16. 再出発に向けて

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16. 再出発に向けて

 大きく開けた窓から、少ししめった夜風がそよと入り込んでくる。  月があかあかと薔薇園を照らしている。  僕は思ったよりも落ち着いていた。  ディルレクシアには思うところがあるが、僕は前の世界で死んだ身だ。心残りはない。  いや、実際には一つだけある。最後まで傍にいてくれた護衛騎士が、僕が自殺したことで悩んでいないかという気がかりだ。  だが、僕が心配したところで、元の世界に戻れるわけではないので、彼の幸せを願うばかりだ。  ディルレクシアが無事であること、僕がこの世界に来た理由が分かったので、体を借りていることへの負い目も消えた。  この世界に来て戸惑うことが多いが、〈楽園〉の人々は優しいし、前の世界みたいに見下されることもない。死を望んだ僕に、ディルレクシアの続きを生きろなんて残酷だけれど、ノール神のいう「代償」としては、最高レベルだ。ありがたく享受させてもらおう。 「どうせなら、好きな人と結婚して、子どもを作って、ほのぼのほっこり家庭を築きたいな」  前の世界では、平凡な家庭を望むことすら難しかった。  王族との結婚は、国との結婚でもあった。個人の幸せなど、後回しにされる。策謀に満ちる宮廷を生き抜き、王宮の情報を実家に流すためのスパイもしなくてはいけない。伴侶の寵愛を失えば、あんなふうにあっさり転落する危ういところだ。  家族からの監視や期待、宮廷の人々の目を気にして、僕は常におびえていた。王太子の愛にすがってしまったのは、愛を得ることが安穏へつながる唯一の道でもあったからだ。 (僕は本当に、あの人のことが好きだったのかな?)  関係が破綻した今では、もう分からない。  ただ、二度と会いたくないという気持ちだけが強い。 「ディル様、夜風に当たると風邪をおめしになりますよ。ホットミルクをご用意しました、どうぞ」  タルボが声をかけ、テーブルにはちみつ入りのホットミルクを置く。  僕は甘さひかえめのほうが好きだが、ホットミルクだけは別だった。 「ありがとう」  僕が窓を閉めようとすると、タルボが代わりに窓とカーテンを閉める。 「悩みごとでしたら、私が聞きましょう」 「いえ、これからどうしようか考えていたんです」 「勉強をなさりたいとおっしゃっていましたよね。教師の選別中でして、もうしばらくお待ちくださいね」  オメガの専任教師だけあって、不用意な人物はつけられない。厳しい審査があるのだと、タルボは説明する。 「それから、今日の件で、婚約者候補から王子が外されましたので。レイブン卿とネルヴィス様が候補に残りました。他の者が良ければ、婚約者候補申し入れはありますから、書類をお持ちしますよ?」 「婚約者候補がいるのに、まだ申し入れがあるのですか?」 「ええ。結婚できる年頃で、未婚のオメガは少ないですから。オメガは一国に、多くても十人ほどしかいません。この〈楽園〉ですと、年頃なのはディル様とアカシア様だけで、一人は輿入れが決まっていますし、あと二人は七歳と十歳です」  少なさに、僕は驚いた。  だからこそ、〈楽園〉が過保護に育てるだけの土壌があるのか。 「既婚のオメガは?」 「二人ですね。オメガは体が弱いため、早死にされる方が多いのですよ。ですが、七十歳まで生きた方もいらっしゃいますから、落ち込まないでくださいませ」 「そりゃあ、我がまま放題で生きていたら、病気にもなりますよ」  ディルレクシアの生活は、結構な放蕩ぶりだ。日焼けが嫌いだからって外にも出ないのだから、運動不足である。暴飲暴食はしないが、美にこだわるから、偏食家でもある。  前の世界で、王太子妃として、体調管理も徹底していた僕には信じられない。 「そうだ。僕はまずは健康第一を目指します。ディルレクシアに遠慮しなくていいと分かったので、外にも出ますし、筋力も付けますよ。木剣を用意してくれませんか? 明日から剣術の稽古を再開しますので」 「ディル様は剣術をたしなんでおいでなんですか? おっとりされているので、不思議ですね」  タルボが目を丸くする。 「兵士に混じって戦えるほどではありませんよ。体力をつける程度です。でないと、オメガは体が弱いから、出産で体力がもたないので」 「つまり、王太子妃教育の一貫ですか?」 「というより、貴族教育ですかね? 領の利益のための政略結婚ならまだいいんですが、他家に嫁がせて、情報収集させる目的もあるので」 「なるほど、この世界とは結婚の価値観が全然違うのですね」  タルボは両腕を組み、難しげに眉をひそめる。  僕はホットミルクを飲みながら、目でどういうことかと問う。 「この世界は、人口が減る傾向にあります。女はもちろん、オメガの数は少ない。結婚とは名誉なのですよ」 「名誉?」 「ええ。まず、家族を養えるだけの財産がなくては、神殿がまず許可をしません」 「結婚には、神殿の許可がいるんですか?」  初耳だったので、僕は驚いた。 「ええ。財産というハードルを越えた後は、人物考査があります。妻をないがしろにするような者に、貴重な結婚権を与えるわけにはまいりません。そんな難関を突破しなくてはならないので、自然と再婚する者は少ないですが、離婚する権利は妻側にあります」 「妻が離婚すると言えば、そうなるんですか?」 「理由が必要ですよ? 夫の稼ぎが減って生活が苦しいとか、夫が暴力をふるうとか……。結婚後、月に一度、妻は神殿に顔を出します。そこで助けを求められれば、神殿は妻を保護して、夫を調査します」 「月に一度、妻が現れなかったら?」 「問題があるのかと、神官が家を訪ねて様子見しますよ。それほど、女性とオメガは大切にされているのです」  まさか結婚すれば終わりではなく、一生、神殿が介入し続けるとは。 (神殿の権力が強いわけだ)  医療を独占し、冠婚葬祭だけでなく、家庭にも目を配っているのか。  それほど人口が減っているのだろう。 「そういえば、神官には女性がいませんね」 「少ないですが、おりますよ。神様のために働くことを希望する女性もいますから。ですが、庶民でも、外で働く者はほとんどいませんね。女性を労働力とみなして酷使すると、白い目で見られます」 「それじゃあ、女性が犯罪したら?」  次々にわいてくる疑問にも、タルボは丁寧に答える。 「罪の度合いによりますが、殺人などの重罪でも、女性だけの施設で過ごすことになります。そこで反省したとみなされれば、身分が低い者と再婚することで、施設を出られますが……。殺人罪では、よっぽど真面目でなければ出られませんよ」 「オメガの犯罪者は?」 「犯罪者が出たことはありませんが……。まあ、あっても、〈楽園〉での生涯の幽閉でしょうね。生活のランクもいくらか落として、祭りには不参加でしょう」 「出たことがない?」  タルボの返事に、僕は思わず大きな声を出す。 「この世界で女性が犯罪をするとしたら、嫉妬や家族や夫の暴力が原因であることが大半です。夫や父親に甲斐性がないから、そんなことになるのです。神官がオメガを大事に育てる〈楽園〉ではありえませんね」  神官がオメガにひどい真似をしたら、神官はすぐに処罰されて、神殿から追放される。そもそも〈楽園〉勤めの神官は、厳しい試験をクリアしなければいけない。勉学や武術はもちろん、人格も調査される。 「〈楽園〉以外にも、神殿があるんですね?」 「ええ。小規模ですが、各地に神殿があるんですよ。〈楽園〉勤めはエリートですから、憧れの職業ですね」  そんな人格者ぞろいの神官すら呆れさせるディルレクシアは、改めてやばいと思う。僕はディルレクシアに対して戦慄した。 「男は蔑視されているわけではないけれど、女やオメガがとにかく優位なんですね?」 「ええ。人物考査は完璧ではありませんから、まれに問題もありますが……。ほとんどの場合、男は女とオメガを過保護に守って、溺愛すると思っていていただければ結構です。そして、夫が問題なら、神官に相談すれば解決します。覚えていてください」  最後に、僕は質問する。 「僕が結婚したら、タルボはどうなるんですか?」 「〈楽園〉勤務ですが、他のオメガの担当にはなりませんよ。オメガの場合、月に一度の神殿参拝は難しいことがあるので、私が月に一度面会します。ですから安心して、なんでもご相談くださいね」  一の傍仕えというのは、オメガの結婚後もサポートするのか。 「こんなに手厚いのですか」  神殿が過保護すぎて、僕は呆れた。 「ええ。ちなみに、女性やオメガをさらって、無理矢理関係をもったりしますと、その男はナニをちょん切った上で死罪ですよ」 「…………」  ついでみたいに付け足された言葉に、僕は黙り込む。怖い。
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