第一章 ファティマ

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第一章 ファティマ

 アルダット王国は一年中夏。僕はシャン。ここの王子だ。隣国は複数あるが、そのうちの一つの国王の娘が同世代。親の公務の度にくっついてやって来るが、清々しいほどロマンチックにならない。いちいちチクチクいじめてくるので白髭爺やのダリウスに相談したら、鏡をご覧くださいと言われた。彼女は100メートルを足の親指だけで全力疾走しても、僕に追いつかないのだと説明された。  従妹兄弟はいない。母さんも早くに亡くしてしまった。残っているのは父さんだけだ。80年前に戦争が終わったけど、普通の時も政治は大変なんだって、ダリウスが教えてくれた。  公務をしている時の父さんはすごくかっこいいと思う。僕は10歳の時、父さんに贈り物をすることにした。彼は月曜朝の同じ時間にいつも同じ廊下を通る。僕はそこで作戦を決行した。彼を呼び止める。  「父さん、あのね」  「何だ」  彼は身長が高くいかつい見た目。普段はクールだけど、熱いハートを持っているのさ。  「ほら、“父さん”」  僕はオレンジのクレヨンで描いた彼の似顔絵を見せた。自分では上出来だと思った。  「他に何かあるか」  彼はあまり反応してくれなかった。    僕はいつも我慢してることがあった。  「あのね、父さんーー」  だっこして、と言いたかった。でも言っていいかわからない。僕は彼にだっこしてもらったことがない。  躊躇してると、彼は「あとで聞くぞ」と言って臣下と一緒に歩いて行ってしまった。彼は熱いハートを持ってるけど、僕はそれに触れたことがない。  僕は泣きそうになった。つきそってくれた乳母が、後ろにしゃがんで僕を抱きしめてくれた。  「お忙しいお方なのです。あなた様が嫌いなわけではないのですよ」  若く優しい乳母はファティマといった。乳母だけど未婚。ほっそりとして、肌は透き通るみたい。艶やかな黒髪を長く垂らしている。陽光に照らされた彼女が長いまつげの下に影を伸ばしていると、いつも見とれてしまう。彼女はいつも僕の心を癒してくれる。でも――  僕は父さんにだって甘えたい。彼のプライベートな領域、城の東塔に行ったことがない。彼は僕に来るなと言い渡したきり、寄せつけてくれなかったからだ。    禁じられれば入りたくなる。僕は城下が朝焼けで桃色に染まったある日、彼の寝所を訪れることにした。メイドより先に彼を起こして、びっくりさせるつもりだった。  城はどの塔も大体構造は同じだ。入ったことがなくてもどこに何があるか見当がつく。忍び込んだ僕は彼の寝所を見つけ出した。  いざ入ろうとした時、中から出てきた白いローブ姿の彼とはちあわせしてしまった。彼は寝間着ではなかったので、とっくに起きていたということだ。    彼はいつもクールだと思っていたのに、この時は僕をどやしつけた。  「来るなと言ったはずだ」  「ごめんなさい」  僕はやっぱり泣きたくなった。  「父さんは何してたの」  「お前にはわからん事だ。いいか、金輪際、東塔にも余の寝所にも近寄るな」  「寝所はどんなところ?」  「帰れ」  僕はどなりつけられて、とうとう泣いていた。泣きながら東塔を後にした。  僕は南塔の自室に戻った後、ファティマを呼んでたずねた。  「どうして父さんの寝所に行ってはいけないの」  「大人が疲れを癒すところだからです。いいですか、今後は決して行ってはいけません」    僕は彼に怒られ、彼女にも止められた。でも彼は毎晩寝所に女の人を連れていくんだ。女の人はいつも違う人。彼はこの時、従者をつけない。二人で一体何してるんだろう。僕は気になって仕方がないままだった。でもどうしようもない。  ファティマはさびしい僕を慰めるように、物心ついたころから寝物語を聞かせてくれていた。冒険譚や民話、伝承、ジャンルを問わなかった。僕は気持ち良くて話の途中で寝てしまうことが多かった。翌朝は必ず何故続きを聞かなかったのだろうと後悔することになる。    次第に僕は彼女が夜に続きを聞かせてくれるのを待てなくなっていった。朝起きるなり朝食もそこそこに、青いインテリアで統一された書庫へ行く。彼女の語ってくれた物語の題名を頼りに原作本を探して、続きを読む。10歳なのにもうすっかり本の虫になっていた。  ある日の晩、彼女が言った。  「では昨晩の続きをお話しましょうね」  「ごめん、実は読んじゃったんだ」  僕は彼女にわびた。  「おやおや、またですか。では今夜は何の話にいたしましょう」  「何がある?」  彼女はにっこり笑った。  「もうシャンさまの方が物知りなのではないですか? 私はシャンさまの物語が聞きとうございます」  「僕の」  「何かお聞かせ下さい」  僕は急に役が回ってきてびっくりしたけど、初めて彼女に物語を語った。語り方はお粗末なものだ。こんなんで彼女は喜んでくれるのだろうか。  「――そしてキリンのマレーヌは甘酸っぱい夜空の星を全部食べてしまったのです」  終わると彼女は手をたたいてはしゃいだ。僕がびっくりするほど喜んだ。  「大変楽しゅうございました。シャンさまには話し手の才能がございますよ。明日は私が新しい物語を用意して参じます。でも次の夜は又何か話して下さいませんか」  「わかった」  「ああ、嬉しい」  僕はその日から人に喜んでもらえる楽しさを知った。彼女とかわりばんこに語る夜を迎えていくうちに、夜が楽しみになり、彼女を喜ばせたくて、どんどん書庫に通うようになった。僕の話はだんだん長くなっていった。ある晩のこと。僕は語った。  「そしてソーニャは真っ赤なブーツでーーあれ? 青いダンスシューズだったっけ。ちょっと待ってて」    僕は物語の続きを忘れてしまった。忘れたというより混線したのだ。原作者は靴をテーマにした物語をたくさん書いている。僕はどれがどれやらわからなくなった。ファティマは笑顔で言った。  「シャンさま、わからない物語は創ればいいのですよ」  「創る?」  「私も創ります。聞きたい物語も聞かせたい物語も、作った方が面白いのでございます」    僕は即興を覚えた。やがてファティマにしっかり起承転結を伝えたくなると、夜がやって来る前に文章でプロットを立ち上げるようになっていた。
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