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第二章 つけ髭はなんでも知っています
安堂さん、あなたここしばらく何故この倶楽部へ来なかったのかお忘れなのでは?
あ、はあ…それを言われると反論のしようがなく…。
まんまと尾行されてしまったのでしょうね。
面目ない…。
「さて、それでは。ちょっと貴方起きてください。はいっ、はいっ、ほら、シャキッとして」
「ううう…頭が痛い」
男性は頭痛がする場所を触って確認したいが、椅子に座らされ後ろ手に縛られているため、手を前方に回す事が出来なかった。
「痛くないですよ、気のせいです。これからの貴方の今後についてご説明します。どうぞ、つけ髭はそのままで」
私は出来れば触りたくないのだが、背に腹は代えられない。仕方なく手袋を付け直して、拘束している男性のだいぶん傾いているつけ髭に触る。
さて、つけ髭についてお話しましょう。
つけ髭が乱れている。つけ髭に艶がない。色々つけ髭から合図が出ている事に気づきます。つけ髭には不用意に近づくな、と言われませんでした? 廊下に落ちていたつけ髭は、侵入者がいるという合図。貴方がこの状況になるまで、全てシナリオに沿ったつけ髭芝居です。だから廊下には貴方以外出てこなかったでしょう?
身元を特定する物を何一つ持ってらっしゃらない聡明な貴方ならもうお判りと思いますが、ここの人達は「誰のつけ髭かわからない」なんて事ありえないのですよ。
つけ髭はなんでも知っています。
コンシェルジュは入口で、つけ髭を触った時に侵入者に気づくのですが、そこで追い返したりしません。わざと一回招き入れます。それに、この倶楽部に来ている方々は、うっかりつけ髭を落としません。あなた心臓を落としますか?
図星だったり、嘘をついたり、恐怖だったり、感情の揺れが出た場合、鼻からの呼吸が乱れるので、つけ髭が乱れるのです。
ほら…貴方のつけ髭が揺れています。
湿ったり乾いたり。ふむ、これはなかなか、あなた良い反応しますね。悪くないですよ。
つけ髭は、ただ付けているだけの装飾品じゃない。
すいませんが、つけ髭をつけている安堂さんに近づくなんて…ここは何よりも詮索される事を嫌うのです。
「安堂さんの秘密は、私とこの倶楽部だけの秘密なのですから。それにせめてここに忍び込むなら、丁寧につけ髭を付けた方が良い。ここではつけ髭に対する敬意にはとてもうるさいのです」
ゆっくり、つけ髭の時間を楽しみましょう。
私は安堂さんのつけ髭以外あんまり触りたくありませんが、物好きかな…あなたのつけ髭を触りたい人達が、そわそわしながら扉の向こうで行列になっているのです。
なかなか人のつけ髭に触れる機会などありませんからねえ。人のつけ髭には触ってみたいが、自分のつけ髭は触らせたくない。
ふう、人間とは我儘なものです。
男性の乱れたつけ髭を、私はうっすら笑いながら、ゆっくりと綺麗に整えた。
「どうぞ皆様を楽しませてください。貴方も早くこちら側に来ると良い。歓迎しますよ、ここはつけ髭をつけた者にはこの上なく優しい場所なのです」
「…ちょ! ちょっと待って!」
―何か男性の声が聞こえたような気がしたが、聞こえないふりをした。次はきちっとつけ髭を整えて、倶楽部のドアを叩いている事だろう。もう男性はつけ髭の世界に足を踏み入れてしまっているのだから。
さて、こそばゆい芝居も終わりましたのでダンスでも踊りましょうか。
髭ダンスと言わせたいのですか?
ダンスとつけ髭は相性が良いのです。それに私たち「アンドゥ」「トロワ」っぽくて、更に相性が良いと思いませんか?
そういうダジャレ、他の人に言わない方が良いですよ。返答に困りますから。
(もう言ってしまった…とは言いにくいな)
(この人、会った人全員に言っているのだろうな…)
それはさておき、お手をどうぞレディ。
さておいて良いかどうかは妖しいですが、エスコートしてくださるなら断る理由は特にございません。
安堂さんが女性という事は、私とつけ髭だけが知っている秘密。他にも秘密を持った人はいると思う、いや、秘密のない人がこの倶楽部にいるわけがない。
そんな事は知った事ではない。他人にそれほど興味が湧かないのも、つけ髭ミステリー倶楽部の良いところだ。
人には秘密がある。
隠したいから秘密。
秘密をわざわざ暴くなんて無粋な事は紳士のやる事ではない。
つけ髭は秘密の合図だ。
「終わりました、これでいかがでしょうか、師匠」
「師匠だなんてお止めください。私はただのコンシェルジュでございます」
「いえいえ、私はわざと相手の感情を揺さぶらないとつけ髭を乱す事が出来ませんが、師匠は本当に触るだけで判ってしまうのですから。神の手です」
「私たちを守ってくださる温かい手ですよ」
安堂さんは深々お辞儀をして、師匠にお礼を言った。
「もったいないお言葉でございます。」
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