今年も会えたら

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 満開の桜が今年も風に揺れる。  明日はよく晴れるということだから、今日は八分咲きの桜もきっと花弁を散らすことだろうと、その手毬のような花の集いにそっと手をやる。  一年前の桜まつりの前日、ここで彼女と別れたことを僕は忘れていない。そうして彼女がここで、一年後にあたる今日、また会おうと言ったことを。  僕は風の向くまま、ふらっと東京への就職を決めてしまった。就活先もすべて都内の企業だったし、とにかく『東京』というところの空気を味わってみようと思ったのだ。例えそれがガソリンの排気ガスと土埃にまみれていたとしても、背の高いビルの森の底辺を歩いてみたいと思った。  そんな僕を彼女は「わけがわからない」となじった。それはそうだ、僕だってわけがわからない。どうしてそんな、自分を汚すような行為を進んで選んでいるのかまったくわからなかった。でも自分には必要な行為だと、その時強く確信していた。 いよいよ仕事は決まり、転居先も見つけた。マンションから街へ出るとふと、目の端になにかが触れた気がして振り返った。ここに相応しくないと思っていたものを僕の目は捉えた。 それは公園の柵の外に一本だけひょろっと生えていた桜の花だった。ある意味どこにでもある、見慣れた桜。考えたことのなかった郷愁感が僕を圧倒的に襲い、あの街ではなく、気持ちは君の元へと僕を飛ばす。早く、できるだけ早く。翼があるなら飛んでいくのに。  でも空を飛んでも無駄なことはわかっていた。彼女は中部地方の、彼女の実家がある街に就職を決めた。僕が東京に取り憑かれていたとき、彼女は自分の生まれ育った街に思いを馳せていたのだ。  僕たちは共に学生時代を過ごした街を起点にしてそれぞれの望んだ方向に向かい、三月には離れ離れになった。そんな時、電話がかかってきた。 「今さら意味があるとは思ってないの。でも、サヨナラの前にもう一度だけ会いたい。桜まつりの日にわたしたちが一緒に過ごした時間を一日だけ送りませんか? そしたらきっと上手く別れられると思うの。忘れる準備が足りなかったみたいで」  公園の外に揺れる細い桜がうなずくように風に上下した。  学校近くの桜まつり、まだ桜が残っているだろうか? 東京を追い越した桜前線が、まだあの街に桜を残しているのだろうかとふと鼻先を薄紅の花弁がくすぐった気がした。  そうだ、一年前の今日もお互い高い交通費を払ってここに来たんだ。今年の桜は少し遅い。花冷えが長引いたせいだ。去年ここに来た時にはお情け程度にしか残っていなかった花弁もまだ満開とは言い切れない。  あの時彼女は桜並木の木陰に隠れて僕に「好きだ」と告げた。三年も付き合ってまた告白されるなんて思ってもみなかったが、こうして実際、東京と彼女の実家という繋がりのない二点に分かれて初めて、僕は自分の選択に疑いを持ち始めていた。 「来年の今日も、また会えるかな?」  彼女は子供のような無垢な笑顔でそう言った。その笑顔こそ僕の本当に求めるもので、見失ったものだったことを思い知った。僕は約束した。「来年もここで」  約束の場所で彼女を待った。それはふたりでよく待ち合わせをした駅前の小さな読書カフェで、お互いの本の趣味の違いを指さして小さな声でよく笑った。  僕は本を読んでいた。  彼女の電車が来る時間までまだ大分時間があった。  僕はカズオ・イシグロを読んでいた。彼の迷宮は時間感覚を狂わせる。一体、どれくらいの時間、集中してそれを読んでいたんだろう? 物語は佳境を迎え、示唆されていたように終焉を迎える。  最後のページを読み終えたあと、故意に避けていた腕時計を確かめた。  時間は確実に進んでいた。止まったりはしなかった。本のページが進むように時間は流れ、そして彼女は向かいの席に現れなかった。あのちょっと崩れた笑顔を見ることはなく、本の棚にカズオ・イシグロは戻って行った。  彼女からの一週間前のメッセージ。 「ごめんなさい、結婚します。今年は行けなくなりました」  彼女が来ないということをしっかり確かめた。これが僕と彼女の終わりだ。  彼女の街では桜はもう散ってしまっただろう。僕は学生時代の僕をここに置いて、またよどんだ東京の街の底へ帰っていった。公園の外のさみしい桜が、今年もか細い花を付けていた。 (了)
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