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第一部 人魚になった少女
地球上の水の九十七・五%は海水と言われている。そのことから地球は『水の惑星』とも言われている。では、その中で海はどれくらいの深さがあるのだろうか。人類がたどり着いたのは水深約一万千メートル地点と言われている。しかし正確な水深なんて知り得ない。深海の情報はほんの一部しか分かっていない。私たち人間はまだ海を理解し始めたばかりなのだ。
広い海の中のどこかに海春は彷徨っていた。深海は本来、暗くて冷たくて寂しいところだが、海春は真逆のところにいた。
眩い光に目を覚ます。
「ここはどこ?」
全体が白い光に包まれて周囲の状況が何も分からなかった。本来海に沈んで生きているはずがない。確実に死んでもおかしくない。ならここはあの世というやつなのか。それなら素直に納得ができる状況だ。ここが死後の世界? 思いたくもないがそう思うほかない状況だった。
目が慣れ始めた頃、海春は神秘的な光景を目の当たりにする。周りは青い景色に覆われ、そして石できた建物が一面に広がっていた。海春が倒れていた場所は大理石のような床だった。普段見るような街中の景色とは大きく違っている。見たことのない光景が広がる。
一つだけ言えることは現代の日本ではない。過去の世界か未来の世界か別の世界であることは間違いなさそうだ。じゃ、ここは一体どこなのだろうか。
その場にただじっと一点を見つめてどうしていいか分からない状況の中、見たことがない魚が海春の周囲を泳ぐ。見た目はとにかく気持ち悪かった。触手のようなものから目が出ている。おまけに口から出ている牙は鋭く気味が悪かった。いや、その前に一つの疑問が脳内に浮かんでいた。
(私の横を魚が横切っている?)
つまり、泳いでいるということは、ここは水の中という訳になる。それなのに普通に息をしているし、その場に立っている。まるで地上にいる時と変わらない。
幻覚か。それとも本当は死んで海の中を霊体でさまよっているのだろうか。大いにありえる。海春は自分の存在が疑問だらけだった。
「すみません。誰かいませんか? 誰か」
声が透き通るように響く。ちゃんと喋ることもできる。しかし、その呼びかけに返事はなかった。自分だけが知らない世界に取り残されたことに強い恐怖心が襲おうしていたその時だった。
ボコンと海水が揺れる。まるで地震のようにうめき声が響き渡る。海春の近くにいた魚たちは逃げるようにどこかへ行ってしまった。何かが近づいている。気のせいなんかではない。段々黒い影が迫っていた。その正体は距離が近づくにつれてハッキリと見える。それは人間のように手足がしっかりついていて目はない。まるでエイリアンのようなその生物は確かに海春に向かって近づいていた。その数は五体。その生物は深海で生きる人型の魚人だ。身体つきは人間だが、皮膚には魚のように鱗が付いている。深海に特化した海の戦士である。
「な、何よ。あれは」
海春は後ずさりをしながらその生物から距離を取ろうとする。
逃げなきゃ。そんな思いが脳裏に過ぎった。
海春の存在に気づいてここに来たわけでは無い。たまたま、この場を通ってきた偶然の鉢合わせだった。
「なんだ、あれは」
「新種の生物かもしれん」
「いや、あれは人間だ。人間がいるぞ」
「本当だ。しかも生きている」
「捉えよ。絶対に逃がすな。海王様の手土産にするんだ」
「ラジャー」
魚人たちは海春に対し牙を向けた。
彼らは敵。捕まれば最後、何をされるは分からない。
(逃げなきゃ。とにかく遠くへ)
海春は初めてその場から動いた。走って逃げることも可能だが、得意の泳ぎで振り切ろうとする。走るより泳ぐ方が速いと踏んでのことだった。しかし、向こうの方が速い。魚人たちは連携をとって海春を囲むように配置していた。当然といえば当然。人間よりも海で暮らす生物の方が素早いに決まっていた。あっという間に袋の鼠だ。結果が見えた光景だと誰もが思う状況。捕まると確信したその時だった。
真下にある石の隙間から何かが伸び、海春の足はその何かに掴まれた。そのまま真下
に引きずり込まれる。
「え? 何? やだ! 放して」
海春は突然のことに必死に藻搔いた。しかし身体は言うことが効かずどうにもならない。暴れれば暴れるだけ体力が削られる。
「静かにしろ。奴らに見つかる」
そう、言ったのは魚人の顔の仮面を付けた海春と同じ歳くらいの男の子だった。
「あなたは誰?」
「私も人間だ。名はシュンという」
シュンは仮面を外し、素顔を見せた。その顔は整った美少年である。
人間であることが分かると海春は大人しくなり、シュンに向き合った。
「助けてくれてありがとう。私は水越海春。海に春と書いてみはるよ。それよりあの生物は何? ここはどこ?」
「君、ここに初めて来たのか? 奴らは深海に住む魚人。唯一、深海を自由に浮遊出来ることを許されている海王直属の深海のハンターでもある。そしてここは人間の知らない深海の世界だ」
「深海の世界? 海の中? 地球? 私、死んでない?」
頭の中が混乱し、疑問に思ったことをそのまま言葉に出すのがやっとだった。
「そうだ。だが、奴らに捕まれば間違いなく死ぬ」
「そんな、じゃどうすればいいの?」
「ここで職業を貰い働くしかない」
「ここで? 嫌だ。今すぐ地上に帰る方法はないの?」
「ない。この深海の世界に来てしまったらここで生きて死ぬだけだ」
「そんな、困るよ」
「嫌なら大人しくここで死ね」
「死にたくないよ」
「こうなったら仕方がないんだ。少しでも生きたいなら人魚姫に会って働かせてもらうしかない」
「人魚姫? 人魚なんているの?」
「あぁ、女として生きるなら人魚になるのが得策だ」
「人魚か。悪くないかも」
海春は淡い妄想をした。アニメに出てくるイメージをそのままする。
「なら、行け。生き残るためには人魚姫のトップであるエミリア様に会うことだ」
「エミリア様? どうやってその人に会えばいいの?」
「あれが見えるか?」
シュンは都市の一番高い建物に指を差した。
「あそこの頂上にいる。会えるのは至難の技だが、金髪のレイナと言う人魚が城の外でペットに餌をあげている。そいつに頼めば道が開ける。ただし、会えたとしてもエミリア様に弱音を吐いたり、侮辱を言ったらその場で死ぬから気をつけろ」
「死ぬの? そんな危ない人なの?」
「エミリア様は不思議な魔法が使うことができる。それに強い。分かったらさぁ、行け。僕は奴らを引きつける」
「待ってよ。一人にしないでよ」
「この社会で生きるには社会のルールに従え。生きたいんだろ?」
シュンは海春の肩を掴んで向き合うように言った。真剣な眼差しに重い現実がそこにあることを直感させる。もう、ここから逃げることは出来ないのだ。
「死にたくない。でも、ここで生きる自信がないよ」
「わがまま言うな。こうなってしまったのはお前の運命だ」
「……分かった」と、海春は渋々答える。
「後で会おう。まずはレイナに会うんだ」
「うん」
シュンは行ってしまう。たった一人で五体を相手に自ら囮になる姿はまさに勇敢な海の戦士そのものだった。
「ごめん。シュン」
海春は申し訳なさそうに言った。初対面の人にわがままを言っても仕方がない。一番高いあの建物まで三キロの距離だろうか。また襲われるかもしれないから隠れながら前に進む。
ここは深海何メートルの地点だろうか。海のことに関しては知っているようで知らない世界。当然、見たことがない生物ばかりで進むことは容易ではなかった。それに架空生物とされる人魚が近くにいると考えると未知数の世界だ。海面の上で釣りをしているような楽しい世界ではない。
「行こう」
決意を固めてその一歩は今、踏み出した。
道無き道を進む中、深海魚と言われる生物が無数にいる。この過酷な環境で生きていく為に独特の進化を遂げた生物は見た目が気持ち悪いのが数多く存在する。その中のとある生物が海春の目の前に現れる。
「ボコッ、ボコッ、ボコッ」
あまり見ないようにしていた海春だが、ついつい視界に入ってしまったその生物は大人の人間くらいの高さで縦長のクラゲのような生物だった。頭には大きな傘に手足は触手みたいなのが無数にある。ただその場にじっとしているだけで海春に何か危害を加えるようには見えない。言うなればただ見守っているように見える。目を離すとスッと姿を消していた。
その存在が気になる海春だが、ここは前に進んだ。
「怖いよ」
知らない世界に知らない生物がいることに不安が募る。大好きな海でも楽しいという気持ちが今はなかった。身を隠すように進んだ先に見えたものは宮殿に近いものであった。
「ここが人魚のいる建物なの?」
海春が辿り着いたその建物の看板には『竜宮神』と書かれていた。竜宮城は聞いたことはあるがここはまた別の建物なのだろうか。海の神がいるのだろうか。
全てが石から作られているがその高さ三十メートルはある。その大きさに海春は怯んだ。建物からは多種多様のライトが点滅しており、存在感を大きく華やかに見せていた。
敷地の外には監視役の魚人が配置されている。奴らに見つかれば捕まってしまう。まずはシュンの言っていたレイナと言う人魚に会う必要がある。果たしてどこにいるのか。
あてもなく敷地の外を遠くからウロウロしていると動物の鳴き声が聞こえた。声のする方向へ気配を殺しながらゆっくり進む海春だったがある光景が映る。
「ははは。上手ね。ご褒美よ」
その光景は謎の生物に芸を教えながら餌をあげている女の人の姿だった。その謎の生物はイルカの姿によく似ており、通常のイルカよりサイズは小さい。色はピンクで可愛らしい姿をしている。そして女の人は、上半身は人間だったが下半身は魚のような尾ビレがついている。世の中で知れ渡っている空想上の人魚で間違いなかった。その人魚は金髪で顔つきはギャルのようで目が細く鋭かった。あれがシュンの言っていたレイナだろうか。
海春は岩陰から覗くように見ていた。
「うわぁ。凄い。イルカのショーみたい」
芸を教えているその姿に夢中になっていたその時だ。
イルカに似た謎の生物たちの様子が一変して鳴き声をあげた。
「ピャ、ピャ、ピャ」
その鳴き声に何か感じ取ったのか、人魚は海春が隠れている方向に視線を向けた。
「誰? そこに誰かいるの?」
人魚は優しい口調で言う。
それに対して海春は怯えながら身体の半分を岩陰から覗かせた。
「足? もしかして人間?」
人魚は海春を見て言った。イルカに似た生物は海春目掛けて襲いかかった。
「きゃ! やめて」
集団で海春を囲むように泳ぐ。身動きは取れなくなってしまった。
「人間がどうしてここに? 悪いけど、拘束させてもらうわ」
「待ってください。あの、私、レイナって人魚に会いたいんですけど」
その呼びかけに人魚の顔つきが変わった。
「レイナは私よ。なんで私のこと知っているの? あなた何者?」
「シュンって人に聞いて会いに来ました」
「シュンですって?」
シュンの名前を聞いて表情が和らぐ。
「あなたたち。止まって」
レイナの言葉でイルカに似た生物は動きを止めた。
「話をしましょう。私について来て」
「さて、ここならゆっくり話せそうね」
案内された場所は竜宮神の裏口から入ったすぐそこにある物置だった。内装や家具なんかは全て石から作られている。海春はその石の椅子に腰掛けていた。
「改めて自己紹介するわ。私の名前はレイナ。この竜宮神で踊り子をしている人魚よ。宜しく」
「私は水越海春です」
二人は握手を交わす。
「私に会えて運が良かったわね。この聖地で人間がウロウロしていたら殺されるよ、多分」
殺されると言う言葉に反応した海春は悲しくなり、これまで抑えていた恐怖が涙となって溢れ出た。十三年間、当たり前のように生きてきた海春にとっては無知の世界。いてはいけない存在なのだ。
涙でグシャグシャになった顔を隠すように両手で目元を覆う。
「ここはどこなんですか。何にも知らなくて、無知が怖い」
「無理もないわね。本来ここは人間が来るところじゃない。いや、正確には生きられるところじゃない。ここは水深三万メートル底にある深海都市。地球であることは間違い無いけど」
「水深三万メートル?」
想像もできない深さに驚きが隠せずにいた。あの沈没船で有名な『タイタニック号』で水深四千メートルと言われている。さらに人類がたどり着いた場所として水深一万千メートルと言われている。ここはそれよりも更に深い場所に位置する。まさに深海の中の深海だ。
「どうやってここにたどり着いたか知らないけど、稀にたどり着いた人間はいると聞くわ」
「私もどうして来たのか分からないんです。何かに飲み込まれたような気はするんですけど」
「飲み込まれた?」
「いや、正確には思い出せなくて勘違いかもしれません。気づいたらここに居ました」
「なるほど」
レイナは考え込む素振りを見せた。何か思い当たる節があるようなそんな感じだ。
「人攫い」と一言、レイナは呟く。
「人攫いですか?」
「そういうのもあるってことよ。深海では海王様に仕える魚人がしているって噂もあるわ。本当かどうか私には分からないけど」
「じゃ、私はその人攫いの手によって深海に来たってことですか」
「それはないかも。もしそうなら自由に動き回れないよ。拘束されるか殺されるかの二択かな。それに奴らは人間を飲みこめるほど大きくないから違うかも」
「どんなやり方で攫うんですか?」
「さぁ。でも海の中に引き込めばどんな人間でも無力だと思うよ」
「そうですか」
(じゃ、私はどうやってここに来たんだろう?)
「深海生物に飲み込まれて途中で吐き出された。あるいは人攫いされたが何らかの手違いで落とされたかって考えるのが普通かな」
「はぁ」
海春がいくら考えても深海に辿り着いた答えは出なかった。
「方法がどうであれ、あなたがここにいる時点で元の世界に帰ることは諦めた方がいいわね。残念だけど」
その発言に海春は虚ろに目で何もない一点を見つめた。詰んだ。
「そういえば、シュンって人も人間ですよね? どうしてここに?」
「どうしてここにいるかは私には分からない。でも彼は特別。海王様と取引をして生かされている」
「取引ですか?」
「そう、海王様の命令で人間を差し出すと言う条件よ。彼はその任務を受け持っている」
「人間はこの世界ではどうなるんですか?」
「人体実験として過酷な仕打ちを受けられるわ。解剖されたり、捕食されたり、酷い仕打ちを受けるわ」
「どうしてそんなことをするの?」
「人間からしても私たち深海の生物が珍しいように私たちも人間の存在は珍しい。理論的にはそんな感じよ。新種の生物は調べたくなるでしょ」
「そんな」
海春は小さく拳を握った。これは現実だ。見たことがない深海魚もいた。人魚もいた。普通に生きてきたら絶対に見ることもない生物が目の前に広がっている。紛れもない事実だった。
「この世界に人間が辿り着いても生きていない。ほとんど死体よ。稀に生きた人間も辿り着くことはある。そして最近、生きた人間を捕まえたって風の噂で聞いたわ」
「その人たちはどうなったの?」
「さぁ、そこまでは分からない。海王様の考えは分からないわ」
この社会の在り方である。人間の世界でも仮に宇宙人や絶滅種など発見されれば研究される。違う種族の生物が共存なんて出来ないのだ。それは海春自身分かっているつもりだった。それでも受け入れがたい事実がそこにある。
「そういえばさっきから話に出てくる海王様って何者ですか?」
「この海の帝王とでも言っておきましょうか。海では力こそが全ての世界。強い者が偉い。まさに最強の生物よ。誰も関わりたくない存在ね」
「…………」
海春は固唾を飲んだ。
「現実は酷なものよ。どう、怖気ついちゃった?」
レイナは軽い口調で揺さぶりをかけた。
それでも海春の今、すべき行動はとにかく生きること。その為にはまず。
「あの、エミリアって人に会いたいんですけど、どこにいるんですか? この建物のどこかにいると思うんですけど」
「エミリア様に? いるわよ。この竜宮神の最上部に。でも、何の為に?」
「人魚になりたいんです。正確に言えば職業を貰いに行きます。そうすれば生きられるってシュンに言われて」
「まぁ、確かに人間がここで生きるなら人魚になる方が手っ取り早いと思う。そんなことが出来るのはエミリア様だけ。ただ、受け入れてくれるかは別の話よ」
「そんなに怖い人なんですか?」
「怖いなんてものじゃないわ。自分の思い通りにならなければ酷い仕打ちを受ける。その点は海王様と同じだけど、エミリア様は気分の浮き沈みが読めないから不機嫌な時に持ちかけると何を仕出かすか分からない。最悪、人間っていう理由で追い返されるのも大いに考えられる」
「そうなんですか。それでも私は会いに行きたいです。お願いします。レイナさん。会わせてくれませんか?」
レイナは難しい顔をする。やっぱりダメかと海春が諦め掛けていたその時だ。
「いいわ。案内する。でもその前に準備があるからこっちに来て」
「はい。ありがとうございます」
海春にとって生きる為の一つの希望が導かれた。
身に付けていた服を脱ぎ、レイナが用意した桃色の着物に着替えることになった。
それはまるでお姫様になったように仕上がっていた。一番小さいサイズでも海春には少し大きく感じるのはその見た目の幼さでもあった。
「これ以上小さいサイズないからとりあえずこれで我慢してもらえるかな?」
「あの、これは何ですか。私には似合わない立派な服ですけど」
「エミリア様は美しさを特に好む方でね。会うのにそんなみずボらしい服装では失礼だからしばらくそれを着てもらうよ。あんたの元の服は洗濯しといてあげる。それにその服、とっても似合っているわよ」
「レイナさんありがとうございます。この着物、とっても可愛いですね」
「いいってことよ。でも私は会わせるだけ。その先はあなた次第よ」
「はい。お願いします」
コーディネートとした海春は見違えるような美少女になっていた。少し早い成人式のように着物を着こなした後はいよいよ竜宮神の内部へ一歩を踏み出す。
その内部にはレイナ以外にも人魚がいっぱいいる。人間のように顔、髪、体型なんかは個性があってそれぞれ違う。しかし下半身は皆、ヒレが付いており人魚であることが物語っている。ここは本当に人魚の住む園だった。他の人魚に見つかると面倒なことになるとのことでレイナは海春を背中で隠しながら移動した。
「あ、レイナ。そんなところで何をしているの」
と、他の人魚が早速、喋りかけた。それに対し、レイナは背筋が伸びて緊張が走る。それは薬物を隠し持っている容疑者が警察官に職質されたような状況に近い。咄嗟にレイナは海春を壁と柱の隙間に隠した。
「別に。ペットに餌をあげて来たところよ」
「そう言えばあんた今月当番だったわね。それはそうと早くしてよね。今日はお客さんが多いんだから」
「うん。ごめん。すぐに行くよ」
人魚が立ち去ろうとしたが動きが止まる。
「そういえばあんた、人間臭くない?」
「え? そうかな?」
レイナの鼓動が伝わってくるようにまた海春もドキッとした。ピンポイント過ぎる指摘である。嫌な汗が滴る。
「うん。なんか臭う。あんた、ひょっとして」
「ペットたちが拾い食いしたんじゃないかな? あの子達今日はそんなに食べなかったみたいだから」
「それならいいけど、人間がいるって分かったら大ごとよ。気を付けてよね。特にエミリア様にはね」
「分かっているって」
なんとかやり過ごしたようだ。大きく息を吐き緊張の糸が切れた。まさにその人間をエミリアに会わせようとしているなんて思いもしないだろう。
「ふぅ、危なかったわね」
「すみません。私の為に」
「気にしないで。ほら、もう少しだから行くよ」
「あの、それより大丈夫なんですか?」
「何が?」
「人間の私をエミリア様に会わせて。レイナさんに負担かかっているなら悪いですよ」
「何を今更。会う為にここまで来たんだろう」
「それはそうなんですけど。人間ってだけで否定されたら私、死ぬしかないのかなって」
「大丈夫。エミリア様は人間だけで軽蔑するような方じゃないから」
ウインクさせながらレイナは言うが海春は不安でいっぱいだった。それでも会うしか選択肢は用意されていないので仕方がない。
「どうして初対面の私にここまで良くしてくれるんですか?」
レイナの背中に海春は問いかけた。
「どうしてかな。自分でも分からない。でも、あなた私と同じ匂いがするのよね」
それは人間臭いという意味なのか。そんな疑問を持った海春だったが聞き返すことはしなかった。
そして、海春は様々な苦難を超えてようやく最上部に辿り着くことができた。襖のような扉だった。この先に人魚姫がいるのか。海春は固唾を飲んだ。
「何とかここまで来られたわね。私が案内できるのはここまでよ。後は一人で行きなさい」
「どうもありがとうございます。レイナさんって良い人ですね」
「うん、検討を祈るわ」
レイナは親指を立てながら言った。
レイナが去るのを確認し、深呼吸をして気持ちを切り替える。この先で海春の運命は変わることは間違いなかった。もしかしたら死ぬかもしれない。そんな緊張感の中、海春は襖に手を当てた。
「失礼します」
学校の職員室に入るように扉を開ける。扉の奥にはカーテンで仕切られたところがある。カーテンの向こう側にエミリアがいるのか。一歩を踏み出そうとしたその時である。
「ノックもしないで扉を開けるのね」
カーテンの奥から美声で言われる。海春は踏み出そうとしていた一歩を引っ込める。初手から行動をミスしてしまった。行動の後悔が海春を襲う。取り返しがつかなくなる前にすぐに行動に移す。
「大変申し訳ありませんでした。ど、どうかお許しを」
海春はすぐに頭を下げた。なんなら土下座をしてもいい場面であるが、アタフタするだけで行動に移せない姿がそこにはあった。
「まぁいいわ。レイナから話を聞いているわ。うちで人魚として働きたいんだってね」
声だけでその強い圧力がじりじりと伝わってくる。ここから逃げたい。関わりたくない。と言う思いが海春を支配する。カーテンの奥から禍々しい気配が痛感したのだ。背を向ければ楽だがそうもいかない。恐怖を噛みちぎって言葉にする。
「はい。ここで働かせてください」
「ちょっとお顔を見せてちょうだい。こっちへおいで」
「はい。失礼します」
一歩一歩を前に進めるがその動きはロボットのようにぎこちない。目の前に来るとゆっくりカーテンを巻き上げて中に入った。
「あっ」
海春が目にしたのは巨大な人魚だった。ベッドに横向きで寝転がり大きなあくびをしながら待ち構えていた。レイナたちの普通の人魚と比べ、三倍か、いや五倍はある。大きいだけじゃない。顔は可愛い系の美人でスタイルも良い。髪は桃色で透き通ったように輝いていた。まさに人魚の中の人魚姫だ。他の一般の人魚と比べて明らかに格の違いが見て分かるほどに。
「あなたがエミリア様ですか?」
「いかにも。そなた、名を名乗れ」
「水越海春です」
「みはるか。そなた、人間だろ?」
「はい。人間であります」
海春は正直に言った。この世界では人間と共存することは難しい。それはあくまでも職を持たない立場のことで人魚としてやっていけばその問題は解決だ。海春とエミリアの対面はある意味、企業面接の場でもある。ただ違うことは不採用であればそのまま死を意味する命がけの面接に等しかった。
「ほう、生きた人間とはこれまた珍しいわね。しかし、そなたは弱そうだ。とてもじゃないがここではやっていけないよ。帰りな」
呆気なくエミリアは手を払い退けながらシッシッと言う。弱そうという見た目で追い出されてしまう。確かに海春はまだ成長期で幼く小柄で弱そうに見えるが、そんなことで判断されたのではたまったものではないだろう。それにここで追い出されたら生きていく手段は万に一つない。そのことは海春自身よく分かっていた。チャンスをここで逃したくない一心で頭と床が密着するくらい土下座していた。
「お願いします。私をここで人魚として働かせて下さい。雑用でもなんでもやります。すぐに戦力になるのは難しいかと思いますが懸命に努力します。だから……」
「お黙り。何が何でもやるだの努力だのそんな口からのでまかせは聞きたくない」
「そんなことはありません。私は本気で……」
「黙れと言っておろう。そんな簡単に人間が人魚になれると思ったら大間違いよ。小娘が! なんなら今すぐ海王の元に送ってあげようか」
エミリアという人物がどんな人なのか。一つだけ言えることは性格が悪い。見た目は美しいが中身はドス黒い悪魔だった。人間でも同じことは言える。エミリアのような女性は五万といる。
下げた頭でその表情は読み取れないが、海春は恐怖で一杯だった。だが、涙は見せなかった。もし見せれば自分の弱さを見せることになる。そうなればすぐにでも摘み出されることが想像できたからだ。歯を食いしばり、もう一度言う。
「そこをなんとかお願いします。なんでもしますから」
全ては生き残る為の誠意だった。死になくない思いが強く出ていた。海春の目はまだ死んでいない。その行動を観察していたエミリアは身体を起こして向き合う。
「海春と言ったか。そなた、特技はあるか」
「特技ですか? と、言われましても」
「なんでも良い。自分の個性を見せてみろ」
海春は今、試されている。もし、ここで間違ったことをしたらエミリアの機嫌を損ねることは目に見えたこと。それに何もなかったらその場で死ぬことだって考えられる。今、この場で海春が披露できる特技としては限られている訳だ。
「泳ぎます!」と手を上げて宣言する。取り柄はこれしかなかった。
「ほう。ではやってみろ」
「はい。見ていて下さい」
深海のこの地で通常通り泳ぐことができるかは別ものだった。第一、人間は歩くことが本能であり、人魚に比べればその質は劣る。海春は最上部から外に出て羽ばたくように泳いだ。
海春にとってこの深海では不可解なことが起こっている。まず息ができる。そして歩いたり喋ったり地上と変わらない行動が出来る。それなのに泳ぐことも可能だ。だったら無限に泳げるようなそんな感覚が生まれてしまうのは不思議ではない。
ここでは自由にクロール、背泳ぎ、バタフライ、平泳ぎは全てができる。しかしここでは息継ぎは必要ないので海春は潜水をして楽しんだ。周りにも深海魚たちが集まってくる。
「ピャ、ピャ、ピャ」
更に集まってきたのはレイナが餌をあげていた生物だ。まるで一緒に泳ぎたそうに海春の横をしっかりとついてくる。その数は八体。海春を中央にして周りを囲むように配置していた。
「ねぇ、君たちの背中に乗って良い?」
「ピャ!」
了解を得るかのようにその生物は鳴いた。背中を差し出したそのうちの一体が近付く。ピンクの色合いが一番濃く身体つきが小さい。おそらく仲間の中では一番子供である。
海春は背中に跨ると泳ぐ速度は上がった。それはまるでイルカのトレーナーが一緒に泳いでいるような神秘的なものだった。海春はさっきまでの恐怖が嘘のように笑顔が溢れていた。
「速い。もっとスピード上げられる?」
「ピャ!」
言葉が分かるのか、速度が更に増していく。
海春はまるでテーマパークに来ているように泳ぎを楽しんでいた。エミリアはその姿をしっかりと印象付けた。
「ほう、面白い」と言葉でエミリアは呟くが顔は一切笑っていない。それはアイドルの卵を見つけたプロデューサーである。
海春を乗せて泳いだ生物は深海生物の一つ、デープドルフイン。イルカの仲間とされている。体長は最大一・五メートル程の比較的小さい。深海に特化した種族だ。
「コルクに乗りこなすとは海春よ、なかなか良い泳ぎだった。あそこまで乗りこなすのはそうはいない」
エミリアは拍手をしながら褒めた。その言葉に海春は嬉しくなり「ありがとうございます」と上機嫌だった。
因みに八体の中でそれぞれ名前があり、その中で海春を背中に乗せたデープドルフィンはコルクという。仲間の中では臆病な性格でなかなか懐かないのが特徴だが、海春には心を開いた様子だった。今回、コルクを乗りこなしたことで評価は上がったように見えたが、エミリアの評価はこうだった。
「だが、正式に人魚になるには試練を受けてもらう」
「試練ですか?」
「うむ。近々、海王がこの竜宮神に足を運ばれる。そこで海王の目に止まり、評価を得たら人魚として雇ってもいい」
「本当ですか?」
「勿論だ。その間は見習いとして雑用をしてもらう。海王の評価次第でそなたの運命が決まる。分かったな」
「ありがとうございます。一生懸命頑張ります」
「但し、期待に添えなければここから去ってもらうことになる。よいな?」
「分かりました」
殺すことはないが、ここを追い出されたら海春に行き場はない。実質的に死を意味することは変わらない。
「仕事に関してはレイナに教わることだ。そしてここで働く為の姿を変えてみせよう」
エミリアは手からオーラのようなものを発し、海春の身体全体にそのオーラが纏った。
「え? 何?」
海春が驚くのも無理もない。オーラの輝きが消えたと思ったら海春の下半身は魚の尾ビレに変わってしまったのだ。
「足が。私の足がなくなっている」
「そなたを人魚として変えてやった。最初は動きにくいかもしれんが時期に慣れる」
「私、本当に人魚になれたのですか?」
「そなたは紛れもなく人魚だ。但し、試練のことを忘れるな。出来なければ人間に戻して追い出すからな。あくまでそれは仮の姿だ」
「はい。分かりました」
「威勢はよいな。そなた、期待しておるぞ」
「はい。ありがとうございます。私、頑張ります」
仮という形ではあるが海春は何とか生き残る道筋を掴み取った。
エミリアの面会が終わった海春は仮ということ形でしばらく竜宮神の雑用として暮らすことになった。その運命は海王次第になる。そのことをレイナに報告すると次の反応が待っていた。
「え? そんな無茶な」と驚きの表情だった。
「私、何かまずいことでもしましたか?」
「いいか。この深海の海王様は一番の権力を持ったお方だ。その方に気に入られるなんてことは天地がひっくり返ってもありえない」
「海王様ってどんな人なんですか?」
「海王様の住む宮殿はここから更に下にある水深五万メートル地点だ。深海では一番のトップの方で少し笑っただけで公開処刑は当たり前。みんな恐れて逆らえないんだ。言うならエミリア様よりも厄介だ」
「エミリア様でも手をやくほどの人ですか」
「そうだ。言ってみれば海春には絶対に出来ない条件を突きつけられたと同じ。エミリア様はお前を追い出す気だぞ。海王様が来た時がお前の余命最後だ」
「そうかな? 最初は怖い人だと思ったけど、最後は期待しているって言ってくれたからそうとは思わないけどな」
「お前は能天気だな。エミリア様を知らないからそんなことが言えるんだ。言葉ではそう言っているけど内心はこれっぽっちも思っていない。無理難題を押し付けて出来ない姿を笑っているに違いない。後々泣くことになっても知らないぞ」
「その時は潔く諦めて死ぬよ。私は元々死ぬはずの人間だったし、今更どうなろうと変わらないよ」
その発言にレイナは呆れるように頭を抱える。
「あんたがそれで良いなら私は何も言わないよ」
海春の作り笑いから一変真顔になった。何か言いたそうなそんな感じだった。
「それで本当にいいのか?」
「良くないです。でもそれしか選択肢がないなら仕方ありません」
「海春はどっちなんだ。ここで一生を過ごして死ぬか、それとも地上に戻って人間の世界で死ぬか」
「それは決まっていますよ。可能であれば元の世界に帰りたい」
「それはそうだよな。もし、元の世界に帰れる方法があるとしたらどうする?」
「え? そんなの、決まっていますよ。てか、あるんですか? そんな夢みたいな方法が」
「あるぞ。でも可能性が低い方法だけど」
「え? 本当ですか? 教えて下さいよ。その方法」
「誰にも言わない?」
「言いません」
「ちょっと耳を貸せ」
レイナは囁くように小声でこう言った。
「海王様だ」
「海王様?」
「うん。海王様は生きた人間の研究をする部隊を作っているそうだ。それがさっき言った人攫いがそれだ。その部隊に紛れて生きた人間の捕獲の時に地上に出る。そこからうまく脱出して地上に出る。それしかない」
「生きた人間を捕まえているってこと?」
「そうだ。どのような経緯で行われているか分からないがそこが逃げる為の鍵になることは間違いない」
「分かりました。なんとかします」
「なんとかってどうするんだよ」
「分かりません。でも地上に出られる可能性があるならその希望を持ちたい」
「その希望も限りなく低いのは事実だぞ」
「それでもないよりかはマシです」
「そっか。好きにしな」
「レイナさん。どうして私にそんなことを教えてくれるんですか? レイナさんの立場からしたら私は招かざる客になるんですよね?」
「なんでかな。でも人間は良くも悪くもとは考えない。シュンみたいな人がいるって知ったから」
「そういえばシュンって何者なんですか? どうしてこの世界にいるの?」
「彼は海春と同じように突然、この世界に現れた。三年前だったかな。どうして辿り着いたのか本人にも分からない。でも、シュンには地上でどうしてもやり遂げたいことがあるから死ぬわけにはいかなかったみたい」
「やり遂げたいこと?」
「それは私も知らない。でも強い執念があるみたい。その為に同種族である人間の命を引き換えに海王様の為に貢献してきた。例え自分が鬼になってもしなくちゃいけないことってなんだろうね。私が逆の立場なら大人しく死ぬわ。仲間を売るなんてできないよ」
「でも、シュンは私を助けた。なんでだろう」
「私に聞かないでよ」
「ごめんなさい」
「まぁ、いいわ。ここでの生き方を教えてあげる。ついて来な、新入りちゃん」
「はい。お手柔らかにお願いします」
「バカ。バシバシシゴいてやるわ」
「有難き幸せ」
「ドMか? あんた」
「どうでしょう」
「それはそうと人魚の姿、似合っているよ」
竜宮神とは言ってみれば深海に位置する旅館のようなところだった。美味しい料理が並んだ席に人魚の踊り子たちが客をもてなす。人魚が酒をグラスに注いだり、話し相手になったりする場所だった。言うなれば羽を伸ばし、心をリフレッシュする為の神聖な場所だ。その中で海春が任された業務は掃除や食器などの後片付けの雑用だ。何よりその雑用の中で海王をもてなす為、踊り子として業務を覚えながら遂行しなければならない。これはプレッシャーの掛かる重要な仕事になる。当然、新人は雑用から始まり先輩たちの業務を盗んで身に付ける必要がある。一般企業と同等に新人世代は辛いことの山住みだ。
慣れない生活の二日目のことである。不安で眠りが浅い海春は寝不足だった。いつ、クビを切られるか分からない状況での暮らしなのだから尚更である。従業員の誰よりも早く起きた海春が向かった先はデープドルフィンの飼育小屋である。そう、あのイルカに似た生物だ。初日で一緒に泳いだことをきっかけにデープドルフィンたちは海春を受け入れ始めていた。今までレイナが行なっていた餌やりを引き継いでいる。ここでは全部で八匹いるが同じような見た目にまだ個性を把握しきれていない。しかし、その中で一体だけ把握している個体がある。
「コルク、おいで」
仲間の中で一番小柄な子供のデープドルフィンのコルクだ。名前を呼ぶと海春に寄ってきた。
「君は小さいんだからいっぱいお食べ」
餌である小魚を口に投げ入れる。
「ピャ!」
コルクは嬉しそうに鳴いた。数日で海春に懐いた様子である。
一連の動作を繰り返しているその時だった。海春の背中に呼びかけるその人物が言った。
「やぁ、無事に人魚になれたんだね」
「誰?」
その人物はシュンだった。あの魚人の仮面はしっかりと身につけている。再会に嬉しくなった海春は彼の元に駆け寄る。
「シュン。会いたかった。あの後は大丈夫だった?」
「なんとかね。それより海春、君もどうやらエミリア様に会えたみたいだね。その姿を見て察するよ」
「うん。でもなんか違うんだよね」
「どういうこと?」
海春はシュンの前では正直になれた。思っていることを包み隠さず、彼に打ち明けた。シュンは聞き耳を立てて頷く。
「君はやっぱり元の世界に帰りたいんだね」
「うん。生きているか分からないけど、また家族に会いたい。あの幸せだった時間に戻りたい」
「もしかしたら、君の家族は生きているかもしれない」
「それ、本当?」
「あ、ごめん。可能性の話さ」
「聞かせて、シュン」
「ついこの間、海春が深海に現れた頃に生きた人間を捕獲したって情報を聞いたんだ」
「それ、レイナさんから聞いた気がする。ねぇ、その人の特徴は? 何人捕まったの?」
「僕も直接見た訳じゃない。同じ捕獲部隊から情報が流れてきただけだ。数は確か三人。性別は分からない」
「三人か。丁度私の家族の人数と一緒だ」
「だとしてもそれが君の家族かどうか分からない」
「ねぇ、シュン。その人たちはどこにいるの?」
「海王様の宮殿にある研究室にいると思う」
「シュンはそこに入ることは出来ないの?」
「それは無理だ。そこは研究員と海王様しか入ることが出来ない。まぁ、近くに行くことは出来るけどそれだけだよ」
「そっか。やっぱり海王様に会うしか方法はなさそうだね」
「君が海王様に会える訳ないじゃないか」
「でも、エミリア様が言っていた。近いうちに竜宮神に来るって」
「会えたとしてもその人間に会える保証もそれが君の家族である保証も何もないぞ」
「だよね。それは分かっている。でももう一度家族に会いたい。少しでも可能性があるなら私はそれに賭けたい。変かな?」
「いや、君の気持ちはよく分かった。でも、その願いは容易ではないことを頭に入れておいてほしい」
「それは分かっている。簡単なことじゃないことくらい。でも、シュンも元の世界に帰りたいんだよね? 他の人間を犠牲にしてでも」
「誰からそれを聞いたの」
「レイナさんから聞いた。詳しくは知らないけど、どうしてもやり遂げたいことがあるんだよね?」
その問いかけにシュンは目を逸らした。
「聞かせてくれるかな。シュン。本当に他人を犠牲にしているの?」
しばらく黙り込むとシュンは口を開いた。
「そうだ。君の言う通り事実。僕はどんな犠牲も構わない。他人がどうなろうと僕には関係ない。どう? 僕、最低だろ?」と、開き直ったように言ってみせた。
「そうだね。シュンは最低の人間だ。ガッカリだよ」
海春はあっさりとした口調で言い放った。見離すように、突き放すように冷たい口調だった。それを聞いた本人は分かっていたように小さく微笑んだ。やっぱりと。空気を悪くした中で海春は質問をぶつける。
「でも、そこまでしてやり遂げたいことって何? 余程のことなんだよね?」
シュンは上を見ながら言い出そうか迷いを見せながら背中を見せた。仮面を外し、その手はだらんと力が抜けたように軽かった。素顔を見せたその顔には生気が感じられず死んだ目をしていた。
「僕はここに来る以前の記憶は失っている。どこで生まれたのか、今までどうやって生きてきたのか、自分が何者なのか今は何も覚えていない。ただ、一つだけ言えることは彼に『ありがとう』と『ごめんなさい』を伝えることが身体から伝わって来るんだ」
「彼って?」
その問いかけにシュンは首を横に振る。
「誰なのか分からない。でも顔はハッキリと覚えている。その記憶が唯一の鍵。それを成し遂げない限り僕は死ねない。これは自分が何者なのかを見つける為の道筋でもあるんだ」
「そっか、素敵ね。そういうの」
海春は先ほどまで『最低』と真逆のことを口にしていたがここで感情が変わっていた。
「記憶をなくしてもその強い思いは今でも心の中に在り続けている。地上に帰れたら会えるといいね。その彼に」
「うん。必ず会うさ。それだけの為に僕は今まで生きてきた」
「確かにその執念は良いと思う。でも、他人を犠牲にすることは同意できないかな」
「それはそうだよね」
「それ以外にも方法はあると思うよ。海王様を利用するとか」
「君は海王様がどんな方か知らないからそんなことが言えるんだ。敵に回すとあんなに恐ろしい方はそういない。他に方法なんてないよ」
「分かった。じゃ、私が直接頼み込んであげる」
「頼むって何を」
「シュンや私たち人間を元の世界に還してくださいって」
「君はバカか。そんな話し合いに応じるわけない。君は本当に何も分かっていない」
「そんなの分からないじゃない。誰だって話せば分かってくれるよ」
「種族が違う。人間と深海生物では訳が違う。話しても無駄だ」
「いいよ。分からなくても。私は何と言われようと会って交渉するから」
「そこまで言うなら好きにすればいい。僕はもう知らない」
「うん。そうする。私、ここで暮らす気ないから。だから自分の道は自分で決める。私は可能性がある限り諦めないから」
「海春、君は面白いな」
「え? そう? 面白いこと言ったつもりはないけど」
「いや、そうじゃなくて。まぁ、いいさ。忘れてくれ」
「途中で切られると気分悪いな」
「まぁ、お互い頑張ろう。生きて元の世界に戻るために」
海春は人魚の踊り子として。シュンは海王直属の捕獲部隊としてそれぞれの職業を手に入れたが、そこはゴールではない。あくまで元の世界に帰る為の通過点でしかない。どんなに辛い試練が待っていようと必ず耐えて生きて帰ろうと強く誓い合った。最終的な目的は同じだ。この接触によって二人の信頼関係は築くきっかけになった。
「記憶がないってことはさ、シュンって名は仮名?」
「そう。僕は本当の名前も忘れてしまった。このシュンって名前は海王様から頂いた名だ。僕は深海に来てからシュンとして生きている」
「だったら本当の名前も思い出せると良いね。その彼に会って自分の記憶を思い出す。私とまた別の目的だけど、この深海から抜け出すって言うのは同じだよね」
「そう言うことになるね」
「そうだ。どうしても聞きたいことがあるんだけど良いかな?」
「何?」
「どうしてあの時、私を助けてくれたの?」
その質問に対してシュンは仮面を被り直した。
「海春。これ運んでよ」
「はい」
「海春。これ片付けといて」
「はい。只今」
「海春。さっき頼んでおいたあれはどうなっているのよ」
「申し訳ありません。すぐやります」
「海春。ちょっとこっち来て」
「はい。少々お待ちください」
身体が一つしかない海春の身体は複数の仕事を済ませることは容易ではなかった。それなのに一度に同時に入ると何から片付ければいいのか分からなくなる。例えるのであれば食事をしながら同時に睡眠をしろと言っているようなものだ。そんな器用な人は漫画の世界にしか存在しない。それでも役にたつにはただがむしゃらにしていくしかなかった。
隙間時間にベランダの壁にもたれながら言う。
「人魚ってこんな大変なの? 思っていたこととまるで違う」
ついには不安を言葉にして海水に向かって嘆くしかできなかった。こんなことが毎日のように続くのであればそれは地獄そのもの。
「お疲れ様」
「レイナさん」
飲み物を持ってそれを海春に差し出す。
「どう? 流石に根を上げるんじゃない?」
「いえ、どうってことありません」
海春は口ではそのようなことを言っているが表情は疲れ切っていることは隠しきれていない。ただの強がりなのはレイナの目からでも読み取れた。
「新人は雑用だから大変よね」
「そうなんですよ。一気に言われても何を優先したらいいのか分からなくて」
「最初は言われたことをやっていくしかないよ。私もそうだった」
「レイナさんはどうやって乗り越えたんですか?」
「何だろう。そこはうまく誤魔化しながらかな」
「えーそんなのありですか」
「良くはない。まぁ、頑張るしかないよ」
「そうですね。少し、休みます」
海春は貰った飲み物で喉を潤した。
二人横に並んで数秒の間がそこにはあった。その後、レイナは思い出したように言う。
「あぁ、そうだ。エミリア様があんたを呼んでいたわよ」
「え? 本当ですか? 先に言ってくださいよ」
こんなところでのんびりしている場合ではないとすぐに起き上がる。どんな時でも緊張の糸を張っておかないといけない相手の呼び出しは一刻も早く向かわなければならない。優先度の高い呼び出しを早く言わないレイナに喝を入れたい気持ちはあるだろうが先輩にそんな真似は当然できない。海春は急いで最上部に向かっていく。
竜宮神の最上部は人魚姫であるエミリア専用部屋になっている。
ベッドを始め、生活に必要な類は全て揃っている。食事も呼び出し一つで運んでもらえる待遇がそこにはあった。なので、基本部屋から出ることなくそこで生活を送れるシステムになっている。エミリアは滅多なことがない限り部屋から出ることはない。言ってしまえばタチの悪い引きこもりである。定位置はベッドの上であり、必要な類はその周りを囲うように配置されている。基本動くことはない。面倒くさい者からしたら理想の生活環境になるわけでわがままな性格になるのも納得であろう。
扉をコンコンとノックをする。
「入れ」
「お呼びでしょうか。エミリア様」
後ろめたそうに海春は部屋の中へ入った。今回はしっかりと扉にノックをして了承を得ての入室だった。
入ってきた海春を見たエミリアは面倒そうに伸びをしながら言った。
「ん〜? あぁ、お前か。私が呼んだのか。忘れていたよ」
自分で呼び出しておいて忘れることはなんともお姫様らしいと聞こえがいいが悪く言えば傍迷惑である。エミリアに対しての口答えは一切できない決まりになっている。彼女の言うことは絶対。それがここでやっていく為には必要なことだ。
「思い出して頂き光栄です。要件は何でしょうか」
口答えはぜず、不慣れな丁寧語を使いながら海春は腰を低くしながら言う。
「どうだい。仕事には慣れたかい」
「はい。お陰様で」
全く手が追いつかず苦労をしていることは事実だが、話を合わせる為にそう言うしかないのもまた事実。
「そうかい。それは何よりじゃ。ところで何か面白い話をしてくれないか?」
「面白い話ですか? あの、用件というのは?」
「何を言っている。私は暇で死にそうなのだ。私を楽しませろ」
「はぁ」
海春は拍子抜けした。一体どんな用事だろうと不安一杯だったはずが、蓋を開けてみればただ、話し相手になってほしいだけのものだった。
「何じゃ。出来ないのか」
「いえ、とんでもございません。ちょっと考えさせて下さい」
エミリアは人魚の中ではトップの存在で一番権力のある地位だが本人としては指示を出すだけの仕事だ。必然的に暇を持て余し、一番下端である海春を呼びつけて相手をさせようとしていたのだ。大方、状況を飲み込めた海春だが、いきなりの無茶振りに少々手をやく。これぐらいのことも想定できないようであればここでは生きていけない。
「よく考えるんだぞ。面白くなかったら蛙にしてやるからな。フフフ」
笑みを浮かべながらサラッととんでもない発言が飛び交う。海春に大きなプレッシャーがかかる。
蛙なんて絶対に嫌だ。海春は、爬虫類は苦手だ。それだけは何としても阻止しなければならない。
不意打ちに面白いことを言えと言われて面白いことを言える人はそういない。面白いことを前提の状況で言っても滑ることの方が確率的に高い。そう考えると芸人は凄いと感じてしまう。エミリアのわがままに反る行動をすれば何をされるか分からない。
海春が考えに考えた言葉はこうだった。
「海は全ての生命を生み出してきた!」
「……、」
海春の発言に対して重い沈黙が流れた。エミリアは眉一つ動かさず、尚も表情は硬い。
(あれ?)
「何回も見たいのになんか芋みたい」
すかさず海春は別の言葉を言う。呆れを切らしたのか、エミリアはついに口を開いた。
「なんじゃ。それは」と不機嫌な表情だった。今にでも魔法で蛙にしてやろうと人差し指が海春に向いていた。
「えっと、ダジャレです」
「ダジャレとはなんじゃ?」
「なんと言いますか。一つの言葉を似通った音を持つ言葉をかけてやる言葉遊びです。『布団が吹っ飛んだ』みたいな同じ言い回しが入っているものでして」
「うみはすべてのせいめいをうみだしてきた……。なんかいも、なんかいも」
意味を理解したエミリアはブツブツと海春の言った言葉を復唱し始めた。そして、意味が繋がった時、表情が軽くなった。
「ぷふ。あははは」
エミリアの笑い声が部屋全体に響き渡った。まさか親父ギャクとも言えるダジャレにここまで大受けするとは思わなかっただろう。一番驚いたのは海春本人である。
「エミリア様! どうかされましたか」
笑い声を聞きつけた竜宮神の護衛である警備隊の何体かその場に駆けつけた。
「貴様、エミリア様に何をした」
状況だけ見た警備隊は真っ先に海春が何かしたと判断してその身柄を拘束しようと動いた。
「奴を捉えよ」
兵隊の魚人が動き出したその時だった。
「静まれ。其奴に触れることは妾が許さぬ」と、エミリアの一括にその場の全員が凍りついた。
「申し訳ありませんでした」とゾロゾロと引き下がる。
「呼び出していないのに勝手に入ったことは後で罰を受けてもらうからな。覚悟しておけ」
「そ、そんな。エミリア様、どうかそれだけはご勘弁を」
「口答えは許さぬ。さぁ、早く出て行け。それとも何か? これ以上、妾を怒らせるつもりか?」
凄まじい殺気ある発言にその場にいた全員が怯えた。
「も、申し訳ありませんでした」
一目散に兵隊の魚人たちは部屋から慌てて出て行った。
「ビックリした」
海春は突然のことに腰が抜けていた。
「そなた、気に入ったぞ」
「あ、ありがとうございます」
「立てるか?」
「はい」
エミリアの優しい言葉に海春は頬を赤らめる。
「悪かったな。うちの兵隊たちが迷惑をかけた。奴らは後で晒し首にしておく」
「え? そんな。晒し首ですか」
「何じゃ? 不服か?」
「いえ、何も。失礼致しました」
「思っていることを言ってみろ。別に怒ったりしない」
「さすがに晒し首はやり過ぎかと」
「そう思うか?」
「は、はい」
「そうか。じゃ、後で内部の清掃をさせよう。それなら問題ないか?」
「はい。ありがとうございます」
「おかしな奴だな。何故、そなたが礼を言う」
「その、命はそれぞれ一つしかないのでそれを奪うことは心苦しいと言うか、嫌なんです」
「そうか、嫌か」
「あ、エミリア様。すみません。生意気言いました。忘れてください」
「いや、良いぞ。それより海春、妾の近くでも働かないか」
「えっと、どんなお仕事でしょう」
「妾の世話係を命じよう」
「世話係ですか?」
「嫌か?」
「いえ、ありがたきお言葉」
海春は膝をついた。
(世話係?)と脳内に疑問が浮かぶがそれを知るのは後になってからのことだ。
エミリアの世話係を命じられた海春の仕事は更に増えた。通常の雑用業務に加え、エミリアの身支度まですることになる。服の着替えから食事を運んだり、時には喋り相手にも抜擢されていた。本来、自分一人で出来るようなことをさせられる。出来ない訳ではない。したくないのだ。何と言ってもエミリアは人魚姫。言い換えれば嬢王様なのだ。自らすることを拒むタイプでわがままなのだ。言ってみれば海春は余計な仕事が増えた訳で負担が増しただけだ。何一つ良いことなんてありはしない。
「エミリア様の世話係?」
話を聞いたレイナは驚く反応を見せた。
「あんた、またそんな厄介な仕事を引き受けたの?」
「好きで引き受けていません。エミリア様に指名されたんです」
「これでまた寿命が縮まるな」
「どういうことですか?」
「今までに世話係をしてきた者はどうなったか知っているか?」
「さぁ? それよりも今までそんな仕事をしていた人がいるんですね」
「うん。世話係になれば全員確実にクビになっている。長く勤めて半年くらい。早ければ数日で即解雇だ。竜宮神の間ではエミリア様の世話係は『竜宮神の墓場行き』と言われているんだよ」
「え? そんなに酷いんですか?」
「本人を見ただろう。少しでも気に障れば問答無用で解雇だ。誰も好んでやりたがらない仕事だよ。地味に目立たずに仕事が出来たらそれが何よりの幸せさ。私の同僚も世話係になって辞めた。どんなに仕事が出来ようがエミリア様のパワハラには耐えれる奴なんていない」
「そんな。どうしよう、レイナさん」
海春はすがるように服を引っ張りながら揺する。それに対し、レイナは肩に手を置いて一言。
「グッドラック」
海春は血の気が引いた。終わったと心の中で叫んだ。
深海には竜宮神という人魚が営む旅館がある他にも様々な施設が存在する。施設の数があるだけ深海の生物は生活している。ここは完全な一つの国として成立している。正式な国の名前は存在していない。しかし、そこに住んでいる者は深海の都市や深海の国として言われている。場所は水深三万メートル地点をそのように呼んでいた。しかし、そこよりも更に深い水深五万メートル地点は別である。深海の全てを仕切る海王のいる宮殿はそこにあった。そこは『海王殿』と言われている。
「お呼びでしょうか。海王様」
海王殿の海王の部屋にて。シュンは呼び出されていた。海王とはこの深海の世界で異名を持つ一番権力を持った怪物である。その姿は人型の鮫の姿をしている。鋭い牙に膨れ上がった筋肉でその威圧さを物語っている。それに何と言ってもその大きさである。身長は約十メートルの巨体。エミリアと比べると二倍ほど違いがある。絶対的な権力に絶対的な強さを誇る海王の名はシャークレイ。彼には誰も逆らえない絶対的存在だ。この深海の世界では強い者が生き残る。弱い者は強い者と傍にいるしかない。強さこそ全て。絶対なのだ。
シャークレイの強さの秘密はメガロドンの血を引いた魚人であること。
かつて、約千八百万年前から百五十万年前に生息した絶滅種である。鮫の中では史上最強の強さと全長を誇る。数少ない存在で最強の血筋から海王まで上り詰めた実力者だ。深海を思うように支配できる力をシャークレイは秘めている。
「シュン。最近、成果が落ちているようだが」
低い声が雰囲気を更に醸し出す。
「ぐっ。も、申し訳ありません」
シュンは心臓を直接手に触れられている感覚に近いものがあった。絶対的な強さを誇るシャークレイの前では頭が上がらない。あまりの緊張感に耐えられない者は数多くいる。最悪、その雰囲気だけで気絶する者もいるくらいだ。
「残りの数まで後十体。このペースであれば約束の期限までには間に合いそうもないな」
「申し訳ありません。必ず期限には間に合わせます」
「シュンよ。分かっているだろうな。もし期限を過ぎればその時はお前は処刑だ」
「承知しております」
シャークレイから受けたシュンの使命は人間の捕獲である。三年前に初めて深海に訪れた時に四年以内に生きた人間百人を捉えて差し出すことだ。それが果たされた時、海王の権限で地上に返すと言う約束事を交わしていた。死体であれば五人で一人としてカウントされるシステムになっていた。しかし、シュンの成果はほとんどが死体の山である。貢献することがなかなかできない状況であった。
「時にシュンよ。兵士から聞いたが、生きた人間の捕獲を邪魔したと聞いたがそうなのか」
「そ、それは」
「どうした。言えないのか」
嘘をつけない状況だった。もし、仮に嘘をつけば約束に関わらず殺されることだって考えられるからだ。
「おっしゃる通りです」
シュンは揺らぎない眼差しで言った。
「何故、そのようなことを? 帰りたいんだろう。真逆のことをしてなんの意味がある」
「意味はありません。ただ、その人間は僕と同じ目をしていました」
「ほぉ、それはどんな目かな?」
「生きたいという思いから出た力強い目です」
「なるほど。しかし、果たしてそれを逃すことに意味はあるのか」
「いえ、ありません」
「シュン。自分の立場がどうやらまだ理解できていないようだな」
シャークレイの目が鋭くなった。次の瞬間、シュンが身に付けていた仮面が上空に舞った。今、何が起こったのか。それを知る前にシュンの意識は失った。
海春が人魚の生活になってから一週間が経過しようとしていた。そのスケジュールは過酷なもので朝からコルクたちの餌やりから始まり、建物の清掃やその他の雑用。エミリアからの呼び出しがあれば最優先で向かい、世話係業務を受け持つ。業務以外にも客に見せる踊りの練習をして少しずつ覚える。海春に休む暇なんて一切ない。
「何なのよ、これ。私、中学生で働く歳でもないのに。理不尽よ」
つい、ストレスが言葉となって吐き出される。それを聞いていたレイナは口を挟む。
「人間の世界では働くのに年齢が関係するの?」
「うん。基本、十五歳未満は働けない。私、まだ十三だからそんな歳でもないんだよね」
「そんな長い期間働かなくていいんだ。変わっているね」
「でも、その代わり勉強しなくちゃいけない。それはそれで大変なんだけど」
「人魚は生まれたらすぐに独り立ちだから。生きるための義務みたいなものだよ」
「どっちも楽じゃないよね」と、大きな溜息を吐いた。
「てか、あんた十三歳なんだ」
「はい。何歳に見えたんですか」
「一桁後半ってところかな」
「どうせ私は子供ですよ。レイナさんは何歳ですか?」
「私? 二十八だよ」
「若いですね」
「そうかな。人魚も人間の寿命と変わらないってどこかで聞いたな」
「へー。でも人魚って子供いないんですね」
「いるにはいるよ。竜宮神では七歳以下は雇えない決まりだから」
「あ、そうなんですね。そういえば気になっていたんですけど、エミリア様っていくつの方なんですか?」
海春は小声になりながらレイナに聞いた。
「あぁ、エミリア様はいくつだったかな。でも百は超えていると思うよ」
「え? あの見た目で?」
おばさんじゃんと突っ込みたくなったがそこはグッと堪える。
「人魚は基本老けないよ? 寿命ギリギリにはシワが寄るけど何歳になっても若い姿のまま。エミリア様だとあの見た目ならまだまだ元気そうね」
「そうなんですね」
老けないのはある意味羨ましいと感じた海春は頷くばかりだった。人は、いや人魚は見た目では分からないものだとこの時知ったに違いない。海春が唯一、心を許せる相手はレイナだけである。
その頃だった。
竜宮神の遥か先に謎の生物が迫っていた。
傘のような頭に触手が無数にあり、青い身体をした生命体。深海生物の一つサザナシである。生まれた当初は微生物くらいの大きさであるが食べることで成長する。普段は物静かで穏やかな生物であるが、最大の特徴として襲われると暴走するのだ。それは手を出した相手を丸呑みにして成長を倍増される。扱いを間違えると手に負えない生物の一つだ。そんなサザナシは竜宮神に目掛けてゆっくりと進んでいた。
その異変に気付いたのは竜宮神の警備隊だった。すぐに隊員の数を増やし、バリケードを固める。石の壁を竜宮神の周りを囲うように厳戒態勢だ。
言ってみればサザナシは招かざる客だ。危険生物の一つに指定されている為、入場を控えてほしかったのだ。当然、一方的な出入り禁止には出来ない。そこは説得である。
「……、」
サザナシが入り口付近まで来た頃には石のバリケードは完成されていた。
「お客様、ただいま準備中でして入場をお控えください」
丁寧な口調で隊員の一人は発言するが、サザナシは止まろうとしなかった。
上手いことを言う割に周りは追い返す気満々の状況だ。見て察しろと言っているようなものだった。
「警告します。お引き取りください」
その呼びかけに対してもサザナシは応答しない。まるで聞こえなかったようにゆっくりと前進する。攻撃することは出来ない為、道を塞ぐように隊員は横一列に並んだ。
それでも前進するサザナシは迫っていく。触手でバリケードを次々と薙ぎ払われる。サザナシの前に石の壁は意味を持たなかった。そしてその先にいた隊員に襲い掛かる。
「止まれ! 来るな」
その声も虚しく強行突破され、為す術もない。
もう、止まらない。サザナシの入場を許してしまった。止めるものは誰もいない。
「ボコッ、ボコッ、ボコッ」
サザナシはついに客として招く形になっていた。だが、どうしても追い出したい意向として受付担当の亀型の生物のタールが構えていた。
「お客様、ようこそ竜宮神へ。当店のシステムとして料金は先払いになりますがよろしいでしょうか?」
本来、後払いだが払えなければその場で追い出すことは可能だ。ちなみにこの世界の通貨は宝石や純金の財宝などの高価な品でやりとりされている。
サザナシは触手の一本を前に出した。触手から溢れんばかりの純金が浮き上がり床に零れ落ちた。それはまるで金の滝だった。
「こ、これは凄い」
タールは群がるように純金を掻き集めた。その姿はまさに金の亡者である。
「お辞め、客の前で見っとも無い」
同じ受付担当の一帯がタールの頭を叩く。
「ボコッ、ボコッ」
「大変失礼致しました。お客様、ようこそ竜宮神へ。席にご案内します。こちらへどうぞ」
サザナシを招いたのが事件の発端だった。
「そういえば、レイナさん。ずっと気になっていたことがあるんですけど、いいですか?」
海春は改まった様子で言った。
「何?」
「どうして、レイナさんやエミリア様は人間である私を受け入れたんですか?」
「何でそんなこと聞くのよ」
「だって深海では他の人魚を見る限り、人間は受け入れられないから」
「勿論、最初から受け入れたわけじゃない。むしろ嫌いだったかもね」
「やっぱり」
「でもその印象を変えたのはシュン。彼の存在があったからよ」
「シュンが何かしたんですか?」
「何かしたってわけじゃないけど、助けてもらったことがあるの。深海には人魚だけじゃない。たくさんの種族がいる。その中でも恐ろしい巨大生物に私が襲われたことがあって食べられそうになった。で、シュンに助けられた。そのことはエミリア様も知っている。人間は良い奴もいるって知っているから」
「そんなことがあったんですね」
「うん。だからシュンも海春も悪い奴じゃないって知っているから人間は好きになれた」
二人が雑談していたその時だった。周りが慌ただしくした様子が伝わっていた。
「あ、レイナ。みはる。こんなところにいた」
仲間の人魚の一人が呼びかけた。
「どうしたんですか。慌てた様子で」
「あんたたち、急いで手伝って。凄いお客さんよ」
「凄いお客さん?」
「凄い純金持ちなの。早く来て」
竜宮神で最も高価な部屋に招かれていたサザナシは豪遊していた。食に飢えていたのか、調理室にあるありきたりの食料を要求していたのだ。その胃袋は狂人並で吸い込まれるように消えていく。料理が追いつかず人手が足りていなかった。
「ボコッ」
言葉が喋れないのか、うめき声で周囲を威圧する。ジェスチャーは空腹をアピールする。
「あの、申し訳ありません。今、調理中なのでもうしばらくお待ちください」
タールがそのように言うが、サザナシは静まる気配がない。再び体内から純金を床にばら撒いた。追加のチップである。その輝きから従業員は目の色を変え、純金に群がった。もはや、そこにはプライドはなく金の亡者たちの姿だった。
「どんなお客さんかな?」
「さぁ、とりあえず見に行こうか」
海春とレイナは興味本位でVIP待遇されている客の元に向かっていく。
周囲には従業員が溢れ返った状態でなかなか前に進めない。
「ちょっと、失礼。ごめんよ」
レイナは通路を無理やり掻き分けて前に進んでいく。海春もレイナの傍から離れずにいると自然と前に進んでいた。
ようやく二人は部屋の中まで入ることができた。
「どれどれ」
レイナは野次馬のように手を額に当てながらその姿を確認する。
「え? あれってもしかして」
首を傾げながらレイナは言う。
「どうしたんですか。レイナさん。私にも見せてください」
海春は低い身長のせいで見られないため、ジャンプをしながらその姿を確認する。
特徴的なのは大きな頭の傘に無数にある触手だ。
「何だか見たことがあるような、ないような」
海春は記憶を辿るように頭を捻る。
その時、レイナは尻餅を付いた。
「レイナさん? どうしたんですか」
海春はすぐに肩に手を回す。
「あれよ。私が襲われた巨大生物」
「え? そうなんですか?」
「いや、正確には別の個体だけど。間違いない。あの種族に襲われたの」
レイナは起き上がることが出来ず、ただ指を差すことしかできなかった。
「あ、そういえばあの生物を見たことあるかも」
「海春も見たことあるの?」
「うん。ここに来る前にチラッと見かけた。でも、初めて見た時より随分成長したような?」
海春の勘違いではない。食事を摂取したことにより何倍にも成長していたのだ。結果、竜宮神に入った時と今の姿を比べれば別の姿そのものである。
「あの生物の名はサザナシ。食べることで巨大化するの。私が出会った時の個体はあれよりももっと大きかった。これ以上大きくなったら取り返しがつかなくなるかも」
「そ、そんな。じゃ、早く食べさせるのを止めなきゃ」
「待って。身体が動かない。手を貸して」
レイナは身体が震えていた。過去のトラウマがにじみ出ていたのだ。
「レイナさん。しっかり」
海春が手を伸ばしたその時である。
渡すものを渡して食べられなかったことによりサザナシはタールと近くにいた従業員の魚人二体を飲み込んだ。
「ウオォォォォォ!!」
怒りに満ちたサザナシは吠えた。それは建物全体が揺れるような振動である。その風圧で周りにいた者は吹き飛ばされた。海春のいた場所にもその被害が及ぶ。
「きゃ!」
少し転んだ程度であるがただ事ではない。気が弱い者はその衝撃で意識を失う者もいた。サザナシの本性に凍りついた。もはや仲間を食べられたことで客ではなく敵に変わっていた。しかし、力では敵わない。全員、その場から避難する。
「化け物だ。逃げろ」
「殺される」
「助けて」
竜宮神は大混乱を巻き起こす。扉付近には従業員で押し寄せており詰まっていた。
「モット。モットダ。ハラガヘッテシニソウダ」
サザナシはタールたちを取り込んだことにより喋ることが出来るようになった。片言で聞き取りにくいが、食煩いが言葉となって爆発する。もうサザナシは満腹になるまで止まらない。
「レイナさん。大丈夫ですか?」
先ほどの風圧で飛んできた皿の破片がレイナの肩に当たり血が出ていたのだ。それでも大した傷ではない。
「大丈夫よ。ただの擦り傷よ」
「動かないで下さい」
海春は水で消毒し、自分が身に付けていたスカーフを傷口に当てて丁寧に縛った。
「今はこれくらいしかできませんけど、急いで医療室に向かって下さい」
「海春。どこに行くんだ」
海春は従業員が逃げる方向とは真逆に進む。
「許せない」
人魚たちが客を癒す楽園が一変、恐怖の地に変わったことに海春の怒りがサザナシに向けられた。おまけに大事な人魚を傷つけられてサザナシに好き勝手にはさせられない気持ちがそこにはあった。
「海春、行くな。奴は危険だ」
レイナの叫びも虚しく海春は一歩、また一歩とその足を進める。正確に言えば足はないが尾ビレを這うようにして進む。
「おい。新入り、何をしているんだ。下がれ」
他の人魚が警告をするが、海春は言うことを聞かない。言葉では言うが皆、無理矢理止めようとはしなかった。それもそのはず。自分も食べられるかもしれない状況にわざわざ向かうバカはいない。そんな中、海春はサザナシとの距離三メートルまで詰め寄った。正面同士の衝突である。その中央からビリビリと火花が飛び交うような凄まじい気迫を感じる。
「これ以上好きにはさせない。ここから先は私が相手になるわ」
海春は両手を広げて盾になった。たった一人の少女がその身を挺した。周りは静かに見守ることしかできなかった。
「ナンダ。オマエ」
「私は海春。人魚よ。これ以上暴れるなら許さないから」
「ユルサナイとドウナル」
「……、」
海春は黙った。ただし、サザナシから目を離さなかった。
「オマエモタベテヤル」
サザナシの触手は伸びた。寸前で海春はそれを交わす。しかし、次々と伸びる触手に海春は背を向けて逃げた。
立ち向かう覚悟があっても海春にそれを止める力はない。攻められれば簡単に崩れてしまうドミノのように。出来る選択として逃走を選んだ。いや、そうせざるを得なかった。力では間違いなく海春に勝機はない。
「マテ!」
捕まれば死。前代未聞の鬼ごっこが始まる。竜宮神の館内を逃げる海春と追うサザナシ。周りの人は緊急車両から避けるように距離を置くことしかできなかった。逃げている間にサザナシは触手で攻撃を仕掛ける為、周りの被害が大きかった。建物の破壊行為。まさに暴れ牛そのもの。誰にも止められない。海春が逃げることでより被害を大きくする。しかし、海春もがむしゃらに逃げているわけではない。逃げているフリをして建物の外にサザナシを誘導していたのだ。竜宮神の外であれば被害者は最小限に減らせることが海春の真の狙いである。
「こっちよ。間抜けヅラ、いや、変な頭!」
おまけに挑発することで海春一人にターゲットを絞るのも作戦の一つである。理性が身についてきたサザナシは聞き逃すはずはない。許せない気持ちが海春を追い詰める。
海春は逃げながら下へ下へと向かう。壁に追い詰められたフリをして寸前で交わし壁に激突させ自滅させるようなテクニックを披露しながら逃げる。壁に頭をぶつけたサザナシはよろけながら海春を追いかける。コケにされたサザナシの怒りは海春に向けられる。
「もう少し」
出入り口のある一番下のフロアにたどり着いた海春はゴール寸前で気が緩んでしまった。尾ビレが床の隙間に引っかかってしまったのだ。抜け出そうと焦れば焦るほどうまく外れない。その間にサザナシは距離を詰める。
「ハッ!」となった瞬間に海春の腹部に強い衝撃を受けた。
ガッシャーン‼︎‼︎
「がはっ」
状況として海春は触手で壁に押し付けられる形となった。しっかりと腹部に押さえつけられた触手は減り込んでいる。抜け出すことは出来ない。これは予想できた結果に過ぎない。あわよくば、建物の外に出られたらなんとかなった。しかし、運悪く建物の中で捕まってしまった。海春に逃げ切れる自信はあった。しかし、寸前のところでアクシデントが起きてしまいサザナシに一歩及ばなかった。
「ツカマエタ」
「は、放せ」
どんなに足掻こうと触手は放れることはない。むしろ少しずつ力が強まって壁に押し付けていた。このままでは押しつぶされる状況だ。
「痛い。痛いよ」
震える手で触手を抑えるが無意味だった。
別の触手が無数に伸び、海春に近づく。まさに捕食する側と捕食される側の構図になっていた。
海春は目を閉じた。それは諦めの意思表示である。触手を押さえていた手も力を無くし、ダランと垂れ下がる。
その時だった。
突如、触手は切断され、床に落ちた。海春は壁から解放され床に転げ落ちる。
「ナンダト」
一瞬の出来事だった。サザナシにも何が起こったのか理解出来きていない。その理由を知るのは彼女の存在だった。
「妾の城を壊したのは貴様か?」
憎悪のオーラを出していたのはエミリアだった。階下の騒ぎに気づき、降りてきたのだ。その結果、海春を痛めつけている姿を目撃したエミリアは手を刃に変えて触手を切断した。
「エミリア様、来てくれたんですね」
海春は弱弱しい口調で言った。
「エミリア? エミリアヒメカ」
「ほぉ。私のことを知っているようじゃな。主はサザナシだな。誰じゃ? こんな得体の知れぬ者を中に上げたのは」
エミリアはサザナシの特徴は把握していた。危険生物に推定されていることも当然。エミリアは普段、何もしたくないニートのような生活を送っているが竜宮神のピンチになれば話は違う。戦闘力は凄まじく高い。それに物体を別の姿に変えることができるのもエミリアだからできる能力だ。その怪物級の強さと不思議な力がある故にトップを貫いている。それだけでも充分だが、誰もが羨む美貌も魅力の一つなので人魚の中の人魚姫である。
エミリアの登場により周りの歓声が飛び交う。
「エミリア様が来てくださったぞ」
「エミリア様、素敵」
「エミリア様、そんな奴やっつけて下さい」
周囲ではエミリア様コールが始まっていた。その存在は竜宮神全体が一つになるほどの盛り上がりだ。エミリア無くして竜宮神は成り立たない。
ボコッ、ボコッ、ボコッ。
致命傷を負ったサザナシは切られた触手を再生させる。その生命力のしぶとさもサザナシの隠し能力だ。再生能力も備えていることからも危険生物にされている理由の一つとされる。巨大化に再生能力。この二つの力はまさに脅威そのものだ。倒すことは容易ではない。
「やはり再生するか。言葉も使えてそれほど大きく成長したということは貴様、誰か食ったな?」
エミリアの読みは的確だった。冷静に状況を見て判断する。海春は食べられた従業員の名前を伝えた。
「やはりそうか。お帰り願いたいところだがどうやら帰すわけにはいかなくなりそうだな」
殺意あるその目に周囲は恐怖を感じた。
「いくら触手を切り落としても再生する。しかし、傘の中央にある脳の核を壊せば絶命するはずだったな」
サザナシの殺し方はそれしかない。核さえ破壊すれば再生することなく死ぬ。それが唯一の殺し方だ。エミリアは長年の経験からサザナシの弱点は知っていた。
エミリアは動く。サザナシも無数の触手で応戦するが全ての触手が切断される。再生させるにも体力を消費するし、時間もかかる。そこが大きな隙を作った。
「隙を見せたな。サザナシ。終わりじゃ」
サザナシは完全な無抵抗状態。これはチャンスだ。エミリアはとどめを刺す為、動いた。
「その命、貰うぞ」
が、その動きは一時停止する。
間に海春が割り込んで来たからだ。
「海春。どういうつもりだ。そこをどけ」
「待ってください。本当に殺すんですか?」
「当たり前だ。こやつは仲間を殺した敵だ。生かす理由はない」
「ちょっと待って頂けませんか?」
海春の行動に理解できないのは無理もなかった。その場にいた全員が唖然する。
海春、何を考えているんだ。エミリア様の邪魔をするな。そこを退け。などと言う罵声が飛び交うが、海春は応じようとしなかった。完全に孤立していた。
「殺さなくてもいいじゃないですか」
当然、その発言に疑問が浮かぶ。それに対してエミリアは反論する。
「なら、仲間を殺したこやつを許すということか?」
「許すことはできません。でも、やられたらやり返す。それは違うと思います」
「じゃ、どうしたいのじゃ。殺さなくていい方法を述べてみよ」
「私が指導します」
「何? 指導じゃと?」
「はい。この子は良い悪いの判断が出来ていないんです。私がしっかり教えて正しく導きます」
「馬鹿を言え。サザナシは決して他人に懐かない。全てを飲み込む獰猛な生物だ。そんなことをすればいずれお主は死ぬ。いや、それ以前に周りにも被害が及ぶことだって考えられる。それを分かって言っているのか」
「その時はその時です」
「本気か?」
「はい。本気です」
目力と目力の激突だった。それは紛れも無い本気の目。瞬きをすることなくその意志を送る。海春は覚悟ができていた。
「好きにしろ」
エミリアは手の刃を元の姿に戻し後ろを振り返り、その場を去っていく。
「エミリア様、よろしいんですか?」
周りの者の心配の声が飛び交う。エミリアは背を向けたまま、一言「海春に任せる」と答えるだけだった。海春は緊張の糸が切れたのか、その場にヘタリ込むように地に着いた。
サザナシの奇襲事件から数日後のことである。
「ほら、あなたたち。餌の時間ですよ」
海春は一日二回行うコルクたちの餌やりをしていた。小魚をばら撒くように餌を放り投げる。
「ピャ! ピャ!」
「ナイスキャッチ!」
餌をあげるうちに海春とコルクたちは仲の良さは一層深まった。
そして、それに加えもう一体。
「ほら、あなたもお腹すいたでしょ? 小魚だけど食べる?」
海春の視線の先にはサザナシの姿があった。あの化け物じみた巨大な姿は今となっては海春よりやや大きいくらいのサイズに収まっていた。そんなサザナシも今は丸くなっており、誰かを襲うような行動はしていない。あの時の面影はどこへいったやら。
小魚を手から放すとサザナシは食い付いた。
「おいしい?」
「ボコッ」
「ねぇ、あなたどうしてあんなことをしたの?」
海春の問いに反応はなかった。
「そういえばあなた、あれ以来喋っていないよね? どうして喋らないの?」
「ボコッ」
サザナシは呼吸で返事をした。あくまで口を開かないような態度だった。
「まぁ、流石にエミリア様があれほど懲らしめたから身も心も小さくなるよね。でも、人魚や魚人は食べちゃダメだよ? みんな仲間なんだから」
海春はサザナシの真横に腰を下ろす。
「ねぇ、あなたどこから来たの? みんなは空想上の生物の一つだって言っていたけど」
「……、」
「無視か。答えたくなかったらいいよ。じゃ、私が一方的に喋るね。私、本当は人間なの。深海では人間は避けられる存在だから一時的に人魚の姿に変えてもらっているんだ。正直、この世界で生きていく自信はない。でも、こうなってしまったのは私の運命だから仕方ないよね。竜宮神では雑用ばかりで辛いけど、仕事ってなんだろうって考えた時に相手の顔が浮かぶの。ありがとうって感謝されると嬉しくなってこれが仕事をする意味なんだなって分かってきた。人間がいなくて心細いけど、私の他にシュンっていう人がいるの。私、その人がいなかったら今、こうして人魚として生きていないと思う。その人に感謝しているんだ。今は別のところで働いているからなかなか会えないんだけどね。今頃どうしているかな、シュンの奴」
海春はシュンの顔が浮かんでいた。人魚になってから一度会って以来二人は会っていない。
「……、」
サザナシは俯く。その反応を見て海春は話すのをやめる。
「あ、ごめん。つまらなかったかな」
サザナシは表情がなく反応が読み取れないのでどう解釈していいか分からずにいた。せめて喜怒哀楽が分かれば返しようがあるのにと海春は思う。
「海春、どこだ?」
遠方から海春を呼ぶ声がした。
「あ、あの声はレイナさんだ。おーい。レイナさん! ここだよ」
「なんだ。こんなところにいたのか。ゲッ」
レイナは横にいるサザナシの存在に気づき、距離を置いた。無理もない。サザナシは竜宮神を襲った怪物としてその記憶に新しい。更にはレイナの過去にも襲われた出来事もあるので尚更だ。トラウマがあるので近づこうとしないのだ。
「あんた、その化け物をどこかにやってよ」
「化け物じゃないですよ。話せば分かってくれると大人しい生物です」
見本を見せるように海春はなんの躊躇もなく頭の傘を撫でるように触った。
「やめとけ。油断させた瞬間にガブリだぞ」
レイナは怯えながら言う。
「大丈夫ですよ。私が思うにまだ物心が付いていない子供なだけです。これからしっかり指導してあげれば分かってくれますよ」
「そんな保証はないぞ。やめとけ。すぐに追い出すんだ。危険生物であることには変わりはない。これは海春の為を思って言っているんだぞ」
「もう、レイナさんてば心配性だな。そこまで言わなくてもいいのに」
と、海春は手を振りながらニコニコと言う。
周りの人魚たちからしたら海春の行動は目を疑うようなものだった。どんなに冷たい目で見られても海春は決してサザナシを見捨てるようなことはしなかった。それが水越海春という少女なのだ。
「君はそこにいな」
海春は怖がるレイナを見て仕方がなくサザナシから離れて近づいた。
「それよりレイナさん。何か私に用事ですか?」
「あぁ、そのことなんだけど」とレイナは深刻になりながら耳打ちをする。
「シュンがいなくなったかもしれない」
「シュンがいなくなった? どういうことですか?」
「海王様の命令に背いたっていう噂だよ」
「それって逃げたってこと?」
「そうじゃない。多分、海王様の手で消されたって意味」
「どこからそんな情報を?」
「私に掛かれば顔が広い。自然と耳に入る」
「シュンが何をしたっていうの?」
「人間の捕獲を邪魔したらしい。それが海王様の耳に入ったとかで」
「それってもしかして」
私のことだというセリフが出なかった。海春は膝を付いた。その目の奥は絶望で真っ白になっていた。
「海春?」
「私のせいだ。多分、それ私のことだよね?」
「そうと決まった訳じゃないだろう。別の可能性だって考えられるし」
「そんなのないよ。シュンは私を助けたことは事実。それも同盟を組んでいる仲間の前で私を庇った。それしか考えられないよ」
「でも」とレイナは言いかけるが海春の言っていることは正しいのもまた事実だった。
「ねぇ、レイナさん。シュンはどうなっちゃうの?」
「おそらく契約の破棄は確実だと思う。その先はおそらく海王殿にある研究室に送られているかもしくは……」
言いかけてレイナは黙った。海春は無言の圧力でその続きを言えと強く睨んだ。レイナは視線を下に落として言った。
「もう、死んでいるかも」
その言葉に海春は表情が歪んだ。口をパクパクと鯉のようになり、言葉が出なかった。それでもなんとか絞り出した言葉が「嫌」だった。
「海春の気持ちは分かるよ。でも、私たちにはどうすることもできない。どんな結果でも受け入れるしか」
「ねぇ、レイナさん。教えて。海王様にはどうやって会えばいい?」
「バカ言わないでよ。海王様から会いに来るならまだしも私たちから海王様に会う方法なんてないわよ」
「それでも私は会わないといけない」
沈黙が流れた。海春の強い思いがレイナに直接伝わってくる意味のある沈黙だった。
「私は海王様に会う方法は知らないけど、エミリア様なら何か知っているかもしれない」
「分かった。ありがとう。教えてくれて」
海春は駆け足をする素振りでレイナの横を通った。
「待って。エミリア様のところに行く気? やめなよ。この時間は多分、食事中だよ」
「分かった」
海春は分かったと言いつつも竜宮神の中へ向かう。口で返事をしても行動は全く分かっていなかった。いくら止めに入っても止まることはないだろう。海春にとって一刻も争うことだった。
竜宮神最上部。エミリアの部屋にて。
「飽きたの。この料理も」
高級食品であるキャビアを使った料理を口にしながらエミリアは呟いた。エミリアしか食べられないような高級品でもそれが毎日のように続けば当然飽きるもの。
「暇じゃな。何かこー、刺激がほしい。例えばそこの扉が突然開いて」
「エミリア様! いらっしゃいますか」
タイミングよく扉が開き、海春が飛び込んできた。ノックもなく。
「何事じゃ」
「教えてほしいことがありまして」
海春は急いできたのか、息を切らしながら喋っていた。まともな呼吸が出来ていない。
「落ち着け。見苦しいぞ。それに食事中だ。場をわきまえろ」
「申し訳ありません。では私の呼吸が整うのとエミリア様の食事が終わるまで待たせていただきます」
海春は律儀に正座の体制をとる。ただ、無言でエミリアを見守る形になっていた。
「おい」
「はい。なんでしょうか」
「落ち着かん。そんなに見られたら食事も喉を通らない」
「ではどうすれば良いですか」
「壁でも見ていろ」
「分かりました」
海春は後ろを振り返りただ一点の壁を見ていた。その姿を見せられる身としても落ち着かないのもまた事実。エミリアは功を切らし、溜息を吐きながら言った。
「妾の食事を邪魔してでも聞きたいこととはなんじゃ。述べてみよ」
「あ、はい。あの、どうすれば海王様に会えますか?」
「お主では視界に入ることすらできん」
エミリアは即答だった。
「何か方法はないんですか。そうだ、竜宮神に来るって話だったじゃありませんか。あれはいつ頃になるんですか?」
「あれはいつじゃったかな。一年? いや、二年先だったかな?」
「え? 近々来るんじゃないんですか?」
「だから近々だ。それが一年か二年先くらいだと思う」
海春とエミリアの近々の感覚が違っていた瞬間だ。エミリアからしたら一、二年後くらいだが海春からしたら数日、数週間の感覚の違いが起こっていた。頭を抱える海春はブツブツと嘆いていた。それは言葉になっていない。
「なんじゃ。見苦しい。そもそも海王に会ってどうするつもりじゃ」
「シュンを、シュンを助けたいんです」
「シュン? あぁ、あの若い男の人間か。そういえば処罰を受けたと聞いた気がするな」
「エミリア様は知っていますか? シュンがどうなったのか」
「知らん。おそらく実験体にされるだろうな。海王も悪趣味が過ぎるから。妾はどうも奴を好きになれん」
「そんな。二年も先じゃどうなっているか分かりません。お願いします。私、彼を助けたいんです。私のせいでそんなことになっているなら尚更です。どうすれば海王殿に行けますか?」
海春の懸命な申し出にエミリアは手を妬いていた。本来であれば面倒事は引き受けたくないことなのですぐに追い返すところだった。しかし、海春の熱い情に押され気味になっていた。
「人魚であれば海王殿に行くことは可能だ。しかし、周りの警備は竜宮神の何倍も強化されている。とてもじゃないが一人で強行突破をすることは不可能だな」
「海王殿付近まで行けるのであればなんとかします」
「なんとかというのは何も考えていない奴のセリフだ。そんなので行っても何にもならない。それに妾は人魚であればと言ったんじゃぞ?」
その返しに海春は苦い表情をした。
「どういうことですか?」と聞き返すのがやっとだった。
「海春。今は人魚の姿になっていても元は人間だ。そのことを忘れるな。人魚の姿になっていられるのは妾の力があってのこと。この竜宮神から離れて妾の力が及ばないところまで距離を取れば当然人間に戻る。竜宮神より更に深海に位置する海王殿に向かえば当然途中で人間の姿に戻り、溺死は免れないだろう。この竜宮神の区画内に守られているから人間でも生きられるがこの範囲から離れたら間違いなく死ぬ」
「そんな」
「不可能だというのが理解できたな? 分かったらその人間を諦めろ」
「……、」
海春は床にへたり込んだ。自分の無力に拳を強く握る。そのまま土下座の姿勢になり、深々と頭を下げながら言う。
「エミリア様、お願いがあります」
「お主のお願いは多いの。妾の機嫌が悪くなっても知らんぞ?」
「それを承知でお願いがあります。私と一緒に海王殿に行ってくれませんか?」
「なんじゃと?」
「エミリア様と距離が離れたら人間に戻る。だったら近距離でずっと行動すれば人魚の姿のままで行動が出来るんですよね?」
「理屈としてはそうだな。妾が海春の傍にいれば人間に戻ることはない」
「でしたらそこをなんとか」
「それも無理じゃ」
エミリアは言葉を遮って答えた。
「妾はここでは一番偉い立場だ。これでも忙しい。ここから離れるわけにはいかん。それに海王殿は行ってすぐ帰れる場所ではない。そんなところにわざわざ妾が出向く意味はない。何日も竜宮神を空けておくのも不安だしな」
分かりきった答えに海春は落ち込んだ。最後の希望が途切れた瞬間だった。竜宮神では暇そうにしていてもそこにいるだけに意味があった。言ってみればエミリアは最後の砦。切り札の役目を担う。簡単に竜宮神の外を出るわけにはいかないのだ。
「無理を言って申し訳ありません」
重い背中を徐ろに引きずるようにして部屋から出ようとする海春にエミリアは止めた。
「待て。一つ聞かせろ」
「はい。なんでしょう」
「もし、仮にだ。海王に会ってどうするつもりだ」
「人間をどうするつもりか聞きます。私たち人間は道具じゃない。命があることを正します」
「そんなことをしたら死ぬぞ? それならここでずっと人魚として暮らした方が幸せだ」
「私はそうとは思いません。私は人間です。同じ人間が困っているなら私は助けたい。助けなくちゃいけないんです」
「言いたいことは大体把握した。いいだろう。海王殿の行き道だけでも手を打とう」
「エミリア様、ついて来て下さるんですね」
「いや、妾はここから離れるつもりは毛頭ない」
「では、どうやって行けばいいんですか」
「人間でも深海の水圧に耐えられる特別なシャボン玉がある。その中に入ればなんとか海王殿に行くことは出来る」
「そんな便利なものがあるんですね」
「それは危険な賭けでもある。途中で強い衝撃を受ければ割れる。絶対に辿り着ける保証はない。割れたら最後、窒息死だ」
「うっ」
「それに無事に海王殿に辿り着けたとしても人間の姿だ。そこでは人間は餌食になる。そこでも運が悪ければ捕まる。海王に会えたとしても海王が話し合いに応じなければその場で捕まる。それでもなんとか話がまとまったとしても帰りは丸腰。ここに帰ってくる手立てはない。結局死ぬ運命まっしぐらじゃ。どうじゃ、お主が無理なことをしようとしていることに理解できたか」
「はい。充分承知致しました」
「なら下がれ。今回は多めに見よう。妾の至福の時間を邪魔したことは水に流してやる」
「自分が無謀なことを言っていることは分かりました。それでも、私はシュンを助けたい。例え、険しい未来が待っていようと命を落としても私はいかなくちゃならない。だから……」
海春が言いかけた時、刃物を喉元に向けられたことで口を噤む。後、数センチずれれば喉を切り裂かれる距離である。冷汗が頬から流れ、床に滴る。
「まだそんなことを言うか。無理だと言っているだろう。なんならこの場で死ぬか?」
エミリアは刃物に変えた自身の手を海春との距離を詰めていた。本気の目をしている。今、この場で海春を殺すことは蟻を踏み潰すくらい簡単なことだ。怒らせたら怖いことを思い知らされていた。普通の者ならあまりの恐怖で気絶しているくらいだ。
「怖くない。これくらいで根を上げるようではシュンに顔向けできない」
「身体は正直だ。この震えはなんだい。言葉では強がりを言っても中身を覗いてみれば臆病者さ」
震える手をもう片方の手で押さえ付けた。それでも震えは止まることはない。
「それでも私は前に進む。進まなくちゃ行けないんだ。私は死ぬ覚悟はできているから」
海春は吠えた。身も凍るような状況を断ち切るように。その目はまだ死んでいなかった。
「なら望み通り、今すぐここで死ね」
エミリアが構えた時、海春は力強く目を瞑る。
数秒の時間が流れて異変がなく恐る恐る海春は目を開けた。
「辞めじゃ」
エミリアは刃物の手を元に戻し、背を向けて離れた。
「どうやら覚悟だけは本気のようね。まぁ、これくらいの脅しで泣くようではこの先はやっていけないが本物だよ、あんたの目は」
「あ、は、い」
海春は膠着しながら崩れていた。
恐怖がまだ染み付いている様子だったがそれでも海春は恐れずに向き合った。
「いいよ。海王殿の行き方と手段の手配をしてやろう」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ。だが、現地の対処法や帰り方は自分でなんとかしな。たとえ死んでも妾は責任を取らない」
「充分です。本当にありがとうございます」
竜宮神の敷地の外にて。エミリアと海春の姿がそこにあった。
エミリアは瓶の中のある液体をストローに付け、大きく息を吸い込んで一気に吐き出した。
すると巨大なシャボン玉が出来、ふわふわと浮かぶ。
「シャボン玉ですか?」と海春は首を傾げた。
「移動手段はこれで行ってもらうことになる」
「え? どうやって」
「まぁ、説明するよりも実際に体験した方がいいだろう。海春、この中に入れ」
「どうやって入ればいいんですか?」
「えい。こうするんだ」
エミリアは説明をするのが面倒になり、海春をシャボン玉の中へ目掛けて背中を押した。
「うわっ。あれ? どうなっているの?」
海春はシャボン玉の中に入ってしまった。
「このシャボン玉は特別な液体で作られたモノだ。外からはちょっとやそっとじゃ割れることはない。そしてシャボン玉の中では人間が深海に耐えられるような作りだ。これで海王殿までいく」
「凄い。本当に割れない。面白い」
海春は内側から叩いてみるが伸びるだけで割れることはなかった。調子に乗って飛び跳ねても大丈夫な強度はある。
「あの、これどうやって出ればいいんですか?」
「三日くらい過ぎて自然に割れるのを待つか、先の尖ったものを一点集中して刺すかだな」
エミリアは耳掻きの先を突き刺し、シャボン玉を割った。海春は腰を強く打つ。
「な、なるほど」
痛がる素振りは見せるがそこはグッと堪えていた。
「この中に入っていれば自然に海王殿に行くように設定してやる。身を任せていればいずれ着くだろう」
「ここからどれくらいの時間で着くんですか?」
「そうだな。三日、いや二日もあれば着くだろう」
「シャボン玉の持続効果は三日くらいで二日あれば行けるか。何とか大丈夫そうね」
と、海春はブツブツと独り言を言う。
「行く手段はこんなところか。途中で割れたら深海に生身の姿で放り出されることになるから気を付けろ」
「え!」
海春は悪い想像をしてしまった。
「途中で危険生物に会わなければ問題ない」
「会うこともあるんですか?」
「それは深海だから会うことも充分あり得る。会わないように祈るんだな」
「シャボン玉が唯一の命綱ってことですね」
「そういうことになるな」
「あの。疑問に思ったんですけど、いいですか?」
「なんだ」
「その瓶の中に入った液体でさっきのシャボン玉が作れるんですよね? だったら私に貸していただけませんか」
「緊急事態や帰りに使おうということか。残念だが、お前では作れないと思うぞ」
「どういうことですか?」
「まずは試しにやってみろ」
瓶を渡され、先ほどエミリアがやって見せたことを真似てみる。いくらストローに息を吹きかけてもシャボン玉は作れなかった。
「え? なんで? 手順を間違えたかな」
「人間の肺活量では無理だ。妾くらいしか作れん。貸してもいいが作れなかったら意味がないだろう」
「そんな」
海春は激しく落ち込む。
「なんじゃ。帰りの心配をするくらいならやめておくか?」
「いえ。行きます」
「よく言った。それと行くならこいつも連れていけ」
エミリアの視線の先にはデープドルフィンたちだった。
「こいつらは賢い動物だ。ピンチの時は助けてくれるかもしれない。一体貸してやる。好きな奴を選べ」
「ピャッ、ピャッ、ピャッ」
デープドルフィンたちは海春に寄ってくる。
「それなら決まっています。この子にします」
海春は一番小柄なコルクを選んだ。
「そいつは一番小さくて頼りないぞ。連れて行くなら一番サイズの大きい……」
「いえ、この子がいいんです」
「そうか。好きにしろ」
「よろしくね、コルク。私と一緒に来て」
「ピャ」
コルクは嬉しそうに鳴いた。
「荷物は纏めたのか?」
「はい。ここにあります」
海春はリュックを見せた。中には着替えや食料、水といった必要最低限のモノが入っている。
「そうか。二度とここに帰れないかもしれないぞ。本当にいいのか」
「もう、私の決意は固まっています。短い間でしたけど、お世話になりました」
「まるで最後の別れのようだな」
「はい。私は海王様に会ってシュンと一緒に元の世界に帰ります。だからここに帰るつもりはありません」
「強く出たな。その夢物語が本当に起きたらいいな」
「起こしてみせます」
「うむ。もし運良く助かったらここに戻って来てもいいぞ。その時は正式に人魚としてここで暮しても構わない」
「ありがとうございます。でも、遠慮しておきます」
海春は笑顔で言った。
「ふん。生意気な小娘だ。だが、そういう奴は嫌いではない」
「エミリア様って怖そうに見えて本当は良い人ですよね」
「バカ。からかうな。餓鬼の分際で」
エミリアは目を背けた。
「海春!」
遠方からレイナが慌てた様子でこちらに向かって来た。
「レイナさん」
「ねぇ、本気で行っちゃうのかよ」
「うん」
海春は正面を見ながら言った。
海春が海王殿に行くことを聞きつけたレイナは息を切らしながら止めに入る。
「行かないで。死に行くようなものだよ。分かっているの。確かにシュンのことも心配だと思うけど、それでも自分の命が大切だよ。死ぬと分かって行かせるわけにはいかない。いや、海春、行くな」
「レイナさん。ごめんなさい。私、シュンを見捨てる事なんて出来ないや。決心は付いている。止めてくれてありがとう」
言葉にならない感情がレイナを襲う。隣にいたエミリアに媚を売った。
「エミリア様、お願いします。海春を止めてください」
それに対し、エミリアは首を横に振るだけで何も答えなかった。
「私はあんたを引きずってでも海王殿に行かせない。この手が捥がれようと放さないから」
レイナは力強く海春の腕を掴んだ。
「痛いよ。レイナさん」
「放さないって言っているじゃん」
「レイナさんは優しいんですね。私が死んだら悲しいですか?」
「当たり前だ。せっかく仲良くなれたのにこんな別れはあんまりだ」
「私もレイナさんと出会えてとても嬉しかったです。私のことを心配してくれる優しい先輩です。でも、私は人魚である前に人間です。同じ人間がピンチの時にジッとなんてしていられません」
「人間だろうが人魚だろうが関係ないじゃん。友達に種族なんて関係ない」
「それは違います。人間には人間の、人魚には人魚の生活があります。だから、待っていてくれませんか。私がまた会いに来るのを」
「お前、そんな保証はどこにも」
「勿論ないです。でも約束って守るためにあると思います。私とレイナさんで約束を交わせば叶う気がしませんか? 私はそう思います」
「海春、お前」
「またレイナさんに会いに来ます。だからそれまで少しの間、待っていてください。それが一年後でも十年後でも百年後でも必ず会いに来ますから」
レイナは分かったとは言えなかった。そんな保証はどこにもない。しかし、信じて祈ることしか出来ない。いつの間にかレイナの手は海春から放れていた。
「ありがとう。私、行くね。エミリア様、お願いします」
エミリアはレイナに聞こえないように小声で言う。
「いいのか。そんな出来ない口約束をして」
「出来ない約束ではありません。勿論、死んだら約束を果たすことはできませんが、私はその約束を糧にして生きる気持ちを持ち続けたいんです」
「そうか。今すぐじゃなくても明日でも良いんじゃないか。せっかくだから送別会でもしてやるぞ? 最後の別れになるかもしれないからな」
「ありがとうございます。でも、お断りします。こうしている間にもシュンが苦しんでいるかもしれません。私は一刻も早く行かなくちゃいけません」
「そうか。残念じゃな。まぁ、せいぜい頑張るんだな。よし。では、特大のシャボン玉を作ってやろう」
その大きさは直径十メートルだ。これ程大きければ一週間は持つだろう。
その時だった。サザナシの巨体が海春の前に現れた。
「サザナシ? どうしたの?」
「ボコッ」
「一緒に行きたいんじゃないのか?」とエミリアは言う。
「そうなの?」
「ボコッ」と軽く頷く。
「じゃ、一緒に行こう」
海春は手を差し伸べた。コルク、サザナシを同行させて海春はシャボン玉の中へ入った。準備が整ったのだ。
「海春、最後にダジャレを言ってくれないか?」
「蛙は家にまっすぐ帰る」
「ハハ、なるほどの」
エミリアは豪快に笑った。気が済んだところで海春の出発の時が迫る。
「よいな。私の力が及ばなくなったら人間に戻る。その時は身体に異変が起こるかもしれないから気をつけろよ」
「はい。分かりました。お願いします」
シャボン玉が運ばれ、丁度、海王殿が真下に位置する場所に置かれた。たった一押しで転がり落ちる。落ちた後は自動で海王殿に行くだけ。途中で引き返すことはできない。
「達者でな」
エミリアは押した。シャボン玉は瞬く間に深海の底に落ちていく。
「行ってきます」
「海春! 生きて帰ってこいよ!」
レイナは大声で叫んだ。
海春は見えなくなるまで笑顔で手を振り続けた。
今、海春の新たなステージの幕を開けた。
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