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22. 時間と手間を、全てあなたに
なんて心臓に悪い人だろうか。
ふとした拍子にネルヴィスの顔を思い出し、僕はもやもやしていた。
あの後、せっかくベイジルが夕食を一緒にとってくれたのに、ぼんやりしてしまって申し訳なくなった。
ネルヴィスと会ってから二日が経ち、僕はタルボが用意してくれた木剣で、庭で素振りをしている。
この白木の木剣は、頑丈なのに、繊細な彫刻が刻まれていた。ただの稽古用なのに、その辺に飾られていても遜色がない雰囲気だ。
タルボが言うには、オメガが使うと聞いた職人が、わざわざ追加してくれたそうだ。職人にとっては、神の使徒オメガに献上する物だから、神様に捧げるのと同じ意味を持つみたいで、こういったことをするのが信仰心らしい。
壊した時に気まずくなるので、そういうのはやめてほしいと僕は心から思った。
白いシャツに、灰色のズボン。ラフな服装で、影がかかっている場所で木剣をゆっくりと振るう。ある程度の体力がつくまで、無理な動きは避けたほうが良さそうだ。
(ディルレクシアは筋力がないなあ。踊りが好きだから、ある程度の体力はあるみたいだけど、病気で寝込んで一気に体力が落ちたみたいだ)
意外なことに、ディルレクシアの体は貧弱で細いというわけではない。痩せているものの、すらりとしてしなやかだ。
「ディル様、タンバリンを持ってきたので、一度、ダンスを試してみますか?」
「え?」
少し席を外していたタルボが、タンバリンを手にしてにこにこ笑っている。
「ディルレクシア様がよく練習で踏んでいたステップが、こんな感じで」
スローテンポに足踏みするタルボ。
「やってみます」
簡単そうに見えたが、僕の足はすぐにもつれてしまい、よたよたした動きになった。
「こ、これはさすがにまずい!」
王宮の舞踏会ではダンスが必須で、ダンスが苦手な僕は、毎日、短時間だけでも必死に練習していた。練習をさぼると、一気に下手になるせいだ。
この数日ですっかり駄目になっている。
焦った僕は、タルボにリズム取りを頼んで、「ディルレクシアが練習している簡単ステップ」を真似る。
「ご謙遜かと思えば、ディル様、本当に下手ですね」
「うぐぅっ。傍仕えがひどい……」
「可愛いので良いと思います!」
「とりあえず可愛いと言っておけばいいと思ってるでしょう?」
「ふふふ」
タルボは笑って誤魔化したが、僕には肯定に聞こえた。
タルボときたら、幼い子どもを見る祖父みたいな眼差しをして、ほのぼのしている。五歳児なら可愛いだろうが、残念ながら、この体は十七歳だ。可愛いなんて表現は似合わない。
むきになってステップを踏んでいたが、足がもつれて体が傾いた。
「わわっ」
そのまま転ぶと思ったが、誰かが抱き留めた。
「おっと、大丈夫ですか」
てっきりタルボかと思ったが、声は違う。そろりと顔を上げると、白いシャツと淡い水色のジレ、黒いトラウザーズ姿のシオンが立っていた。弁償と称して、僕が選んだ服だ。
「シオン! こんにちは」
淡い水色のジレには、銀糸で複雑な紋様が縫い取られている。シャツやトラウザーズはシンプルなものだが、体格にぴったり合っているおかげで、男ぶりが上がっていた。
(わあ、気のせいか空気まで輝いてる!)
青空の下で銀髪が輝く。彼が青い目をわずかに笑みの形にすると、近づきがたい印象が一気にやわらかくなる。あまりの美麗さに、僕は見とれた。
呆けている僕がきちんと立ったのを確認してから、シオンはすっと身を引いて、丁寧にお辞儀をする。
「ええ、こんにちは。お呼びいただき、光栄です。ディルレクシア様。あ、いえ、ディル様でしたね。改名の発表を聞きましたよ。おめでとうございます」
おめでたいことなのか分からないが、僕は礼を言う。
「ありがとうございます」
稽古を再開するので、せっかくだからシオンに稽古を見てもらおうかと思い、シオンを呼んでいたのだ。
シオンが到着したのなら教えてくれればいいのにと、無様すぎるステップを見られたことを恥ずかしく思ってタルボを見ると、彼はにやりとして親指を立てるサムズアップをした。
よくやったでしょ? と言わんばかりの顔に、僕は戸惑う。
もしかして、急にステップの練習を言い出したのは、僕が転ぶのを想定して、シオンに助けさせるためとか? いや、転んだのは偶然だから、さすがにそこまでは……と言えないのが、狸なタルボの怖いところだ。
「剣の稽古と聞いておりましたが、先ほどのはいったい……?」
シオンはひかえめに問う。
僕は顔を赤らめた。
「ステップの練習なんですけど……下手になっていまして」
「ダンスの? 病み上がりで調子が出ないのでは? あまり無理をしませんように」
「う……。はい……」
ダンスが下手なのは病み上がりとは関係ないのだが、僕とディルレクシアの名誉のために、そういうことにしておいた。
タルボがひそかに笑っているのが、ちょっと気になるが。
僕はコホンとわざとらしく咳をして、話題を変える。
「ええと……シオン、その服もよくお似合いですよ。身に着けてくださってうれしいです。気に入っていただけたのでしょうか」
「もちろんです、ディル様」
「外套は?」
「稽古ということで、中央棟のクロークに預けていますよ。〈楽園〉に武器は持ち込めませんので、申し訳ないですが、今日は口頭での指導でよろしいですか?」
「はい」
そう言われてみると、シオンは手ぶらだ。
「シオンもお忙しいでしょうに、呼び出してすみません」
「オメガの婚約者候補になれることは、名誉なことです。誉れ多き方、私の時間はあなたのためにあるので、どうか気にしないでください。それに、お会いできて私もうれしい」
シオンは僕の右手を取って、手の甲にキスをした。
僕は見事に固まった。
カーッと顔が熱くなる。
前の世界でも、こんな貴婦人へのあいさつくらい、数えきれないほどされてきたのに。シオンの態度があんまりにも絵になるので、ものすごく照れる。
(シオン、綺麗な人だとは思っていたけど、こんなに格好良かったっけ?)
前の世界で味方してくれたことや、第三王子から助けてくれたことが、シオンを美化させて見えるのだろうか。
(いや、普通に麗しいよ。王宮の庭園に飾ってある石像みたい)
人物の石像を飾りたい気持ちが分からなかったが、シオンみたいな美形なら、石像があったら目の保養になりそうだ。
そんなことを考えていると、照れが落ち着いた。
シオンはすでに姿勢を正し、不可解そうに僕を見下ろしている。
「ところで、どうしてまた剣の稽古を?」
「病気をして、もう少し健康に気を遣おうと思いまして。護身術を学びたいわけではないのですが……。こんなことにあなたを呼び出して、失礼でしたか?」
やっぱり分不相応な頼みだったかもしれない。
結婚するかどうかはともかく、せめて友達になりたくて、シオンに近づけたらと思ったのだが、無理矢理すぎただろうか。
ディルレクシアのようにわがままにはなりたくない。
それでシオンに嫌われたら、絶対に立ち直れない。
(ネルヴィスが婚約者候補続行になったのは意外だけど、結婚するにしろ振るにしろ、ちゃんと相手のことを知りたいし……)
その上で気が合わないなら、断るのはやむなしと言える。今はたいして判断がつかない。
「気にしなくて結構ですよ。健康のためでしたら、基礎をゆっくりする程度にしましょうか。筋肉のつき具合を見たいので、お体に触れてよろしいですか?」
「え? ええ」
おお、なんだかそれっぽい。
僕はちょっとだけワクワクする。シオンは僕の腕や背中、ふくらはぎなどを軽くポンポンと叩いてから頷く。
「全体的に細くていらっしゃいますね。柔軟体操から始めないと、怪我をしそうです」
「なるほど……?」
「そうだ。剣もいいですが、ある程度の基礎ができたら、弓もやってみませんか? 実は私は弓のほうが得意なんです。短弓なら、貴婦人でもたしなまれる方がいらっしゃいますので、ディル様にも合うかと思いますよ」
シオンは楽しげに言ってから、ハッとして眉尻を下げた。
「いえ、過ぎたことを申しました。レイブン家は貴族ですが、騎士として戦うことに特化しております。無骨者ゆえ、教えてさしあげられるのは武術ばかりで……。あなたに教えられるものがあって、うれしかったもので」
なんだ、この人は。良い人の鑑ですか!?
シオンの人の好さに僕は感動し、妙なテンションになる。
「弓も面白そうですね! 教えてください。シオンのお仕事が大丈夫なら、一週間に一度はお会いしたいのですが……」
「今は急ぎの仕事もありませんし、夜でも良ければ、毎日でも構いませんよ? あまり遅くなる時は、お断りの知らせをいたしますが」
つまり、騎士団での勤務後に寄ってくれると言っているようだ。
「お体の調子が悪い時は、無理に来ていただかなくても大丈夫ですが……お願いしても構いませんか」
前の世界に引きずられていて申し訳ないが、シオンの顔を見るとほっとする自分がいる。できれば毎日でも会いたい。
それでもシオンに無理を言うのに変わりはない。
僕がおずおずと返すと、シオンはやわらかく微笑んだ。
「あなたのお願いを聞けるとは、ありがたいことです」
「よろしくお願いします」
僕はほっとして、礼を返す。
こんなふうに、誰かに会いに来てほしいと頼むなんて初めてだ。
前の世界では、アルファの男相手にそんなことを言い出せば、無礼だと叱られるようなことだった。
待っているのが当たり前で、会いたいと言うのもはばかられたのに。
「……やっぱり、わがままですか?」
ディルレクシアみたいになりたくない。気になって問うと、シオンは眉をひそめる。
「つまりディル様は、私には恋人のこの程度のわがままを叶える甲斐性もないと仰せで?」
こ、こ、恋人!
僕はシオンがムッとしたことより、恋人の単語に動揺した。
(婚約者候補でも、交際しているわけだから、恋人になる……のか? えっ、ちょっと待って、それだと二股をかけている駄目人間ってことになるんじゃ)
ぐるぐると考えるディルに、タルボが横から言った。
「ディル様、婚約者候補が複数いるのは普通なので」
「えっ、あっ、うん。えっ」
考えを読まれた!?
焦る僕に、タルボがふっと笑う。そして生ぬるい目をして、シオンのほうを見た。早く返事をしろと言いたいようだ。
僕はなんとか落ち着きを取り戻すと、シオンに首を振る。
「そういう意味ではなくて! わがままを直したいので、距離感がつかめず」
どの辺までは「人として大丈夫」になるのか、まったく分からない。
するとタルボが口を挟んだ。
「ディル様、五分会うためだけに、王都から馬車で一時間かかる距離を呼びつけて、すぐに帰すような真似をなさらなければ、大丈夫ですよ」
「シオンは王都から来ていらっしゃるんですか?」
以前、タルボが見せてくれた地図を思い出す。そういえば〈楽園〉は王都の外にあった。
「ええ。騎士団が王都にございますので」
「仕事帰りに、馬車で一時間の距離を……?」
「私は馬に乗って参りますので、三十分ほどです」
馬車と単騎ではスピードに差があるのか。
「やっぱり悪いんじゃ……」
自分のために、そんな大変な思いをさせるのは忍びない。おろおろする僕に、シオンははっきりと返す。
「まったく悪いことはありません。ディル様、私の家は没落寸前で、あなたに大したものを差し上げられません。私ができるのは、私の時間と手間を惜しまないですべて差し出すことくらいです。せめてこれくらいはさせて頂けませんか」
シオンは真剣に話す。
彼がオメガに人生を捧げるつもりだと言っていた本気さを、僕は甘く見ていた。
(オメガだから……だよね)
なぜだろうか、そのことが少し胸に痛みを感じさせる。
「申し訳ありませんでした、シオン。では僕は恋人として、あなたに甘えようと思います。あなたの体調を崩さない範囲で、会いに来てくれませんか」
僕のお願いに、シオンは破顔した。
「ええ、喜んで」
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