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刺さる棘
タブレットを閉じて史は立ち上がった。午後の会議が終わったばかり。
いつもの白崎の視線が今日は特にねっとりと絡みつく。無視して会議室を出ると、やはり白崎も席を立つ。
ここのところ、史を見つめる白崎の粘着質な態度が、度を越している。
デスクに居るときは当然、食堂にいても、必ず視界の中に白崎がにいた。
が、事情は知らなくても勘のいい宇田川と、自称三澤ファンクラブ会長の伊藤が、毎日誘ってくれるので、昼食時は一人になることがなく助かっていた。
しかしその日の会議に人事部からは、白崎、そして史の2人が出席していた。
いつもなら出席する部長の松原は、出張だった。
出来るだけ同じ空間に滞在しないように、かつ不自然にならないように、史はエレベーターホールへと急ぐ。
ボタンを押して、ドアが開いた。
まだ白崎の姿はない。安心して「閉じる」ボタンを押すと、静かにドアが動き始めた。
「…っ、と」
がっ、と戸袋を掴む大きな手。閉じかけたドアをこじ開けて、不適な笑みを浮かべた白崎が顔を出した。
「ご一緒に、いいですか」
「……どうぞ」
エレベーターが降下を始める。
史は白崎が立つ側から距離を置いた。
自然な動作で時計を見る。早くこの空間から抜け出したい。
と、その手首を急に掴まれ、史は反射的に身を引いた。手首が時計と白崎の手に締め付けられ、思わず声が出た。
「痛っ…」
「痕に、なってますね」
白崎が言ったのは、歓迎会で掴まれて出来た痣のことだった。柾がこれはどうしたんだと心配していたのを思い出す。
その痣の真上を、再び白崎は握りしめてきた。白崎を睨み、史は言った。
「離してください。毎回、何なんですか」
「……どうして、譲ったんです」
「何の話です」
「会議ですよ。本当はA案で行きたかったんじゃないんですか」
会議の事案で意見が対立した白崎と史。話し合いが平行線を辿り、最終的には白崎の提案したB案で進むことになった。
「……白崎さんの案で問題ないとみなさんが判断されたんです。僕が譲ったわけではありません」
「A案で決まりそうなところまで来て、急に引いたでしょう。……何のつもりです」
結果的に大きな差はない二つの案。アプローチの違いだけだった。
確かに史は、このままぐだぐだと長引くならと、A案を押すのを止めた。
無駄な怨恨を持たれなくて済む、と考えたのも事実だ。
感情が滲み出ないよう注意しながら、史は低い声で言った。
「どちらの案でも結果は同じです。だらだらと議論を続けるより効率がいいでしょう」
「……見下しているのか」
「…何です?」
「元本社のエリート様には、支社の細々とした仕事など、つまらないでしょう」
白崎と史の目が合う。
白崎の粘着質の中にひそむ嗜虐性を、史は見逃さなかった。
普段なら事を荒立てないように、うまく切り抜ける。なのにこの時、史はそうしなかった。
柾とのこと。持田のこと。そしてこの白崎によるストレスがそうさせたのかもしれなかった。
「僕に文句があるなら、はっきり言ったらどうです」
史に言葉に触発された白崎がのそりと近づく。ほとんど同じ目線の高さだが、体格がいい分、威圧感があった。
「そんなもの、ありませんよ。ただ、俺は……」
史の顔にぎりぎりまで近づき、白崎は仄暗い笑顔で言った。
「見た目がよくて仕事の出来る、あなたみたいな男を見ると、ぐちゃぐちゃにしてやりたくなるんですよ」
史が身構えてタブレットを白崎に押しつけたのと、白崎が史の肩を押さえつけたのがほぼ同時だった。
白崎の方が力は強かったが、二人の間を隔てたタブレットが功を奏した。
エレベーターの到着音と同時に史は白崎を押しのけ、廊下へ走り出た。
幸いエレベーターホールに人は少なく、乗り込む女性社員とすれ違っただけだった。白崎が追いかけて来ないことに安堵して駆けだした史は、そこが人事部のあるフロアではなかったことには気がついていなかった。
廊下の角を曲がり、見覚えの無い景色に足を止めた史は、そこが柾の働く営業部だったことを知った。
電話が鳴り響き、忙しそうな社員たちの中で、柾はPCに向かって難しい顔を作っていた。
柾の仕事中の姿を見るのは久しぶりだった。
手早い方ではない。しかし正確でミスの少ない仕事をする。一度、史の代理で会議に出席してもらったことがあった。その時も、過不足なくこなしてくれた。
新しい職場でもおそらくそうやって、着々と上司の信頼を得ていくのだろう。
おーい、と上司に呼ばれ、頭を下げながら資料を説明する柾を見て、史は改めて、今、柾が自分の部下ではないことを実感した。
それが、なぜか少し寂しいと感じる。
史は我に返り、踵を返した。
忙しくしていた柾には気づかれていないはずだ。早足で営業部を後にする。
ひとりになって初めて、史はじっとりと全身に脂汗がにじんでいることに気づいた。
白崎と対峙した緊張感が、今になって身体を蝕んでいる。
史は誰もいない廊下の壁に寄りかかって、呼吸を整えた。
「ちかしさん…?」
小さく史を呼ぶ声。
そんなはずはない、と思いながら振り向いたそこに、柾が立っていた。
走ってきたのか、息を切らして心配そうにまっすぐ見つめる瞳。
柾の顔を見たことでほっとした気持ちの裏側で、白崎に掴みかかられた恐怖が改めて沸き上がる。
史はすがりつきたい気持ちを必死で抑えた。
「史さんの背中が見えたから……何かあったんですか?顔色が悪…」
史の身体は、気持ちと裏腹にゆっくりと柾の腕の中に倒れ込んだ。
胸が苦しくて、うまく呼吸が出来ない。喉だけがひゅう、とおかしな音をたてる。目の前が暗くなり、手が痺れる。
「史さん?どうしました?史さん!」
呼吸をしようとすればするほど苦しくなる。柾のスーツにしがみつく史の耳に、過呼吸だ、と柾の声が聞こえた。
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