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25. アカシアみたいなほうが好きですか?
稽古初日以来、シオンが顔を見せる夕方を、僕は日ごとに楽しみに待つようになった。
シオンは王立騎士団での仕事を早朝勤務にして、早めに帰れるように調整したそうだ。
それからうれしいことに、ようやく教師が決まった。
僕は週に二日、午前中の二時間ほどをレイノルズ夫人の講義に当てている。
レイノルズ夫人は三十代前半ほどの才女で、古典と詩に詳しい。彼女は神官であり、神官の妻でもあった。
学問好きなのに堅苦しい空気はなく、朗らかだ。彼女がにこにこと笑いながら部屋に入ってくると、ひまわりの花が咲いたようだった。
(ムチを構えておどかすような人が来たらどうしようと不安だったから、明るくて優しい人で良かった)
レイノルズ夫人と会った時、僕はほっとした。
講義は薔薇棟ではなく、図書室ですることとなった。
理由は、レイノルズ夫人が既婚者で、女性だからだ。間違いがあっては困るし、無くても噂が立つと彼女の名に傷がつく。公共の場ならお互いに安心なので、そういうことに決まった。
天気が良い日は図書室の庭にあるテーブルで、お茶をしながら話を聞く。
講義がない時は、僕は薔薇棟や中央棟を散策した。前の世界では自由に動けなかったので、出歩けるのが楽しい。
稽古を始めて一週間になる頃、僕はすっかり剣術の勘を取り戻し、シオンと打ち合いできるようになっていた。
「ディル様、驚くほど筋が良いですね!」
「シオンの教え方が良いんですよ、っと!」
僕が切り込むと、シオンは木剣で受け止めた。カンと甲高い音が鳴る。
シオンは褒めるが、僕は社交辞令だとちゃんと分かっている。ただ、シオンにしてみれば、僕は教え始めて一週間の生徒だ。これくらいにしては飲み込みが良いという意味だと思う。
打ち合い稽古が楽しくて、僕はちょっと調子に乗った。
シオンの剣を止めると見せかけて、しゃがんでよけたのだ。
「なっ」
「隙あり!」
フェイントをしかけて、剣を振るう。腕に当てる前に寸止めするつもりだったが、驚いたシオンは、とっさに本気を出したようだった。
僕の右手に衝撃が来て、ガッと木剣が飛ばされた。
それは良いとして、前に踏み込んでいた僕はバランスを崩す。
「わっ」
「ディル様、うわっ」
シオンは無理な体勢で僕を受け止めようとして、足を滑らせ、後ろに傾ぐ。僕はとっさにシオンを支えにしようとしがみつき、一緒に地面に倒れた。
「いたた。すみません、足元がぬかるんでいたのを失念しておりました」
シオンが言う通り、昼に降った通り雨で地面が濡れている。
「間違えてもあなたに怪我をさせてはいけないので、焦って……」
シオンは不自然に言葉を切った。
僕はというと、シオンがかばってくれたので、特に痛いところはない。倒れた時の衝撃で、顔を打ったくらいだ。
「怪我はないので大丈夫…………ん?」
僕はようやく、シオンを押し倒して、その上に馬乗りになっているというとんでもない状況に気づいた。
「す、すみませっ、わあ、なんてことを。いだっ」
慌てすぎて、どこうとしてバランスを崩し、逆にシオンに抱き着く格好になった。
「大丈夫ですか、ディル様」
「ええ、すみません」
口からは謝罪しか出てこない。
なんとかシオンの上から退いて、僕は立ち上がる。
ぬかるんだ地面に倒れたせいで、シオンの服の後ろ側は泥だらけになっている。僕のズボンも似たような感じだ。
「タルボ……。あ、そうか、客が来たからって見に行ったんでしたっけ」
こんな状況なら大騒ぎしそうなタルボが静かなのは、珍しく客の対応に行ったからだ。
悲惨な状態に、僕は冷や汗が止まらない。
どうしようかと静かにパニックになっていると、シオンが噴き出した。
「最近のディル様は、よく転びますね。お気をつけください」
「すみません。ありがとうございます」
笑って許してくれるなんて、なんて優しいんだ、シオン!
僕は情けない気分でうなだれながら、シオンの好青年ぶりに感動する。
そこでシオンは怖い顔を作った。
「ですが、ディル様。先ほどのは良くありません。打ち合い稽古なら喜んで相手いたしますが、フェイントをしかけて驚かせるなんて。こんなことを言いたくありませんが、オメガに怪我をさせたら、私の首が飛びますのでやめていただきたい」
「……解雇の例えですよね?」
「物理的に」
「………………申し訳ありませんでした」
あんまり楽しかったので、調子に乗りすぎた。
僕はしょんぼりして、素直に謝る。
僕のしょげ具合がかわいそうになったのか、シオンは僕の髪に手を伸ばす。長くてしっかりした指先が、僕の髪を整えた。
「最近のディル様は、よく謝られますね。分かっていただければ構わないので、どうかそんなに謝らないでください」
「……はい」
前の世界では、あいさつと同じくらい、普通に謝ってばかりいた。
謝り癖は良くないと思うが、どうしても誰かの顔色を伺ってしまう。
場が気まずい空気に満ちた時、パサッと羽音がした。
「ん?」
顔を上げると、真っ白いオウムが飛んできて、シオンの頭にとまった。
「えっ、シオン、頭にオウムが!」
「鳥ですか? 私にとまるなんて、珍しいですね」
シオンは特に動じることもなく、視線だけを上に向ける。
背が高いシオンを木と勘違いしているのだろうか、白いオウムは羽づくろいまで始めた。
「シオン、落ち着いてますね」
「魔獣殺しだと分かるのか、ならした動物以外は、私を嫌って避けるので。ちょっと和みますね」
「和むんですか」
えっと……この状況をどうすれば?
先ほどとは違う戸惑いで、僕は悩む。
シオンはマイペースな性格のようで、大して気にしていない。おおらかと見ればいいのか、意外と雑だなと思えばいいのか。
「ブランシューっ。ああ、良かった。ここにいたんだね!」
僕はその声にぎくりとした。
長い裾を持ち上げて、アカシアが必死に走ってくる。アカシアは僕と目が合うと、ぱあっと花がほころぶような笑みを浮かべた。
「ディルレクシアお兄様、お久しぶりです。ブランシュを捕まえてくださってありがとうございます!」
どうやらこのオウムはブランシュというらしい。頭の羽毛だけ黄色で、くりっとした目は黒い。
「ぶ、ブランシュ……あ!」
アカシアは裾を踏みつけて転ぶ。とっさにシオンが手を出して、アカシアを支えた。
「あ……ありがとうございます」
「いえ。勝手に触れる無礼を失礼しました」
シオンはすぐに手を放した。
なぜだかその一連の行動を見て、僕の胸はもやっとした。
(そうだよね。彼は優しいから、誰かが転びかけたら、誰のことでも助けるんだ)
僕が特別だからではない。僕の護衛騎士ではないのだから。
「もうっ、ブランシュ。戻っておいで!」
アカシアが手を掲げると、ようやくブランシュは羽ばたいて、アカシアの腕に移動する。アカシアの白い指先が、ブランシュの背をゆるく撫でた。
小鳥を可愛がる美少年。とても絵になる光景だ。
「お会いできてうれしいです、お兄様。良ければお茶をしませんか?」
「用がありますので、お断りします」
僕はアカシアと関わりたくない。冷たく断ると、アカシアの金目がうるむ。僕のこはく色の目と違い、明るくて宝石みたいだ。
「最近、お兄様は僕に冷たくありませんか? 一緒に遊びたいのに……ひどい」
アカシアがポロポロと涙をこぼすので、僕はたじろぐ。後ろから追いついたタルボが苦笑した。
「アカシア様は、ディル様とお会いしたいのをずっと我慢なさっていたそうで……」
「分かりましたよ、お茶にすればいいんでしょう? 先に行っていてください」
僕がしぶしぶ受け入れると、アカシアは明るい顔をする。泣いていたのが嘘みたいな笑顔だ。
タルボはシオンの様子で、いろいろと察したようだった。
「レイブン卿、客室に着替えがありますので、ご利用ください。服は風呂場の籠に入れておいてくだされば、洗濯してからお返ししますので」
「畏まりました」
シオンは会釈をし、タルボがアカシアをうながして先に行くのを見送る。
それがなんとなく僕を落ち込ませた。
あんなに素直で愛らしいアカシアと会ったら、誰もが彼を好きになると思った。
「シオンは、アカシアみたいなほうが好きですか?」
ぽろりと口からこぼれ落ちたのは、子どもみたいにすねた響きの声だった。
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