【試し読み】うたごえ

2/2
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 お疲れ様です、という多葉田の声に送られてクリニックを後にした途端、スマホがバイブした。亜希子からの「ごめん、柳くんたちともう一軒、行ってくる!」というLINEが画面に出ている。  わかったよ、と返信する唇からため息が漏れたのは、侑季の入学が決まって以来、亜希子が柳という大学の同級生と出かける機会が増えたためだ。  柳はもともと亜希子のサークルの同期で、現在は他ならぬ――で英語の教師をしている。彼自身、同じ学校法人内の国際部で中学・高校時代を過ごしたという男だ。  亜希子は侑季が生まれた直後から、柳に母校の近況を頻繁に尋ね、そのくせ受験が近づいてきた二年前からは「教師と親が親しくして、万一、裏口入学だって言われたりしちゃいやだから」とぱたりと連絡を取るのを止めた。  その潔さに慎吾は、亜希子の母校に対する思いの強さを知り、ひどく驚いた。そしていざ受験が終わるや、これまで以上に頻繁に柳と会うようになった亜希子の姿に、言葉にしがたい不快を覚えた。  これで柳と亜希子が恋愛関係にあるというのなら、まだ分かる。問題は二人を結び付けているものが、――への愛校精神に過ぎない事実だ。  侑季の入学が決まった直後、柳が祝いにと設けてくれた食事の席でも、亜希子は同席した柳の妻子や慎吾、侑季をそっちのけで、最近の母校の話題を聞きたがった。そして柳もまた、まるで同席している者全員が勤務先の関係者であるかのような顔で、自分の教え子や学校行事の話を延々と語り続けた。  夫のそんな態度には慣れているのだろう。柳の妻はちょっと困ったような顔をしながら、まだ三つという男児の世話を焼いていた。きっと似た表情が自分の顔にも張り付いているのだろうと思いながら、慎吾は侑季の食べあぐねているパンを引き取ってやったものだ。 「女子校ってのは、そんなに楽しいものなのか」  翌朝、娘のいない朝食の席で慎吾が尋ねると、亜希子は間髪を入れず、「楽しいわよ」と答えた。  昨夜は慎吾が眠った後に帰宅したと見え、その目は眠たげにしょぼついていた。だがいそいそと椅子を引いて慎吾の前に座り、「だって、自由なんだもの」と続けた。 「そりゃあ、私立校だからな」 「そういうんじゃないんだって。分からないかな」  苛立たし気に唇を尖らせてから、「どんな風に生きてもいいのよ」と亜希子は続けた。 「ほら、一般的な世の中では、女性はこうしなければって形がどうしても押し付けられるじゃない。でもあの学校じゃ女の子しかいないから、重たい跳び箱運びも運動会の応援団も、すべて自分たちでやるわけよ。家庭科が得意な子がいて、体育が得意な子がいて、プログラミングもハッキングも靴下の繕いもみんな誰かがやるの。男がいらない自由な世界だったのよ」 「ふうん。じゃあ、大学からは男が自分たちの世界に入ってきて、不自由だったってわけだ」  慎吾の相槌に、亜希子は少し冷たい目になった。 (続きは『アンソロジー女子校』にて掲載。全体4400文字)
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!