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「三澤さん、お昼まだですよね?良かったらご一緒しませんか?」
史に声をかけてきたのは、伊藤可奈子と、伊藤と仲のいい先輩の宇田川美央のふたりだった。はきはきした宇田川が前にいて、伊藤が半身隠れながら様子を見ている。
普段なら断ってひとりで外に出るところだが、背後から刺さる白崎の視線を避けるためにも、史はにっこり笑って答えた。
「ありがとうございます、ぜひ」
「ほっ…本当ですかっ?やったあああ」
「ちょっと伊藤ちゃん、声大きいって!すみません、三澤さん」
伊藤が嬉しそうに飛び跳ねるのを宇田川が制する。可愛らしい、と史は素直に思った。
こんな女性を普通に愛せたら、どんなに楽だろうと思う。
柾とは、週末の二日間、必要最低限の会話しかしていなかった。
本当だったら、仕事にも慣れ、そろそろ買い物にでたり、近隣の街にもドライブがてら遊びに行こうかと話していたところだった。
狭いベッドで互いに背中を向けたまま眠るのは、もう嫌だった。
「三澤さん、札幌は慣れました?」
「ええ…まだ雪道には慣れませんけど」
「気をつけてくださいね、転んだら腰、やっちゃいますよお」
「伊藤ちゃんは今年に入って何回転んだの?」
「私は三回……って、宇田川さん、三澤さんの前でやめてくださいよっ」
ふたりの女子社員の笑顔の向こうに、数人の社員が席に着くのが見えた。
その中に柾がいた。
社食で一緒になったのは二回目だった。
そちらを見ないようにして、伊藤と宇田川の話に耳を傾ける。
「そういえば三澤さん…白崎さんにきついこととか言われてません?」
「え?」
伊藤が声をひそめて、テーブルに身を乗り出した。
「白崎さん、新しく入った男性社員にきついので有名なんですよ。女性社員にはそんなことないですけどね…」
「そうですか…今のところそんなことはないですよ」
「だったら良かったです。何人も耐えられなくて辞めちゃって…特に、若くて素直な可愛い子、やられやすいんですよ」
「僕はもう30越えてるし、素直でもないし可愛くもないから大丈夫ですよ」
史の軽口に伊藤は笑ったが、それまで黙っていた宇田川が神妙な面持ちで口を開いた。
「三澤さん…でも、本当に気をつけた方がいいと思います」
あまりにも真剣なトーンに、史と伊藤が同時に、え、と声を出した。
宇田川はあたりを見回して、白崎がいないことを確認すると小声で言った。
「秘書課の友人に聞いたんですけど、白崎さんのはパワハラじゃなくて、セクハラだって……」
史は自分の心臓が身体の内側から警鐘を鳴らすようにドン、と叩く音を聞いた。
「え、待って、白崎さんってそっちの人なんですかぁ」
小声で伊藤が聞き返す。宇田川はうなづいて、さらに声を落とした。
「白崎さんって、もともと東京本社にいたらしいんですけど、問題起こして2年前にこっち来たんですよ。で、こっち来てからは真面目にやってたみたいなんですけどね、最近ひどいらしくて…男性社員ばっかり狙うらしくて。こんなこと言ったら何ですけど、三澤さんのこと、いつも見てるから……」
史は総毛立つ思いで聞いていた。
2年前に東京本社にいたのなら、どこかで会っているかもしれない。
史が知らなくても、一方的に知られている可能性もある。今でも本社の人間と繋がりがあれば、柾とのことを知っていてもおかしくない。
しかし同僚にこれだけ知られていれば返って安全なのかもしれないが、開き直られたら終わりだ。
伊藤と宇田川が声をそろえて心配するのに、苦笑いで答えるしかなかった。
先に歩く伊藤と宇田川から少し距離を開けて、史は食堂を出た。
柾はまだ同僚と食事をしていた。背中に熱っぽい視線を感じる。
「あ、橋口くん!いたいた!」
肩に誰かがぶつかってきた勢いで、史はよろめいた。謝りもせず、相手は通り過ぎていく。
柾の名字を呼びながら早足に通り過ぎていった男の顔は見えなかった。
が、史は気づいた。
彼が、持田だと。
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