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19. 興味がないんですよね?
薔薇棟は大きな屋敷なので、十近い部屋がある。
僕は一階にある南向きの広い部屋に、ネルヴィスを案内した。
普通の屋敷なら、こういう位置の部屋は明るくて過ごしやすいので、家族が集まる居間として使われる。だが、日焼けを嫌うディルレクシアは、一日のほとんどを薄暗い自室で過ごしていたようだ。
調度品は白と水色で統一された立派なものだが、使われていないのでガランとして感じられる。
僕は窓辺の明るい席を選ぶと、ネルヴィスに向かいに座るように示す。
図書室を出る前に言づけたのか、あまり面識のない神官が現れ、お茶と菓子がのったカートを置いて出て行った。タルボが手早く給仕する。
「あの件のことで、様子を見に来ていただいたとか。わざわざありがとうございます。あなたが王家から非難されてらっしゃるのですか?」
「王家に言われたから、嫌々来たわけではありません。ディル様が病み上がりでしたから、どんな調子か確認しにまいっただけです」
ネルヴィスは紅茶を口に運び、眉をひそめる。
「その敬語、やめていただけませんか? 今更すぎて、気持ち悪いので」
ずばっと遠慮なく指摘するネルヴィス。僕は困った。僕にとっては、敬語が普通なのだ。しかし、この青年にはこんな言い訳は通用しない気がする。
「あなたがやめたら、いいですよ」
「オメガ相手に、そんな真似ができると思いますか?」
「ではお互い様ということで」
なんとか回避して、僕はにっこり笑う。ネルヴィスはこちらをじっとうかがった。
「失礼ですが、あなたはディルレクシア様本人ですか?」
「は?」
直球すぎる質問に、僕は固まる。どっと冷や汗が噴き出した。
「あんまりにも性格と雰囲気が変わりすぎなので。実はディルレクシア様は病気で亡くなられ、そっくりな影武者と入れ替わったのではないか……なんて」
「本人ですよ」
体は。
僕は心の中で付け加える。
「ちょっと確認させていただいても?」
「え? ええ……」
何か質問をするのかと、僕は身構える。ディルレクシアが知っているだろうことを、僕は知らない。
ネルヴィスは椅子を立つと、僕のほうにやって来た。僕の顔をまじまじと眺めたかと思うと、手を取って指や爪の形を見る。
「失礼」
「へ?」
突然、後ろ襟をぐいっと引っ張られて、服がずり下げられた。左肩と背に空気を感じてひやりとする。最後にネルヴィスは僕のうなじに、鼻を近づける。
僕は思わずうなじを手でかばって、大きく身をずらす。
「何をするんですか!」
「失礼と断ったじゃないですか」
いや、そうだけど! 本当に失礼だな、この人!
こんな真似をされると思わず、驚きすぎて怒りに変わる。
「確認したんですよ。手の形は同じようですし、ほくろも同じ位置にありますね。フェロモンのにおいもそっくり同じなら、同一人物で間違いなさそうだ。まあ、影武者にするより、新しいオメガを擁立するほうが、〈楽園〉にはお得ですかね」
ネルヴィスは淡々と言った。
僕は怒りが言葉にならず、パクパクと口を開閉する。
(手の形に、ほくろとフェロモン?)
〈楽園〉にいるオメガは、うなじを守る防護布をしていない。番契約にかかわるため、うなじに無遠慮に近づくのは、最悪の不作法だ。それで怒ったのだが、ネルヴィスにはきちんと思惑があった。
(肉体関係があるから、体の特徴を知ってるということですか! 怖い人だな!)
理由が分かると、今度は恥ずかしさでカーッと赤くなる。
僕の知らない僕の体について、ネルヴィスはそれこそディルレクシアさえ知らないところまで知っているわけだ。どうしてかなんて考えると、どうしても血が昇る。
「そんなに怒らなくても。いいですよ、私に同じことをしてください」
「な、なんで……?」
「あなただけ勝手をされたから、怒っているんでしょう? ほら、どうぞ」
「ええ……?」
僕は戸惑いながら、とりあえずネルヴィスが差し出す右手を取る。男らしいのに、長くて綺麗な指だ。ペンダコを見つけて、指先でなでる。
「書き物で忙しいんですね。文官として、よく働いていらっしゃる手をしています」
「そうなんですよ。実は貴重な休みを、ここで使っていましてね」
謙遜もせず、ネルヴィスはしれっと言った。それから隣の椅子に座って、襟元をくつろげる。
「はい、これでおあいこですね」
「ええ、はい、まあ……」
あいにくとアルファのフェロモンはよく分からないが、甘い花の香りがしている。それから彼の首筋を眺めて、僕はハッと我に返った。
「いや! なんで僕がこんな真似をしなきゃいけないんですか」
「はは、気づくのが遅いですよ。馬鹿ですねえ」
こちらをちらと見るネルヴィスは、完全に僕をからかっていた。
ふと気づくと、タルボが横を向いて必死に笑いをこらえている。僕はばつが悪い思いで、自分の椅子に座りなおす。ネルヴィスは元の席に戻って、服を整えた。
話題を変えようと、香水について問う。
「なんの花の香りですか?」
「蓮ですよ」
「ハス?」
「東国の花で、池に浮いているんです。白から紅色に変わる綺麗な花ですよ。そちらの香水を輸入しましてね。気に入ったなら、お一ついかがですか? プレゼントしますので、フェルナンド領について宣伝しておいてくださいね」
「いりませんっ」
タルボが狸なら、ネルヴィスは狐だろうか。
ディルレクシアを嫌っているからか、言動にも遠慮がない。こんなふうに気安く扱われたことがない僕は、どうしても押され気味だ。
(ハスかあ。今度、調べてみよう)
ネルヴィスの押し売りはともかく、知らないことを知るのは興味深い。
頭にメモをしておいて、僕は気を取り直す。
「第三王子が婚約者候補から外れたので、バランサーのあなたは、王家から叱責されたのかと思いました」
「私の役目は、神殿から様子を聞いて、それぞれと話して落ち着くようになだめることです。正直、あの馬鹿な王子様の自滅行為まで、面倒を見きれませんよ」
「王子をそんなふうに言っていいのですか?」
「オメガの側近を、〈楽園〉の中央棟で殴ったんですよ? 馬鹿じゃないですか。ただの事実です。誰も弁護できませんよ」
ネルヴィスがきっぱり言うと、タルボがこくこくと頷いた。
「まあ、あなたがお元気そうで良かった」
僕はネルヴィスの思惑がつかめず、探りを入れる。
「ネルヴィスはオメガの婚約者候補に興味がないんですよね? 第三王子が候補から外れたから、あなたのバランサーという立場も必要ないはず。辞退するおつもりですか?」
「それがそういうわけにもいかなくなりまして」
ネルヴィスはため息をついた。
「今、残っているのは私とレイブン卿です。レイブン卿にこのままあなたをかすめとられるのは、王家にとっては腹立たしいそうで。阻止すべくがんばれ、と」
「僕に教えていいんですか?」
「ええ。私が何を言ったところで、オメガの気分次第ですから。それとも、もうレイブン卿に決められました?」
ネルヴィスは、僕が持ってきたレイブン領の本に視線を向ける。
「あ……、いえ、これは」
僕はなんとなく気恥ずかしくなって、本を両手で持ち、はにかんだ笑みを浮かべる。
「シオンのことを、もっと知りたくて」
この歳で、友人になりたいなんて、ちょっと恥ずかしい。前の世界の護衛騎士のことが頭にあり、この世界での彼が困っているなら、僕にできることで手助けできればと思ったのだ。そのためにも、もっと詳しく知る必要があった。
「そうですか」
なぜだかネルヴィスの声が冷たく響いた気がして、僕はネルヴィスのほうを見る。
「どうして不機嫌なんですか?」
「不機嫌じゃないですけど」
「でも、どう見ても……」
面白くないという表情に見える。とは、口に出せなかった。ネルヴィスが急に、いかにも裏がありそうな顔で、にやりと口端を上げたのだ。
「私はオメガの婚約者候補に興味はありませんでしたが、あなた自身に興味が湧きました」
「…………は?」
僕はぽかんとして、瞬きを不要に繰り返す。
「以前のあなたには、正直、まったく興味がありませんでしたけど。なぜか知らないが、何かが変わった。今のあなたの正体がどうであれ、本物には違いないようですし、今のあなたは嫌いではない」
「え?」
「あなたは私のこと、お嫌いですか?」
「いえ……」
僕は反射的に首を振った。
嫌いでもないし、好きでもない。
初めて会うタイプなので、すっかり翻弄されてはいるが……。
「では、婚約者候補で続行してください。そうそう、できれば、先ほどの十人から婚約者候補を選ぶのはやめてほしいものですね。あんな格下と同列視されるのは、とても不愉快なので」
そんなふうに言われると、いくら僕でも反発心が芽生える。
「どうしてあなたの言う通りにしなくてはいけないんですか」
思わず言い返すと、ネルヴィスはふっと笑った。
「まあ、いいですけどね。どうもあなたは男を見る目がないようなので、心配なんですよ。この間まで、第三王子を気に入っていたくせに、このざまですし。好みだと選んだのは、男娼狂い。やめておいたほうが身のためかと」
悔しいことに、何も言い返せない。
前の世界で、家の為とはいえ、体を許して愛した男もクズだった。
「シオンはいいんですか?」
苦し紛れに問うと、意外にもネルヴィスは頷いた。
「ええ。あの男が苦境にあるのは、あの男に原因があるわけではありませんし。財力以外は、合格ですよ。私ほど完璧ではありませんけどね」
さりげなく自信を見せつけ、ネルヴィスは椅子を立つ。
「さて、そろそろ帰らなくては。ディル様、ごあいさつさせていただいても?」
「え? ええ」
物言いは慇懃無礼だが、ネルヴィスは礼儀正しい。
ネルヴィスが右手を差し出すので、貴婦人への礼だろうと、僕も右手を差し出す。手の甲にキスをするのだと思った。
だが、ネルヴィスは僕の手を引く。
予想外のことに前に引っ張られたところで、僕の唇にやわらかいものが当たった。目の前には綺麗な顔がドアップにある。
「~~~~!?」
僕が赤くなって、反射的に叩こうとするのを華麗に避け、ネルヴィスはお辞儀をする。
「それでは、またご機嫌伺いにまいりますね」
ネルヴィスが去るのを、僕は呆然と見送る。
「……タルボ?」
「なんですか、ディル様」
「あの人、ディルレクシアに興味がないんでしたよね?」
僕の問いに、タルボは肩をすくめる。
「そのはずだったんですけどね。何か、スイッチが入ったみたいですよ。ディル様のことはお気に召したのでは?」
「なんで!?」
理解できない急展開に、僕の頭は沸騰しそうだった。
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