第三十六話 魔王と言う存在の重み

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第三十六話 魔王と言う存在の重み

 その日は朝から村の様子がおかしかった。  何かが破壊されているような音や、誰かが叫んでいるような声が鳴り響いている訳ではないので『うるさい』と表現してしまうと語弊があるが、心の奥にざわざわと大勢の声が聞こえているような……そんな『静かな騒がしさ』と表現するのが相応(ふさわ)しい空気が漂っている。  それは、昨日の疲れにより深い眠りについていたイリーナを目覚めさせるのに十分(じゅうぶん)な気配であった。 「ねぇアリフィア……何か変じゃない?」 「ん?……おはようイリーナちゃん……こんな早くにどうしたの?」 「えっとね、不快って訳じゃないんだけど、こう……何て言えばいいのか、頭の中に直接響いてくるような凄い圧迫感があるのよ」 「圧迫感? 私には何も感じないけど」  イリーナにはローラのように、誰かの気配や敵意を探知するような能力がある訳ではないが、それでも確実に伝わってくる何かがあるのが分かる。  二人は事の真相を確かめるべく窓の外を覗き見た。  するとそこには教会を取り囲むようにして(ひざまず)いている多くの村人の姿があった。 「何これ? みんな何をしてるの?」  イリーナ達は急いで着替えを済ませ、ラウラに事の真相を確かめる為に部屋を出た。  扉の外にはラウラと司祭様の他に、村長の姿が見える。  村長の後ろには礼拝堂へと繋がる扉があり、その扉の隙間から中の様子が少しだけ目に入ったのだが、どうやらそこにも大勢の村人が訪れているようであった。  司祭様の話を聞く為に礼拝堂に多くの者が集まる事自体は珍しい事ではない。  イリーナ達も小さい頃から何度も街の教会で経験をしている。  ただ、今回はそんな見慣れた光景とは少し違っていた。  訪れている村人は誰一人として椅子に座ろうとはせず、硬い床に直接跪いて魔王の像へと祈りを捧げているのだった。 「おはようございますラウラ先生、何かあったんですか?」  ラウラがイリーナの質問に答えようとするが、言葉が発せられるよりも早く村長がその場に跪いた。 「おはようございますイリーナ様 昨日はお疲れのご様子でしたが、体調の方は如何で御座いましょうか」  何が起きているのか事態が飲み込めず、イリーナは救いを求めるような視線をラウラに向ける。  ラウラは小さく溜め息をついた後、ゆっくりと話し始めた。 「村長……こちらの村を訪れた日にも申し上げましたけれど、この子達はまだ幼く、重圧に耐えられるような強い心を持ってはいないんです……ですから……お願いですから、そのような態度を取るのはお止めいただけませんか」  ラウラの言葉を聞いても尚、村長は跪いた姿勢を崩そうとはしない。 「あの時も魔王様が生まれ変わられた事を疑っていた訳ではありませんが、まだ心の隅に『聖書に書かれているような物語が本当にあれば良いのに』と……そんな希望に(すが)る考えがあり、現実として受け止めていない部分が少なからずあったのかもしれません……だから私を含め、村人全員がイリーナ様を崇める気持ちを抑え、平静を装って接する事が出来ていたのです……しかし昨日イリーナ様が起こされた奇跡を目の当たりにし、これは夢でも伝説でもなく『真実』なのだと……魔王様は我々魔族を救う為に再びこの世界にお生まれになられたのだと……イリーナ様自身が魔王様なのだと、そう確信をしたのです」  ある種の成果が認められ、褒められれば誰もが嬉しい気持ちになる。  そして賛美の声に笑顔で答えたり、恥ずかしさのあまり恐縮したりと、色々な反応をするのが普通だろう。  しかし真剣な眼差しで語る村長の姿を見たイリーナの心には、なぜか恐怖の感情が芽生えていた。  『過ぎた信仰』は『信頼』や『信用』等とは違い、『疑う』と言った概念が存在しない。  あきらかに間違えた答えを出そうとも、強い信仰の前では誰もそれを指摘さえ……いや、そもそも間違いかもしれないと言った考え自体が思い浮かばず、指摘するなどと言った概念が存在しない。  そこにあるのは信仰する者に対し、ただ無条件に従う心だけ……。  もし仮に、イリーナが跪くのを止めるようにと言葉を発すれば、村人は直ぐにでも従い、喜んで己の思考を封印してしまうだろう……。  あるいはイリーナが少しでも不快な表情を浮かべたとしたら、村人は即座にその原因を見つけ出し、本当に正しいのかと言った疑問も無いまま排除しようとするだろう……。  それが例え村にとって大切な物だったとしても……そして村人の命だったとしても……。  この『静かな騒がしさ』は村人全員の自分に対する信仰心の強さから来る波動なのだと……そう理解した時、イリーナは言葉を発する事が出来なくなっていた。   (声が出ない……私が嫌な顔をするだけで何かが消されるかもしれないのに……私の態度一つでみんなの日常が崩れてしまうかもしれないのに……なのにどうして声が出ないの……それは私の望んでる事とは違うって……お願いだから止めてって言わなきゃいけないのに)  自分には多くの者の心を惹きつけ、付き従わせる力がある……。  たった一つの言葉にさえ、通常では考えられない程の大きな責任が()し掛かる……。  だからこそ、思った事を迂闊に声にして出してはいけない……表情に出してもいけない……誰にも、何も悟られてはいけない……。  そんな負の感情が頭の中を駆け巡り、ついにイリーナはその場に倒れ込んでしまった。 「イリーナちゃん!」    アリフィアは慌ててイリーナの体を支えるが、イリーナの呼吸は早く、その顔には大量の汗が浮かんでいる。 「ラウラ先生! イリーナちゃんが!」  アリフィアは取り乱してしまい、どうすれば良いのか、何が適切な処置なのか判断する事が出来ない。  そうしている間にもイリーナの呼吸は更に荒くなり、手足に震えの症状も出始めてきた。  何かが喉に詰まり呼吸が止まっている訳ではない。  むしろ普段よりも多く呼吸をしているように見えるのに、まるで呼吸が出来ていないかのように苦しみ弱っていくイリーナの様子に、ラウラや司祭様も成す術がない。 「誰か! 誰か早くイリーナちゃんを助けて!」  アリフィアの叫び声が響く中、礼拝堂へと続く扉からローラが歩み寄り、優しくイリーナを抱き締めるが、周りの者はその様子をただ見守るしかなかった。 「イリーナちゃん……落ち着いて私の声を聞いて……」  イリーナは優しく話すローラに(すが)り付き、目に涙を浮かべながら見つめている。 「イリーナちゃんは今、呼吸が出来なくて、苦しくて……だから必死に空気を吸おうとしてるんだと思うの……でもね、それは間違いだから……苦しいかもしれないけど、今から少しの間でいいから息を止めてくれない?」  思いもしなかったローラの言葉に、イリーナの顔に焦りの色が浮かぶ。 「む……むり……です……い……いきが……」 「落ち着いて……呼吸が出来ないから苦しいんじゃないの……呼吸をし過ぎてるから苦しいのよ……だから」 「た、たすけ……ローラさ……」  取り乱している者に冷静な行動を求めるのは無理がある。  ましてや呼吸が出来ずに苦しみ、このまま死んでしまうかもしれないと言った恐怖に捉われている者に息を止めさせる事など不可能に近い。  暫くしてローラは何かを決意したのか、イリーナを支えている腕に力をこめて抱き寄せ……そして、静かに唇を重ねるのだった。
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