第三章 月光

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第三章 月光

 深夜だった。僕はファティマに無断で東塔に向かった。父さんの寝所は空いていた。他人が入るのを厳重に禁じている内に誰も来なくなったからだろう。彼は安心して鍵をかけ忘れたのだ。  僕がドアを開けると、やはり血臭がした。中では呼吸をしない女性が何人も横たわっていた。猛禽類の真っ赤な目が君臨している。僕はその光景を見つめた。  死を目前にすると、正気が侵食される。異世界にいるような、自分が酩酊しているような、どちらにせよ意思をしっかり持たないと、判断力を犯されていくような気分になる。寝所の香、8月の虫たちの狂気の宴――五感が痺れそう。  背後の廊下から声がした。  「お前は見てしまったのか」  「父さん」  彼は少しだけ外したつもりだったのだろう。僕に寝所を見られたことを知って、廊下で険しい表情を浮かべていた。そして腰のサーベルを抜いてぼくの喉もとに突き付けた。  「処理班以外、見た者を生かしておいたことはないのだ」  僕はじっと彼を見つめ返した。  「女の人を愛さないで殺していたのですね」  「そうだ」  彼はうなずいた。  「夜はそうやって過ごすものではありません」  「余はそのようにしか過ごせないのだ」  彼は言いながらぽろぽろ涙をこぼした。  「大好きなシャン、さらばだ」  『大好きな』――僕はそれを聞いて恐れることがなくなった気がした。  「一つお願いを聞いていただいてよろしいですか」  「言ってみろ」  「僕がこれから話すことが面白かったら、一晩だけ殺さないでいて欲しいのです」  彼はそれを聞いて突き放すようににやりと笑った。  「一晩か。考えたな。いいだろう。では話してみよ」  「少し長めのお話です。できれば血の匂いのしない所で、父さんは僕と一緒に腰かけて下さい」  「いいだろう」  彼はサーベルを収めると、僕を促した。僕は東塔の別の部屋に連れていかれた。死臭のしない、手付かずの部屋だ。ベッド、簡易テーブル、椅子、ソファがある。寝所は一つではなかったようだった。  「ここで話せ」  「はい」  銀色がかった青いソファにどっかり座った彼のために、僕は語りはじめた。窓から見える月がぼやけている。外は霧雨が降りだしたようだ。  「遠い東の国に、エーリヒという名の王子がいました。彼は19歳です」  父さんは目を丸くした。  「物語ではないか」  「そうですよ。いけませんか」  「まあいい。お前はじきに死ぬのだ。続きを話せ」  僕はエーリヒ王子の冒険物語を語った。一区切りついた。  「なかなか面白い話だった」  「まだ終わってません」  「何だと」  「エーリヒ王子を救ったリンにも別の物語があります」  「じゃあ話せ」  「これ以上夜更かしをすると、ご公務に支障が出ます。明日は隣国ミネランダのユリス国務長官をお迎えする日でしたね」  彼は口をへの字に曲げて、折れるしかなくなったようだった。  「ぬう……仕方無い。明日聞いてやる」  僕は翌日の夜に、また彼の第一寝所を訪れた。昨晩第二寝所に連れていかれたが、彼は第一をメインで使っているのがわかったからだ。今度は女性の遺体はなかった。処理班というものが片付けたのだろう。彼は僕を見て、猛禽類と一緒に冷笑した。でも何故か悲しそうだった。  「今夜ここで永眠するのはお前だ」  僕は彼にリンの物語を語った。一区切りついた。父さんが訊ねる。  「終わりか」  「まだ終わってません」  「又?」  「リンは冒険した後、恋をするのです」  「ぬう……また明日というのか」  「はい」  渋面の父さんに僕は答えた。しかし彼は我慢できなかったようだ。  「駄目だ! 余は布団に入るが続きを聞かせろ!」  「わかりました」  僕は横たわった父さんのベッドの傍らの椅子に腰掛けた。リンの恋物語は幸い短いものだったけれど、終わるころ父さんは寝てしまった。  翌日の夜を迎えた。僕は又父さんの第一寝所を訪れた。僕は入り口前に立っていた彼に、出会いがしらにたずねられた。  「今日で物語は終わるのか」  「いえ、長い話ですので」  「だと思った」  彼の背後は廊下と違って明るく青らんでいた。月光だ。ちょうど満月だったので、彼は窓から月見をしていた。彼に促されて部屋に入り、僕がドアを閉めると、内部は奇跡のような青い光の洪水。照明は一つ残らず落とされているが、月と大気の関係でこんなに明るくなるらしい。猛禽類の赤い目は、今日は紫がかって、何か懐かしいものを見ているみたい。  父さんは、はあっと息をついて肩を落とした。  「物語は本で読んだのか」  「乳母が添い寝をする時に語ってくれました。僕は日中、夜の時間が来るのが待ち遠しくて、本に書いてある続きを読んでしまうようになりました。それで読書の習慣が身につきました」  「余は本を読まないのだ」  「頭の回転の速い父さんにはもったいのうございます。本は刺激的ですよ」 父さんは、いかつい表情の奥で、悪い気はしていないようだった。  「考えておく……。昨日リンはどうなった。確か大恋愛して結婚した後……」  「結婚した後は時間を飛んで、彼の孫の話です」  「今度は孫か」  「はい」  「まあいい、添い寝の物語とはどんなものか知りたい。余も横になるから、お前も寝そべっていい」  「同じベッドでよろしいのですか」  「許す」  王族のベッドは広い。大人三人くらいならゆうに入る。僕は父さんがうつぶせで横たわったので、同じ格好で隣に並んだ。そしてリンの孫、セイランの話をした。とても楽しい話なのに、盛り上がって来た時、父さんは突然泣き出した。  「どうしたのですか」  優しい満月の歌に包まれ、彼は打ち明けた。  「余は添い寝をしてもらったことがないのだ」  「乳母は?」  「いなかった」  「どうして僕に乳母をつけたのですか」  「お前がーー大事だった」  うつむいて語った彼に、僕は胸が熱くなった。我慢していたことを言いたくなった。  「だったら何故、抱っこしてくれなかったのですか」  「余は心を持っていないのだ。たくさん会っている内に殺してしまうと思った」  僕は安堵で笑っていた。  「ありがとう、父さん」  「今でも抱っこして欲しいか」  「はい」  「じゃあこっちへ来い」父さんは僕の背中に腕を回した。「続きを話せ」  「はい」  セイランの話も一区切りついた。  「どうですか」  「手に汗握るな……」父さんは顎に片手を当て、唸っていた。「次はどうなるのだ」  「もちろん続きますけど、ここらで目先を少し変えませんか」  「何だ」  「怖い話もあります」  「バイオレンスか?」  「そういう話も知っていますが、もっとじめじめ湿気てる“怪談”というジャンルがございます。ヒヤッときますよ。年中夏のアルダットの夜にぴったりかと思います」  「むむ……、聞いてみたい。明日話せ!」  「はい」  「退がるな、余の横で寝ろ」  「はい」
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