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序章 沈みゆく少女
漁師の父親から生まれたその娘は海をこよなく愛す少女だった。当然、その影響は父親の存在だった。父親は漁師として毎日のように海に出ては大物を持ち帰る。ガタイも良く濃い顔をした父親はまさに海が似合う海男だった。そんな父親から意思を継ぐように育てられていた少女の名は水越海春だ。
「海春、お前もいつか俺を超える漁師になれ」
父親はいつもそんなことを言う。それは口癖のようなものだった。海が好きすぎる父親はどうしても娘の名前に『海』と言う字を入れたかったようで四月生まれということもあり『海春』書いて『みはる』と名付けられた。
そんな海春は幼い頃から海が好きだった。父親に連れられ、釣りや素潜りは死ぬほどやってきた。海一家ということもあり、水越家の食卓には海鮮料理のオンパレードだ。毎日新鮮な魚介を食べられる。海の幸は死ぬほど食べてきたと言っても過言ではないだろう。少しわがままを言えばたまには動物の肉を食べたいものだといつも海春は物足りなさを感じていた。肉料理は水越家では御馳走に変わる。
海春は海が好きだが、さすがに漁師という職業にはなりたくなかった。理由としては多々あり朝はとにかく早い。深夜の二時、三時に小型船舶で出発は当たり前。最早、朝とはいえず深夜から業務が始まる訳なので朝が苦手な海春には無理なことであった。他にも狭い船内の中で過ごすことを強いられるし大きな揺れで気分も悪くなるし、何と言っても業務中は海上なのでプライベート空間なんて一切ないような環境で大変な職業だと思う。考えただけで海春は絶対に漁師にはなりたくないと強く思う。当然、好きイコール仕事という結びつけはあまり好ましくはない。それでも海が好きなのは変わりがない。将来のことなんてまだ考えたくない年頃だが、後五年もしたら真剣に考えないといけないことは言うまでもないだろう。そんな海春は中学生として学校に通っている。
「海春、早く起きなさい! 遅刻するわよ」
毎朝恒例とも言える母親が海春を起こすことから一日が始まる。
「うん。もう少しで起きるから」
「ダメ。そんな手には乗りません」
海春のもう少しは数時間になることもある。無理やり起こされた海春は不機嫌な顔になりながら身体を起こした。
「おはようございます」
眠そうな顔でリビングに顔を出した海春は家族で最後の登場である。
「海春、また夜更かししたのか?」
ガタイの良い父親は海春に問う。
「そんなんじゃないよ。そういえばお父さん、この時間にいるのは珍しいね」
海春の起きる時間には父はもう家を出た後が多いので珍しかったようだ。
「今日は休みだ。そうだ、せっかく家族揃っているし、少し話があるんだが」と父は切り出す。
それは海春が中学に進学すると同時に十三歳の誕生日である四月十五日に父親からある提案がある。
「海春、中学進学祝いと誕生日に今度家族でクルーザーに乗って釣りに行かないか?」
釣りはよくするがクルーザーに乗ってやるのはほとんどない。第一、漁師と言っても個人のクルーザーは所有していない。
「え? お父さん、クルーザー買ったの?」
当然、海春は疑問をぶつける。
「いや、仕事仲間が貸してくれるそうだ。どうだ? 楽しいぞ」
「行く!」
海春は即答だった。その興奮で一気に眠気は吹き飛んだ。
とある休日に約束通り、家族四人でクルーザーに乗り込んだ。父、母、それと海春の弟の海斗の家族構成だ。海斗も父親の命名で名前にしっかりと『海』が付いている。本当に海の為に生まれた家族だった。海斗は九歳でこの日、初めてのクルーザーに興奮気味だった。
操舵手は父親だ。小型船舶免許を持っている。仕事上、毎日のように運転しているので慣れたものだ。
海春はクルーザーに乗るのは初めてではない。幼い頃から度々、父親の仕事について行くことがあるのでクルーザーに乗る機会はよくあるが、母親と海斗はそうでもない。だから当然の現象が起こる訳で。
「お姉ちゃん。気持ち悪い」
と、このように船酔いしていた。
「情けないわね。そんなんじゃこの先、やっていけないぞ」
「そんなこと言ったって」
海斗は我慢できず、海に向かって吐いていた。
「もう、室内で横になっていなさい」
母親も出発して五分も経たずに倒れていた。海一家としてあってはならない事態である。運転で手が離せない父親に代わって海春が二人の面倒を見ることになった。
そしてクルーザーを走らせること一時間。ようやく目的のスポットにたどり着いた。
海春は誕生日プレゼントとして父親に買ってもらった釣竿を取り出した。いつも父親の釣竿を借りて使っていたが念願の自分だけの釣竿に興奮気味だった。餌を針に括りつけ海面に向かって投げ入れる。焦らず、ゆっくりと獲物が餌に食いつくのをじっと待ち、糸が引いたその一瞬に一気に竿を引き上げる。
釣りの極意として焦ったら駄目だ。心を無にして集中する。狙うのは当然、大物だ。
海春の釣り糸が引いた。今だ。
「来た! 大物よ」
手応えあり。掛かっても焦りは禁物。釣り上げるまで集中を切らしてはならない。少しの油断で釣糸が切れることだってある。逃すこともなく釣り上げた。
「やった! 初めて自分の竿で釣れた」
船内で大きく跳ねる魚の音で釣られるように海斗が近づいてきた。
「お姉ちゃん。釣れたの?」
「海斗。もう、気分は大丈夫なの? 見て、私が釣ったの」
海春は自分で釣り上げた魚を手に持って見せつける。
「うん。なんとか。凄いね、お姉ちゃん。ねぇ、僕もやりたい。どうやるの?」
「私が教えてあげる」
やればやるほど夢中になれる。中学生にして釣りの楽しさを知っている海春は友達に話しても理解してもらえない。寒くて何時間もその場にいるのが当たり前の釣りだが、海春は苦ではなかった。その先の喜びを知っているからだ。部活動で釣り部があれば入りたいだろうがそんな部活は当然ない。海春の特技は釣りの他にもう一つある。それが水泳である。小学生から通っているスイミングスクールでは県大会に出場するほどの実力を持っている。泳ぎが好きだからではない。海春の目的は素潜りにある。貝やウニを取る為には泳ぎの技術が必要になる。水泳は二の次であり、全ては海の為にあった。
釣れた後は新鮮なうちに刺身で頂く。これが最高の贅沢だ。市場では刺身で食べられない魚も釣りでは食べられる。それが釣りの特権であることは間違いなかった。海春は釣るだけではない。最近になってようやく魚の三枚下ろしを習得したところだった。しかし、生きた魚はまだ出来ないので修行が必要だった。今は両親の捌きを見て覚える段階だ。
釣り上げた魚で刺身パーティーが始まっていた。本日の成果は大量とまではいかないが全員分の食材はあるので大いに食した。
とある水越家の楽しい休日だった矢先に事件は起ころうとしていた。
その瞬間は突然のことだった。誰もが予想できない出来事。誰が予想できただろうか。
日差しが差し掛かっていたが急に影になり、家族の視線が一箇所に集まった。
「え?」と口を押さえながら驚く母親。
「そんな」と顔が強張る海斗。
「冗談でしょ?」と恐怖に怯える海春。
そう、その視線の先には大型の豪華客船が迫っていた。このままだったら衝突する。
「みんな! 今すぐ船から飛び降りろ!」
父親の叫び声で全員、慌てて海に向かって飛び込む。
その瞬間、海春たちが乗っていたクルーザーは豪華客船と衝突し大破した。その振動で豪華客船は傾き、コントロールを失う。船の部品が海春たちを襲う。
「お父さん! お母さん! 海斗!」
もがきながら懸命に叫ぶ海春だったが、家族はバラバラになっていた。当然、声は届かない。
海に放り出された海春は動けなかった。周囲に飛び散った部品が辺りを囲む。海水に濡れた服の重さでうまく体制が整わず、得意の泳ぎも今は役に立たない。鉛のように身体が重く感じることだろう。水面から段々遠ざかって行く。青い海の中は冷たくて暗くて光の届かないところだった。手を伸ばしても光のある水面には届くことはない。もがけばもがくほど海春の身体は海の底に引き込まれるように沈んでいく。このまま海の藻屑になって死ぬのかと覚悟せざるを得ない状況だった。短い人生だったが悔いはない。もう将来の夢なんて考えなくて済む。贅沢を言えばせめて恋人とデートをしてみたい。そんな願いも今となっては叶うことはない。
海春は苦しみながら思っていた。
(生きたい。死ぬことは受け入れよう。でも神様よ。もう少しだけ私を生かしてくれ。ほんの少しでいいから)
海春にとってたった十三年の短い人生だった。何一つ、成し遂げられていない。死は一瞬だった。しかし、死ぬ場所が海であるなら本望だった。海春は海を愛している。海でこの世を去るなら受け入れようと覚悟を決めた。息が続かず苦しくなる。意識が遠のく。時期、窒息死で死んでいくであろう。そんな時、黒い影が海春に迫る。
鮫か? 鯨か? その正体はハッキリとは見えなかった。今更そんなことはなんだっていい。どうせ死ぬなら好きにしてほしい。海春は何かに飲み込まれた。そして、視界が真っ暗になったその時、意識を失った。
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