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「わぁ! ドーナツだ!」
お昼休憩前、事務員の女性が明るい声をあげる。
「出先の近くにこの店があったのが気になりまして……。皆で食べましょう」
営業から戻ってきた小太りおじさん――部長がにこやかに箱を机の上に置き、開けた。
「さぁ、いろんな種類あるから、早い者勝ちですよ」
オフィスにいたOLが箱に群がる。
「あ、私イチゴ!」
「あー。私もイチゴがよかったぁ」
「じゃぁ、私はオレンジ」
「…………」
そんなドーナツの取り合いを遠くから、若い男性事務員が一人見つめる。
それに気づいた部長は、ドーナツを一つ手に取り、男性に近づく。
「キミもどうですか?」
「僕は結構です」
男性はそう冷たく答えると、ちらりとドーナツを見てから目をそらした。
「キミ……、意地、はってませんか?」
「はい?」
部長の変な問いに、男性の声は裏返り、眉はひそまる。
「いや、意地をはるとロクなことはありませんよ……。ある男がいました。その男は――」
と、部長は突然話を語りだした。
「――その男は、家のお風呂の取り合いが嫌いでした。
誰が一番に入るかとか、お父さんの後には入りたくないとかもめるのが嫌でした……。
だから、男はもめないために、お風呂をもう一つ作ることにしました。
けど、家の中にはもう一つ作るスペースがなかったので、庭に作ることになりました。
妻と娘は外で入るのは恥ずかしいと、外の風呂作りに猛反対しました。
出来上がった庭のお風呂はその男の専用の風呂になりました。
男は毎日その風呂に入りました。雨の日も台風の日も大雪の日も入り……そのせいで体調を崩しても入り続けました。
自分がやったことは正しいと意地をはって……」
「な、なんですか? それって、部長の身の上話ですか?」
突然の部長の語りに、男性の頭の整理が追いつかない。
「さぁてね」ハハッと部長は笑うと、男性の肩に手を置く。
「な、意地をはって行った行動の過ちを認めてしまったら、負けたような気がしてやめられなくなる。
意地をはるのはやめましょう」
部長は、自分が良いことを言ったと満足げな笑みを浮かべて、ドーナツを男性に差し出した。
それを見つめる男性。
「…………あの――」
しばし沈黙した男性は、思いきって口を開けた。
「――僕……、小麦粉アレルギーなんです……」
「え? あ、ああ……。ご、ごめんね」
「あ。いえ、気にかけられたら悪いと思って、言い辛くて……気にしないで下さい」
「いや、キミの気も知らないでごめんね」
「いえ、よくあることなので、部長は悪くないですよ」
「いやいや、今からノン小麦粉のお菓子買ってくるっ」
「いや、そこまでしなくてもいいですよ」
オフィスを飛び出しそうになった部長を男性はとっさに掴まえ――、わちゃわちゃと二人のやり取りは終わらない……。
意地をはった優しさという、気づかいのマウントの取り合いが続き――。
「あの二人って、仲いいよねぇ」
「え、今流行りのオッサンラブ?」
と、女子社員に変な噂をされるのだった。
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