カンザスの麦畑

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カンザスの麦畑

1章(その1)カーネル村 この物語は、十八世紀のアメリカ中部のある村を舞台として始まる。カンザスシティーの南方にあるカーネル村一帯は、小麦と綿花の産地である全部で四十世帯。人口が百二十人の小さい村である。カンザスシティとの間に、エリコという町がある。カーネルの村人は、村で手に入らない生活品をエリコでまとめて購入する。 カーネルには村長(むらおさ)がいる。自分の綿花畑を持ちながら、何か問題が起こった時、村人を集めて話し合う役職だ。手当ては無いが、収穫のとき、村人が手伝って報いている。 マイケル・アンダーソンは小麦農家である。中背、筋肉質でがっしりしている。無学だが、地道に黙々と己の人生を築いている。父はアイルランドから移住して来た。アイルランド人は、ほとんどカトリック教徒である。 三年前に妻を病気で亡くし、十三歳の息子のジョニーと二人暮らしである。それ以来、土曜日にビール一本だった酒を毎晩飲み始めた。ビール二本。仕事から帰った時と食事の時だ。  仕事が休みの日曜日は、ワインを夕食前から飲み始める。一本、空にしたときは、ソファーで眠っている。ジョニーが毛布を掛けてあげるのが習慣となっている。    1章(その2)おせっかいなケイリー 近くに綿花を栽培しているケイリー・ワトソンが住んでいる。先祖がイングランドの貴族だと自慢しているが、あてにならない。イングランド人はプロテスタントの清教徒である。体付きはほっそりして、背が高い。綿のように軽い話し方をする。他人のことに干渉することが趣味である。本人は相手のためだと思っている。 三年前、悪性の風邪で妻を亡くした。今年十四歳の一人娘、ローザも罹ったが、持ちこたえ、回復した。 ケイリーは酒を飲めないが、一日、一箱くらいタバコを吸う。毎週土曜日の晩に訪れて、同じことを言う。 「マイケル、飲み過ぎは体によくないよ」「たったビール二本さ」 「毎日はよくないよ。週一日に抑えないと」「週に、一日だって」 「奥さんを亡くした辛さは分かるが、それは私も同じだよ」 ケイリーは、生前の妻にいつも、この平民女めと怒鳴っていた。 「だから、あんたはタバコを一日、一箱も吸っている訳かい」 「タバコは私の体質に合っているんだよ。それに、タバコの煙は肺の中の菌やウイルスを 殺し、むしろ、体に良いという学説も出ているくらいなんだよ」 「フン。そのうち、アヘンも健康に良いって言い始めるぜ」 「私が、家族の中で、あの風邪に罹(かか)らなかったのは、タバコのおかげなんだよ。」 「俺とジョニーが、罹らなかったのはどういう訳だ」「それは、偶然というもんだよ」 「分かった、もういい。もう寝るから、帰ってくれ」「君のためを思って忠告しているんだよ」  マイケルはさっさと寝室に入ってベッドにもぐりこんだ。 ジョニーに矛先が向けられる。「ジョニー、やはり、人参とアスパラは食べていないのかい」 「うん。だけど、他の野菜はちゃんと食べてるよ」「好き嫌いは、いけないよ」 「でも・・」 ケイリーが帰ると、寝室に向かった。「パパ、起きている」 「何だ、どうした」 「あのおじさん、嫌だ。僕が大嫌いな人参とアスパラを食べろとしつこいんだ」 「安心しろ。今にあいつの口に、あいつの畑の綿花を突っ込んで黙らせてやる」 2章(ローザとジョニー) 村には、プロテスタント系の教会があった。村人の三割は、カトリックである。エリコには、カトリック系の教会もあったが、村からは遠い。クリスマス以外の日曜日は、村の教会に行った。牧師のアハブはイングランド系だった。四十過ぎの太ったチビである。顔はいつも脂ぎって、頭はスキンヘッドである。 日曜日の礼拝に行くとき、ケイリーは、マイケルがアル中だと言いふらしていた。マイケルは、皆が目を背け、こそこそ話している理由が分からなかった。 ある日、アハブに懺悔室に呼ばれて、こう言われた。 「マイケル、あなたは悪魔に取り付かれています」 「何のことだ」 「毎晩、お酒を飲んでいるそうですね」 「そういう奴は他にも、たくさんいる」 「あなたの場合は、奥様が死んだ悲しみ、虚しさを紛らわすために、アルコールに走っているのです。悪魔は人間の弱い心を突いて来ます。奥様は天国で安らかに暮らしていますよ。人間の宿命は、生まれた時から決まっているのです。全ては、神の見計らいなのです」 「それで」 「主は安息日の日曜日だけは、お許しになる でしょう。それも、三位一体を意味するワインのグラス三杯だけです。ワインは我らが主、イエス様の血です。飲む前に、お祈りを欠かさないように」 「言う通りにしますよ」 次の週から、マイケルは教会に行かなくなった。それどころか、ビールが一日、三本、日曜のワインは二本に増えた。 アハブは嘘つきだ。あいつこそ、悪魔に取り付かれているにちがいない。三年前の悪性の風邪で、女房のスザンナは死んだ。ベッドで熱を出して、ウン、ウン唸っていた。三日後には、冷たくなっていた。 その翌日、ケイリーの妻も死に、死者は日増しに増えていった。 町から来た医者もお手上げだった。その間、あのペテン師野郎は祈祷を行い、神に救いを求めた。 「主よ、天にまします我らが父よ。どうか我 らを救いたまえ。サタンの呪いから我らを守 りたまえ」 死者は増える一方だった。 自分のことをアル中と言いふらしたのはケイリーだと分かった。ローザがジョニーに漏らしたのだ。 月水金の午前中、教会で、シスターが英語と数学を村の子供たちに教えている。他の子供たちと会えるのは、そのときだけだ。特に仲のよい友達はいなかった。 二人とも社交的な性格ではない。ローザはそばかすだらけで、赤毛、青い瞳、のっぽで、がりがりに痩せている。 ジョニーはアイルランド人特有の黒髪、褐色の瞳、小柄である。ときどき、遠くを見るような目付きで、何かを考えている。ローザとジョニーの関係は微妙である。 ローザは英語のスペルをよく間違え、数学はからっきしである。テストの成績が悪いとき、父親から夕食を抜かれた。お前みたいな出来損ないは、貴族を先祖に持つワトソン家の恥さらしだと罵られた。 ジョニーは二教科ともテストでよく満点を取っている。ローザは、貴族の子孫だという父親の話をまともに信じている。プライドだけは人一倍強い。粗野で下品なアイルランド人の末裔であるジョニーを見下している。憎悪に満ちた鈍い光を、ときおり、青い瞳から放つ。 ジョニーは、ローザが十七歳になったら、サタンに導かれて魔女になり、教会の地下牢に閉じ込められると思っている。 イングランドとアイルランドは、昔から領土を巡って紛争を繰り返して、お互いに怨念を持っていた。新大陸に移住して来ても、旧大陸での確執が、子どもたちの間にも陰影を深く残している。 お互いに軽蔑と悪意を感じながらも、閑なときは、いつもの大きな楓の木の下で話している。自分たちの父親を除いて、知っている大人の悪口をしゃべり続けていた。 この世に、ローザ以上のおしゃべり女はいないとジョニーは思う。おしゃべりに飽きて家路をたどるとき、虚しさが込み上げ、気が滅入ってくる。あの女の救い主のサタンの教書には「汝の隣人を憎悪せよ」という言葉が載っているに違いない。 「あのバカ女に会うのはもう止めよう」 3章(アハブとケイリーの陰謀) マイケルは、仕事から家に帰ると、ドアの鍵を掛ける。ケイリーがいつも、いきなり入って来るからだ土曜日の晩、いつものようにケイリーがやって来た。 「パパはもう寝ているよ」 ジョニーの声がドアの向こうから聞こえた。 翌日の日曜の夕方、窓のカーテンのすき間から、ケイリーが食堂を覗き込んでいた。 マイケルは陽が落ちる前から、ワインを飲み始めている。夕食が始まる頃には、一本が空になっていた。 ジョニーも料理を作る。今日の夕食は、チキンの唐揚げと玉ねぎのスープとじゃがいもを茹でたものである。アイルランド人の主食はジャガイモである。 「イモ野郎には、何度言っても理解出来ないのか・・」 ケイリーはあきらめ顔で、自宅に引き返した。  マイケルが、さらに酒に入り浸れていることを、ケイリーがアハブの耳に入れた。三年前の悪性の風邪も、マイケルに憑り付いている悪魔のせいだと吹き込んだ。アハブはマイケルに悪魔祓いの儀式を行うことを決める。 ケイリーはマイケルの飲酒は、治らないと考えている。悪魔祓いも信用していない。マイケルを教会の地下牢に閉じ込める。マイケルの麦畑は、二人で山分けする。マイケルの家を取り上げ、アハブが雇った小作人の住まいにする。ジョニーは、その小作人の奴隷にする。父親が悪魔付きだから、その罰として当然だと二人は考えた。 懺悔室の中で計画を練っている時、ローザが聞き耳を立てていた。ローザは、三年前の悪性の風邪で母親が死んだことでアハブを憎んでいた。一緒になって悪事を企んでいる父親も許せないと憤った。 翌日の月曜日に、ローザは二人の陰謀をジョニーに話した。ジョニーは父親に伝えた。マイケルは先手を打つしかないと腹を決めた。 ちょうど、木曜日にエリコで、牛と馬のせりが行われる予定になっている。火曜日に、マイケルはアハブに会いに行った。牛を売るために、水曜日に出発し、エリコで一泊して木曜日の夕方に帰ってくること。ジョニーは体調が悪いので、教会で一晩預かってもらいたいこと。お礼に、ウイスキーを三本おみやげに持ってくることを伝えた。喜んで引き受けてくれた。アハブが自分よりも酒好きなことを知っている。 教会からの帰り、同じアイルランド系のタルサを訪ねた。綿花畑の小作人として暮らしている。四十歳過ぎである。子供は父親と似て凡庸な十五歳のトーマスと十歳のカーラの二人だ。三年前の風邪で奥さんを亡くしていた。長身で痩せて手足が長い。 気の弱いところがある。生活の困窮も加わって、無気力な顔色をしている。 「タルサ、元気か」 「マイケルか。何か用でも」 「ここだけの話だ。あんたも、自分の土地が持てるぜ」 タルサは、やばい臭いを感じたのか、戸惑った表情を見せた。 「一口、乗ってくれ」 マイケルという人間をタルサは知っている。言ったことは、必ず守る男だ。奴隷のような小作人から抜け出すには、乗ってみるしかないと思った。 「分かった。同じアイルランド系のあんたを信じてみるよ」 マイケルは水曜日の朝早く、わざと村の真ん中を通っている道をゆっくりと廻って町へ向かった。一頭の馬が幌馬車を引いている。中には大きな牛が乗っている。 夜中の二時頃、ケイリーの綿花畑に人影が見えた。タルサだ。一週間後に、収穫が行われる予定になっている。火を点けた。人に見られないように、すぐにその場を離れ、家に戻った。 しばらくして、ケイリーは異変に気付き、外へ飛び出した。火は畑全体に廻っていた。 翌日の朝、村の広場に村人が全員集められた。アハブとジョニーも来ていた。ショックで打ちひしがれたケイリーの後ろにローザがいる。 「誰か昨日の夜中、犯人らしき者を見なかったか」 村長が全員を見廻す。 「牧師さんが夜中、外に出て行くのを見まし た。昨晩、僕は教会に泊まっていたのです」 アハブは驚きのあまり、ジョニーの顔をまじまじと見た。 「お前はなぜ、そういう嘘を吐くんだ」 「私も見ました。夜中、おトイレに起きたと き、窓から外を見ると、牧師さんが走ってい るのが見えたのです」 ローザが前に出て来て、はっきりと言った。 「そうだ。そうだ。アハブの野郎、悪魔に憑 り付かれているにちがいない」 三年前、風邪で肉親を亡くした人たちが、叫び始めた。嘘付きの牧師を恨んでいた。 アハブは教会の地下牢に閉じ込められた。一生、出てこられないはずだ。 「火あぶりにされないだけ、益しだと思え」 人々は罵って恨みを晴らした。 ケイリーは去年の不作で、町のユダヤ人から金を借りていた。担保にしていた綿花畑の土地と家を取り上げられた。サンフランシスコに行き、中国人の移民であるクーリー達と働くことにした。港の荷運びや鉄道のレール敷きの仕事だ。 マイケルと村人たちは、ローザを哀れに思った。マイケルは一緒に住まないかと誘った。 ローザが父親とサンフランシスコに行きたいと言ったので、まとまったお金を渡した。 村人たちもお金を少しずつ出し合って餞別にした。ローザは涙を流して感謝した。 マイケルは町のユダヤ人から、ケイリーの土地と家を買い取った。タルサの家族が引っ越してきた。綿花を栽培させる。五年間、マイケルが収穫物の六割を受け取る。その後は、畑と家はタルサが所有者となるという契約書を交わした。 ローザはシスコのチャイナタウンで、住み込みで働ける店を探し始めた。ケイリーは仕事の後、毎晩、クーリー達とさいころ博打をやっている。ある日、負けが込んでいかさまをやり、ばれた。奴隷商人に叩き売られたが、隙をみて逃げ出した。その後の行方は誰も分からない。 4章(ユーコン川) 教会には、新しい神父のパウロが就任していた。プロテスタントの組織が、村の教会から退いたため、カトリックのアメリカ支部から派遣されてきた。 パウロは誠実な人柄だった。村人から、信頼と好意を持たれている。宗派にこだわらず、プロテスタントの村人にも、同じ神の子として接している。 地下牢に閉じ込められているアハブは、完全に発狂していた。自分がエジプトの王、ファラオだとか、ギリシャ神話の海神、ポセイドンだとか、アレクサンダー大王だとか、口から泡を吹いて、血走った目で喚き立てた。 「悪魔に取り付かれた」 「町の遊女に移された悪い病気のせいだ」 「アヘン中毒のせいに違いない」 村人の間では、様々な噂が流れた。実際、牧師の部屋からは、アヘンとそれを吸う煙管(きせる)が見つかっていた。 入牢から半年後の満月の夜、狼のように遠吠えを繰り返した。地獄に落ちる自分の魂を迎えに来るように、サタンに呼びかけていたのだろうか。獣の断末魔だった。上着を紐にして首を吊った。満月が雲に覆われ、辺りは闇に閉ざされた。 アハブの遺体は、荒野に穴を掘って埋められた。成牛くらいの大きな岩を荷車で運び、その上に置いた。悪霊となって、穴から出てこられないための措置である。   アラスカでゴールドラッシュが始まっていた。川底から砂金が見つかったのだ。 初夏の頃、ケイリーと仲間の三人は、ユーコン川にたどり着いた。 奴隷商人から逃げ出した後、放浪の旅を続けた.博打のいかさま、詐欺、空き巣、酔っ払い相手の強盗など、殺人以外の悪事は、ほとんど手を染めた。ブタ箱に入れられる寸前で、悪運強く逃げ延びた。たまには、まともな肉体労働をしたが、長続きしなかった。 三人の仲間も似たような人生を送ってきている。その中に、カンザスのカーネル村で、臨時の綿摘みの仕事をやったことがある男がいた。ケイリーは、カーネル村の話を聞いた。 牧師が自殺したこと。ケイリーの綿花畑をマイケルが所有していること。 マイケルがタルサを小作人にして、綿花を作らせていることなど。マイケルがタルサを使って、畑に火を付けせたのは間違いない。ローザは牧師を憎んでいたから嘘の証言をした。 ローザがアハブと自分の計画を盗み聞きして、ジョニーに話したに違いない。あの日、ローザは一緒に教会に行っていたのだ。 ケイリーは娘の口の軽さに怒りが込み上げて来た。テストの成績が悪い時、虐待に近いことをやっていた自分への復讐だったのか。母親に似て、なんて間抜けな奴だ。素性の分からない女を妻にしたのが間違いだった。 娘にも裏切られたと考えたケイリーは逆上した。アラスカで一山当てた後、マイケルの頭に銃をぶち込んでやる。カーネルの奴らにも思い知らせてやる。血走った細い目を吊り上げた。仲間の三人も誘った。生まれ付きの悪党どもは、喜んで同意した。 河口から、二艘のボートで、ユーコン川の中流まで行った。河原にテントを張ったとき、五百メートル程上流に、テントを張ってあるのが見えた。ケイリーはボートを漕いで、あいさつに行った。二人の男が迎えた。春から居るらしい。それ以外のテントは近くに無かった。 三ヶ月が過ぎた。砂金は、見つからない。ある日、上流の二人組の姿が川の中に見えない。ケイリーの感が働く。おそらく砂金を当てたに違いない。仲間と企んで、奴らの砂金を奪い取ることを決めた。 その夜、四人で五本のウイスキーを持って、彼らのテントにボートで向かった。 「やあ。たまには、一緒に酒でも飲もうと思ってね」 テントの中は、荷物がまとめられている。思った通りだ。にやつくのを抑えた。二人は戸惑いながらも同意した。 一人は小柄でゴリラのような面構えをしている。いかにも、邪悪な精神の持ち主だ。もう一人は大柄なデブで、アホを絵に描いたような顔付きだ。ゴリラが兄貴分だと分る。 焚き火を囲んで酒盛りが始まった。 「荷作りされているけど、引き上げるのかい」 「食料が尽きた。明日で帰るつもりだ」 「半年近く頑張ったのに惜しいな」 「そちらの具合はどうだい」 「秋の初めまでは粘ってみるよ」 六人は様々な話をしながら飲んだ。ケイリーの仲間は、抑え目にしている。口の軽いケイリーが、自分はカンザスシティの近くにある村の出身だと漏らしてしまった。 砂金を当てた二人は、引き上げる解放感で気が緩んだのか、すぐに飲みつぶれてしまった。 二人を縛って、口輪を噛ました。それでも、二人は目を覚まさない。二人をテントの中に放り込んだ。荷物の中に砂金の入った袋が十個もあった。 河原に揚げてあった二人組のボートを川に浮かべ、砂金の袋を積んで自分たちのテントに戻った。テントを畳み、昼間に、まとめてあった荷物をボートに分けて乗せた。 三艘のボートは、月明かりを頼りに河口へと下って行った。 5章(ケイリーの復讐) ローザがいなくなってから、半年が過ぎた。ジョニーは、心の中に穴が空いているような気がする。そんな時、ローザからの手紙が届いた。 『サンフランシスコのチャイナタウンの中華料理店に住み込みで働いている。店長と奥さんと娘さん、三人家族の店である。営業は朝の十時から夜の十二時まで。休み時間は午後の三時から一時間だけ。 朝食は仕事前、昼食は午後の休みのとき、簡単に済ます。夕食は仕事が終わってから、交代で作る。休みは月曜日。洗濯をする以外は疲れてずっと寝ている。 給与が安いから別の店に移ろうかなとも考えている。将来は、自分の店を持ちたい。中国語は不自由なく話せるようになった。父親の行方が知れなくなって、心配している』 ジョニーは、一度、シスコに行きたいと返事を出した。 村で不思議な噂が広まっていた。死んだアハブの悪霊が出没している。何人かが見たと言う。呪いを掛けられて、災いが起きるかも知れない。村人たちは、恐怖に陥った。 パウロ神父はアハブを埋めた穴を調べようと思った。数名の男達を連れて荒野に向かう。丸太を使って大きな岩を動かした。スコップで土を掘り返してみると、穴の中は空だった。 神父の額から冷汗が流れる。村人は恐怖で凍りついた。突然、空が黒い雲で覆われ、冷たい風が吹き出して稲光が走った。 神父は思わず叫んだ。「逃げろ」 村人たちは一目散に走って穴から離れた。その瞬間、雷が岩に落ちて砕け散った。 「神よ、我らを悪霊から守りたまえ」 パウロは銀の十字架を空高く放り投げた。それに雷が落ちて、強烈なまばゆい光が四方八方に放たれた。黒い雲は消え去り、青空が現れ、風が吹き止んだ。 翌日、日曜の礼拝で、神父は昨日の出来事を村人たちに話した。マイケルとジョニーを除いて、全員が参加している。 「主が我々を見守って下さいます。祈って下さい」 神父は信者の間を廻りながら、一人々に聖水を掛けた。教会から出てくる村人たちの表情には、かすかな不安が残っている。 「なぜ、初めの雷はスコップや神父の銀の十 字架に落ちないで、岩に落ちたのだろうか」 こそこそと話し合う声が聞こえる。  マイケルとジョニーは早めの夕食を食べていた。アハブとケイリーの件以来、教会の言うことを全く信じなくなった。 元々、神や死後の世界の存在に疑問を持っていた。今日の礼拝にも行っていない。あいつらは似たようなものだ。人の心の弱さを利用して、甘い汁を吸っていやがる。 タルサがやってきて、マイケルに神父の話を伝えた。マイケルはケイリーの仕業だと確信した。タルサの話からすると、仲間がいるはずだ。 「タルサ、俺の言うことをよく聞け。今夜か ら、交代で畑を見張るんだ。家の灯りは一晩中、点けて置け。麦畑は、俺とジョニーで見張る。綿花畑は、お前の家族にまかせる」 夕食が済むと、トーマスとカーラも呼んでライフルと銃の打ち方を練習した。 「俺とタルサはライフルだ。お前たちは銃を 使え。まず、上空を撃って威嚇しろ。それで も、歯向かって来たら撃ち殺せ」 その日から、五日間は何も起こらなかった。 六日目の夜半の二時ごろ、突然、村中の畑が燃え始めた。飛び移った炎が家屋にも火を点けた。村の広場に建っている塔の鐘が、狂ったように打ち鳴らされている。 俺の命を狙って来るにちがいない。仲間を使うだろう。臆病なケイリーが、自分の手で人を殺せるはずがない。タルサを家の中のテーブルの椅子に座らせて囮にした。影が窓からカーテン越しに見える。納屋の陰から見張った。 男が現れた。窓に近づき、銃で影を狙う。後ろから、男のうなじにライフルを突きつけた。 「そのまま動かずに銃を捨てろ」 男は銃を捨てた。一発、上空に撃つと、タルサが外へ飛び出した。 ジョニーとトーマスとカーラも走ってきた。 「仲間はどこにいる」 「・・・」 男はどうしたらよいのか迷っている。凶暴なアメリカ熊、グズリーのような顔つきと体格だ。 「仲間のところに案内しろ」 男の背中をライフルの銃口で押した。 「タルサ、銃を持って一緒に来い。お前たち はそのまま、警戒を続けろ」 タルサはトーマスにライフルを渡し、代わりに銃を受け取った。相手のとっさの動きに対応するのは銃のほうが速い。 「タルサ、こいつの動きから目を離すな。い つでも撃てるように構えて置け」 グズリーは、村のはずれにある森の方に歩き出した。その後ろからタルサと付いて行く。森の約百メートル手前に来たとき、止めさせた。 「あの中か」 何も応えない。グズリーとの心理戦が始まっている。うかつに近付くと撃たれる。三日月の明かりでは、人影くらいは見える。 グズリーを囮にする。 「一人でゆっくりと仲間のところまで歩いて行け。走り出したり、叫んだりすると、その場で撃ち殺す」 半分まで近づいたとき、森から三人の人影が出て来るのが見えた。三人とも、ライフルを持っているようだ。 「伏せろ」グズリーが突然叫んだ。三人はすぐさま反応した。四人の姿が消えた。グズリーが歩き始めたときから、マイケルとタルサは伏せていた。 頭上を銃弾が飛んで来る。 「タルサ、ここで銃を撃て。俺は連中の左側に廻る」 タルサは、伏せたまま、銃を二発続けて撃った。それに合わせて、草地の上を左側に転がった。ライフルを両手に持ち、頭上で地面と平行に真っ直ぐ伸ばして、胴体と一緒に回転する。タルサは敵と撃ち合いを続けている。 元の位置から二十メートルほど離れた。小(こ)屈(かがみ)みになって、小走りでさらに左側に走り出す。 相手は、こちらの動きに気付いていない。近付いて、また、伏せる。そのままの状態で、腕と足を使い、じわじわと敵に向かって前進する。 ある程度近付くと、人影が四人見えた。ケイリーがいる。四人は腹這いの状態で、ライフルと銃を構えている。グズリーがマイケルの方を見た。 「左だ」 叫んだ瞬間、グズリーの額から、血が吹き飛んだ。右側に転がって弾を一発込める。二連発式のライフルである。左肩をかすって銃弾が走った。ナイフで切り裂かれたような痛みが襲う。二発続けて引き金を引いた。一発が 一人の首、一発は隣の男の心臓の辺りを貫いた。残りはケイリー一人だ。弾を二発込める。 「ケイリー、動くな。ライフルを前へ投げろ」 ケイリーは言われる通りにした。マイケルはライフルを構えたまま、ゆっくり立ち上がる。 「タルサ、終わった。こっちへ来てくれ」 タルサは転がっているライフルと銃を拾った。 「ケイリー、立て。妙なまねをすると、同じ目に合うぞ」 ケイリーは青い顔で体を震わせている。 「ここで、撃ち殺してやってもよかったんだ が、お前に聴きたいことがある。なぜ、こう いうまねをした」 「・・・」 「村の広場に連れて行って、村人たちの前で縛り首の方を選ぶか」 「復讐だ」ケイリーは、口を開いた。 「復讐だって・・あきれるぜ。てめえの方か ら仕掛けたんじゃねえのか。ジョニーがロー ザから全部聞いた」 「あのガキ、親を裏切りやがって」 ケイリーは顔を引きつらせた。 「ローザはジョニーが奴隷にされると聞いて、 ショックを受けたんだよ。ローザとジョニーはお互いに好意を持っている。いずれ、二人は、結婚する。ローザから、ジョニーに手紙が来た。お前のことを心配しているそうだ」 ケイリーはそれを聞いて驚いた。 「ローザとジョニーが結婚する。ローザが私 のことを心配しているだって」 「当たり前じゃねえか。お前がどう思おうが、 たった一人の肉親で父親だ。義理の娘の父親を殺るわけにはいかねえ。この悪党らを始末したのも、ローザとジョニーのためだ。ローザは、いずれここに帰ってくる。こいつらから、お前が親玉と知れたらどうなる。よく考えてみろ」 「・・・」 「今回は、見逃してやる。お前は、アハブの 野郎にだまされたんだ。娘のことを思うなら、 二度とここへは来るな」 森の中には、旅立つ用意をした四頭の馬が繋がれていた。四頭の馬の鞍には、ガンベルトが股がっている。その内の二つには銃が入っている。砂金が入った袋も積まれている。 「ケイリー、お前の馬はどれだ」 ケイリーは一頭を指差した。銃の入ったガンベルトを取りあげた。 「砂金を一袋持って、さっさと失せろ。村人がやってくるぞ」 ケイリーは何も言わずに、馬に乗って去って行った。 二人は馬に乗り、一頭を引き連れて村の方へ向かった。家の焼け跡を片付けている家族がいる。 「大変なことになったな。畑は大丈夫か」 「俺のところは、家だけがやられた」 「他は、どうなっている」 「よく分からない。教会へ行ってみな」 「明日行く。賊は始末した。三人だ。アハブの悪霊に取り付かれたに違いない。森の手前に転がっている。これは奴らの馬だ」 「やはり、そうか」 家族一同、不吉そうな顔を見合わせた。 三十分程で家に着いた。 「タルサ、奴らの銃は俺がもらう。砂金は村 に寄付する。お前の家族に貸している銃とライフルは、そのままやる。その馬も、もらっておけ。ケイリーのことは子供達にも言うな。分かっているな」 タルサは、銃が入ったガンベルトと砂金の袋を地面に降ろして自宅へ帰った。 マイケルは左肩の治療をジョニーにさせ、ビールを飲んで寝た。翌日、正午頃、目が覚めた。ジョニーが食事を作っている。コーヒーとパンとハムエッグだ。 「パパ、今日は何するの」 「取りあえず、昼飯を食ったら、教会に行ってみる」 ジョニーと二頭の馬で行った。村人たちが、焼け跡から使える物を捜していた。 教会に着いた。 神父と村長と二人の村人が話し合っている。村長がこっちを見た。 「やあ、マイケル。話は聞いた。よくやった。怪我は大丈夫か」 「かすり傷だ。被害はどのくらいだ」 「畑と家が半分程、やられた」 「復興するまで、家が焼けた家族は知り合い の家と教会で生活します。エリコの教会から、 援助物資がまもなく届く予定です」 パウロ神父が側から口を挿んだ。 「奴らが持っていた砂金九袋と馬を持ってき た。アラスカ帰りの連中だろう。復興に使ってくれ。一頭はタルサにやった。ジョが乗ってきた一頭は、あんたにまかせる」 「マイケル、ありがとう」 村長は紅潮した顔で、マイケルの手を握った。 「今から、死んだ三人を荒野に運び、埋葬し ます。一緒に、アハブの魂を悪魔から解放す る祈祷を行います。手伝ってくれませんか」 神父がマイケルを見つめる。 「俺は疲れている。帰って寝るよ」 マイケルはジョニーを自分の馬に乗せると、引き上げていった。 「彼は日曜の礼拝にも来ないのですよ。いい奴ですけどね」 村長が神父の表情を伺いながら、肩を竦める。 「神は広い心をお持ちです。隣人愛を持つ人ならば、神を信じなくても、罪を許し、救って下さるのです」 パウロ神父は十字を切りながら、厳かに語った。荒野に四つの十字架が建てられ、祈りの声が風に運ばれていった。 マイケルとタルサの家族は、午前中の畑仕事の後、午後から村人たちの復興を手伝った。 六章(ローザの帰省) 二か月後、復興の目安がある程度ついた頃、ジョニーはシスコへ旅立った。ローザには、前以て手紙を出してある。カンザスシティの駅から列車に乗って、乗り換えの町で一泊し、翌日の夕方の五時にシスコに着いた。 ローザが休みを取って、駅まで迎えに来ていた。馬車でチャイナタウンまで行き、安ホテルにチェックインした。シャワーを浴びて服を着替えた。ローザの案内で、チャイナタウンを散歩した。 いろいろな国からの移民で賑わっている。東洋人らしい大道芸人が皿回しや、猿に芸などをさせている。ローザに赤いリボンの付いたクリーム色の帽子を買ってあげた。たいへん気に入ってくれて、子供のようにはしゃいでいる。 港に行った。生まれて初めて海を見た。 「何という広さだ」 感動の余り、思わず涙がこぼれた程だ。 「この海は太平洋と言うの。船に乗って真っ 直ぐ行くと、日本という島国があるの。その後ろにユーラシア大陸があって、アメリ カと同じ大きさの中国があるのよ。その周りにも、向こうにもいろんな国がたくさんあるわ」 「ローザ、いつか二人でそこに旅しよう」 夕陽が水平線に落ちようとしている。空も海も真っ赤に染まっている。ジョニーは、ローザの手を握った。二人は見つめ合い、そしてキスをした。近くのレストランに入った。シー・フードとビールを注文した。 離れて住んでいる間に起こったいろいろな話をした。ローザは働いている中華料理店の親子の悪口を堰を切ったように、二十分程、話し続けた。相変わらずである。ジョニーは軽く笑いながら、聞いている。ローザは父親の行方が分からないと涙ぐんだ。 「ローザ、カンザスに帰ったら、エリコで中 華レストランを出さないか。パパが資金を出 すと言っている」 ローザの目が輝いた。 「一人前のコックになるには、あと一年掛かるって、店長が言っているわ。そのとき、必ず、帰るわね」 その夜は、二人でホテルに泊まった。翌朝、チェックアウトして、カンザスに帰った。ローザはチャイナタウンの店に戻った。 一年後に、ローザが帰ってきた。馬車から降りたとき、ジョニーの姿が見えた。ジョニーは畑仕事をしていた。ローザはトランクを地面に置くと、走り出した。ジョニーも走り出す。 「ジョニー」「ローザ」 お互いの名前を大声で呼びながら、走り続ける。二人は抱き合い、長いキスをした。 七章(サイの出生) サイの本名はカイである。ワイオミング州のカスパーという町で、生まれた。両親は熱心な清教徒である。初子のカイが生まれたとき、驚きの声を上げた。赤子はゴリラの顔付きで、眼光が鋭く、邪悪に満ちていた。 旧約聖書から、人類の始祖、アダムとイブの長男であるカインにちなんで、カイと名付けた。創世記で、カインは両親の愛を独り占めした弟のアベルに嫉妬して、殺害する。後に、自らの犯した罪に怯え、苦悩するカインを神は憐れみ許しを与える。追放されて、辿り着いたノドという地で、家族を設けて余生を送ったと記されている。 二年後、弟のロトが生まれる。ロトは端正な顔立ち、素直で、穏やかな性格であった。両親は当然、カイよりもロトを可愛がる。カイは、ロトを憎むようになるが、顔に出すようなことはしなかった。 カイが十歳、ロトが八歳になった頃、谷底の崖の近くで、羊の群れに草を食(は)ませていた。その辺りしか、草が残っていなかったのである。 ロトが崖の淵に立って、谷底を見ているとき、後ろにいたカイの心の奥に潜んでいたサタンが目を覚ました。カイは無意識の内にロトの背中を押した。ロトは叫び声を上げながら、谷底へ落ちていった。 カイが我に返ったとき、谷底にロトの姿らしきものが見えた。カイは家に走って帰り、泣きながら言った。 「ロトが足を滑らせて、谷底に落ちた」 カイは本当にそう思ったのである。両親は大急ぎで谷底に降りた。 人間の姿を失った我が子を見て、母親は卒倒して倒れた。父親は顔を両手で覆って泣き叫んだ。 近くに立って、悲痛な表情で二人を見つめている運命ですら、己自身の過酷さに気を失いそうになった。   カイの十五歳の誕生日に、更に悲劇が訪れた。 両親はロトの死後も誕生日には、供え物をして供養した。カイは生まれてから一度もパーティーどころか、プレゼントすら貰(もら)ったことがなかった。 その夜遅くトイレにいくときに、両親の寝室から、漏れてきた嘆き声に耳を立てた。 「ああ、ロトの代わりに、カイが事故に遭えばよかったのに・・」 「神は何故、私達の祝福を取り上げ、災いを残したのか・・」 それを聞いたとき、カイの心に再び、サタンが笑みを浮かべながら現れた。翌日、気分が悪いと言って、羊の放牧の仕事を休んだ。父親が代わりに行った。母親は畑に出掛けた。 両親は外出の際、寝室に鍵を掛けていた。父親が羊や小麦を町の市場に売りにいって帰ってきたときに、寝室の隠し金庫に札束を入れるのを鍵穴から盗み見ていた。 カイは両親がいない間に、太い針金を様々な形に変えて、寝室のドアの鍵を開けることを試みた。 何回かやっている内に、成功した。いつの日か、金庫の金を盗んで、逃げ出そうと考えていた。その日が来たのだ。寝室に入った。 部屋の壁に掛かっている1メーター四方の絵画を外して、床に置いた。壁に付いている小さな取っ手を引っ張ると、五十センチ四方のドアが開いた。壁の中のスペースに、手提げ金庫があった。蓋はダイヤル式である。0から9の目盛りがある。 8桁の数列に違いないという確信があった。ロトの生年月日である。その数列をダイヤルの内側にある逆三角形のマークの先端に合わせていったが、開かない。 カイは少しの間、考えた。数列の最後の数字から逆向きに合わせていくと、蓋が開いた。札束をリュックに入れた。金庫の蓋を閉じ、絵画を元に戻した。リュックを自分の寝室に持っていき、ベッドの下に隠した。 近くの林に行き、眠り薬になる薬草を採ってきた。湯を沸かして、煎じた薬草の汁を、唐辛子漬けの辛いエキスの入っている瓶の中に入れた。両親はスープに大さじ一杯分のエキスを入れて飲んでいた。 夕方に両親が帰ってきた。母親が食事を作り始める。父親は風呂に入っている。料理を作り終えた母親が入浴する間、父親はワインを飲んでいる。母親が風呂から上がると、夕食が始まった。 メニューは吹かしたジャガ芋と鶏肉の唐揚げとトウモロコシのスープである。両親はいつものように、唐辛子のエキスをスープに入れた。美味そうに、スプーンで掬って、飲んでいる。カイは表情を変えずに、唐揚げにかぶりついている。 応接間に掛けてある時計が二回、音を鳴らした。夜中の二時だ。眠らずに、町の図書館から、くすねてきた世界中の神話に出るモンスターの本を読んでいた。 ベッドから起きた。両親の寝室に行き、ドアを開けた。ぐっすりと寝ている。自分の寝室に戻り、昼間の内に用意してあった衣服類を詰めたトランクとリュックを家の外に持ち出した。 満月で辺りは明るい。納屋に行き、石油の入った缶を持って、家の中に入った。両親の寝室に石油をたっぷりと撒いた後、家中に撒き散らして、外へ出た。ポケットからマッチ箱を取り出す。一本のマッチを箱の側面で擦って火を点け、玄関の中に放り投げた。たちまち、家中が炎に包まれた。 「俺を災いと呪った両親は、天国とやらで、 愛するロトと暮らせるようになって、俺様に 感謝しているに違いない」 カイはにやりと笑った。リュックを背中に背 負い、トランクを持った。 生まれてから十五年間も蔑まされて育ち、 今、燃え尽きようしている牢獄を後にした。 新しい人生を祝って、名前をサイに変えた。  八章 ダニエルことダニーの故郷は、コロラド州のフェニックスである。 赤ちゃんのとき、ぼろ布に包まれ、籠に入れられて、教会の門の前に捨てられていた。 独身である牧師のタダイは憐れに思い、自分の子供にした。 名前を旧約聖書に出る、ユダヤの偉大なるダビデ王にちなんで、デイビッドと名付けた。 デイビッドは、十歳にして、大人並みの体格になった。 しかし、知能の発達が三歳児のレベルで止まっていた。 言葉はなんとか話せるが、自発的に行動が出来ない。 牧師のタダイ以外は、うすのろという意味を込めて、デボと呼んだ。 十五才になったとき、劇的に運命が変わる。 日曜の午前礼拝に通う、四十代後半のシモン、三十代前半でサロメという夫婦がいた。 ある日、シモンが馬から落ちて、地面に腰の辺りの脊椎を強打した。 それ以来、男性の機能を失った。インポになったのである。 シモンは欲求不満でヒステリーの妻から逃げることだけを考えていた。 土曜の夜は町の酒場で翌朝まで、酔いつぶれていた。 サロメはデボに目を付けた。土曜の夜、食事に誘い、関係をもった。 シモンはサロメの変化に気付く。自分のインポが原因であることには目をつぶり、不倫の相手を突きとめる決心をする。 次の土曜日、畑仕事から帰ると、いつものように、風呂にさっさと入り、酒場に向かう。 途中で道の左側の林の中に入り、木陰に身を隠した。 右側は、畑が広がっている。町への道は一本しかない。 シモンの家は農家の中でも、最も外れにあった。 間男が町の住人でも、村人でも、必ずこの道を通る。 満月が憐れんだのか、人の顔が分かる明るさで、視界を照らしてくれている。 懐中時計が七時になったとき、大男がのっそりと歩いてくるのが見えた。 「あいつは、デボじゃないか。まさか・・」 後をこっそりと追(つ)ける。 デボはシモンの家のドアをノックした。サロメがドアを開け、招き入れる。 二人が食後、浴室に入っていくのを窓のカーテンの隙間から、覗いていた。 持っている鍵で、玄関のドアを開けた。浴室に入る。 上向きに横たわったデボに跨り、腰を上下に振っているサロメの背中が見える。 娘は息子を強く咥え込んでいる。 情事にのめり込んでいるサロメは、シモンが入ってきたことに気付かない。 デボの恍惚とした視線が、地下室にライフルを取りに行くシモンの姿を捉えた。 いくらアホでも、修羅場が起きることが、頭(おつむ)の中を横切った。 サロメを振り落とし、服を掴み取り、玄関で靴を拾い、納屋の中に隠れた。 家の中から銃声が聞こえた。命の危機が、うすのろを百戦練磨の兵士に変えた。 納屋にあった斧を握り、裸で裸足のまま、開いた玄関のドアの裏に隠れた。  浴室では、左の乳首を打ち抜かれて、即死したサロメが転(ころ)がっている。 局部に、ライフルの銃口を突っ込み、撃ち込んだ。 「こいつは奴の一発より、イッタだろう。こ の売女(ばいた)が。次は、アホデブを始末 してやる」 ライフルの弾を紙箱から六個取った。二個を ライフルに充填し、残りをポケットに突っ込 む。 外に出て、道を見た。かなり先にも、人の姿 はない。 ライフルの引き金に指を掛け、両手で握り、 銃口を斜め上に向けて、胸元に構えた。 ふと、後ろに気配を感じて、振り向いた。 斧を両手で、頭上に振り上げたデボの姿が網 膜に映った。 銃声が鳴ったとき、斧がシモンの頭蓋骨を叩 き割っていた。 銃弾は、デボの右耳の十センチ横を掠(かす) めていた。 快感がデボの脳味噌を稲妻のように走った。 その電気的ショックが、デボの脳回路を人並 み以上に活性化した。 町や村の人は、サロメとシモンを殺ったのは、流れのよそ者だと考えるはず。 デボは奴隷商人に売るために、連れ去られたと。逃げるしかない。 金が必要だ。教会の金庫と鍵の場所も知っていた。 服を着て、靴を履いた。人に会わないように、林の中を通って、町へ向かった。 一時間で教会に着いた。鍵の掛けていない裏門から入った。 使用人の夫婦も、この時間は熟睡している。納屋に、野菜を詰める大きな袋を取りにいく。 自分の部屋に寄り、服を着替えた。返り血を浴びた服は袋に入れた。 タダイの寝室に向かう。寝室の鍵穴に、渡さ れていた合鍵を入れて、ゆっくりと廻す。 カチャという音がしたが、タダイはすっかり 寝込んでいるようだ。 デボは金庫と鍵の秘密を教えられた唯一の人間だった。 寝室の左側の壁際に、鋼鉄の台の上に磔刑にされたキリストの銅像が置かれてある。その台が金庫である。 壁に向いている面が金庫のドアになっているから、誰も気が付かない。 鍵はタダイが首に掛けている純金の十字架である。 中心より下の部分は棒の形になっており、螺旋(らせん)状の溝が刻み込まれている。 キリストの銅像の台の向きを変えて、裏面が 見えるようにした。 タダイが首に掛けている鍵の鋼鉄製の鎖は、 ペンチでも切れない。 デボはタダイの寝顔を見ながら、考えた。 「シモンを殺せと囁(ささや)いたのは神様 だ。 自分が助かるためには、人を殺してもよいと いうことなのだ」 この考えはデボをあっさりと、行動に移させ た。 タダイの枕を引き抜いた。ショックで、タダ イは目を覚ました。 「デイビッドじゃないか。何をしている」 顔に枕を押し付けた。タダイは抵抗したが、力尽き、動きが止まった。 首から十字架を外し、金庫の方へ行った。鍵穴に十字架を左に廻しながら、挿入する。 最後まで入れたとき、カチという音がした。右に廻すと、扉が開いた。 中には、五、十、二十、五十、百ドルの札束と金貨がずっしりと詰まった袋があった。 信者からの寄付を貯めたものである。 札束と金貨の入った袋を大きな袋に入れた。   金庫の扉を閉め、台を元の位置に戻した。 高齢のタダイは、いつ、天国に召されてもおかしくない状態が続いていた。 自然死に見せる必用がある。十字架を死体の 首に掛け、枕を頭の下に入れ直した。 袋を肩に担いで、寝室のドアを閉め、鍵を掛 けた。 教会を出て、満月の明かりを頼りに歩き始めた。 列車を乗り継いで、カリフォルニア州のロスアンジェルスを経て、サンフランシスコへ向うつもりだ。 サンフランシスコは様々な国からの移民で賑(にぎ)わっていた。 中には、他の州で悪事を働いて、逃げてきた悪党もかなりいると聞いていた。 一人前の悪人になっている自分を誇りに思った。 名前から足が付かないように、デイビッドからダニエルに変えた。 九章  ダニエルは、サンフランシスコに着くと、札束と金貨から一部を除いた残りを銀行に預けた。 新品のYシャツ、下着、靴下、服と靴を買った。 ホテルに泊まり、レストランで食事をし、酒場で酒を飲みながら、居合わせた客とポーカーをやった。 飽きると、娼婦館に行き、ヨーロッパ人や中国人など、いい女を買いまくった。 そんな生活を繰り返しているある夜、酒場でサイに出会った。 一目で、サイの秘めている邪悪のパワーの虜(とりこ)になった。 サイの子分になってもよいと思った。 ダニエルはサイを「兄貴」、サイはダニエルを「ダニー」と呼んで、意気投合した。 ダニーはサイが泊まっているホテルの隣室に移った。 その日から、サイの全ての支払いをダニーがやった。 自分の方が大金を持っていると分かったからである。 数ヶ月の贅沢な生活で、ダニーの持ち金は尽きた。 サイとダニーは、多くの男たちを駆り立てていた、ゴールドラッシュに参加することに決めた。 一攫千金を求めて、ユーコン川に向かった。 十章 目が覚めた。体が動かない。両足首、手首が背中で縛られている。 猿ぐつわを噛まされている。テントの中にいる。 朝になったのか、周りが明るい。ダニーも同じ状態で、まだ寝ている。 体を寄せて、額を軽く、頭で小突く。目を開けた。とんまな表情で、こっちを見ている。 上流には、何組かテントを張っているが、こちらにやってくることはない。 ダニーのばか力でも、ロープは引き千切れないだろう。 近くに岩場があったのを思い出した。芋虫のように、体をくねらせて何とか、たどり着いた。 両足を上げて、足首のロープを岩角に当てる。膝を屈伸させて、摩っていく。 十分程で切れた。立ち上がって、辺りを見廻す。適当な高さの岩角を見つけた。 手首のロープも切り解(ほど)いた。猿ぐつわを外し、深呼吸をする。 テントの中に入り、ダニーのロープを解いてやる。 「奴らにやられた」 「兄貴、これからどうする」 猿ぐつわを外したダニーが不安げに尋ねる。 「上流に何組か、テントを張っているはずだ。 今夜、一番近いテントの砂金とボートを奪いにいく」 小麦粉に水と塩を少し混ぜて、練った生地をフライパンに油を引いて、揚げたものを食べた。肉は二日前に食べ尽くしていた。 「夜中まで、寝ておけ」 上弦の月が中天に架かったとき、ダニーを起こした。 月明かりを頼りに、川に沿って歩き始める。 小一時間程、経ったとき、最初のテントが見えた。 二人の男が焚き火を囲んでいる。 「今晩は」 精一杯の演技で、無邪気な幼児の笑顔を顔に 浮かべて声を掛けた。 二人はとっさに身構えた。ゴリラが卑屈な笑顔を浮かべて、闇の中から現れた。当然である。 後ろにいたダニーが、サイの横に出てきた。 とんまなアホ面を見た瞬間、二人の顔に留まっていた警戒心が、小鳥が枝を飛び立つように、どこかへ消え去った。 「よう、兄弟。どうしたんだい」 小太りの顔中、髭ずらの男が十年ぶりに、友人に会ったみたいな声を出した。 もう一人の痩せて、のっぽで手足が長い案山子(かかし)ような男が、立ち上がった。 「こっちへ来て、座りなよ」 自分の席を空けながら、手招きした。 サイはダニーのとんまを心から祝福した。 二人は並んで、空いた場所に腰を降ろす。 「すみません。急にお邪魔しまして」 サイも緩んだ心で、無理な演技もせずに、 素直な気持ちで話した。 「やられてしまったのです」 「何にだい」 髭ずらの顔付きが神妙に変化する。 「四人組みの連中に、砂金十袋とボートを奪われたのです」 「それは、災難だったな。よくある話だ。ここに来ている連中は、ほとんど、ならず者だ」 髭ずらは、あご鬚をさすりながら、同情の表情を浮かべた。案山子も頷いている。 「ところで、どのくらい、いるのですか」 サイが尋ねる。 「三ヶ月くらいかな」 「だいぶ、取れましたか」 「たった二袋だけだ。場所を変えようと考えている」 「よかったら、我々の場所を譲りますよ」 「あんたらはどうする」 「俺たちは、四人組を追いかけて、砂金を取り戻すつもりです。そこで、お願いがあるのですが」 「なんだね」 「そちらの砂金とボートを譲ってもらえませんか」 髭ずらは笑みを浮かべた。案山子も、にや々笑っている。 「お前の両親はイギリス人ではないだろ。『貸して』なら、まだ、話は分かるが」 「てめえの親父はアフリカの猿か。俺は『譲ってくれ』と言ったんだよ」 「ジョンソン、わしが言った通りだろ。こいつらは根っからの悪党だ」 髭ずらがあご髭をさすったのは、そのメッセージだった。 「さすがに兄貴の人を見抜く力は、いつもながらすごいです」 「おいおい。二人でべちゃくっていないで、 俺様の要求をありがたく認めろ」 「いいだろ。カールソン、テントの中から 持ってこい」 案山子が立ち上がって、テントに入ろうとした。 「待て。ダニー、お前が取ってこい。中にライフルか銃があれば、それも持ってこい」 ダニーがテントに入った。出てきたとき、 持っていたのは二袋の砂金だけだった。 「ライフルも銃も持っていないのか。無用心な奴らだな。ボートをひっくり返して、川まで運ぶぞ」 ボートは川原に揚げられている。 ひっくり返したボートに、ダニーが砂金の袋を放り込んだ。 重い船尾の方をダニーが持った。川に向かって運び始める。 髭ずらと案山子は近くにある岩場に向かっていた。 岩下の隙間にライフルと銃と弾が入った紙箱をビニールで包んで隠していた。 ボートを川に浮かべて、乗り込もうとしたとき、髭ずらの怒鳴り声が耳をつんざいた。 「そのまま、動くな」 振り向くと、髭ずらがライフル、案山子が銃口を向けている。 「ボートを河原に戻せ。逆らうと、頭が吹っ飛ぶぞ」 突然、月が雲の中に隠れた。辺りが闇に溶けた。 サイとダニーはボートに急いで乗り込んだ。 ライフルと銃が鳴り響く。 「ダニー、伏せろ」でかい図体は、銃弾の餌食になり易い。 サイは中にあった二丁のオールで、必死に川下に向かって漕ぎ始める。 サイも三十メーター程下ったとき、漕ぐのを止めてボートの中に身を潜めた。 銃弾が舷側を貫いて、頭のすぐ上の空気を切り裂いた。 舳先と船尾の一部が砕ける音がする。その夜は川下向けの強風が吹いていた。 ボートは小走り程度の速さで流されていく。 十数発の後、銃声が止まった。 再び、漕ぎ始める。一キロ程進むと、月が雲から出た。 舷側には、六つの穴が空いていた。 十分後に、左側に自分達のテントが過ぎ去るのが見えた。 河口にある小さな町に、夜明け頃着いた。ボートを乗り捨てて、砂金の袋を持った。 町の中心部に向かい、宿屋を求める。 しがない宿屋に入る。主人が不信な表情で迎えた。 「寝ているところを襲われた。無我夢中で 二袋の砂金だけ持って、ボートに飛び乗り、 逃げたんだ」 砂金の袋を見せながら、話をでっちあげた。同情の顔付きに変わる。 「よくある話だ。ときどき、死体も流れてくる」 「砂金をドルに換える店を教えてくれないか」 「近くにあるが、まだ、開いていない。十時 からだ。なんなら、私が買い取ってもいいが」 「それでもかまわん。疲れている。何か食っ て、早く寝たい」 主人は計りに砂金の袋を乗せた。 「五百でどうだい」 「まあ、いいだろう」 主人は百ドル札3枚、五十ドル札2枚、十ド ル札5枚、五ドル札10枚を持ってきて、サ イに渡した。 財布に入れて、上着の内ポケットに収めた。 砂金の袋を奥に部屋に持っていき、戻ってき た。 「料理と酒を用意する。部屋は二階の右奥の 6号室だ。 部屋代も含めて、五ドルだな。チェックアウ トは翌朝の十時だ。一日ずつ、前金でもらう」 サイは五ドル札を渡した。 「食い物と酒は、部屋に運んでくれ。それと、 明日、九時半に起こしてくれないか」 「分った。先に、ビールを持っていく。料理 はパンとハム。 サケの切り身の唐揚げとスープだ。食べたら、 皿などは、ドアの外に出して置いてもらいた い」 翌朝、ドアを叩き突ける音で目が覚めた。 「おい、ドアを開けろ」 主人が怒鳴っている。 ドアを開けると、主人が銃を突きつけて、野 生のライオンみたいに、牙を剥き出していた。 「下へ降りろ」 1階にあるテーブルの上に、二人が持ってきた砂金の二袋が置かれていた。 袋の紐は解かれている。 「中のものをテーブルの上に出せ」 サイが一袋に右手を突っ込んで、一握りをテーブルの上に置いた。 「何だ、これは」 灰色の砂だった。 『やられた。あの、髭ずらめ。砂金は別な場所に隠してやがったんだ』 内心は煮えくり返ったが、表情には出さない。 「これはどういうことだ。話に依っては、保安官を呼ぶ」 主人は銃を突きつけたまま、カイを見据える。 ダニーは、いつものアホ面で、何が起こったのか分らないまま、突っ立っている。 「強盗に襲われたときのために、その袋を用意してたんだ。このとんまが、間違えて偽者を持ってきやがった」 主人はダニーを見て、さもありなんという納得した表情に変わり、銃を引っ込めた。 「とっさの場合では、そういうこともある」 ダニーをかばっている。 サイは受け取った札束を全て返した。 「宿代の五ドルは俺のおごりだ。ここに泊まるのは、砂金目当ての強欲な奴らばっかりだ。 この大男の表情を見ていると、心が癒される」 サイはダニーのアホがもたらす人徳に心から、感服した。 「有難うございます。ダニー、お前もお礼を言いなさい」 ダニーは「ブヒ」と呟き、ニコっと笑った。 「ところで、サンフランシスコに行く方法を教えてくれませんか」 「コルドバから船が出ている。山脈を馬で越えるより、アラスカ半島廻りの船で、行った方が楽だ」 「船乗りとして、雇ってもらえますかね」 「港に行って、直接、訊いてくれ。停泊して いるはずだ」 「分りました。行ってみます。ダニー、行く ぞ」 ダニーが寝ぼけた顔で付いてくる。 宿屋を出て歩き始めた。 「ダニー、お前も役者やの。ここというとき に、アホ丸出しになる。地そのものだがな」 照れながら、少し、得意顔になる。 「兄貴、どうして、シスコに行くのか」 「俺達から、砂金を奪った奴らの一人が、漏 らした話を思い出した。 ひょろ々の、口から先に生まれたようなペテ ン師野郎だ。 奴はカンザスシティ近くの出身だ。シスコか ら、汽車を乗り継いで、カンザスシティに向 かう」   港に着いた。五名の男たちがクレーンを使っ て、貨物船に荷物を積んでいる。 一人の男が、ノートに書き付けている。 「あなたが船長か」 「そうだが。何か用でも」 「サンフランシスコに行きたい。金がないか ら、雇ってもらいたいのだが。何でもやる」 「そうだな。船乗りの経験がないのは、見て 分る。飯付きで、給料は一日、一ドルしか出 せない」 「それで、かまわない。どのくらいで着くの か」 「帆船だから、風の状態にも依るが、三ヶ月 程だ」 「サイだ。こいつはダニー。頭(おつむ)は とろいが、馬並みの力を持っている」 「すぐにでも働いてもらう。ダニーはそこに 積んである箱を橋桁(はしげた)を使って、 甲板に運べ。 クレーンに気を付けろ。昨日、荷物のロープ が切れて、クルーの一人を直撃した。即死だ。 サイは厨房に行って、コックの手伝いをしろ。 全員、曲者だから、貴重品は常に手元に置い ておけ。 特に、コックのジョナサンは、性質(たち) が悪い。 今日中に荷物を積んで、明朝、八時の出港だ」 四十代後半で小柄のジョナサンは親切だった。十五歳の頃から、船で暮らしていると言う。 クルー、一人々の性格を教えて、うまく付き合えるようにアドバイスしてくれた。 大食いのダニーには、こっそり、食事の余りを持ってきた。 「船長がそう言ったのか。たしかに、他の奴 らはそうだが、わしまで一緒にされたらかな わんな。 だいたい、あいつは人の悪いところしか見な い。 完璧な人間などいるものか。まじめな奴だが、 器が小さい。 わしが気を配っているから、この船はどうに か持っているんだよ」 ダニーは「うん、うん」と頷いている。余り 飯を食わせてもらえば、犬でも懐(なつ)く だろうとサイは思った。 九十五日後に、シスコに着いた。 給料、百九十ドルとボーナスの十ドル、計二百ドルを受け取って、船を降りた。 港の出口に向かって歩いて、人気のないところにきたとき、ジョナサンが立っていた。 「長い航海、お疲れさんでした。わしに黙っ て行くなんて、常識がないな」 「常識だって。何のことだ」 「わしがいなかったら、あんたら、今頃、海の底だぜ」 「どういうことだ」 「クルー全員が、あんたらを殺(や)ろうと 企んでいたんだよ。 わしは必死に、説得して、食い止めたんだ。 クレーンの下敷きになって死んだ奴は、本当 は、海に突き落とされたんだよ。 船長も面倒なことに巻き込まれたくないから、 嘘を付いたのさ。 あの五人は根っからの悪党だ。人殺しが唯一 の楽しみなんだよ」 「どうして、俺たちを助けた」 「俺の息子は、ダニーと同じ知恵遅れだった。 母親は他の男と駆け落ちした。 男手一人で、船の中で育てた。十歳のとき、 港に停泊中、目を離した隙に、いなくなった。 おそらく、人攫(さら)いに連れ去られたに 違いない。わしは一週間、泣き続けた」 「それは可哀想なこったな。で、何が言いたい」 「全く、感の鈍い奴だな。命を助けてやったんだぜ。 普通の人間なら、お礼くらいするのが当然だろう。」 「なるほど。あんたの言った常識とは、お礼 として、金を寄こせということか」 「よく、分かっているじゃねえか」 「残念だが、俺たちは常識の通用する人間とはかけ離れているんだ」 ジョナサンは不思議な目の色になり、険しい表情に変わった。 「おい、俺様を舐めているのか。あの五人を仕切っているのは、この俺様なんだよ」 「船長の言った通りだな。ダニー、可愛がってやれ」 ダニーがにこっと笑った。 ジョナサンは右足の裾をまくり、ふくらはぎに縛ってあった鞘から、ナイフを抜き取った。 ダニーがにやつきながら、近付いてくる。ジョナサンは蒼ざめた。 『こいつは狂ってやがる』 両手でナイフを持ち、右肘を引いた。 ダニーの心臓を目指して、突進しようとしたとき、サイに両手で胴体をロックされた。 続けざま、ダニーのパンチが顔面にぶち込まれる。 ナイフを落とし、後に崩れ倒れた。失神している。 近くに、梯子の付いたコンテナがあった。 ダニーがジョナサンを担ぎ、梯子を登った。 ジョナサンをコンテナの蓋の上に置いた。 蓋を押して、人間が入る程の隙間を開けた。 ジョナサンを頭から落とした。 サイにも、死の音が聞こえた。蓋を閉めたダニーが降りてきた。 「どうしようもない、クソ野朗だぜ。ああい う奴は、地獄でもお断わりだろうよ。 ダニー、宿を取り、風呂に入って、酒を浴び る程、飲もうぜ。 その後は、お前の一番好きなものだ」 ダニーは鼻を膨らませて、サイの後から付い ていった。 (平成30年9月15日、第1回、改稿) 11章 ケイリーはサンフランシスコに戻っていた。 人間の性(さが)は簡単に変わるものではない。 奴隷商人に売り飛ばされた苦い経験から、ギャンブルには手を出さなくなったが、酒を覚えた。タバコの量は半分に減った。 女にも入れ込み、毎日、酒場で飲み潰れた後、上玉を買いに行った。 マイケルから、お情けで貰った砂金一袋を変えた現金を半年で、使い果たした。 週払いの前金で泊まっていた安ホテルを追い出されたとき、財布には、三ドルしかなかった。 今さら、まともに働くことなど出来ない。 生き延びていくためには、また、悪事を働くしかなかった。 経験から、最も簡単な空き巣を行うことにした。 町を渡りながら、やった方が掴まれにくい。移動のために、馬を盗むことにした。 郵便局の馬小屋に目を付けた。速達のために、馬を利用している。 二頭いた。雑貨屋に行って、角砂糖十個とパンと水筒を買った。 水筒に水を詰めてもらった。リュックに入れて、港に行った。空き倉庫で寝た。 深夜に起き、馬小屋に向かう。馬小屋の五メーター近くから、角砂糖二個を二頭の足元に投げた。食った。 更に1メーター程近付き、繰り返す。もう一回やった後、掌から食べさせた。 頭を撫でる。また、食べさせる。 すっかり懐(なつ)いている。丈夫そうな馬を選んで、鞍を載せた。 柱に結んであった、手綱を外して、鞍に跨った。 馬小屋を出て、ゆっくりとサンノゼがある方向の南に向かった。 サンノゼは人口がサンフランシスコの五分の一程度の町である。 馬が歩く速さで、二日あれば着く。陽射しの強い午後は、林の中に入る。 馬に草葉を食べさせ、水筒の水を飲ませた。鞍を降ろして、木陰で休ませる。 パンをかじって、水を飲んだ後、大木の根本で横になった。 サンノゼで、ひと稼ぎすれば、また、美味い酒と料理が食える。 自分に言い聞かせている内に、眠りに落ちた。 二日目の早朝には、町が遠くに見えてきた。 今日は日曜日である。礼拝はだいたい、十時頃から始まって午前中で終わる。 教会に出掛けて、家には誰もいない。ケイリーはそれを狙っていた。十時まで、林の中で待つことにした。 懐中時計の針が行動を起こす時間を指した。馬を飛ばす。 十軒の家が集落を作っているところで馬から降りた。 一軒の家の納屋の柱に手綱を結んだ。納屋の中にあった手斧が目に入った。 全ての家の留守を確認した。人気はない。手斧を取りにいく。 裕福と思われる家から、侵入していく。手斧で玄関のドアのノブを叩き折った。 泥棒などが悪事を行っているとき、普段以上の感が働くという。 金や貴重品がどこにあるのか、分かってしまうのである。 ケイリーは二階に上がる階段を昇っていった。部屋が二つあった。 右側の部屋のドアのノブを廻そうとすると、鍵が掛かっている。 手斧で叩き壊した。夫婦の寝室らしい。クローゼットを開けて、ドレスを避けた。 手持ち金庫があった。ブリキ製の軽いものである。 手斧で叩くと、簡単に蓋が開いた。中に、札束があった。鷲掴みにして、リュックに入れる。 隣の部屋では、十三歳の少年が先程から、ベッドの下で身を潜めていた。 仮病を使って、礼拝をさぼったトミーである。泥棒が階段を降りていく足音が聞こえる。 トミーはベッドの下から這い出し、カーテンの隙間から、男が隣の家に向かうのを見た。 音を立てずに、一階に降りた。男が隣の家に入ったのを窓から見た。 家の裏から、三キロ先の教会を目指して必死に走った。 教会に着くと、牧師がスピーチを行っている最中だった。 「父さん、泥棒が、泥棒が」 「どうした、トミー。何があったんだ」 礼拝に参加している人々は後を振り返って、息を切らせているトミーを見た。 「泥棒が僕の家に入った。それから、隣のブラウンさんの家にも」 ざわつきが起こり、牧師もスピーチを止めた。礼拝には、保安官のバラクも来ていた。 「皆さん、ご静かに。トミー、泥棒は何人いたのか」 「僕が見たのは一人です」 「銃は持っていたか」 「たぶん、持っていなかったと思います。手斧でドアの鍵を壊していました」 「皆さん、私と助手のシセラが行きます。 見張りが近くにいて、銃を持っている場合も あり得ます。 皆さんは、ここで、礼拝を続けていて下さい」 バラクは保安官事務所に戻り、シセラに事情 を話した。 二人はガンベルトを締めた。シセラはライフ ルを馬の鞍に取り付けてあるベルトに挿した。 トミーの家がある集落に向かって、馬を飛ば す。   ケイリーは五軒の略奪を済ましていた。時刻 は十一時を廻っている。 あと三軒、襲うつもりだ。そのとき、かすか な地響きを感じた。馬だ。 二頭が急速に近付いている。手斧を投げ捨て た。 現金の詰まったリュックを背負って、納屋に 繋いだ馬のところに走る。 馬に飛び乗り、シスコの方向に逃げ出した。 十分程で、追いかけてくる馬の足音がはっき り耳に入った。 後ろを振り向いた。百メーター程後ろに、保 安官らしい二人の男が見える。 「止まれ。止まらないと撃つぞ」大声で叫ん でいる。 『逃げ切るしかない。捕まったら、豚箱行き だ』 ケイリーは更に、馬のスピードを上げた。 「シセラ、リュックをライフルで撃て」 バラクが叫ぶ。シセラが鞍のベルトからライ フルを抜いた。 駆ける馬から、百メーター先のリュックを撃 つのは難しい。 シセラはライフルの名人だった。両脚でバラ ンスを取りながら、的を狙う。 脚力のある馬のようだ。離される前に撃ちた い。 息を止めて、ゆっくり吐きながら、引き金を 引いた。 銃声と共に、ケイリーが前に吹っ飛び、宙返 りをして地面に転げ落ちた。 リュックが衝撃を和らげた。馬も引きずられ て、前に転んだ。   二人がケイリーに追いついた。 シセラはライフルを鞍のベルトに戻し、立ち上がった馬の手綱を掴まえて、なだめた。 バラクは、地面に横たわっているケイリーに銃を向けて、様子を観ている。 犯罪者には油断は禁物だ。経験で熟知している。 奴らは気絶したふりをして、隠し持った武器でいきなり襲ってくる。 「おい、おかしなまねをすれば、頭が吹っ飛 ぶぜ」 ライフルの銃弾で空いたリュックの穴から、 札束が見える。札束が弾を止めていた。 それを狙ってリュックを撃たせたのだ。 「助けて。銃もナイフも持っていない」 「ゆっくり、立ち上がれ。それから、リュッ クを外して、こちらに投げろ。シセラ、ロー プで、こいつを後手に縛れ」 「バラク、この馬、シスコの郵便局のものだ。 鞍にマークが入っている」 「馬泥棒に空き巣か。二年くらいは、クサイ 飯を食らうだろうな」 バラクの言った通り、ケイリーは裁判で、二年の判決を受けて、サンフランシスコの刑務所に送られた。 十二章 サイとダニーはカンザスシティに向かう前に、シスコで三日程、くつろぐことにした。 三日目の晩、クーリー達がやっているサイコロ賭博に出掛けた。 酒場でのポーカーには、飽きていた。途中で武器の密売店に寄った。 港の倉庫や荒野の焚き火の前で、夕食後、サイコロ賭博で厳しい労働のうさを晴らしていた。 ルールは簡単で、二個のサイコロを籠の壷に入れて振り、地面に置いた板の上に籠を被せて閉じる。 サイコロの目の数の和が、奇数か偶数かを賭けるのである。 日本の博徒が江戸時代から、やっているギャンブルである。偶数は丁、奇数は半と告げる。 親元が雇った壷振り師が、竹細工の壷を振る。壷が板に被せ置かれたら、客は各自で決めた掛け金を前に出し、丁半を選択する。 当てると、賭け金の二倍分が貰え、外れると掛け金が取られる。 ポーカーはプレイヤー通しの勝負だが、サイコロ賭博は壷振り師と客の対決である。 熟練した壷振り師は、サイコロをコントロール出来る。 サイコロや壷に仕掛けをしない限り、いかさまではない。読み合いの勝負である。 客は九人居た。サイはしばらくの間、目の出方のパターンを観察していた。 読めたと思った。賭け始めた。勝ったり、負けたりが続く。まだ、読み切っていない。 客が四人に減った。そのときから、勝ちが増えてきた。 他の三人もサイと同じ方に賭け始めた。負けが続く。丁半を告げるのを最後にした。 たまに、読みと逆の方を告げた。壷振り師を混乱させる作戦である。 他の客は、負けが込み、退いた。サイはそこ々勝っている。 四回勝って、一回負けたとき、最後の勝負に出た。 壷振り師が壷を置いたとき、全ての持ち金、三百五十ドルを賭けた。 壷振り師は表情を変えない。いわゆる、ポーカーフェイスだ。 これまでは、五回とも丁だった。丁の押しでくるか。半で逃げるか。 周りのクーリー達も固唾を呑んで、見守っている。 「丁」サイはクールに言った。壷振り師が壷を開けた。半だった。 サイは、壷振り師が壷を開けるとき、わずかに手前に壷をずらすのを見逃さなかった。 いきなり、左手で相手の右手首を掴み、 右手で壷を奪い取った。 相手の右手の人指し指と中指の股の間に、針が挟まれている。 「この針は何だ。いかさま野浪」 針先で、サイコロを転がしたのだ。サイは針を掴み取ると、壷振り師の掌に突き刺した。 叫び声を上げて、倉庫の方に走っていった。 サイは掛け金を素早く掴み取った。 「ダニー、逃げるぞ」 他のクーリーたちも関わりを恐れて逃げ出している。 二人が逃げようとすると、倉庫の中から、中国人が十人、出てきた。壷振り師もいる。 全員、鉈のような両刃の剣、青龍刀を持っている。 二百メーター程、離れたところに保安官の詰所があるから、銃は使えない。 胸元から手首まで、刺青(いれずみ)を彫っているボスらしい男が、サイを睨んで凄んだ。 「お前、うちの振り師に、いかさまをやって いるといちゃもんを付けたそうだな。 その上、掌に針まで射しやがった。慰謝料と して、てめえが持っている金を寄こせば、大 人しく帰らせてやる」 「ダニー、聞いたか。こいつら、アヘンのや り過ぎで、頭がいかれているようだぜ。痛い 目に合わせて、まともにさせてやるか」 ボスは大声で笑った。手下らもあざけりの笑 いを上げた。 「土素人が。中華剣術の恐ろしさを見せてや れ。切り刻んで、魚の餌にしてやる」 サイは笑みを浮かべたが、ダニーはとんまな 表情のままだった。 ギャング共はサイとダニーをそれぞれ五人で取り囲んだ。 ダニーは、懐から鎖付の分銅を、サイは鋼(はがね)の鞭を取り出した。 ダニーが振り回す分銅が、相手の頭を打ち砕く。 サイの鞭が蛇のように首に噛み付くと、頚動脈から血が吹き出した。 二十分程、経過したとき、六名は息絶え、四名は重症で、陸揚げされたマグロみたいに横たわっていた。 「口程にもない連中だぜ」 二人が引き上げようとしたとき、周りを保安 官と助手二名が銃を突き付けて、囲んでいた。 「お前らを殺人及び傷害罪の現行犯で逮捕す る。武器を捨てろ」 「おい、おい。俺たちは被害者なんだぜ。正 当防衛なのは、見れば分かるだろ」 「とにかく、留置所に入れて調べる。その後、 裁判を受けさせてやる」 二人は七年の刑を受けて、ケイリーが入所し ているマサダ刑務所に送られた。 マサダ刑務所はネバダ州の最南端にあるラスベガスの三十キロ、北に在る。 当時のラスベガスは岩山と砂漠に囲まれた不毛の荒野であった。 インディアン、コマンチ族の保護区になっている。 マサダは岩山をくり貫いて、作った監獄であ る。 豊富な地下水が流れ、三つの井戸があった。 囚人たちは所長の裁量に依って、五つの大部 屋に分けられている。 所長はネバダ州の知事から任命された白人で ある。 看守には、囚人の収容期間と名前しか伝えな い。公平に扱わせるためだ。それが後で仇に なる。 看守、コックはコマンチ族が雇われている。 コマンチ族はアパッチ族と並んで、最後まで 白人と闘った、勇敢で誇り高い部族である。   有刺鉄線で囲まれた広い敷地には、畑や牛、 豚、鶏の家畜小屋もある。 看守や運搬用の馬小屋もある。畑仕事、家畜 の世話は囚人がやる。 馬は看守自身が行う。刑務所で消費する以外 の生産物は、大都会のシスコの市場に卸す。 人件費やその他の諸経費を差し引いても、利 益はシスコで最大の会社より上廻っていた。 自給自足体制で運営する所長の権限は大きく、 知事に提出する年間帳簿をごまかし、かなり の金額を私腹に入れていた。   櫓(やぐら)には、昼夜、見張りが置かれている。 脱獄者に対しては、馬で追跡し、矢で足を射抜く場合もある。 両足を縄で縛り、砂漠を引きずって連れ帰る。 抵抗する者は、殺してもよいという許可が出ている。 接近戦にはナイフを使う。弓矢とナイフはインディアンの得意な武器である。 死体は髪の一部を切り取り、服を脱がせて、砂漠に埋める。 マサダには銃は置かれていない。奪われた場合、危険だからである。 サイが同じ部屋に入所したとき、ケイリーの心臓は止まりそうにになった。 サイはギリシャ神話の運命の女神エテナに感謝し、蛇が獲物を狙うような眼光を放って、笑みを浮かべた。 それだけで、ケイリーはサイの奴隷に成り下がった。 その部屋のボスは、ゴリアテという筋肉の塊の野獣のような大男だった。 サイとダニーはゴリアテの足元で跪(ひざま)き、頭を床に付けて、配下になることを示した。 その日の深夜、ダニーが脱いだ囚人服で、ゴリアテの口と鼻を塞いで窒息死させた。 サイの指示である。 サイはダニー、ケイリー以外の十五人に告げた。 「こいつようになりたくなかったら、所長や看守に、何も話すな」 翌朝の点呼のとき、ゴリアテは起きてこなかった。 看守が所長に知らせに走った。所長は取り調べ室で、一人ずつ、尋問したが、誰も口を割らなかった。 全員の刑期の一年間延長を言い渡した。 サイは新しいボスになった。ゴリアテのような横暴な振る舞いをしなかった。 ダニーのとんまさも彼らを笑わせた。囚人たちはサイをボスと受け入れた。 ケイリーは、サイにでっち上げた話を伝えた。 「砂金を娘に渡すためにカーネル村に帰ったとき、マイケルに奪われ、仲間の三人は殺されたんだ。九袋持っているはずだ」 仲間が行った悪事は伏せた。 サイはカーネル村に行くために、脱獄の方法を考え始める。 サイはコマンチ族の高いプライドを利用することにした。 看守が巡回にきたとき、部屋の仲間に古代神話の物語を聞かせた。看守もたたずんで聞いていた。 単調な日々を送っている看守達の間で、サイの話に興味を持つ者が増えてきた。 二週間が過ぎたある日の夕食後、看守に呼ばれた。 「今日から、毎晩、看守の部屋でお前の話を 聞かせろ。所長の許可はもらった」 「いつまでだ」 「俺達が飽きるまでだ。その間は、飯に色を 付けてやる」 サイは幼い頃から、読み耽っていたギリシャ 神話やエジプト、メソポタミヤ文明、中央ア ジアの古代史の語り部となった。 未知の世界の壮大な物語に、インディアン達 は目を輝かせて、聞き入った。 三ヶ月が経過した日、サイは仕上げに掛かった。 「私はギリシャのオリンポス山の主神、ゼウスの預言者である。 この大地を白人から、あなた方に取り戻すために、わざと罪を犯して、ここにやって来た」 サイは預言者に成りきっていた。顔付きは威 厳に満ち、体からオーラが放出された。 間氷期に、アジア大陸のモンゴリアンが凍りついたベーリング海を渡ってきて、南北アメリカ大陸の原住民となった。 インディアンの呼称は、コロンブスがインドと勘違いしたからである。 その後、ヨーロッパから来た白人に依って、 多くの部族が鉄砲の餌食になった。 生き残った少数の者は不毛の地に閉じ込めら れた。 彼らはサイの話に涙を流し、希望に表情を輝 かせた。 「所長を殺せ。ゼウスの命令だ。復讐と解放 の始まりである」 十人の看守が所長の部屋に押し掛け、ナイフ でめった突きにした。 砂漠に運び、砂の中に埋めた。 サイは三ヶ月に渡って、看守たちに英語の読 み書きと知事への報告書の書き方を教えた。 旅立ちの用意が出来た。 「他の部族にもゼウスの預言を伝えねばなら ない。 そのための費用として二千ドルが必要だ。ケ イリーも連れていきたい。彼もインディアン に同情している」 看守の代表であるモニカは鍵の隠し場所を知 っていた。金庫から、札束を掴み取って渡し た。 サイは札束をリュックに入れた。 更に、護身のために、所長が隠し持っていた 銃、二人にはナイフが渡された。サイの要望 である。 「フェニックスの北にあるアパッチ族の保護 区に向かう」 本当は、ロスに向かうつもりだ。フェニック スはコロラド州にあり、南下するのは同じだ が、西と東の逆方向にあった。 三人は馬に乗って、マサダを後にした。 その一週間前、一人の中国人が入監していた。 チャンという名のクーリーである。 酒を飲んで、クーリーの仲間とけんかになり、 相手に重症を与えた。初犯ということで、一 年の刑で済んだ。 チャンはサイと同じ部屋に入れられた。サイ コロ賭博の乱闘を倉庫の陰から見ていたこと は伏せていた。 三人が出獄したとき、サイの過去を看守に話そうとは思わなかった。 三人が連れ戻されたとき、殺されるのは目に見えているからだ。 チャンは三時間悩んだ末、ついに腹を決めた。 「モニカを呼んでくれ。二人だけで話がしたい」 チャンは所長の部屋に連れていかれた。モニカが所長の椅子に座って待っていた。 チャンはコマンチ族のプライドの高さを聞いていた。 約束は必ず守るが、騙されたら、必ず、相手を殺して報復するということも。 「取引をしたい。俺はあの三人のことを知っ ている。それを話したら、釈放してもらいた い」 モニカはチャンの目をじっと見つめた。 「いいだろう。話してくれ」 チャンはサイコロ賭博乱闘事件について語っ た。 モニカの表情が硬直していくのが、チャンの 瞳に映った。 「私はすぐに、三人を追う。殺す前に、お前 の言ったことを確認する。事実なら、望みを 叶えて上げよう」 モニカは櫓の見張りから、三人がラスベガス の方向へ向かったことを聞いて、馬を跳ばし た。 背中には、弓と十本の矢が入った筒を背負っ ている。 弓矢の名手であるモニカは、百メーター先の リンゴを射抜くことが出来た。 三百メーター程先に、コマンチ族の集落であるべガスが見えてきた。 草食動物のような敏感な感覚を持っているケ イリーは、何物かが猛速で近付いていること に気付いて、サイに伝える。 サイは嘘がばれたと、直感的に悟った。サボ テンが密生しているところで、馬から降りた。 「お前らは集落に行って、人質を取る用意を しろ。 追っ手がここを通り過ぎたら、ナイフを人質 の首に当てて、追っ手を止めろ。俺の馬も連 れていけ。 適当な理由を付けて、追っ手に見えないよう にしろ」 二人は小走りに馬を進ませ、集落に着いた。 年寄りと子供達が出てきた。 若者や中壮年は、シスコに出稼ぎに出ている。べガスは不毛地帯で、ひとつしかない井戸は水量が乏しい。 乾燥に強い芋と萎(しな)びたトウモロコシの実、サボテンの肉、昆虫やトカゲなどを食べて飢えを凌いでいる。 出稼ぎに出ている者たちから送られてくる食料品も命の綱である。 マサダで働いている者からも、ときどき、援助物資が届けられる。 「旅の者です。砂漠で迷ってしまって。水を もらえませんか。三日間、一滴も飲んでいな いのです」 十歳くらいの女の子が二つの木製の椀と水瓶 を持ってきた。 二人は椀に水を入れて数回飲み干した。 「生き返った。ありがとう」  ケイリーは女の子にお礼を述べた。女の子は、 はにかんだ笑顔を返した。 ダニーはとんまな表情で砂漠の方を見ている。 「こいつの持ち主は、砂漠で死んだ。気が立 っているから、危険だ。側に寄らないほうが いい」 ケイリーはサイの馬を女の子の家の裏側に連 れていって、繋いだ。 サイは大急ぎで、サボテンの陰の砂地に穴を掘った。 頭が出るくらいの深さになったところで、穴に身を隠した。 しばらくすると、一頭の馬がサボテンの数メーター離れたところを駆け抜けて行った。案の定、モニカだ。 「そこで止まれ」 ケイリーが怒鳴った。ダニーが水をくれた女 の子を後ろから抱き抱え、喉元にナイフを突 き付けている。 モニカは手綱を引いて馬を止めると、すぐに、 背負っている弓を手に取り、四本の矢を筒か ら抜き取った。 三本は指の三つの股に挟み、一本は弦につが えて引き絞った。 「お前らは嘘つきだ。チャンから、全部聞い た。 俺はお前らが一回息を吸って吐く間に、四本 の矢を放つことが出来る。 その子は俺の妹だ。殺すなら、殺せ。コマン チ族は死を恐れない」 緊張が辺りの空気を震わせた。サボテンの根 本の陰にいたトカゲが砂の中に潜り込んだ。 サイの姿が見えないことにモニカが気付いたとき、サボテンの茂みの隙間から、銃口をモニカに向けていた。 距離は二十メーター近く。背後から、心臓を狙っている。 ゆっくりと引き金を引いた。銃声と同時に、モニカが馬から崩れ落ちた。 直前に放たれた矢は、ダニーの頭のてっぺんをかすって、ぼろ家の壁に突き刺さった。 女の子がダニーを振り切って、モニカのとこ ろに走っていく。 息絶えたモニカに抱きついて、激しく泣いて いる。 一人の老人が膝をついて、モニカの額を撫で ている。 サイが穴から這い出てきた。嫌がるモニカの 妹をむりやりモニカの馬に乗せた。 「俺達はこれからフェニックスに向かう。お 前らがマサダに知らせに行って、追っ手を掛 けると、この子の命はないと思え。 フェニックスに着いたら、解放してやる。三 日後には帰ってくるだろう。 俺達は無実の罪で、マサダに入れられた。故 郷に帰りたいだけだ。 水と食い物を分けてもらいたい。この子の分 もだ」 モニカのところにいた老人が、サイの前にや って来た。 「わしは部族の長老で、この子は孫だ。五歳 のとき、両親が目の前で白人に殺されて以来、 口が効けなくなった。 あなた達のことを誰にも話すことはない。ど うか、命だけは、助けてくれないか」 長老は涙を流しながら頼んだ。 「俺達はそんな悪ではない。モニカには済ま ないことをした。 殺(や)らないと、こっちが殺られていた。 百ドル渡す。持ち金、全てだ。これからモニ カの葬式代を差し引いて、残りは皆で分けて くれ」 コマンチ族の人々はサイの言葉に信じた。三日経っても、女の子は帰って来なかった。   十三章 三人は汽車で、シスコからカンザスシティへ向かった。 砂金を取り返すだけが目的ではない。サイは自分の悪に、存在意義を持っている。 自分は他人に悪事をなす方で、その逆は絶対に許せないことだった。 しかも、あの砂金は人生の中で初めて、まじめに努力して、手に入れたものだ。それをまんまと奪われた。 ケイリーは一生、自分の奴隷になると誓った。裏切ったり、逃げ出したら、必ず、見つけ出して殺してやると脅した。 土下座で、女みたいな声を震わせて、「一生、あなたに仕えます」と泣きを入れやがった。 それで、半分は気が済んだ。後は砂金を取り戻すだけだ。 二日後に、カンザスシティに着いて、宿を取った。 シャワーを浴びた後、食事と酒を注文し、部屋で飲食した。 目立つ行為は避けた方が良いと考えた。翌日の午後四時、チェックアウトした。 鞍つきの馬を三頭買った。ケイリーに銃と弾を買ってやった。己の奴隷だと確信したのだ。 自分の弾を一箱買った。ダニーはナイフだけで十分だと言った。 カーネル村に向かって、馬を進めた。午後の八時頃に着いた。マイケルの家に向かう。 マイケルは夕食後、ソファにもたれながら、ワインを飲んでいた。 誰かがノックをしている。マイケルはグラスをテーブルに置き、玄関のドアに歩いていった。 「誰だ」「ケイリーだ」 鍵を外し、ドアを開けると、やつれ果てたケイリーが立っていた。 「どうした。ここへは戻るなと言ったはずだ」 「ローザに、一目だけでも会いたくて・・」 肩をすぼめ、泣き顔になって、懇願する姿に、マイケルは憐れみを感じた。 「まあ、入れ」 マイケルはケイリーを食卓のテーブルの椅子に座らせた。 「腹は減っていないか」 ケイリーは首を横に振った。 「出来たら、ワインを一杯だけ、もらえるとありがたい」 「酒を飲むようになったのか。あれから、一年近く、経ったかな。どんな生活を送ってきたかは、その姿を見れば分る」 マイケルはグラスをもう一個持ってきて、ワインを注いであげた。 ケイリーは一口飲むと、しばらく、間を取った後、口を開いた。 「ローザは今、どこに住んでいるのか」 「会って、金でもせびるのか」 「そんなことはしない。シスコの港で、倉庫係をやっている。一目見たら、シスコに戻る」 「いいだろ。ローザはジョニーと結婚した。 エリコで、中華料理店を二人でやっている。 トニーの雑貨店の向かいにある。店の二階に 住んでいる」 「繁盛しているのか」 「評判は上々だ。お前も食べてみろよ。ローザの料理は美味いぜ」 ケイリーの表情が緩んだ。 「ところで、砂金はどうしたのか」 「なぜ、そういうことを訊く。やはり、そうか。食い詰めて、砂金を狙ってきたのか。 砂金は九袋全て、村の復興の資金として、教会に寄付した。 残念だったな。てめえの仲間が村の畑に火を点けたせいだ。さっさとシスコに帰れ。ローザとも会うな」 サイとダニーは白いレースのカーテンを掛けられた窓の近くで、聞き耳を立てていた。 二人は玄関のドアを開けて、部屋の中に入った。 サイは銃をマイケルに突きつけた。ケイリーは椅子から立ち上がって、マイケルの視線を外した。 「あの砂金はユーコン川で、こいつの仲間が 俺たちから奪い取ったものだ。 取り戻しにきた。さっきの話だと、教会に、 まだ残っているかもしれない。 行ってみるしかないな。あとは、この男をど うするかだ。おい、後ろを向け」 マイケルが後ろを向くと、サイがダニーに目 で合図を送った。 近くにタルサの家族が住んでいると聞いてい る。銃は使えない。  ダニーは大きなポケットからナイフを取り出すと、ためらいなくマイケルの背中を刺した。 マイケルがわずかに体をひねったため、脊髄を外れたが、背中の右側に突き刺さった。 マイケルは前のめりに倒れた。頑丈な筋肉がナイフを飲み込んだ。 抜けないため、刺したままにしておいた。 ケイリーが持っているナイフをダニーが受け取った。   三人が馬を駈って、教会の門に着いたとき、 神父は自分の部屋で寝ていた。 首に掛けている銀の十字架が光り始めた。神 父は目覚め、悪が近づいているのを感じた。 十字架を首から外し、悪がいる方向に向けた。 「サタンよ、下がれ」 光がドアと壁を通り抜け、蜘蛛の巣のように 三人に絡みついた。強烈な頭痛が走った。 馬も悲鳴を上げて、竦んでいる。なんとか馬 を制御しながら、逃げ去った。 五百メーターほど離れると、光が消えた。 「何だ、あの恐ろしい光は。諦めるしかない な。砂金は復興に全部、使い果たしに違いな い」 サイは、初めて経験した聖霊のパワーに驚異 を感じ、蒼ざめた顔で言った。 ダニーとケイリーも震えながら頷いた。恐怖 から冷めたサイは、しばらく考えていた。 何かを思い付き、いつものあくどい表情に 狡賢い笑みを浮かべ、ケイリーに顔を向けた。 「マイケルという奴が、お前の娘の中華料理 店は繁盛していると言っていたな。 父親のお前が頼めば、少しは恵んでくれるだ ろう」 「お願いだから、それだけは止めてくれ」 「お前は俺の奴隷だということを忘れたのか。 嫌なら、ここで、お前をあの世に送ってもい いんだぜ」 サイはケイリーの臆病さを知り抜いている。 「わ、わかった。やってみる。その代わり、 ローザとジョニーに手を出さないと約束して くれ」 「仲間の娘夫婦の命を奪うほど、堕ちてはい ねえよ。俺は悪い奴にしか、手を出さねえ。 金さえ頂けたら、それでいい。ここまで来て、 手ぶらで引き上げる訳にはいかねえんだよ」 ケイリーはサイを狂人で、悪魔の申し子だと、 改めて思い知った。 三人は下弦の月明かりを頼りに、ケイリーを先頭にして、エリコに向かって馬を走らせた。 タルサは自分の畑を持って、自信を回復して いる。 元々、アイルランド人はタフで意志が強い。 北欧の島国の痩せた土地にしがみついて、生 きてきた歴史が、そのような気質を作ったと 言われている。 一緒に酒でも飲もうと思って、マイケルの家を訪れた。 玄関のドアが開きっぱなしになっている。嫌な予感がする。 「マイケル、いるかい」 家の中に入った。背中にナイフが突き刺さっ たマイケルが倒れている。 ナイフを抜かれていない分、大量の出血はし ていない。 座り込んで口の辺りをよく観た。かすかに息 をしている。 「マイケル、しっかりしろ」 ゆっくりと目を開け、タルサを見る。 「今、ナイフを抜く」 数枚のタオルとウイスキー、石油ストーブ、 二本のスプーンを用意した。 石油ストーブに火を点けた。二本のスプーン の柄をタオルで巻いてお椀の部分を熱し始め る。 熱で赤みを帯びると、テーブルの上に置いた。 次にナイフを抜いた。 すぐに、タオルで押さえる。タオルが真っ赤 に染まっていく。 タオルを取り替える。数回、繰り返している 内に、出血が収まってきた。 スプーンを傷口に押し付けた。筋肉を焼いて、 傷口を塞ぐのだ。 もう一本を使って、焼き切った。出血が完全 に止まった。 ウイスキーをぶっ掛けて、消毒した。庭に植 えている傷に効くハーブを摘んできた。 水で洗い、揉んで汁を出させ、傷口に貼った。 タオルで押さえる。 包帯代わりにシーツを破いて、背中を三回巻 いた。 マイケルの意識がはっきりしてきた。 「マイケル、誰にやられたんだ」 「ケイリーだ。二人の男を連れていた。村を 焼き討ちしたケイリーの仲間が、その二人か ら、砂金を強奪したらしい。 砂金を取り戻しに来たんだ。奴らは教会に向 かった。神父があぶない。 タルサ、教会に馬を飛ばしてくれ。俺はロー ザとジョニーのところに行く。 お前は教会から、エリコに向かってくれ」 「その体では無理だ」 「ローザとジョニーの命が掛かっている」 「分った。家に帰って、教会に向かう」 教会に着くと、神父は無事だった。タルサはエリコに馬を疾駆させた。 途中で、馬の側で倒れているマイケルを見つけた。 「マイケル、大丈夫か」 マイケルの顔は、血の気が無くなっている。 「ここで休んでいろ。俺が何とかする」 「タルサ、馬の鞍に取り付けてある袋から、 ウイスキーの小瓶を取ってくれないか」 小瓶を渡すと、一口飲んだ。目を閉じて、動かなくなった。 タルサは馬に乗り、ローザの店を目指して駆け始める。 ケイリーは中華料理店の前に立っていた。サイとダニーは店の横側に隠れている。 夜の十時を廻っている。ドアには「本日は閉店しました」のカードが掛かっている。 ドアをノックする。 「どなたですか」ローザの声だ。 「パパだよ」 確かにパパの声だ。ドアを開けた。二年ぶりの再会に、二人は戸惑っている。 ローザの目から、涙がこぼれてきた。ローザがケイリーの胸に飛びつく。 ケイリーは娘を抱きしめる。 「パパ、パパ」ローザは泣きじゃくる。 後ろから、見知らぬ二人の男が、入ってきた。一人は銃を手にしている。 ローザはケイリーから離れ、ジョニーの後ろに身を潜めた。 サイはジョニーに銃を向ける。 「どういうことなの、パパ」 涙と困惑で、表情が崩れている。ケイリーは何も応えない。 「繁盛しているそうだな。溜め込んだ銭を、全部、出してもらおうか」 「お前らみたいなクズに渡す金はない。殺すなら、殺せ」 「そうかい。望み通りにしてやろう。ダニー、可愛がってやれ」 ダニーは二人に近付き、ローザを突き飛ばすと、ジョニーの首を両手で絞めた。 ジョニーは振り解(ほど)こうともがく。 ダニーの怪力からは逃げ出せない。 ローザが二階に走って行く。金庫から、札束を全て、わし掴みにすると、息を切らせて戻ってきた。 札束をサイの前に叩きつけた。 「止めて。お金なら上げる。これで全部よ」 「初めから、そうすればよかったんだよ。も う、手遅れだね。こいつは、一度獲物に食ら い付いたら、止まらないのだよ」 ジョニーの顔は紫色になり、体から力が抜けている。 そのとき、タルサが飛び込んできて、ダニーの背中に銃を撃ち込んだ。 ダニーは、ジョニーから手を離し、前のめりに倒れた。 サイがタルサを撃つ。銃弾は左肩に吸い込まれ、後ろに吹っ飛び、壁に頭を打って、気を失った。 止(とど)めの弾きがねを引こうとしたとき、ケイリーの銃がサイに向かって、六連発の火を吹いた。 一発目で倒れたサイの体は、五回、床の上で飛び跳ねた。 倒れていたダニーが起き上がり、ポケットから、ナイフを取り出す。 ケイリーの背中にナイフを突き刺し、心臓を貫いた。風船が萎むように崩れた。 ダニーがローザにナイフを向けたとき、入り口に、銃を両手で構えたマイケルが立っていた。 「マイケル」ローザが叫ぶ。ふり返ったダニーの額から、血が吹き出した。 ダニーはきょとんとした表情で、ゆっくりと倒れた。 マイケルは大声で名前を呼びながら、ジョニーを揺さぶる。 ジョニーは咳き込んだ後、目を開ける。タルサに声を掛けると、意識を取り戻した。 ローザは床にひざまずき、ケイリーを抱き抱えている。 「パパ、パパ。お願いだから、目を覚まして」 泣きながら、ケイリーの顔を撫でている。ケイリーが微かな声を絞りだした。 「ローザ、パパを許してくれ」 最後の言葉だった。ローザは父親を強く抱きしめて、号泣した。 「ジョニー、医者を呼んできてくれ。タルサ の肩の弾を取り出さないといけない」   サイとダニーは、荒野に埋葬された。 村の共同墓地で、ケイリーの葬式が行われている。パウロ神父が聖書を読み上げている。 マイケルがローザに語り掛ける。 「ケイリーは確かに、気が弱いところがある。 だが、あいつは、お前のことを深く愛してい る。今までも、これからも」 「分っているわ、義父(おとう)さん。男の 子が生まれたら、ケイリーJrと名付けるわ。 ずっと、パパと一緒に居たいから」 今回の出来事は、以前、村を焼き打ちした悪漢の逃げ出した一人が仲間を連れて、砂金を奪い返しに来た。 砂金は全て復興に使われたことを知り、繁盛していると噂で聞いたローザの店を襲った。 たまたま、ローザに会いにきていたケイリーが巻き込まれた。 以上のことをマイケルは村人に説明した。砂金を九袋、寄付したマイケルを村人は信用している。 葬式からの帰りしな、マイケルは空から、ケ イリーが話し掛けてくるのを聞いた。 「マイケル、ワイン二本は体によくないよ。 一本にしなくちゃ」 「分ったよ、ケイリー。お前のおせっかいも、 あいかわらずだな」 マイケルは苦笑しながら、青空の彼方を見上 げた。 辺り一面に広がる麦畑が、午後の光を浴びて、 黄金色に輝いていた。   (
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