第一章 つけ髭が!事件です!

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第一章 つけ髭が!事件です!

 ようこそ、つけ髭ミステリー倶楽部へ。  この倶楽部に入る条件は一つ、つけ髭である事。  私は紳士なので、帽子を必ず被って外出をする。つけ髭も帽子も、外出時には当然身につけるべき物なのだ。周りの人間も私がつけ髭である事を当然知っている。顔に髭がくっついているままだと、どうしても細部の手入れを他人に委ねなければならない上に、時間も気にしなければならない。つけ髭だと、髭が着脱できるので納得のいく手入れが出来る。  私はつけ髭をお勧めしたい。もっとつけ髭は一般化すべきである。 「都路(とろ)様、いらっしゃいませ。失礼いたします」  いつものように倶楽部の入口でコンシェルジュにつけ髭を触ってもらい、つけ髭の確認後、中へ入る。つけ髭を外して見せたりなどしないのだ。  この時だけは大事なつけ髭を他人に触らせる事になる。  コンシェルジュは手袋をしているが、つけ髭を触られるのはドキドキする。 「いってらっしゃいませ」 「ありがとうございます」  いつものように廊下を機嫌よくステップを踏みながら広間へ向かう途中、事件が起きていた。 ―つけ髭が落ちている。  この建物の中で、つけ髭が本人から離れているなんてありえない。確実に事件が起きている合図である。  慌ててはいけない、慌ててはいけない。  ところどころ早足になってしまう所をダンスのステップで誤魔化しつつ、広間へ到着した。 「あ、今日はなんとなく貴方に会える気がして倶楽部へ来たのです。来てよかった。あれ? 何やら顔色が良くありませんね。あちらの椅子に座りますか?」 「安堂(あんどう)さんありがとう。椅子は結構です。あの、それよりゆっくりとこちらへきて頂けますか? 出来るだけ普段通りに」 「その様子は見て、普段通りとは難しい事をおっしゃる。はいはい、都路さんについていきますから安心してください」  落ちているつけ髭を見ながら、私たちは考える。 「つけ髭が落ちていますね」 「つけ髭が落ちているのですよ」 「私が来た時にはまだ落ちてなかったように思いますが…私ではあまり参考にならないと思います」  安堂さんは今日たまたま来た上に、久しぶりだったのでこれまた浮き足立って早く倶楽部に到着したらしく、時間を絞り込むアテに本当にならなかった。 「あの、すいません…。なにかあったのでしょうか」  声をかけられ振り返ると、まだつけ髭に慣れてないのか、少しつけ髭が傾いている男性が、こちらを覗き込むようにして立っていた。  落ちている髭が見えないよう、慌てて安堂さんは男性をグッと押し戻した。 「おっと…いきなり見ない方が…心の準備が必要です」 「え?」 「ここにはご婦人もおられます。決して大きな声や物音は出されませぬように…こんなに酷い現場は見たことがありません」  安堂さんが伏し目がちに、頭をゆっくり左右に振りながら横へ避けたので、男性もつられてゆっくりと覗き込んだ。 「…なんだ、どんな酷い状況なのかと思えば髭が落ちているだけではありませんか。落し物ですよ。コンシェルジュにでもお願いしてアナウンスして貰えば、すぐに持ち主が見つかるのでは? 私カメラを持っていますよ」  男性がしゃがみながらポケットからカメラを取り出そうとしたので、私は男性の手首をグッと掴んだ。 「アナウンスですって?! ここには心臓が悪い方もいらっしゃるのですよ? あなたはこんなに恐ろしい場面を公表なさるおつもりですか! …正気の沙汰じゃない」 「髭が落ちているだけです…よね?」 「そうです、目の前に髭が落ちているのです」  しゃがんでいた男性の影の上にスッと黒い影が重なってきた。  ガンッ! という音の後、男性はこめかみが熱くなり、何かがドロリを流れてくるのを感じ、目の前が暗くなっていった。
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