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堕ちる
「はっしぐっちくーん♪」
史と約束した翌週から柾は持田に悩まされていた。持田の猛アタックをかわし続けてやっと金曜日が来た。安心していたところに、楽しそうな持田が声をかけてきたのだ。
「はい、なんでしょう」
笑顔を作って柾は振り向いた。なるべく核心に触れないようにするには、出来るだけいつも同じ対応で、話を短く切り上げることにしていた。
持田は何枚かの観光パンフレットを柾の前に並べた。
「今日こそは飯、一緒に行けるよね」
「あ~、えっと、今日はちょっと……」
「月曜日に、週末ならって言ったじゃん。つか、構えすぎだよ。飯食うだけだよ?」
(しまった…適当に言ったのちゃんと覚えてる…)
今日、史は会食だと言っていた。すでに部長補佐のようなポジションに上がりつつあるらしい。
柾は覚悟を決めて、持田に答えた。
「じゃあ…はい、行きます」
「じゃあって、寂しいなあ…まあ、でも旨いとこ連れて行くからさ」
この時、下心を感じない持田の笑顔に柾はほだされてしまった。
史に一報入れようと携帯を取り出したが、充電が切れかかっていた。
デスクの下でコードを繋いだところで、部長が柾を呼んだ。
「札幌と言えばやっぱラーメンっしょ!」
「持田さん、道産子なんすか」
「いや、神奈川出身」
けらけら笑いながら持田はラーメンのスープを飲み干した。
確かにラーメンは旨い。縮れ麺と味噌味のスープを堪能して、柾と持田は店を出た。吐く息が白い。暖まった身体が急激に冷えていく。
肩をすくめ、ポケットに手を突っ込んで歩く。持田は歩いて数分のバーに柾を案内した。
「持田さん……あの」
「うん?ああ、ここ。けっこういい店だよ」
持田が連れてきたのは、行きつけだというゲイバーだった。
しまった、と思った時は後の祭り。持田のことをよく知っている店員がにこにこしながら何人も寄ってくる。
カウンターの向こうでグレーの着物を着た化粧の濃い男が声をかけてきた。
「お兄さん、初めてよね。たかちゃんの彼氏?」
柾が否定するより早く、持田が柾のすぐ側にすり寄って喋りだした。
「ずっと言ってるんだけどさあ、ガード堅いんだよね。あ、橋口くん、こちら桐子ママでーす」
勝手に紹介され、柾はぺこりと頭を下げた。
東京で田宮が連れて行ってくれたミックスバーとは雰囲気が違う。
客層は男のみ。数人で飲んでいる者もいれば、カップルもいる。カウンターの端にはひとりで物欲しそうな視線で店内を物色している客もいた。
要するにここは、メンズオンリーのバーだった。
本来気が楽なはずの場所で、柾は不安しかなかった。
持田のテリトリーで、周りから固められている気がしてならない。
頼んだビールの味すら怪しく感じられる。
「橋口くん、聞いていい?」
「なんですか」
「どっちなのかなって…タチ?ネコ?ぱっと見、読めないんだよね」
「………」
「聞くだけだってば」
「……タチですね、今は」
「今?前はネコだったってこと?」
「……若いとき、です」
「そっかあ、タチなんだ……あ、俺、ネコなんだよね」
「……そうですか」
出来るだけつっけんどんに答えたが、持田は頬杖をついてにやにやと柾の表情を伺っている。
柾は持田が距離を詰めてきているにことに気づき、わざとビールをあおってトイレに立った。
冷たい水で手を洗うと、少し頭がすっきりした。
食事に行くと言わなければ良かったと後悔しながらも、いつかは付き合わないとどこまでも誘われ続ける。一回応えれば、しばらく誘われないだろうと踏んだのだ。
史に早く会いたい。
柾はスラックスのポケットの携帯を探った。
「え……マジか」
携帯電話は、会社で充電したままだった。持田の誘いを受けてしまったことで、気がそぞろだったのかもしれない。
史が今夜会食で良かった。先に家に戻れば問題ない。トイレを出たら、そろそろ帰ります、と言おう。そう思った矢先、足下がふらついた。
「飲み過ぎ…てはないよな…」
週末の疲れだ、と言い聞かせてトイレのドアを開ける。カウンターへ戻ると、持田がわざとらしい声色を出した。
「橋口くん、大丈夫?飲み過ぎた?」
「いや、大丈夫っす…俺、そろそろ」
「そうだね。ママ、タクシー頼んでくれる?」
終電の時間は過ぎていた。持田の声を聞きながら安心した柾はぼんやりと店内を見渡した。
天井と床がぐにゃりと歪んだ、気がした。
気分は悪くない。むしろふわふわして、気持ちがいいくらいだ。
これは、もしかして、もしかすると、やばいのでは。
柾の目の前が不意に暗くなった。
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