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24. 小さなあなた <side:シオン・エル・レイブン>
シオンが屋敷に帰りつくと、すっかり日が落ちて、辺りが藍色の闇に包まれていた。
シオンはふわふわと夢見心地で愛馬を厩に連れて行き、飼い葉と水を与えて、ブラッシングまで終える。
馬丁が「自分がしますので」と言っていた気がするが、騎士団での習慣で、ぼーっとしながら全て終えていた。
「旦那様、あの……大丈夫ですか?」
去り際にやはり何か訊かれた気がするが、シオンは返事もせずに母屋に入る。馬丁は意味不明な主の様子に、しきりと首をひねっていた。
玄関ホールに入ると、帰宅を聞きつけた母がわざわざ顔を出した。
「お帰りなさい、シオン。ずいぶん遅かったわね。お腹が空いたでしょう」
「ただいま戻りました、母上。いえ、ディル様とお茶をして、お菓子をいただきましたので」
「お茶ですって!?」
ぼんやりと返事をしていたシオンは、母が大声を出したことで、ハッと我に返った。無意識に外套を脱いで、執事に渡していたようだ。傍に執事のジェロがいたので、そのことに驚く。
シオンは急いで付け足す。
「ディル様は、フェルナンド卿とお茶をしたからとおっしゃっていました。期待はしないようにとは釘を刺されていますが、今のところ、私とフェルナンド卿を結婚相手として吟味なさっているそうです」
「宰相のご子息とあなたの一騎討ちですの!? なんて分が悪いのかしら……」
話を聞きながら、母は笑顔から一転、落ち込んだ。
「とりあえず、気が合うかどうかをお知りになりたいそうです。ディル様の剣の稽古をつけることになりまして、明日から毎日、ディル様にお目通りすることになりました。もちろん、任務や体調不良の時はお断りできますよ」
「毎日ですか?」
さすがに、連日の呼び出しと聞いて、母は驚きを見せる。
「ええ。夕方に訪ねる時は、夕食を一緒にと誘われておりますので、料理人と調整してください」
「分かりました。あなたの良さを分かっていただけるといいわね、シオン」
急に呼び出されて、五分の面会で追い払われていた頃と比べれば、大した進歩だ。
母もそう思ったようで、目をうるませる。
「少なくとも、多少の好感は持たれていらっしゃるようね。弁償と言って、服が届けられた時から、良い予感がしていたわ」
「母上、喜ぶのは早いですよ。気まぐれだと思っていたほうがよろしいかと」
いくら真面目に向き合う気になってくれたとしても、決定ではない。シオンは慎重に付け足した。
「いったん部屋に戻ります。晩餐をご一緒しましょう」
「ええ。祝い酒を用意するように、料理人に頼んでおきますわ」
シオンが二階へ続く階段に向かうと、母は弾んだ足取りで食堂のほうに歩いていった。
貴族の当主ともなれば、専属の従者をつけるものだが、シオンにはいない。
母につけている侍女の給料をまかなうのが大変なので、シオンは自分のことは自分でしている。
いくら没落しかかっているといえど、女性の世話をおこたると、世間から白い目で見られる。外で働く女性はほとんどいないが、結婚したい者ばかりではないので、数は少なくてもいくらかはいる。
そういった女性の大半は、神官になるか、貴族の屋敷で女主人の簡単な世話と話し相手をしている。レディズ・コンパニオンだ。
それ以外の雑用は全て、男の仕事だ。
女性同士でなければ困ることもあるため、どうしても侍女は必要だ。
部屋に荷物を置いて、晩餐用の服に着替える。
手袋を外したところで、ふと手の傷が目に入った。
――この小さな傷に、シオンの努力と人生が詰まっているんですね。
ディルの言葉がふわりと耳によみがえる。
レイブン家に生まれた貴族たる者、北の森に生息する魔獣から王国を守るのは責務だ。
強くなるのが当たり前で、拒否は通じない。
幸い、武術の腕を磨くのは、シオンには楽しいことだった。魔獣を退治し、策をろうして追い払い、死線を潜り抜けて生き延びると、すがすがしく晴れやかな気持ちになった。
騎士団の仲間といると感じられる高揚感は、屋敷で暮らすだけでは得られないものだ。
――それでも、つらいと感じることがある。
祖父が処刑された後、こんな王家のために尽くして何になるのかと、虚無にさいなまれたこともあった。
成功するのが当たり前で、失敗すればレイブン家の当主にふさわしくないと責められるだけだ。シオンは騎士として完璧を目指さなければいけない。いつまで続けるのか果てがないし、家がつぶれるかもしれない不安で押しつぶされそうな時もある。
(あんなたった一言で、気持ちが癒されるとは)
シオンはふっと微笑んで、ディルに触れられた傷にそっと口付けを落とす。みにくいだけの傷が、なぜだか愛おしく感じられる。
「何をやっているんだか」
自分の行動がおかしくなって、シオンは前髪をくしゃりとつかむ。
そして、急にディルのほっそりした体を思い出して、動揺した。
自分の手がすっぽり覆えるだけの小さな手に、華奢な体をしていた。ディルの指摘で、ディルがか弱い生き物なのだと認識すると同時に、気を抜いてしまっていた自分が恥ずかしくなった。
あんなふうに剣術の指南をすることはしょっちゅうだから、無意識に体を近づけていたが、彼は不快に思わなかっただろうか。
(だいたい、体格の良い男は怖がられるものだというのに)
失態が気まずい。
今は亡き父から、こんなふうに教わった。
「しゅくしゅくと努力して、成果を出せ、シオン。騎士道精神で礼節を見せれば、宮廷の人々は騎士とほめたたえるが、おごりたかぶって傲慢になったが最後、レイブンの名は恐怖として覚えられる。先祖代々の名を汚すなよ」
自分は怖がられる存在だと思って過ごせと、口をすっぱくして何度も言われた。
だから、シオンはできるだけ相手とは距離をたもち、不用意には触らないようにしている。
同じ男でも、オメガにしてみれば、アルファは怖い存在かもしれない。
いっそう気を引き締めなくては。
油断したが最後、ディルに嫌われるだろう。
騎士と褒めたたえられても、実際は魔獣を殺す乱暴者なのだ。血にまみれた姿など、あの人には見られたくない。
――しかし。
シオンは胸のざわつきに、眉をひそめる。
「ディルレクシア様は、明らかに変わった。いっそ別人になり変わったかのようだ」
数回ほどの面会で、気まぐれに呼び出された五分でも、シオンには彼の変化がありありと分かる。
そもそもディルレクシアは空気を凍りつかせるほうが上手い。あんなふうに周りを和ませる空気などみじんもなかった。
「もし、別人だとしたら……」
以前の彼に戻ったとしても、こんなふうに思えるだろうか。
解決しようもない悩みに、シオンはため息をついた。
容易に踏み入れてはいけないものだと、感覚的に察している。
〈楽園〉には深く口を挟むべきではない。
この好奇心が、眠れる竜を呼び起こし、災いをもたらすかもしれない。
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