐなえるでしょうか」
「ええと……」
まずいことになったぞ、と僕は慎重に考える。
自分の返答次第では、ネルヴィスを断頭台送りにしてしまうだろう。考えすぎだと思えないくらいには、この国でのオメガの立場は強いのだ。
「あなたは泳げないのに僕を助けてくれましたし……責任持って世話してください」
貴族に世話を頼むのは、きっと屈辱的なことだ。僕は嫌がらせのような罰を言い渡したと思ったが、ネルヴィスは眉を寄せる。
「それは罰ではなく、褒美では? 今は思いつかないのでしたら、後でお申し付けください。ひとまず屋敷に戻りましょう。体を温めないと」
それから判断に迷った様子で、ネルヴィスは僕に向けて手を差し出す。
「世話とおっしゃるなら、私がお連れして構いませんか」
「……? はい」
手を貸してくれるのだろうか。
僕は素直に右手を伸ばしたが、ネルヴィスは僕の手をつかむのではなく、背中と膝裏に触れた。そのまま抱えられる。
「えっ」
僕が目を丸くしているので、シオンが口を挟む。
「ディル様、今回の件、フェルナンド卿の失態です。不愉快でしたら、私が変わりましょう」
シオンは穏やかな笑みを浮かべながら、冷ややかな空気を漂わせている。タルボも頷いてみせた。
管理不行き届きは、主人の罪だ。彼らの怒りも分かるが、僕は先ほどのネルヴィスの様子を見てしまった後だ。何がなんだかわかっていなかった僕よりも、水に溺れる恐怖で青ざめていた。
緊急時にこそ、人柄が出る。
少なくとも、ネルヴィスはいざとなったら、自分のことよりも僕を優先するのだろうと感じられた。そこには確かに、僕への好意があった。
「……いえ、このままで」
僕がそう答えると、ネルヴィスは無言のまま、ほっと息を吐いた。
屋敷に戻ると、当然のように蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
すぐさまハーシェスが現れ、僕達を見て、さすがに息をのんだ。
「橋が壊れて、池に落ちた? なんという……」
「父上」
「ああ、分かっているよ、ネルヴィス。至急、原因追及の調査をさせる」
ハーシェスはすぐさま理解をすると、僕の体調のほうを優先させた。
「ネルヴィス、使徒様を風呂までご案内なさい。大浴場なら、いつも湯がはっている」
「はい」
ネルヴィスに抱えられたまま、僕は一階の奥にある部屋に通された。
「ディル様、このまま入浴の手伝いをしても?」
「え? はい、お願いします」
ネルヴィスの問いに、僕はよく考えずに頷いた。
タルボが声をかける。
「では、私は廊下に控えております。何かあればお呼びください」
「私は下がらせていただきます」
タルボは部屋を出て行き、シオンも会釈をする。
「あっ、シオン。上着をありがとうございます。後で洗濯して届けさせますので」
「お気遣いなく」
シオンは微笑を浮かべ、そのまま立ち去った。
その表情が硬いように見えたのが、僕には不思議だった。
とりあえず、脱衣所とはとても思えない豪華な部屋で服を脱ぐことにした。濡れた服が肌に張りついて気持ち悪い。
ネルヴィスが釦を外すのを手伝ってくれ、肌着になったところではたと気づく。
「えーと……」
――このままだと、ネルヴィスに裸をさらすことになるのでは?
僕の戸惑いは、ネルヴィスに正確に伝わった。ネルヴィスは呆れた顔をする。
「ですから、私が世話をしていいのかと質問しましたが」
「そうでした」
「気にしないでください。今更、風呂くらいなんですか。もっと濃厚な時間を過ごした仲でしょう?」
それはそうだが、発情期に理性が薄くなっている状態で関わるのでは、大違いではないだろうか。
「タルボ殿と代わりましょうか」
僕が考えているのを見て、ネルヴィスはそう訊いた。僕はネルヴィスを見る。ネルヴィスはため息をついた。
「あのですね、私はあなたのおっしゃる通り、世話をしているだけです。嫌がることをするつもりはありません。それならそうおっしゃってください。私はあなたのことが好きですから、困らせたくはないんですよ」
「……すみません」
「どうして謝るんですか。謝罪すべきは私のほうです。美しい池をご覧にいれたかっただけなのに、あなたをこんな濡れネズミみたいにさせてしまった。あの池を埋めるべきでしょうか」
極端な結論だが、止めなければ実行するのだろうと思った。僕は否定する。
「あのままでいいですよ。お祖母様の思い出も引き継いだ、美しい池ではありませんか。――くしゅんっ」
僕がくしゃみをすると、ネルヴィスは扉を振り返る。
「タルボ殿を呼びましょう」
「いえ、いいです。僕だけ裸になるのは恥ずかしいので、ネルも脱いでください」
ネルヴィスは頭痛をこらえるように、数秒、眉を寄せた。深いため息を吐く。
「……なるほど。そういう罰なんですね。我慢します」
「……?」
ネルヴィスが何を言っているのか分からないまま、僕は服を脱いで、大浴場に向かった。
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