【試し読み】うたごえ

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 うちのスタッフは優秀だ、と大槻慎吾はいつも思う。  医療事務担当の二人の仕事は丁寧だし、四人いる看護師もすべて自分が直々に引き抜いてきたやり手である。メンタルクリニックは他の診療科以上にスタッフの優秀さが求められるが、正直、これほど粒ぞろいのメンバーを揃えているクリニックはそうそうあるまい。  唯一の問題は、開院当初から勤務していたカウンセラーが、先月、出産のために退職してしまったことぐらい。本当は産休・育休を取って戻ってきてもらいたかったが、シングルマザーとして子供を育てる決意をしており、この町を離れて関西に引っ越すと話していた。 「あら、先生。まだ残っていらしたんですか。もう九時近いですよ」  診察終了後、院長室の掃除にきた事務員の多葉田が、眼鏡の奥の目を丸くした。 「ああ、娘が学校の行事のために、明日まで留守でね。妻は同級生と呑みに出ているし、僕も帰っても独りなんだよ」 「お嬢さんの中学受験が無事に済んだんですもの。そりゃあ奥さまも羽根を伸ばしたいでしょう。それにしても入学からようやく一か月が過ぎたところで泊りがけの行事なんて、さすがは――ですね」  多葉田が口にしたのは、娘の侑季がこの春に入学した女子校の名前だった。  幼稚園から大学までを擁するキリスト教系学校法人の女子部。中高一貫教育を売りにしたその女子校は、妻の亜希子の母校でもある。  地元の中学・高校を経て国立医学部に進んだ慎吾の目からすれば、名門ではあるが突出して偏差値が高いわけでもないその女子校は、金がかかるお嬢様校としか映らなかった。だが亜希子は侑季が生まれた直後から、「この子はあの学校に入れるの」と主張し、この三年ほどは受験準備に奔走していた。念願かなって入学が決まった時の喜びようはすさまじく、当事者の侑季の方がきょとんとしていたほどだ。 「ああ、修養会とか言ったかな。朝から晩まで聖書の勉強をするらしいよ」  へええ、と感心したような声を漏らす多葉田はきっと、「聖書の勉強とは何だろう」と考えているのだろう。よく分かる。他ならぬ慎吾自身もそう思うからだ。  ――のカリキュラムは変わっており、毎日の授業の前には必ず礼拝があるし、国語・数学といった一般的な授業と混じって、「聖書」の時間がある。亜希子によれば、文化祭も運動会も必ず礼拝から始まるし、クリスマスシーズンにはひと月も前から讃美歌の特訓時間が設けられるという。 「でも、当たり前よ」  当たり前。そう、亜希子は自分の母校を評するとき、よくその言葉を口にする。  亜希子によれば――には実家が寺という教員も、卒業後、新興宗教の教祖になったOGもいるという。亜希子の同級生の消息を聞くだけでも、芸能人に自衛官、農家にビオラ奏者とその進路はまちまちで、そんな学校における「当たり前」とはいったい何か、慎吾はいつもよく分からなくなる。  慎吾が知る学校とは、多種多様に見えて実はよく似たサイズに揃った子供たちが詰め込まれている場所だった。だが亜希子から聞く女子校は、それとはまったく別の存在らしい。 (しかも、それでいて……)
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