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21. なぜか面白くないので 後編 <side: ネルヴィス・ロア・フェルナンド>
薔薇棟へ向けて歩くディルを、ネルヴィスは後ろから観察する。
ピンと伸びた背筋。腹の前あたりで軽く手を組み、ゆったり歩いているように見えて、速度は速い。しずしずという表現がよく似合う、しとやかな雰囲気がある。
まるで王宮の貴婦人のような歩き方だ。
ディルは音楽と舞を好むから、歩く時も軽やかだが、おしとやかさとは無縁だったはずだ。
(反省して少し大人しくなったとして、歩き方まで変わるだろうか)
気苦労のたえない王宮でほとんどを過ごすネルヴィスは、他者をよく観察している。
人間は人形ではないから、得意と不得意があり、得意分野を任せるほうが効率的だ。人を使う立場だったネルヴィスは、どこにどの人材を配置すればスムーズにいくのか、よくよく観察するようにと父に教えられて育った。
他人観察はネルヴィスの実用的な趣味の一つだ。
ディルは一階のある部屋の前で立ち止まり、こちらをちらと見た。伏せがちな目での一瞥――流し目は、ちょうど光が当たってこはくの目がきらめいたことで、宝石のように輝く。
その一瞬で、ネルヴィスの心臓がはねた。
(もし目の前の男が替え玉だとしても、ただ者ではない)
今のディルには、においたつ花のような気品がある。こんな雰囲気は、一朝一夕で身につくものではない。それこそ、幼い頃から積み重ねた教養でもない限り。
ディルが案内したのは、ネルヴィスが初めて入る部屋だった。
明るい陽射しがさんさんと降り注ぐ、広々とした空間は、屋敷でなら居間と表現する場所だ。白い壁紙に、水色のカーテンや長椅子が洗練された空気を作り出している。だが、なぜか人の気配が感じられない。
(いつもは日焼けを嫌って、薄暗い自室にしかいない時間だな)
病気をしてから、ディルは昼間なのに出歩いている。
彼は直接日が当たらない明るい窓辺のテーブルに行き、ネルヴィスに向かいを示す。座るようにうながされ、ネルヴィスは椅子に落ち着いた。
すぐに神官が現れ、茶と菓子を置いて去る。
タルボはディルの傍に立って、静かに控えた。
「あの件のことで、様子を見に来ていただいたとか。わざわざありがとうございます。あなたが王家から非難されてらっしゃるのですか?」
「王家に言われたから、嫌々来たわけではありません。ディル様が病み上がりでしたから、どんな調子か確認しにまいっただけです」
ネルヴィスは紅茶を口に運び、眉をひそめる。
「その敬語、やめていただけませんか? 今更すぎて、気持ち悪いので」
ずばり指摘すると、ディルはわずかに眉尻を下げる。困った様子で数秒考え、こう返す。
「あなたがやめたら、いいですよ」
「オメガ相手に、そんな真似ができると思いますか?」
「ではお互い様ということで」
ディルはにっこり微笑んだ。
しとやかなのに、意見は通す貴婦人を思い出す笑みだ。わざとこちらができない条件を付けて、そちらができないから自分もしないのだという回りくどさがそっくりである。
(どこかの貴族の出か?)
ネルヴィスは疑いを深める。
ディル相手に、まどろっこしいのは面倒だ。直球で「ディルレクシア本人か?」と問うと、彼は虚をつかれた顔をした。
だが、慌てることもなく、本人だと言う。
「ちょっと確認させていただいても?」
「え? ええ……」
偽物なら断るだろうが、ディルは身構えつつも許可する。
ネルヴィスはディルの手を取って、指や爪の形を見る。身なりを似せられても、指の形は変えられない。チェックしてみるが、特に変化はないようだ。
それから、寝屋の相手をした時に見つけたほくろ。本人には見えない、首の後ろや背中の辺りを見るために、後ろ襟を引っ張る。最後に、フェロモンだ。これは絶対に真似ようがない。
かすかに甘い香りがした。
発情期の時よりずっと弱いが、ディルのフェロモンで間違いない。
ディルはうなじをパッと手で覆って隠すと、椅子に座ったまま身をずらす。
「何をするんですか!」
さすがに怒ったようだ。
「失礼と断ったじゃないですか」
ネルヴィスはしれっと返す。オメガにとって、防護布をしていないうなじに近づかれるのは致命的だ。望まずに番契約をされたらことなので、この反応が普通だ。
「確認したんですよ。手の形は同じようですし、ほくろも同じ位置にありますね。フェロモンのにおいもそっくり同じなら、同一人物で間違いなさそうだ。まあ、影武者にするより、新しいオメガを擁立するほうが、〈楽園〉にはお得ですかね」
ディルは怒りが言葉にならないようで、口をぱくぱくさせ、次第に顔が赤くなった。
(身体的特徴は、前のディルと同じだな。タルボも無反応だから、偽物という線は消えたか)
ディルが赤くなって黙っているので、ネルヴィスは適当になだめることにした。
「そんなに怒らなくても。いいですよ、私に同じことをしてください」
「な、なんで……?」
「あなただけ勝手をされたから、怒っているんでしょう? ほら、どうぞ」
「ええ……?」
ディルは戸惑いながら、ネルヴィスが差し出す右手を取る。ひやりと冷たいなめらかな指が、ネルヴィスの手に触れる。ペンダコをなでた。
「書き物で忙しいんですね。文官として、よく働いていらっしゃる手をしています」
「そうなんですよ。実は貴重な休みを、ここで使っていましてね」
ネルヴィスはしれっと答えたが、ひそかに動揺した。
侯爵家に生まれたネルヴィスは、幼い頃から勉学に励むのは当然だった。だから文官として成果を出すのは決まり事であって、よく働いていると周りが褒めてくれることなどない。
胸がざわついたのは無視して、ディルの隣の椅子に座って、襟元をくつろげる。
「はい、これでおあいこですね」
「ええ、はい、まあ……」
ディルは流されるままにネルヴィスの首筋に顔を近づけ、そこでハッと我に返った。
「いや! なんで僕がこんな真似をしなきゃいけないんですか」
「はは、気づくのが遅いですよ。馬鹿ですねえ」
からかっているのに、やっと気づいたのか。
やっぱり病気前と違う。あんなにひねくれていた男が、病気をした程度で、こんなに素直な性格になるわけがない。
ディルはばつが悪そうに座り直し、タルボが横を向いて必死に笑いをこらえているのに気づいて、ムッと眉を寄せる。
ネルヴィスは元の席に戻って、服を整えた。
それから蓮の香水や第三王子の馬鹿さ加減について話すと、ディルはネルヴィスが婚約者候補を辞退するのかと訊いた。
そういうわけにはいかなくなったと答えたネルヴィスは、確認をこめて問う。
「それとも、もうレイブン卿に決められました?」
ディルが図書室で読んでいたのは、レイブン伯爵領や北部の森についての文献だ。
今、テーブルに置いている本が、まさしく『レイブン伯爵領について』という題である。
「あ……、いえ、これは」
ネルヴィスが本を示したので、ディルはどこか恥ずかしそうに本を持ち、はにかんだ笑みを浮かべる。
「シオンのことを、もっと知りたくて」
まるで恋をしているかのような、淡い微笑み。なぜかネルヴィスの心にもやっとしたものが浮かぶ。
「そうですか」
なぜだろうか。
ネルヴィスはディルレクシアとは結婚したくないし、いっそレイブン卿を応援するつもりでいたのに。
シオンと名を呼んで恥ずかしそうにする彼を見たら、ものすごく面白くない気持ちになった。
「どうして不機嫌なんですか?」
顔に出ていたようで、ディルがけげんそうに問う。ネルヴィスの返事は、子どもじみたものになった。
「不機嫌じゃないですけど」
「でも、どう見ても……」
それ以上続きを言われる前に、ネルヴィスはにやりと笑みを浮かべる。
「私はオメガの婚約者候補に興味はありませんでしたが、あなた自身に興味が湧きました」
明らかに、ディルレクシアは変わった。
体の特徴は同じでも、ネルヴィスは別人だと感じている。今後、彼がどんなふうになるのか、興味がある。
「…………は?」
ディルはぽかんとして、瞬きを不要に繰り返す。
「以前のあなたには、正直、まったく興味がありませんでした。なぜか知らないが、何かが変わった。今のあなたの正体がどうであれ、本物には違いないようですし、今のあなたは嫌いではない」
むしろ好感すらある。
このまま婚約者候補として残って、この男の変化の正体を確かめたい。
別れ際、あいさつと称して、口にキスをした。
しっとりとやわらかな唇は以前と同じだったが、目を丸くして赤くなるという態度は、まったく違う。
ディルが手を振り上げたので、ネルヴィスはその平手をかわす。
耳まで赤くなって、涙目でにらみつけてくる様子に、また胸が高鳴った。
「それでは、またご機嫌伺いにまいりますね」
丁寧にお辞儀をして、部屋を出る。
ちょっといじめて泣かせてみたら、どんな顔をするのだろうか。
神官が聞いたら激怒しそうなことを考えて、ネルヴィスはひそかに含み笑いをするのだった。
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