繋がり

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過呼吸を起こした史を、柾は使用していない資料室を見つけて運び込んだ。喉を押さえて苦しげな呼吸を繰り返していたが、身体を横たえて少し経つと、史の呼吸は次第に安定しはじめた。 「過換気症候群…ですね」 柾は自分の膝の上に寝かせた史の胸に手を添えて、そう言った。 「かかんき…?」 やっと話せるようになった史は、天井を見上げて尋ねた。柾はうなづいた。 「極度のストレスや不安で、呼吸がしづらくなったり、目眩を起こすんです。昔、俺もなったことがあって…」 柾は吉木湊斗という男と付き合っていた。奔放で、男関係が派手な、身勝手な恋人。付き合っていても全く安心できない湊斗に振り回され、ストレスから過換気症候群を引き起こしたことがあった。 史と知り合い同じ時間を過ごすうちに、そんなことも忘れていた。 史はぼそりと、ストレス、と呟いた。 「…何か、思い当たること、ありますか」 柾はそう尋ねてから、その原因に心当たりがありすぎてはっとした。 史を見下ろすと、その瞳はまだうつろに白い天井を見つめたままだった。 柾は、史と目が合うのを待って、言った。 「…すみません。俺が…」 史は一瞬柾と視線を合わせ、柾の言った意味を理解した。申し訳なさそうに背中を丸める柾に、史は抑揚のない調子で答えた。 「……白崎さんに、掴みかかられた」 「えっ?」 「僕が、気に入らないらしい。たまたまエレベーターで一緒になった」 柾は思わず史の身体を抱き起こした。史の首が、がくんと後ろに倒れる。その頭を引き寄せて柾は言った。 「け、怪我はなかったですかっ?」 史の答えを待たずに、柾は史の身体を抱きしめた。ストレスの原因の一端が自分にあることも忘れていた。 その首から肩周りが骨ばっていて、史が少し痩せていることに柾は気づいた。自責の念と白崎への怒りで、心臓がきりきり痛む。 「……会社だぞ」 「あっ」 史にたしなめられ、柾は我に返った。顔に血が上る。真っ赤な顔をした柾を見て、史が小さく微笑んだ。柾は、史の笑顔を久しぶりに目にした。 「大丈夫だ。少し、昔のことを思い出してぞっとしただけだ」 史の身体から匂い立つ甘い香りは、今まで多くの男を虜にし、史を危険な目に遭わせてきた。どんなに抗っても、それに惹かれる男は後を絶たない。 気に入らないから、と史は説明したが、おそらく白崎の狙いはそれだけじゃないだろうと容易に想像出来た。 それに加えて、柾と持田とのこともある。 身体を起こして、壁に背中をもたれかけ、史はひと呼吸した。 「もう、平気だ。戻るよ」 緩めた襟元を直そうとした史の手を、柾は両手で握って止めた。 「史さん……っあのっ…俺…」 柾は、この時を逃したら、もう二度と元には戻れない気がしていた。まだ青白い史の顔に近づき、触れるだけのキスをした。 唇を離すと史は、初めて東京の喫煙室でキスしたときと同じ、驚き戸惑った瞳で柾を見ていた。 「柾……」 「この間のことが何も解決していないことはわかってます!でも…でも、信じてください!俺、絶対に、史さん以外の男と寝たりしてない!どんなに酔ったって…そんな気になんかならないです!あれは、絶対自分の意志なんかじゃないんです!」 言いながら、柾は思い出していた。そう言えば、あの夜さほど飲んでいなかったにも関わらず、店の途中から記憶がぷっつりと途切れているのは何故か。朝まで全く目が覚めなかったのも、よく考えれば不自然だ。 本当に持田と関係を持ったなら、何かひとつぐらい覚えているはずだ。 はめられたとしか思えない。 「覚えてないのに信じてくださいなんて…都合がいいことはわかってます…でも本当なんです!俺は史さん以外に欲情出来ないんです!もしあなた以外の人が隣で裸で寝てたって、絶対に手なんか出さない!信じてください!」 看病していたはずの柾が、いつのまにか史の膝にすがりついていた。 史は柾の背中をぽん、と叩いた。 「……昼間っからそんなことを大声で……恥ずかしいよ」 がばっと顔を上げた柾の目に映ったのは、史の少し困惑した笑顔。 また近づこうとして、こら、と怒られる。 それでも笑顔のままの史に、柾は言った。 「すごい後悔してます。飲みを断れなかった俺が悪いんです。でも、このことではっきりしました。……俺の目には史さんしか映ってません」 静まりかえる。張りつめた空気の中、柾は固唾を飲んで史の言葉を待った。史は真顔になり、柾に尋ねた。 「……信じてもいいのか」 柾には、このたった一言に、史の苦しみや悲しみがすべて詰まっている気がした。 あまり感情を出すことが得意ではない史にとって、柾の告白を受け入れ、さらに一緒に北海道へ来てほしいと口に出すことは、ものすごく勇気のいることだっただろう。 新しい生活が始まった矢先に、柾の軽率な行動が史の不安に拍車をかけてしまった。 柾にとって史はなにものにも代え難い存在。 自分は史の特別になれているのか。 あなたも俺を求めてくれている、と思いたい。 「……信じてください」 柾は史を抱き寄せた。 自然と二人の唇が近づく。どちらともなく、重ね合った。 史の腕が、柾の背中に回る。 柾は、折れるほど強く、史を抱きしめた。
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