第二部 海王殿

1/1
前へ
/4ページ
次へ

第二部 海王殿

竜宮神のある深海よりも更に深い深海に向かって海春とコルクとサザナシを乗せたシャボン玉がみるみると底に吸い込まれるように下がっていく。そこは暗くて冷たくて闇が深い場所だった。この先に海王殿に繋がっている。そこは選ばれた者しか踏み込むことが出来ない聖なる地である。  そこにはどのような光景が待っているのか噂程度しか知られていない。謎多き宮殿でもある。 「何も見えない」  海春の視界は闇の中だった。深海の世界は太陽の日差しが全く届かない場所。昼なのか夜なのか時間の感覚は一切ない。視界が見えないと言うことは頼りになるのは聴覚、嗅覚、触覚、味覚になってくる。しかし、そんな器用なことは海春が実践するには難題極まりない。 そんな時、サザナシが動いた。身体を発光させて周囲に光を照らした。サザナシの隠し能力の一つである。 「眩しい。サザナシ、あんたそんなことも出来るの?」  サザナシのおかげで視界がはっきりと見える。 サザナシには巨大化と再生の能力以外にもまだ隠された能力が秘められているようだ。だが、視界が良くなったとしてもシャボン玉の周りには何もない。無の世界だ。今、どれくらい下に向かって来たのか誰もわからない。ただ、流れに沿って落ちているだけなのだ。急に視界に現れて襲われることだって充分に考えられる。海春に不安が募る。 「無事に海王殿に着けばいいけど、本当に大丈夫かな」  俯きながら言う。 「ピャ」  コルクは海春に気を使ってすり寄ってきた。 「ありがとう。私を励ましてくれるんだね」  海春はコルクの頭を優しく撫でた。 「そうだ。何か食べる? 食料、色々持ってきたんだよね」  海春は持ってきたリュックの中に入っていた食べ物をコルクとサザナシに差し出す。 「美味しい?」 「ピャ」  コルクは心配そうに海春を見ていた。 「私は今、食欲ないから後で食べる。心配しなくていいよ」  海春は心では不安と恐怖でいっぱいだったが表に出さなかった。そんな状態ではとてもではないが食欲は沸かないのも無理はない。  シャボン玉が降下する速度は時速およそ五十キロ。ゆっくりと着々と目的地に進んでいる。まるでエレベーターが一階に着くように。  竜宮神を出発してどれほどの時間が経過したことだろうか。やることも特になく海春はいつの間にか眠りに入っていた。  海春が深海に足を踏み入れて約一ヶ月。  現実世界では既に水越家全員が行方不明で死亡したとニュースになっているに違いない。  海春が小学四年の記憶。川で仲が良い友人たちと飛び込みの練習をしていた時のことだった。 「ヒャッホー」  勢いよく飛び込んだ海春は大きな水しぶきを上げていた。犬のように首を振って水気を取り、手を挙げた。 「おーい。みんなも早くおいでよ。気持ち良いよ」  それに続き次々と友人たちが海春に続いて飛び込む。  そして最後の一人になった気の弱い男の子は崖の上で竦んでいた。 「早く来いよ」 「む、無理だよ。怖いよ」  その男の子は飛び込みを拒んでいた。 「お前、飛び込まなかったら明日から『臆病者』って呼ぶからな」 「そ、そんなの嫌だよ」 「嫌なら早く飛び込んでみろよ。この臆病者」 「ぼ、僕は臆病者じゃない」  男の子はビビりながらも飛び込む姿勢に入った。しかし、海春はある異変に気がついた。足が震えている。このままではバランスを崩すことは明白だ。その異変は的中し、飛び込むと言うよりも崖から落下しながら落ちてく。足が震えて飛び込みに失敗したのだ。危ないと誰もが思うがどうにもならなかった。男の子は頭から水面に激突し、浮いてこなかった。  頭を強く打ち付けたことで脳震盪を起こし、十針縫う大怪我を負ってしまう。  当時、海春は後悔していた。あの時、異変に気付く前にちゃんと止めていればこんなことにはならなかったのにと。  海春は謝るに謝り倒したが、結局それ以来、口を聞いてくれなかった。その男の子は小学校卒業を機に引っ越してしまった。スッキリしない別れになったことについては今でも悔やんでいた。 「ピャ」 コルクの鳴き声で海春は目を覚ます。過去の嫌な思い出から現実に引き戻されたのだ。 「コルク。どうしたの? 餌ならさっきあげたでしょ」  不機嫌な表情になりながら海春は上体を起こした。コルクの異変の先は海春だった。  突如、海春の身体は発光しだしたのだ。その光に海春は異変に気がつく。 「な、何々?」  次の瞬間、下半身の尾ビレが消えて元の足に戻った。そう、エミリアの力が及ばず魔法が解けたのだ。 「あ、人間の姿になっちゃった」  海春は完全に人間に戻っていた。つまり、現時点でエミリアの力が及ばない海域ということになる。人間になってしまったならこのシャボン玉が少女の命綱になる。目的地に着くまでは息を潜めるようにジッとしなくてはならない。まだ知らない深海魚がいるかもしれない。それに襲われたら今度こそ助からない。 「人魚の姿もこれで終わりか」  残念なような嬉しいような複雑な心境が溜息となって吐き出された。  幼い頃からの憧れの姿だっただけにショックもあるだろう。だが、今は生まれ持った自分の身体に海春は感謝でいっぱいだった。大事そうにその足を優しく撫でる。 「うっ。ゲホ、ゲホ」  海春は急に咳き込んだ。身体中から悲鳴が聞こえるように苦しそうだった。 「ど、どうしたの。私の身体が私のじゃないみたい」  海春はその場に転がるように倒れこんだ。 「そうだ。忘れていた」  海春はエミリアの言葉を思い出した。 (よいな。私の力が及ばなくなったら人間に戻る。その時は身体に異変が起こるかもしれないから気をつけろよ)  まさに異変が起こった。これは人魚から人間に戻った反動による体感変化だ。全く別の生物に変わる為、慣れるのに時間を要する。 「静まれ、静まれ、静まれ」  海春は身体を丸めて必死に耐える。コルクとサザナシは苦しむ海春をただ見守ることしか出来なかった。  海春が平常心を保つことが出来たのは人間に戻ってから三時間後のことだった。 「はぁ、はぁ、はぁ」  海春は汗でびっしょりになりながら息を切らす。ようやく痛みが引いたのだ。 「ピャ」  コルクとサザナシはずっと海春を気にかけていた。 「コルク、サザナシ。もう大丈夫。心配してくれてありがとう」  海春の言葉で安心したのかコルクはいつも以上に鳴き声を上げた。 「まさか人間に戻った途端にここまで苦しいとは思わなかった。エミリア様ももう少し詳しく教えてくれても良かったのに」  エミリアに対して文句を言う。その直後、海春の腹の虫が鳴った。 「落ち着いたらお腹すいちゃった」  海春は持ってきた食料をリュックから取り出す。調理場から調達したパンや鯖の缶詰を口に運ぶ。とにかく腹の虫を収めるだけの食事だ。 「ごちそうさまでした」  食べることを生きていると認識した瞬間だった。 「ピャ」  突然、コルクは鳴き出した。何かを伝えようとしている。 「ん? どうしたの。コルク」 「ピャ、ピャ、ピャ」  ジタバタと落ち着きがない様子だった。すると次の瞬間、泡が下から吹き上げてきた。何かが近づいているのだろうか。 「サザナシ、発光をやめて」  海春はすぐに指示を出す。周囲は再び闇が襲う。 「何か、何かがこっちに来る」  海春も気配を感じた。  無数の泡が下から噴き出してくる。その量は徐々に増していく。鰓呼吸によるものか。それならこの量の泡を出す生物はとてつもなく大きいことは予想が付いた。  すると、シャボン玉の真横に巨大生物が横切った。 「な、何?」  それはとてつもなく大きい生物で体調は二十メートルくらいあった。地球上で見るどの生物よりも大きい。 「ブオォォォ」  超音波のように耳に響くような音だった。 「きゃ、何? 頭が痛い」  生身の海春には厳しい衝撃だった。両耳を手で押さえていても鼓膜が破れるくらい強い雑音だった。あんな巨大生物に襲われたら全滅だ。離れていくのを祈るしかない。  その巨大生物の正体はキングクジラ。深海のギャングとして最強と言われている生物の一つ。クジラの中では最も凶暴で視界に入っただけで襲う危険性を持っている。  今、海春が入っているシャボン玉はターゲットにされていた。キングクジラは方向転換をしてシャボン玉に向かって来た。鼓膜が破れるほどの鳴き声は相手を戦意喪失させるためのものである。大口を開けて全てを飲み込もうとする。 「どうしよう。このままじゃ、やばいよ」  海春は泣きそうだった。耳の痛さに迫り来る物体に危険がダブルで襲う。 その窮地にコルクは動いた。シャボン玉の内側から鼻でシャボン玉を押しながら泳ぎだした。グングンとキングクジラと距離を取る。 「いいぞ、コルク。逃げて」 「ピャ!」  キングクジラからコルクは逃げる。しかし、その距離は縮まる一方である。このままでは追い付かれるのも時間の問題だ。多少の寿命が延びたに過ぎない。 「もうダメ」  海春が諦め掛けていたその時だ。サザナシはコルクの後ろに出た。シャボン玉越しに得意の触手でキングクジラの口を掴み受け止めた。必死に押し返す。 「サザナシ?」  その足止めが効いたのか、距離を離すことができた。 「サザナシ! あなたも早くこっちに来て」  海春は叫ぶ。伸びきったシャボン玉はいつ破裂してもおかしくない。 「サザナシ! 早く」  その時だった。サザナシの身体は発光した。そのままキングクジラの軌道を変えて逆方向へ追いやった。  倒すことは不可能に近いが逃げ切ることは可能だ。うまく撒くことができたのだ。 「やった!」  海春はガッツポーズをした。  バチンと伸縮が戻り、シャボン玉も無事だった。 「もう、心配したんだから」  海春は戻って来たサザナシに強く抱きしめた。 「ミ、ハ、ル」 「え?」  微かにサザナシは海春の名前を言った。 「アリガトウ」 「サザナシ。あんた喋れるようになったのね」 「スコシダケ」 「充分よ。私の方こそありがとう。助けてくれて。あなたは危険生物なんかじゃない。誠実な感情を持っている心優しい子。そう信じているから」 「ウン」 「さぁ、もう一踏ん張り。頑張ろう」  海春たちは困難を乗り越えて来た深海は現在、水深四万五千メートル地点。海王殿まで残り僅かだ。しかし、ここまで来るのに巨大生物に襲われたことを考えると油断はできない。常に気を張っておかないと一瞬の緩みで死ぬ。深海とはそんな世界だ。誰も知り得ない未知数の海。  現在、海春は元の人間の姿になっている。しかし、それは周囲に包まれているシャボン玉によって守られているだけ。ふとしたことで割れたらそれで終わりだ。最後の命綱でもある。最初は全員が入ってもスペースに余裕があったが下に進むにつれてその大きさはみるみる小さくなっていた。今は自分たちのスペースが丁度で余裕はない。 「大丈夫かな、これ」  シャボン玉の大きさに海春は不安になった。 「もし、このまま小さくなり続けたら外に出ちゃう。そうなったら私は窒息。いつ到着するか分からないのにこのままじゃ私は」  その続きは言うことはなかった。 「ピャ」  コルクは心配するように鳴いた。 「ごめんね、コルク。私は大丈夫。きっとなんとかなる」  自分に海春は言い聞かせた。 「それにしても寒い。毛布持ってこればよかった」  深海の温度はマイナスに及ぶ。深海になればなるほどその温度は下がる。海春は自分の身体を摩る。息を手に吹きかけ白い霧が出る。  寒さを察知したコルクは海春に寄り添った。  その時だった。遥か下から眩い光が海春たちに刺激した。 「ピャ、ピャ」  コルクの様子が急に慌ただしくなった。 「もしかしてあれが海王殿?」  苦難を乗り越えた先の神々しい光の先が大きく見えていた。ようやく辿り着くことができる。海春の最終地点。 「あそこにシュンがいるといいな。いや、いなくちゃ困る」 海春はその思いを拳に込める。 距離が近づいたその時だった。下から何かが飛んできた。するとその何かがシャボン玉に向かって近づいてきた。その正体は矢である。正体を知った海春は一瞬のことに反応ができなかった。避けることはできず、矢はシャボン玉を貫通させて破裂した。 パチンと破裂する効果音が周囲に響き渡る。  海春は無抵抗のまま、深海の中に投げ出された。 「うっ!」  水圧が海春を圧迫する。生身の人間が耐えられる水圧ではない。このままでは窒息は免れない。『へ』の字になり、無抵抗だった。 (く、苦しい) 「ピャ」  コルクは動いた。コルクは深海の生物である為、シャボン玉から投げ出された程度では何も影響を受けない。すぐに海春の救出に向かった。  海春を押して空気がある地まで向かう。海王殿付近には酸素がある。そこまで辿り着ければなんとかなる訳だ。コルクは押し出すように海春を投げた。 「ピャ」  海春は転がるように海王殿の敷地内に落ちた。  それを心配そうにコルクが顔を覗かせるが海春は息をしていない。 「タスケル」  後から辿り着いたサザナシが海春の元に向かう。得意の触手で心臓マッサージを繰り返した。 「ぶはっ」  海春は飲み込んだ水を吐き出し、息を吹き出した。 「げほ、げほ、げほ」  意識を取り戻した海春は胸に手を当てて呼吸を整える。なんとか一命を取り留めた。 「コルク。サザナシ。ありがとう。あなたたちのおかげで助かったわ。ようやく着いたのね。ここが海王殿……」  海春は絶句した。確かにここは海王殿であることに間違いはない。しかし、海春の周りには魚人たちで囲まれていた。逃げ道は一切なかった。よく見れば全員、弓を持っている。先程の矢の襲撃は奴らの仕業であった。無理もない。警備を全くしていないなんて虫のいい話なんてあるはずもない。 「人間だな。貴様を拘束する」  一体の魚人の隊長が言った。 「嘘……でしょ?」  海春は開いた口が閉じなかった。 「動くな。抵抗すれば痛い目を見ることになる」  海春の額から一滴の汗が流れた。  海王殿に着いていきなり絶体絶命の窮地となり、第二幕は波乱の始まりとなった。    海春が海王殿に辿り着く少し前のこと。海王の部屋にて。 「海王様。ご報告です」  兵士の魚人が慌てた様子で部屋の中に入ってきた。 「なんじゃ。騒々しい」  純金の椅子に座っていたシャークレイは面倒そうに答えた。 「正体が分からないのですが、何かこちらに向かって落ちて来る物体が確認できるのですがどう致しましょう」 「物体? なんじゃそれは」 「分かりません。得体の知れないものであることは間違いありません」 「邪魔だから撃ち落としておけ。ここでの墜落を阻止しろ」 「はっ! かしこまりました」  兵士の魚人は敬礼した後に部屋を出ていった。 「全く。騒々しくてかなわんな。最近、こう、刺激が足らんな。絶望が欲しい。なぁ、そう思わないか?」  シャークレイは誰かに向かって言った。しかし、相手の反応はない。 「お前も可愛げがない奴だな。まぁ、いい。面白いものがあるから行くとしようか」  シャークレイは重い腰を上げて立ち上がった。  シャークレイが向かった先は海王殿の遥か地下にある秘密の部屋。研究室とも言われ、入ることができるのはシャークレイと研究員に限られている。  シャークレイが足を踏み入れるとそこは暗くて冷たい空気が行き渡る。その中央には一人の研究員が作業を進めていた。 「あ、海王様。これは、これはどうされましたか?」  彼の名はコーリー。この研究室である研究を進めている最高責任者の海トカゲである。知識と頭脳が高く手先も器用なのが特徴だ。仕事が早く海王の信頼が熱い数少ない生物の一人だ。 「よう、コーリー。成果が気になってな。どうだ、順調か?」 「えぇ。今の所は順調ですよ」  その中央には一人一つずつカプセルに収まる全裸の人間の姿があった。カプセルの数はおよそ五十個。中の人間の意識はないが生きている。そのカプセルが通路を囲むように設置されていた。 「最近調達した三人の人間とあいつはどこにいる?」 「えぇ、それならこちらに」  コーリーはある場所にシャークレイを誘導した。カプセルの通路の先には通常のカプセルよりも高い位置に四つ、人間が収められていた。  それぞれ意識はなく体育座りの形で眠っている様子だった。 「ほう、それでこの人間たちのデータは?」 「はい。それならここに」  シャークレイは資料を受け取り、目を通した。 「細胞の数値が似ているな」 「はい。おそらく親子関係に当たるかと」 「そういうことか」  シャークレイは不敵な笑みを浮かべた。  光が僅かに挿し通るところに海春は目が覚めた。あれからかなりの時間が経過していた。一日、二日。何日眠っていたのか海春には分からない。実際は三日が経過している。 「ここは?」  海春は身体の異変に気付いた。首輪と手錠が天井から吊るされており、足は膝が床についている状態だ。上半身は自由がきかないが下半身は辛うじて動きそうだった。 「なにこれ。私、捕まっている?」  状況はまさにその通りだった。海春のいる部屋は鉄越しで覆われた部屋になっており、その先には石の廊下が続いている。見た感じここは牢屋そのものである。 「一体何がどうなっているの」  海春の今の状況になる前のことを思い出していた。  それは遡ること三日前のことになる。  三日前、海春が海王殿に辿り着いた直後のことである。 「嘘……でしょ?」  海春たちの周りには魚人たちによって包囲されていた。逃げ道はない。 「捉えよ」  隊長兵士の合図により、魚人たちは動き出した。 「ピャ!」  コルクは向かってくる魚人に目掛けて突進を仕掛けた。 「コルク! ダメ!」  海春の声には耳を向けずコルクは突っ込む。  バコーンと強い効果音が鳴り響いた。  一体の魚人の体制を崩すことが出来、逃げ道が作られた。まるでボーリングの玉がピンを倒したように。その一瞬の隙だった。  サザナシが海春の身体を触手で掴み、その隙間に向かって放り投げた。 「きゃ!」 「イケ、ニゲロ」  コルクとサザナシが海春を逃がすため、その身を犠牲にした。魚人たちを押さえ込み良い具合の足止めになった。必死の攻防戦が繰り広げられた。 「ごめん、先に行くね」  海春は一言、添えて逃げ出した。申し訳ない気持ちがいっぱいになり、その瞳に涙を浮かべていた。  恐怖心に狩られながら海春はその足で走った。現在、海王殿の外部にいる。すでに敵陣の敷地内に入ってしまったのだ。こうなることは想像できたこと。それでも海春の中では心の甘えがあった。きっとなんとかなる。優しい人が助けてくれる。それが大きな間違いだった。 「どこか裏口はないの? その前に隠れる場所があればいいけど」  海春の走っている床は大理石が一面に広がっている。海王殿には高い石の壁に覆われており、とてもよじ登って上がれる高さではない。それよりも海王殿の外周には筒抜けになっており、落ちればどこまで落ちるか分かったものではない。まずは渡る為の橋を探す必要がある。 「ここからあの宮殿までどれくらいあるかな」  海春は背伸びをしながら現在地から海王殿までの距離をおよそで測ろうとする。 「私の身長が百五十五センチだから私が十二人分くらいでいくつだろ」  空っぽの頭をフル回転させて計算するが答えは出なかった。分かったことはジャンプで届く距離ではないということだけだろう。 「この下に落ちたらどこに繋がっているんだろう」  崖の下は肉眼では見えないくらい暗闇が続いている。まず落ちれば助からないことは間違いない。 「どこか、どこかに渡れるような場所は」  周囲を見渡しても橋はない。むしろ橋は海王殿から吊るされており、誰かが橋を掛けない限り渡れない。  それに隠れるところもなく何もないのだ。 「どうしよう。このままじゃまた見つかる。それにコルクとサザナシも心配だよ」  そうこうしている間に時間だけがただ過ぎる。 「貴様、侵入者の人間だな」  一体の魚人に海春は見つかる。 「やば」  背を向けて逃げ出そうとする海春だったがその足取りが止まった。 「誰か、人間がここに……」  魚人が仲間を呼ぼうと声を出したその時だった。  海春はその魚人にタックルをして押し倒した。そのまま両手で魚人の首を鷲掴みにする。 「何をする」 「仲間を呼ばせない。それよりどうやって海王殿に入れるか教えて」 「誰が人間なんかに。そこをどけ」 「言え! さもないと」  海春は両手の力を強めて首を絞める。 「は、放せ」 「絶対に放さないんだから」  魚人と海春との攻防戦が繰り広げられた。状況は明らかに海春が有利の体制だった。  魚人の表情が曇る。このままでは窒息する。その表情を見た海春は感情が揺らいだ。自分が殺そうとしている立場に我に返って思わず手を離してしまったのだ。それが海春の心の甘さだった。  手が離れた瞬間、魚人は足で海春の腹部を蹴った。吹っ飛ばされた海春は無抵抗のまま、崖から落ちた。掴まるものもなくただ底へと転落したのだ。 「嘘でしょ?」  心の甘さが引き起こした己の結果である。  海春の悲鳴が辺りに響き、その声は下にいくにつれて声が小さくなった。 「あーあ。あの人間底なし崖に落ちたな。もう命はないだろう。俺は見なかったことにしよう」  魚人は崖から顔を覗かせた後、そそくさとその場を去っていく。  海王殿を囲むようにその周りには底が見えないくらいの崖に覆われていた。これは安易に海王殿に侵入されないように施されたものである。崖から落ちたら二度と戻ることができない海底に繋がっていると言われていた。魚人たちにはそのように言い伝えられ、誰も崖には近づこうとしない。  海王殿に渡るには中から橋をかけて渡るしかない。海王の住む場所ということもあり、厳重に守られていた。  しかし、崖の下は誰も近づけさせないための言い伝えに過ぎなかった。  海春は暗闇の中にいた。  崖から落ちた割に海春の身体には痛みはなかった。  目が慣れ始めた頃、装置の機械音が海春の耳に入ってきた。 「ここはどこ? 何の音?」  手探りで機械音のする方向へ進む。  進んだ先の壁に額をぶつけて跳ね返ってしまう。海春は尻餅をつき、手でその額を摩った。 「壁? ここから音がする。なんだろう」  壁の向こう側から機械音がするのが分かった。しかしその先へは行くことができない。  海春は壁をコンコンと叩きながら物色をした。空洞があり奥に部屋があるのが見てわかる。勢いよく叩くと一箇所だけ発泡スチロールのように簡単に壁が崩れた。そこから強い光が射し通る。  空いた穴から海春は片目を覗かせて中の様子を確認する。  海春の目に映った光景はカプセル状の巨大な装置だった。それだけじゃない。そのカプセルの中には裸体の人間が眠った状態で収められていた。一つだけではない。それはいくつも一列に並んでいた。 「え?」  海春は絶句した。瞬時に恐怖が海春を支配した。 「逃げなきゃ」  本能的にこの場から離れたいと直感したのだ。 その時である。後頭部に強い痛みを感じ、そのまま海春は意識を失った。  時は現在に戻る。 「そうだ。私、何とか逃げていたら変な部屋に入って頭を殴られたんだ」  微かに頭に痛みが残っていた。問題は敵に捕まり、拘束されている事実だった。崖に落ちてそこから変な部屋があり、気づいたらまた知らない場所に拘束されている。なんとも忙しい展開である。 「何とか、ここから逃げないと」  とは言うものの首と手が全く動かない状態では逃げたくてもどうしようもなかった。足掻くことは出来ても体力を消耗するだけで無駄なことは言うまでもない。  鎖同士の接触で金属音が鳴るだけ。例え、外すことが出来ても鉄越しの壁があるので逃げ出すことは困難である。  鉄越しの向こう側からピチャピチャと足音が響き渡る。何者かがここに近づいていた。海春は固唾を呑んで待ち構えた。 「おやおや。ようやく目が覚めましたか。ククク」  鉄越しの前に立ったのは小柄でシワが寄った人型のトカゲだった。個性として大きなメガネを掛けている。 「誰? あなた」 「私はコーリー。海王様から雇われている研究員だよ」 「研究員? 私をどうするつもり?」 「見たんだろう? 研究室」  海春の顔が歪んだ。恐ろしいものを見た顔である。 「見ていないです」 「そんな嘘を付かなくてもいいよ。分かっているから。まさか人間の君に見られてしまうとは。あそこは私と海王様しか入れない施設だと言うのに残念だよ」 「あなた、あの人間をどうしたの。あの人たちをどうするつもり?」 「君に答える義理はないさ。それと安心しなよ。君が捕まったことは私以外知らない。海王様にもね」 「へ、へぇ。でも、あなたは私の味方には見えないけど?」 「この海王殿では君に対して味方でも敵でもない。海王様に知られると楽しめなくなるじゃないか」  海春の背筋が凍った。危険を感じ取ったのだ。 「何をする気?」と海春は恐る恐る聞いた。 「若い人間の女はなかなか手に入らなくてね。こんなレアな人間をミスミス引き渡すのは勿体無い。私のオモチャにさせてもらうよ」 「ちょっとこっちに来ないでよ。来るな!」  海春の怒涛が響き渡る。後ろの壁にいっぱいまで下がる。 「くふふふ」  気味が悪い笑い声を発しながらコーリーは近付く。まさに袋の鼠と言ったところだろうか。  コーリーが鉄越しの外にあるスイッチを押すと開いた。海春との距離は縮まる。 「実に面白い生き物だ」  コーリーは壁に追いやった海春の頬を片手で掴んで目線を合わせた。 「放しなさいよ」 「ほう。この状態でもまだそんな口がきけるのか。何ともまぁ、生意気だな」 「ぺっ」  苦し紛れの抵抗か、海春はコーリーの顔を目掛けて唾を吐き捨てた。  その間、パチンと言う音が辺りに響く。  海春の頬は赤くなっていた。しかし、涙は見せない。ただ、鋭い視線をコーリーに向けていた。 「何だ、その目は、人間風情が」  パチンと再び平手打ちを浴びされる。  それでも海春の鋭い視線は揺るがない。それはまるで別人のようである。 「誓え。私の言うことを聞けば命は助けてやる」 「お断りします」 「よく考えろ。君の命は私の手の中だ。私に逆らうとどうなるのか、想像できない訳ないだろ?」 「…………」  その時だった。  コーリーの電話が鳴った。 「私だ……なんだと……分かった。すぐ行く」  電話を切るとコーリーは海春に背中を向けた。 「急用ができた。お前を痛ぶるのはお預けだ。おとなしく待っていろ。まぁ、待つしかできないだろうがな」と嫌味垂らしく吐き捨てる。  コーリーが過ぎ去るのを見届けると海春の身体の力が一気に抜けた。 「はぁ。怖かった」  大きな溜息と共に心の声が外に出ていた。 「どうしよう。このままじゃ、またあいつに何をされるか分かったものじゃない。早くここから逃げないと」  とは言うものの、上半身が固定されているのでどうしようもなかった。幸い、先ほどの鉄越しを閉め忘れているので鎖さえ外れれば逃げ出すことは可能だ。 「シュン、私はどうしたらいいの」  今の少女の頭の中はそれしか浮かばなかった。  海の世界ではまだ見ぬ謎が広がっている。人間には予測出来ない現象が起こっているのもまた海の闇である。   深海の絶対的な権力と絶対的な強さを持っているシャークレイという海王も良い例である。彼の目的は支配である。自分に誰も逆らえず平伏す姿を見て優越感に浸るのが娯楽になっていた。そんなシャークレイには絶対服従の最強の生物を飼いならしている。自らの手を下さなくとも支配できる絶対的な生物が。その生物こそシャークレイが人間を捕獲している最大の理由である。  その生物は自らの意思を持たない。飼い主の指示は忠実に従うだけの存在。自分は何の為に生まれて何の為に生きているのかそんな感情は持たない。飼い主以外は誰であろうと攻撃をする。その力はどんな生物よりも強靭でパワフルである。飼い主が命令しない限り止まることはない。深海の中でも幻の危険生物の一つに認定されている。  その生物の名は『スラッジ』と言う。  名前の通りその身体は形を持たず汚泥で覆われている。スライムのように形は自由自在だ。その動きはのろのろと鈍いがどんな攻撃も吸収して跳ね返す力を持っている。その身体に捕まれば最後、どんどんと中に引き寄せられ終いには身体の一部となって消えてしまう。捕まった時点で死が確定してしまう。掴んだものはその粘着力で抜け出すことはほぼ不可能。この世界を滅ぼしかねない生命の一つだ。  スラッジの栄養源。ありとあらゆる生命をその体内に取り組むことができる。取り組んだ生命によって力が倍増するところはサザナシと変わらないが違うところといえば、それは人間である。人間を取り組むことによって成長を急激に加速する。その発見をシャークレイは悪用しようと企んでいたのだ。 「わははは。随分大きくなったな。スラッジ。お前の成長が楽しみだよ」  海王の椅子で胸を張っている海王ことシャークレイは満足げに言った。  最初は豆粒くらいの大きさで危険性はないが、現在の姿は十メートルを超える巨体になっていた。ここまで成長するのに何人の人間を取り組んだか計り知れない。主に死体となった人間はスラッジの栄養源に変換される。  だが、いくら身体が巨大と言え当然、意思を持たない為、返事をすることもないし頷くこともない。海王の命令に従うだけの操り人形に過ぎない。 「お呼びでしょうか。海王様」  腰を低くしながらコーリーは海王の部屋に足を踏み入れる。 「そろそろこいつの餌の時間だ。準備を頼む」 「かしこまりました。ではすぐに人間の死体を用意いたします」 「たまには生きた人間を用意できないか? こいつから逃げ回る間抜けな姿を見たいものだ」  悪趣味な発言がその場の空気を氷付かせた。 「しかし、生きた人間は貴重ですしなかなか手に入らない高級品です。ここは死体の方が無難かと」 「俺様に口答えをするのか? お前を餌に差し出しても構わないんだぞ?」 「ぐっ。ご無礼を申し訳ありません。それだけはご勘弁ください」  シャークレイの殺気のある発言にコーリーは恐怖した。 「一匹。それだけいいだろう」 「分かりました。ご用意致しますので今しばらくお待ちください」  コーリーは低い腰を更に下げてお辞儀をした。   「くそ、くそ、くそ」  金属音が無情に響き渡る部屋に海春の嘆きが広がる。  焦れば焦るほど体力と時間が減っていく。決められた運命に身を任せるしかできない無力な自分が嫌になる。そんな未来にしか進めない海春は力が抜けた。ただ、無駄に体力が消耗するだけだ。 「シュン。ちゃんと生きているよね」と、シュンが気がかりになる海春だった。  その時である。壁と床の隙間に小さな穴が空いているのが視界に入る。建物が古くなればよくあること。しかし、その穴から水が漏れている。最初は水滴程度のものだったが時間が経つにつれて勢いは増していく。  浸水しているのか。外の水が隙間から押し寄せているのか。  部屋の中に入った水は一つの物体となって集合している。その大きさはテニスボールくらいのものである。球体から形を変え、何かの生物になっていく。 「なに? なに?」  目の前の不可解な現象に凍りつく。逃げたくても逃げられない状況が歯痒い。  しかし、その形は海春の見覚えのある姿をしていた。 「サザ……ナシ?」  疑問形を持ったのも無理もない。その大きさは海春の知っているサイズの十分の一の大きさしかないのだ。両手で持つことのできるようなサイズな訳で本物かどうかも怪しい。 「あなた。サザナシなの?」 「…………」  海春の問いには答えない。いや、正しくは答えることができない。  触手が伸び、海春の繋がれている鎖が切断され、床に落ちた。 「やっぱり、サザナシなんだね。良かった。無事で」  そっとその身体をすくい上げた。 「何があったか分からないけど、私を助けに来たんだよね。私を逃がすのに力を消耗したからこんな姿になったのかな? ごめんね。無理させちゃって」  サザナシは身体を横に振る。 「ありがとう。助かった。逃げよう」  海春はサザナシをポケットに突っ込み部屋から抜け出した。  海王殿にいる人間は皆、魚人による人攫いで集められた者たちである。海上で釣りをしていたり、ダイビングをする者が主にターゲットにされている。年間の行方不明者は何万人いる中でほんの一握りが人攫いの被害者に当たるわけである。  人攫いをされたとして全て生きている訳ではない。当然、深海に引き込まれるので途中で死ぬこともよくある話。深海の環境で生きて連れてこられるのは限りなく低い確率である。  その中で生存した一人の人間が海王の部屋に運ばれていた。  プロのスクリューダイバーで肺が強いこの男性はなんとか生きながらえてここにやって来た。しかし、その生還も無意味で海王の娯楽の為のショータイムに捧げられる始末になる訳だ。  素っ裸の状態で手錠と足枷が外され自由の身になる。  そこには王の椅子に座るシャークレイとその横には飢えたスラッジの姿があった。 「ば、化け物だ!」  その姿を見た人間は恐怖に駆られた。咄嗟に逃げることが頭に過ぎる。逆向きに走り出した。 「哀れだな。スラッジ。餌の時間だ」  シャークレイの合図でスラッジは動き出した。まるで津波のように全てを呑み込む。捕まれば跡形もなく散るだろう。  逃げ場はどこにもない。蛇の水槽にネズミを入れられた状態と同じだ。ただ、決まった運命に従うだけしかできない。そんな状態が今、目の前で行われていた。 「うわぁー。やめてくれ!」  悲痛な叫びも虚しく、スラッジに飲み込まれてしまった。人間は跡形もなくスラッジの体内に消えたのだ。その瞬間、スラッジの大きさが膨れ上がる。栄養価の高い食事の影響である。 「ブオォォォォォォォ‼︎‼︎」  部屋全体に響く奇声が地震のように揺れる。力が漲ったのか、その衝動が抑えきれない様子だった。まさにとんでもない怪物が誕生していた。 「おぉ。久々の生きた人間でより大きくなったか。これは素晴らしい。最高の餌だ」  拍手をしながらシャークレイは興奮した。  とんでもない怪物のスラッジ。それを飼いならすシャークレイ。恐ろしい二つの存在に周囲は騒めく。 「はぁ。はぁ。はぁ」  息を切らしながら走る一つの影。  海春は脱出後、魚人の目を気にしながら移動を続けていた。 「確か、あの人間の部屋は地下のどこかにあるはず。ここは多分上階だと思うから下へ行けば行けるはず。あそこに行けばもしかしたらシュンがいるかも。運が良ければ私の家族もあそこにいることだって考えられる」  自己分析をしながらブツブツと呟く。 「ねぇ、サザナシ。コルクはどこ? 一緒じゃなかったの?」  ポケットの中にいるサザナシに問いかけるが反応はなかった。それよりも先ほどから球体の姿になり、そのまま動かなくなってしまったので生きているかも怪しい。いや、恐らく体力の消耗で眠った状態になってしまったに違いないがそれは海春には分からない。ただ、目覚めるまで大事にポケットの中に入れておくしかない。 「こうなったら私一人でなんとかするしかない」  海春は休むことなく走り出した。 「ぐへ、ぐへへへ」  気持ち悪く笑みを浮かべるコーリーはある場所に向かっていた。その手には鞭が握られている。拷問をする気満々である。誰にも邪魔されず自分だけの世界に浸る言動が目に浮かぶ。その足取りは発売日にゲームを買った後の帰り道に近い感覚である。今か今かと楽しい想像が浮かぶ。知らずにその足取りはスキップをしておりご機嫌だった。 「子猫ちゃん。お待たせ。さぁ、遊ぼうか」  ペットに話しかけるようにそのいやらしい顔を覗かせた。  視界に映ったのは身動きが取れず、無防備な姿をした海春だと思い込んでいたが、その姿はなかった。いるはずの姿がそこにはない。ありえない事態にコーリーは口を半開きにして目を丸めた。 「何故だ。何故いない」  部屋を隈無く探すがいないことに変わりはない。 「逃げやがったな。自力では外せない鎖をどうやって解いた。どこに行った」  楽しみを奪われたその感情は怒りが込み上がっていた。八つ当たりのように周囲の壁や床を殴る、蹴る、を繰り返した。物に当たることで冷静さを取り戻した時、脳内にあることが過ぎる。 「まさか、あの研究室に向かったんじゃ」  嫌な予感がしてすぐに来た道を引き返した。  敵に見つかりそうな場面にいくつか遭遇するもギリギリのところで海春は回避していた。 「何体いるのよ。ここの護衛は」  数の多さに思うように前に進めない海春はもどかしい気持ちだった。海王の権力の高さが伺える。 「何か。下まで楽にいけるルートはないのかな。ひゃ!」  奇妙な声を出したのは手を壁に付いた時だった。カチッと変なスイッチが入ったことに気が動転したのだ。  すると次の瞬間、床が抜けて海春は落ちた。 「いやあぁぁ」と悲鳴を挙げながらどんどん下へ下へと落ちて行く。それは滑り台のようになっていて何処かへ繋がっていたのだ。  落ちた先へは薄暗い部屋だった。 「痛い。何?」  尻餅をついてお尻を摩りながらなんとか起き上がる。棚が並んでおり小瓶がいくつも並んでいる。そこはどこかの物置のように見て取れる。  奥には一つだけ扉があった。  海春は引き寄せられるようにドアノブに手を伸ばす。  ガチャとその先に広がっている光景は装置がいくつもあり機械音が部屋中に鳴り響く。 「ここだ。私が見たのは」  海春は確信した。部屋の中央に向かって歩を進める。最初に入った時と全く同じ光景がそこに広がっていた。  カプセルの中に裸の人間の姿が一直線に並んでおり、まるで通路を作っているようである。 「生きているんだよね?」  眺めるだけで下手に触れなかった。通路に沿って歩くと中央に高い位置にカプセルがあるのに気づく。数は四つのカプセル。その場所に近づくにつれてカプセルの中に入った人間が海春の視界に映った。 「嘘でしょ?」  そこには海春の知っている人物の姿があった。海春の父親、母親、海斗、そしてシュンの姿だ。 「お父さん! お母さん! 海斗! シュン!」  懸命に呼びかけるが中からの反応はない。カプセルの中で眠っているようにピクリとも動かない。 「どうしよう」  再会を果たすことが出来たとは言え、嬉しいものではなかった。生きているのか死んでいるのか分からない状態。海春は無力を悔やんだ。床に膝を付き、頭を下げて歯を食いしばった。  下手に触って中に影響があったら触るに触れない。何かここから出してあげる方法はないかと周囲を見渡す。  すると、中央の扉から煙を出しながら開く音がした。誰か来てしまった。咄嗟に海春はカプセルの裏にその身を隠した。  煙から姿を現したのはコーリーの姿だ。 「あ、あいつだ」と海春は小声で言いながらコーリーの姿を確認した。  コーリーはゆっくりとした足取りでカプセルの中央に向かった。その先はシュンのカプセルだ。 「どうやらカプセルは無事みたいだ。さて、こいつもそろそろいいだろう。必要なデータは取れた。後は魚人に変えるだけだな」  その発言に海春は息を殺しながら驚きを隠せずにいた。シュンが魚人に変えられる。一体どうやってそんなことができるのか。 「始めようか」  コーリーはカプセルに備え付けられていたレバーを引いた。すると、磁場が流れた。シュンは磁場に包まれる。 「辞めて!」  思わず、海春はその姿を現した。 「小娘、やはりここにいたか。探す手間が省けたよ。どうやってあの鎖を解いた?」  コーリーは両手を腰に回し、余裕の表情である。 「さぁ、どうやったでしょうね。それよりあなた、シュンに何をしているの?」 「見て分からないか? 人間の魚人化だよ。見ているがいい、奴が生まれ変わる姿を」 「辞めなさい。そんなこと絶対にさせない」 「生意気な小娘だ。まずはお前を取っ捕まえてやる」  コーリーは持っていた鞭を床に叩きつけた。  パチンと痛々しい音が響く。 「さぁ、お仕置きの時間だ。主人から逃げたらどうなるかたっぷり分からせてあげようか」  鞭は海春を目掛けて伸びた。 「きゃ!」  寸前のところで交わすが床にはヒビが入っていた。もし、当たれば無傷では済まない。 「いつまでも逃げられると思うなよ」  鞭は海春に向かってくる。交わすのが精一杯である。が、海春は誘った。寸前の所でかわし、その鞭の攻撃がカプセルに直撃した。  パリンとカプセルのガラスの中心が割れた。 「し、しまった」  当たったカプセルはシュンが入っていたモノだ。ガラスが割れて中の水分が一気に抜ける。 「シュン」  海春は中から出てきたシュンを、身を呈して受け止めた。 「シュン。しっかり。お願い、目を開けて」  身体を揺するが意識はない。  下半身が見えそうになるが海春はギリギリのところでうまく視線から外すように見る。 「離れろ。そいつに手を出すな」  コーリーは慌てた様子で向かってきた。その慌てようは只事ではない。  ズバッ‼︎  その瞬間、赤い血が宙に飛び散った。海春の顔に何滴か返り血が付く。  コーリーは胸をクロスの状態で切られて倒れた。  何が起こったのか。海春が理解するまで数秒を要した。 「シュン……なの?」  そこには魚人の皮膚を纏ったシュンの姿があった。鋭い牙と爪があり、その爪でコーリーを切り刻んだのだ。  切った後は棒立ちのようになり、横目で海春を見ていた。 「シュン?」  再度、海春はシュンに呼びかけるが反応はなかった。数秒後、シュンが口を開いた。 「シュン? 誰のことだ」 「え?」  海春は絶句した。 「シュンはあなたよ。自分が分からないの?」 「さぁ、なんのこと? それより気安く僕に声をかけないでくれるかな」 「あなた誰? シュンはどこに行ったの?」 「お前、さっきからうるさいんだよ」  シュンは海春に向かって牙を向けた。素早い動きに反応できず、ただ海春は目を閉じることしかできなかった。  が、数秒経っても異変は起きない。目を開けるとサザナシが守るようにシュンを受け止めていた。 「サザナシ?」  お互い引かずにこう着状態だ。海春は止めようにも身体の震えでうまく動けない。 「なんなのよ。あれがシュン?」 「いててて」  コーリーは腹部を抑えながら上体を起こした。どうやらまだ動く元気はあるようだ。 「どうやら実験は成功したようだな」  か細い声でコーリーは傷口を布で押さえながら言った。 「コーリー、シュンに何をしたの? あれは本当にシュン本人なの?」 「くふふふ。あぁ、その通り。最強の生物を作り上げるために研究に研究を重ねた結果がその姿だ。全ては海王様の為、最強の戦士を作り上げる為。それがあの姿だ」 「ちょっと待って。ここにいる人たちは全員、その為にここに連れてこられたの?」 「くふふふ。そうだ。死体や失敗作はスラッジの餌用になるがほとんどは魚人化の為だ」 「スラッジ?」 「海王様のペットさ。あいつは特に人間を取り入れることで成長を加速する」 「そんなバカなことに人間を利用されていた訳? 今すぐシュンを元に戻して」 「それは無理な相談だ。奴は海王殿の戦士として動いてもらう。その為に無駄な記憶は奪った。私に牙を向けたことは気に食わんが、その辺の指導はこれからしていくつもりだ」 「なんて酷いことを」  海春は目を見開き強い視線をコーリーに対し睨んだ。 「安心しろ、小娘。お前は私のペットとしてじっくり可愛がってやるから人間のままにしといてやる」  何も安心できない言葉に海春はイラついた。 「さぁ、シュンよ。いや、名も無き戦士よ。そいつを殺してその小娘を生け捕りにしろ」  コーリーの命令に従ったのか、シュンは力が増していく。サザナシは少しずつ押されていく。今のサザナシは力では太刀打ち出来ない。力が違い過ぎた。 「辞めて、シュン。攻撃しないで」 「うわぁぁぁ」  シュンはサザナシを弾き飛ばし壁に激突した。 「サザナシ」  海春は心配の声を上げる。駆け寄ろうとしたその時だった。 シュンは頭を抱えて苦しみ出した。 「シュン。どうしたの」  海春はシュンの元に駆け寄った。  次の瞬間だった。安易に近づいたことでシュンの鋭い爪が海春に向けられた。 「うわあぁぁぁ」とシュンは訳も分からず、海春に攻撃した。海春は動けなかった。  海王殿の遥か上空に位置する竜宮神にて。  レイナはデープドルフィンたちに餌をあげていた。 「ピャ、ピャ、ピャ」  七匹のデープドルフィンたちは奪い合うように魚を食べて始める。 「こら、ケンカせずに仲良く食べなさい」  海春が旅立って竜宮神は元の日常に戻りつつあった。  いつもと違ったことは飼育小屋にエミリアが現れたくらいだろうか。 「エミリア様? 何故、こちらに?」  幽霊を見るようにレイナは驚きの表情が隠せなかった。 「敷地内に我がいることがそんな不思議か?」 「いや、その、はい」 「正直じゃな。ずっと部屋にいるのも肩が凝るし気分転換に散歩じゃよ」 「そ、そうですか」 「レイナ。あいつが心配か?」 「えぇ、そうですね」とレイナは海春の顔が浮かんだ。 「あいつがここを出発して一週間くらいか。生きていたら今頃は海王殿に着いた頃だな」 「きっと無事に着いていますよ。海春なら」 「ほう。何故、そう思う?」 「私と約束したから。また、会いに来るって」 「だと良いがな」 「エミリア様はどう思われますか?」  レイナの問いにエミリアは口を尖らせる。 「あ、申し訳ありません」とすぐにレイナは謝罪を入れる。 「酷じゃな」とエミリアは答える。 「え?」 「海王殿に辿り着くのは実はそう難しくはないが問題はその先じゃ」 「と、言いますと?」 「丸腰の人間があそこの警備を突破することはできない。すぐ死ぬ。例えコルクとサザナシに助けられてなんとか振り切ったとしてもあの怪物に接触したらすぐ死ぬだろうな」 「なんですか。その怪物って」 「簡単に言えば奴はマリオネットじゃよ」 「はぁ」  レイナは疑問でしかなかった。 「どうしてあの時、私を助けてくれたの?」  竜宮神での会話で海春がシュンに投げかけた質問だった。シュンは仮面を外した。その顔は生気が溢れる凛々しい表情である。 「なんでそんなことを聞くんだい」 「だっておかしいじゃない。シュンは自分の目的の為に人間を捕まえて差し出しているんでしょ? 私を助けるってことは真逆のことをしているって意味だと思う。なんでだろうって疑問だったんだよね」 「あぁ、そのことか。なんでって道にダンボールに入った子猫と一緒に『拾ってください』ってメモ書きがあったら助けるだろ? 同じことさ」 「私は捨てられた子猫ってこと?」 「そうだね。ほっとけないって思ってしまった。変な話だね」 「そっか。何にしろ私はシュンに助けられた。そこは感謝しかないよ」 「僕は君の味方だ。この深海での戦友だ。これから二人で協力して地上に帰ろう」 「うん。これからよろしくね。シュン」 「ぐはぁ!」  海春は膝を付いた。貫通とまではいかないが腹部から血が流れた。 「貴様! 私のコレクションになんてことを。とんだ失敗作だ」  コーリーは頭を抱える。許せない気持ちが漲ったコーリーは鞭でシュンに攻撃を仕掛けた。しかし、その攻撃は呆気なく跳ね返され、攻撃した本人に直撃して倒れこんだ。  このままでは海春の命が危ない。海春は仰向けに倒れ、意識が朦朧としていた。   その時、サザナシが動いた。自分の触手を切り離し、それを海春の傷口を巻いた。  すると、徐々に傷が小さくなり元の状態になっていく。これはサザナシ本来の能力である再生の力だ。自分以外に再生能力を与える光景は初めてのこと。  海春はみるみると回復し、意識を取り戻した。 「私、生きている?」  先程の腹部の痛みが嘘のように痛みは感じない。 「サザナシのおかげだ。ありがとう。サザナシ?」  サザナシは球体に戻っていた。 「ごめん。私のせいで」  今のサザナシに体力は残されていない。球体になって力を温存するしかできなかった。 その時である。うわあぁぁ! と雄たけびが研究室全体に響く。  シュンが動転していたのだ。訳も分からず周りの装置を破壊しながら暴れていた。  そのまま部屋から出てしまい、どこかへ行ってしまう。 「待ってよ。シュン」  サザナシの球体をポケットに詰めて海春はシュンの後を追う。途中、通路に倒れていたコーリーをジャンプで跨いで部屋を後にする。  取り残されたコーリーは歯ぎしりをしてなんとか自力で立ち上がる。 「くそ、こうなったらこいつらも解除してやる。あいつは私のものだ」  フラフラと今にも倒れそうな動きをしながら一箇所の装置に向かう。  あるスイッチを押した。次の瞬間、装置から煙が立ち込めた。 「今に見ていろ。私の研究の成果を見せてやる」 「待って! シュン」  前方に暴走するシュンの後を追う海春は階段を駆け上がっていた。  海春の声なんて耳に届かず、混乱した様子である。その間、海王殿の護衛魚人は異変に気付き、シュンを止めようとする。 「うわぁぁぁ!」  まるでボーリングのピンのようにあっさりと護衛魚人たちは吹き飛ばされる。 「ダメだ。止まらない。すぐに援軍を呼ぶんだ!」 「退け!」  暴走するシュンの前に現れたのは護衛幹部の一体、右近。ワニ系の魚人だ。動きは遅いが硬い鱗の防御力と鋭い牙の攻撃力がある二刀流だ。その高い能力があり、海王からの期待は高い。  暴走するシュンを意図も簡単に受け止め、床に叩きつけた。 「ぐはぁ」 「ん? こいつは確か人攫いの部隊にいた、確か名はシュン。いや、しかし姿が違うような……」 「シュン!」 「ん? 生きた人間?」  海春と右近は目と目が合った。 「魚人の姿をした人間に生きた人間……ほう、なるほどな」  目から入る情報を見て右近は状況を把握したように言った。 「その手を離して」 「あ?」  右近の凄まじい殺気に海春は顔を引きつった。シュンは暴れ続けるが右近の手から離れることができない。 「おい、人間。侵入者の人間が逃げ回っているというのはお前のことだな」 「どうかしらね。私、知らないけど」 「いいよ、そんな下手な芝居。弱そうで小さいくせによくここまで辿り着けたな。感心するよ」 「それはどうも。悪いけど、私はあなたの手の下にある人に用があるんだけど、その手をどけてもらっていいですか?」 「ん? あぁ、これは悪かったな」  右近はシュンを片手に海春の方へ投げ飛ばした。その衝撃で海春は壁に激突した。 「ざまぁねぇな。所詮は人間だ。魚人には敵いはしない」 「シュン」  海春は自分の身体が痛みながらもシュンの心配をした。 「シュン。大丈夫?」  シュンの身体から蒸気のように湯気が出ていた。少しずつ人間の姿に戻っていく。 「海春か?」  シュンは弱々しくも口を開く。 「うん。そうだよ」 「身体が痛い」 「無理しないで。休んでいていいよ」 「少し、疲れているみたいだ。ちょっとだけ眠らせてくれ」 「うん。おやすみ」  そのままシュンは目を閉じ、意識を失うように深い眠りに入っていく。 「ん?」  海春はシュンの胸元にある『何か』が気になり、手に取る。石のカケラが胸にくっ付いているのだ。大きさはビー玉くらい。簡単にカケラは取れてすぐに手の中に隠した。ゴミなのか、魚人化に伴い何か関係があるのか、海春に知る由もなかった。 「ねぇ、そこの怖い顔をしたワニさん」  空気を読んでいたのかあえて大人しくしていた右近は海春に声を掛けられる。 「海王様のところに案内してくれないかな?」 「あ? なんで俺がお前に案内しなきゃならん。俺は護衛幹部だぞ。立場が偉いんだぞ」 「偉いとか偉く無いとかそんなのどうでもいいよ。私はどうしても海王様に会わなくちゃいけないの。だから言うこと聞いて」  ドーンと右近の拳が壁に穴を開けた。 「舐めるなよ、人間風情が」  周囲の魚人たちは右近の威嚇に怯えた。その場から距離を取ろうと後ろに下がるほどだった。一方、海春は手足が震えながらも目は逸らさなかった。 「怖くないのか?」 「怖いよ。でも、あなたに怯えているようでは海王様になんてとても会えない」 「分かっているな。海王様は俺の何十倍も怖い方だ。理由次第で会わせてもいいが何故海王様に会いたい?」 「元の世界に帰るためです。それ以外の何ものでもありません」 「ほう、却下」となんと答えようと却下するつもりだった右近。  右近の牙が海春に向けられた。  バコーンと次の瞬間、床が崩れて巨大生物が海春の前に現れた。新たな刺客の登場だ。 「ゴゴゴ!」  ティラノサウルスのような見た目の恐竜だ。五メートルはある。 「な、なんだ。この化け物は」  右近は化け物に敵意を示す。 「俺様の邪魔をするな」  自慢の牙を向けて攻撃を仕掛ける。が、化け物に全く歯が立たず返り討ちにあった。 「え? あのワニさんを一瞬で倒した?」  海春は目の前の光景が信じられなかった。そして、化け物と海春は目が合った。 「ゴゴゴ!」  次の標的は海春にロックオンされてしまった。 「やば!」  海春は立ち上がり、逃げた。化け物は海春を追いかけた。 「何よ。なんなのよ。あの恐竜は」  不利に見えた鬼ごっこは海春が地形を利用しながら逃げた。  あの巨体の力は凄まじいが動きは遅い。それに細い通路に入れば追いかけようにも追いかけられない。  ひとまず人一人が通ることが出来る道を選んで逃げることができた。 「はぁ、はぁ、はぁ」  海春は休憩を挟みながら考えた。 「あの、恐竜は床から突然現れた。周りの魚人も初めて見るような反応をしていた。つまり地下から、研究室から来たってことはあの恐竜の正体は人間? でもあんな大きい人間がいないはず。一体どこから生まれたの?」  全てはコーリーが何か糸を引いていることは間違いなかった。 「それは後にしてまずは海王様に会うことが先決。でもどこにいるか知らないし。そうだ」  海春はあることを閃いた。 「偉い人って基本建物のトップにいるものよね。だったら上に行けば会えるかも」  思ったらすぐに行動に出た。  階段、階段、階段。上に続く階段を移動しながら探した。  空間が広くなったある場所に辿り着いた海春はあるものを見つける。 「螺旋階段だ」  螺旋階段を登る海春のペースは落ちていた。気づけば海王殿に入ってから海春に休める時間はなかった。ずっと走り続けている。体力が減っていくのも自然だった。 「この階段、どこまで続いているのよ」  見上げればまだまだ上に階段が続いている。少し休もうと階段に腰を下ろす。追手は今の所来ないのが幸いだ。 「私の考えが甘かったのかな。流石に海王様に会おうなんて無謀過ぎるかもしれない。私はただ、帰りたいだけなのに」  一人でいることに海春の不安は募る。諦めモードにも入ろうとしていた。 「海王様、ご報告であります」  護衛隊の魚人は敬礼しながら言う。 「人間の小娘が現在、この宮殿の中を彷徨いているとご報告がありました。おそらくこの海王様の部屋に向かっていると思われます」 「ここに向かっているだと?」  不機嫌にシャークレイは言う。 「は! どのように致しましょう?」 「面白い。泳がせておけ」 「よろしいのですか?」 「人間一人、ハエが入ったのと変わらん。視界に入ったら捻り潰すだけだ」 「承知致しました。そのように下へ伝えておきます」  バタンと扉が閉まると海王の表情に笑みがこぼれた。 「クハハハ。人間の小娘が何をしようとしているが知らんがどうせすぐ死ぬことだろう。それより、スラッジの様子が気がかりだ」  シャークレイが目を向けたスラッジは上下に身体を揺らし、今にも爆発しそうな様子だった。 「変なものでも食べたのか」とシャークレイはそう思っていたが、明らかに変だ。 「それよりも小娘一匹入ったくらいで騒ぎ過ぎだ。最強の兵隊が何をしているやら。そう思わんか。スラッジ」  スラッジは床に張り付いたまま動かない。そしてみるみるとその形が保てなくなり溶けだ。 「どうした。スラッジ。しっかりしろ」  スラッジは意思を持たない生物。その原因は栄養源の取り過ぎで限界に達し、不要な分を体内から排除する動きだった。その身体は小さくなり、三分の一のサイズまで落ちていく。 「なんだ。その姿は」  スラッジは定位置である海王の横に移動する。 「最強の生物が見るに呆れるわ。そんな姿を俺様に晒すな」  次の瞬間、シャークレイの矛がスラッジの中心部に炸裂する。その衝撃でスラッジは扉ごと部屋から吹っ飛ばされてしまった。  スラッジは原因不明の症状に侵されていた。その症状をシャークレイは知る由もない。  バッコーン‼︎ 「え? 何?」  螺旋階段に腰を下ろして休んでいた海春は強い衝撃音で立ち上がった。  その音は何メートルも上からだった。海春は落ちないように手摺りに摑まりながら上を見上げた。 「スライム?」  視力一・五の海春の目に映ったのはスラッジの姿だった。しかし、海春はその正体は知らない。数メートル中心から落下したが途中で踏み止まった。 「また変なのが出た。どうしよう」  その時だ。地鳴りが海春の耳に伝わってきた。  螺旋階段の階下にある扉が破壊され、恐竜の化け物がその姿を現す。 「ゴゴゴ!」 「やば。来ちゃったよ」  上にはスラッジ。下には恐竜の化け物。その中央部に海春がいた。挟み撃ちにされた状況に海春は判断を迫られた。 「ゴゴゴ!」  恐竜の化け物は螺旋階段に目をつけ、駆け上がって来た。 「来た!」  海春は重い足取りに鞭を打って駆け上がった。 「あのスライムも何かしらの刺客よね。それでも私は前に進むしかない」  上に行くにつれてスラッジとの距離が近く。そして駆け上がった先にスラッジが待ち構える。 「うわ。ドロドロしていて気持ち悪そう」  見た目は完全にヘドロ。おまけに悪臭も酷く、海春は鼻を摘んでいた。ここを通らなければ先には進めない。考えているうちに後方から恐竜の化け物も迫っていた。  海春の逃げ場はない。壁に背中を向け、視線を広く取る。上から攻められるか、下から攻められるか。  そして動いたのは同時だった。 「嘘」  咄嗟に逃げで海春は目を瞑りしゃがみこんだ。  その瞬間、力と力の衝突が地鳴りとなって響き渡る。  二対の標的は海春から外れ、それぞれが敵対する形になっていた。 「チ、チャンス」  隙を見て海春は四つん這いになり、階段を駆け上がった。  海春の心臓の鼓動は早くなっていた。片手で胸を押さえながら呼吸を整える。 「死ぬ。死んじゃうよ、私」  螺旋階段の上段までもう少し。震えながらも海春は辿り着いた。  そして。一つの部屋に扉がない。部屋の外からでも分かる禍々しいオーラが伝わってくる。途轍もない化け物が部屋の中にいる。一瞬躊躇いを見せたが、そこに海春は足を踏み入れた。  海春と海王・シャークレイの対面だった。 「あなたが海王様?」 「いかにも。俺様が海王。名はシャークレイという」 「私は水越海春。人間よ。ずっと会いたかったです」 「まずは不法侵入してよくここまで辿り着けたと褒めてやろう。で、俺様に何か用かな? 聞くぐらいなら聞いてやってもいいぞ」 「海王様にお願いがあります。私を、生きている人間全てを元の世界に戻してください」 「面白いことを言うな。はい、分かりました。とでも俺様が言うとでも思うか?」 「では、質問します。何故、こんなことをするんですか? 私たち人間が何か危害を及びましたか?」 「何故って楽しいじゃん。恐怖に逃げ惑う情けない姿を見ると面白い。それに利用価値が人間は無限大だ。それだけのことだ」 「やはり、話し合いでは応じませんよね」 「下級種族ごときと話し合いなんて出来るか。やるなら力で言うこと聞かせてみろよ。それが深海の在り方だ」  海春は奥歯を噛み締めた。拳にも力が加わる。話し合いでなんとかしようと言うのが大きな間違いであることはここに来る前から分かっていたこと。それなのに現実を前にした海春は受け入れがたいものであった。力がない海春は無力。ここまで頑張ってきたがことは意味を持たなかった。 「どうした。この俺様を倒すことができたら言うことを聞いてやらんでもないぞ。ふははは」  嘲笑うようにシャークレイは甲高い声を挙げた。 「戻りたいだけなのに」と、海春は聞こえるか聞こえないくらいの小さな声で呟いた。 「あ? なんだって?」  自分の笑い声で聞こえなかったシャークレイは聞き返した。 「私はただ、元いた世界に帰って元の生活を送りたい。ただそれだけです。それ以上は一切望みません。だから、私を、みんなを元の世界に返して!」  涙を浮かべながら海春は響き渡るような声で言い放つ。 「ならかかってこいや」  シャークレイは人差し指を動かしながら挑発をかけた。 「うわあぁぁぁ!」  海春は丸腰で正面から向かっていく。海春らしくない考えなしの行動だった。 「ははは。血迷ったか」  シャークレイは動く素振りはなく受け止める体制を取った。 「貴様ごとき、これで充分か」  中指を弾いて海春を弾き飛ばした。デコピンである。通常のデコピンの何倍もの威力を誇っていた。その勢いは部屋の外まで飛ばされた。海春の身体は螺旋階段の中心部。  その身は一気に階下へと落とされた。 「え?」  意識を失いそうになりながら海春は手を伸ばすが掴むものは何もない。 (ここか。ここが私の最後なのか)  海春の死は迫っていた。転落死という形で。  床に激突まで五秒前。  走馬灯をするような余裕もなく映像に余裕はなかった。  四秒前。三秒前。二秒前。一秒前。 「シュン。助けて!」  その願いが通じ、海春はシュンによって受け止められた。 「間に合った!」  お姫様抱っこをするような形で受け止めたシュンの腕は激痛だった。衝撃で腕が折れることは避けられない。  海春とシュンの思いはしっかりと通じていた。 「シュン。来てくれると思った」 「ごめん。もう少し早く来ればこんなことにはならなかったのに」 「いいの。ちゃんと来てくれた。それより腕が」 「気にするな。ちょっと折れたくらいだ」 「ありがとう」 「それよりも」  海春とシュンは上を見上げた。  視線の先の奥にいる海王ことシャークレイが二人の行く手を阻んでいた。 「どうしよう。いくらシュンがいても海王様相手にはどうにもならないよ」 「力ではそうだね。だが、海王様にメリットがある交換条件を突きつければ可能性はまだある」 「メリットのある条件? それって一体」 「海春、離れろ」  突如、シュンは海春と押し飛ばした。  上から恐竜の化け物とスラッジが転落して来たのだ。  ドーンと床に衝突する音が響いた。シュンは海春を覆うように跨りギリギリのところで交わす。 「痛たた。何?」  海春は何が起こったのか理解できず、周囲を見た。  二体の化け物はノックアウト。共倒れになっていた。死闘の末、決着の着いた瞬間だった。 「よくわからないけど、化け物同士が倒れて助かった。海春、先を急ごう」  シュンは呼びかけるが海春の反応はなかった。ただ倒れた恐竜の化け物を見つめていた。 「海春? どうした。行くぞ」 「今から変なことを言うけどいいかな?」  海春は謎の前置きを言いながらシュンを見る。 「私、思うんだけどどうしてこの二体は争っていたのかな」 「知らないよ。ただ、暴走しただけじゃないの?」 「ううん。そうじゃない。この恐竜の化け物は私を襲っていた訳じゃないんだと思うの」 「少し、意味が分からない」 「私はこう思うの。私を襲っていた訳じゃなく、私に降りかかる危険を排除しようとしていたんじゃないかって思うの」 「そんなバカな。何の為に」 「そうだよね」  海春は動かなくなった恐竜の化け物に問いかける。  すると、身体から光を放ち、別の姿に変わっていく。その正体は三人の人間である。 「お父さん、お母さん、海斗」  海春の家族だった。それがその生物の正体だ。倒れて全く動かない。駆け寄る海春だったが、触れる前に突然姿を消してしまった。 「どうして」  泣き崩れる海春にシュンは肩に手を置く。 「こんなのことができるのはコーリーしかいない。おそらく奴の手によって恐ろしい化け物に変えられたのだろう。残念だが家族は諦めろ」 「うるさい!」  海春はシュンの手を振り払った。 「何も知らないくせに知ったようなこと言うな。私のかけがえのない家族なんだよ。それがまたしても消えた。私は何もできなかった。ただそれだけ」 「ごめん」 「許さない」  そのセリフにシュンは俯く。 「海王だの、研究だの糞食らえ。私は怒ったぞ」  怒りはシュンではなく別のものに向けられた。その先は上に向けられる。 「ま、まさかまた海王様の元へいくつもりか?」とシュンは驚きの表情で言う。 「うん。行ってくる」 「ちょっと待て」  シュンは海春の腕を掴んだ。 「放してよ」 「いや、ダメだ。これ以上は君を危険に晒せられない」 「じゃ、どうしろって言うの? このままじゃ私の怒りが収まらない」 「感情に飲まれるな。怒りに任せているだけでは死ぬだけだ」 「でも」 「だから、僕が行く」 「行くって海王様の元へ? その腕じゃ無理だよ」 「いいんだ。僕はどうなっても構わない」 「よくないよ。果たしたい執念があるんでしょ?」 「どうせ思い出せない。せめて君だけでも逃げるんだ。帰れなくても幸せの形は他にいくらでもある」 「お断りします。それだったら私も一緒に行く」 「分からず屋だな。君も」  二人はおぼつかない足で螺旋階段に一歩を進めた。  竜宮神にて。  飼育小屋にいるデープドルフィンが何やら騒がしく鳴いていた。そこ鳴き声を聞きつけたレイナは頭を掻きながら近づく。 「どうしたの。君たち。餌ならさっきあげたばかりでしょ」 「ピャ、ピャ、ピャ」  レイナが飼育小屋の正面に立つとその鳴き声が高まる。あまりにもうるさくて思わずレイナは耳を両手で塞ぐ。  一体どうしたと言うのだろうか。こんなに慌ただしく鳴き続ける姿は初めてのこと。レイナはデープドルフィンの体調を確認しようと檻の鍵を外した瞬間だった。  デープドルフィンたちは檻から逃げ出し、どこかへ行ってしまう。 「ちょっと、あなたたち。どこ行くの」  レイナは逃げ出したデープドルフィンの後を追いかけた。  その方角は竜宮神の北部の先端だ。一箇所に何かを囲むようにデープドルフィンたちは円を作って固まっていた。不自然な動きにレイナは恐る恐るとその中心を覗き込んだ。「え? 嘘でしょ」  その中心に居たのはコルクの姿だった。ぐったりとして辛そうに身体を丸めていた。 「コルク。しっかりして。何があったの」  身体を揺すってもコルクに反応はなかった。 「どうしよう。みんな、コルクを見ていて。すぐにエミリア様を呼んでくる」  レイナは自慢の泳ぎでエミリアの元に泳いでいった。  海春がシュンに肩を貸しながら長い螺旋階段を上って行く。その足取りは遅いが確実に歩を進めていた。 「シュン。腕、大丈夫?」 「うん。大したことないよ」 「ごめん。私のせいで」 「気にするな。僕たちは一心同体だろ?」 「そうだね」  海春は頬を赤めた。少し安心した様子である。 「海春は将来の夢ってある?」とシュンは話題を振った。 「将来の夢か。深海に来てからやってみたいなって思ったことがあるの」 「どんなこと?」 「イルカのトレーナー」 「なんでまた?」 「竜宮神にデープドルフィンっていうイルカに似た生物がいるんだけど、その子達と仲良くなれて嬉しくてさ。イルカのショーでお客さんを喜ばせたい。私、泳ぐことしか取り柄がないからそれしかないかなって」 「うん。良いと思うよ。海春なら似合っているよ」 「ありがとう。コルク。どうしているかな」 「コルクって?」 「デープドルフィンで一番仲良くなった子。一緒に海王殿に来たけど、今どこにいるのか心配で」 「大丈夫だよ。きっとどこかにいるさ」 「そうだと良いけど、会いたいよ。まだ小柄で無茶する子だから」 「会う為に僕たちはこの先を進まなければならない。そうだろ?」 「うん。全くもってその通りだよ」 「行こう。僕たちは最後まで一緒さ」  その足取りは早まり海王の部屋に迫っていた。 「あの人間は死んだかな?」  海王の部屋にて海王ことシャークレイは呟いた。部屋にはシャークレイが一人取り残されている。護衛の最強ペットのスラッジは自らの拳で部屋から叩き出した。あくまで躾という意味でもあるが、やりすぎと言えばそれまでだ。  シャークレイが本気で暴れたらこの海王殿そのものを破壊しかねない程の威力を増す。  気が抜けていたシャークレイは無防備だった。護衛は疎か、身を守るペットのスラッジもいない。そんな時に訪問者が現れる。  バタンと正面の扉が開かれた。 「ん? 懲りずにまた来たのか。人間の小娘が。そもそも生きていたとは驚きだな」 「あの程度で死んで溜まるもんですか。それに私には水越海春っていう名前があるの」  海春は噛み付く。横にいたシュンも中に入ってきた。 「シュン。貴様も生きていたか」 「僕があの程度で死ぬわけないだろう」 「魚人化は失敗したのか。コーリーは後で躾ないとな。だが、自ら死にに来るとはバカな奴らだな」 「海王、聞きなさい」  海春は指を差しながら言った。 「小娘。態度を改めろ。殺すぞ?」 「私はあなたを許さない。家族を、仲間をあんな目に合わせたあなたは絶対に許さない。思い通りになんか私がさせない」  尚も海春の指はシャークレイを差したままであった。 「さっきから癇に障る餓鬼だな。一層、死ぬか?」  その発言にとてつもない殺気を放っていた。その圧で二人は足元がフラつく程であった。鬼が目の前にいる。 「負けるな。海春」とシュンは気に掛ける。 「うん」  二人はなんとかバランスを保ちつつあった。 「元の世界に還せ。この鮫!」  シュンが挑発をかけた。 「シュン。誰に口を聞いているかまだ分かっていないようだな。バカは死なないと分からないってことでいいかな」  シャークレイは牙を剥き出しにシュンに真っ直ぐ突っ込んだ。  交渉の余地はない。 「シュン! 危ない」  海春は両手でシュンを突き飛ばした。  そのままシャークレイは壁に激突し、牙が挟まった。 「海春! それ」  海春の腕から血が吹き出ていた。 「大丈夫掠っただけだから」  シュンは袖口を破り、海春の腕に当て布をした。 「ありがとう」  ドカーンとシャークレイは壁ごと破壊して振り向いた。 「バカにするのもそこまでだ」  今度は海春に向かってシャークレイは突っ込んだ。 (逃げなきゃ、でも足がうまく動かない)  海春、ここに来て絶体絶命の時、迫る。  シャークレイの牙は空ぶった。  海春は天井付近に交わしていた。シャークレイ、そしてシュンは海春の姿に驚きを隠せなかった。 「海春、その姿は?」 「え? 嘘! 私、人魚になっている」  そう、海春の足は尾ビレに変わっており、人魚の姿になっていた。人魚の力により、素早い動きで攻撃を交わしたのだ。 「でも、なんで」  その疑問を海春は答えを導き出す。  こんなことができるのはたった一人しかいない。海春がすぐに連想させたのはエミリアの存在だった。しかし、周囲を見渡してもその姿は確認出来ない。つまり、エミリアの魔法の影響がある範囲内に存在するという訳だ。その正確な距離は分からない。しかし、竜宮神から離れて人間に戻った距離を考えるとなれば検討が付いた。  その距離はおよそ三千メートル。その範囲内にエミリアはいる。ここに近づいている。 「エミリア様、来てくれたんですね」 「エミリアだと。小娘、何故エミリアを知っている」  エミリアの名前が出た途端、シャークレイは動揺を隠せなかった。 「エミリア様は私がこの深海でお世話になった恩人です。この海王殿に行くまでのサポートをしてくれました」 「なるほど。通りで小娘一人がここまで辿り着けた訳だ。そういうことか。エミリアが手を引いていたか」  シャークレイは意味深に笑みを浮かべながら言った。 「エミリア様がどうしたって言うのよ」 「エミリアは俺様の惚れた唯一の女だ。どんだけアプローチをかけても奴は振り向きもしなかった。八十年間、ありとあらゆる方法で求愛した。それでもエミリアは振り向かなかった。そんな時、エミリアは言った。『誰よりも強くなったら付き合ってもいい』と。その言葉を信じ、俺様は鍛えて鍛え上げた。そして、深海で最強を誇る海王という地位を得た。誰にも負けず誰もが平伏す存在に俺様はのし上がった。全てはエミリアをモノにするために。近々、竜宮神に出向き、プロポーズをする予定だ」  シャークレイの話を海春は白い目で見ていた。シュンは奥歯を噛み締めじっと聞いている。エミリア自身はどう思っているか不明だが、シャークレイの強さの秘密にはエミリアが絡んでいる衝撃の事実があった。しかし、理由が理由だけに二人は反応に困っていた。 「海王様、いいんですか?」  海春は弱みを握ったように大きな態度をとった。 「何だ?」 「もし、私に危害を加えたらエミリア様がどう思うか考えて見てください。おそらくエミリア様はあなたに失望して二度と振り向いてくれなくなるかもしれませんよ?」 「な、なんだと。そんな出まかせで愚弄する気か」 「なら、私を殺して下さい。ただ、覚えておいて下さい。その時はエミリア様の怒りに触れるということを」  言葉の盾を突きつけながら海春は冷や汗を流す。対してシャークレイは後ずさりをする。海春の生存率を上げる為の口からの出まかせを悟られてはいけない。これは咄嗟に考えついた嘘に過ぎない。実際、海春がどうなろうとエミリアとしては何も感じないというのが正しい訳だ。だが、それを悟られないようにハッタリをかますことが海春の命運を大きく分ける。  一時、膠着状態が続いた。お互い、動くに動けない。 「海春と言ったな。何故、人間のお前がエミリアと信頼を築ける。あり得ない。認めんぞ」 「では、この姿はどう説明しますか? エミリア様以外にこのようなことは出来ませんよ」 「人間の分際で人魚の姿になるのは忌々しい。やはりエミリアなのか」 「そうです。エミリア様の力以外の何ものでもありません」 「ぐっ」 「海王様。私の望みを聞く気になりませんか?」 「誰が聞くか」 「エミリア様、怒るだろうな。海王様の顔も見たくないって」 「そんな訳あるか」 「どうかな。エミリア様なら言いかねないかも」  海春の口調はトーンが上がった。エミリアの名前が出ただけでここまでシャークレイを圧倒するのは前代未聞のこと。エミリアパワーおそるべし。  しかし、いつまでもそれは続かない。海春の嘘がバレたらその時こそ本当の終わりである。海春の背中にいるシュンはシャークレイに聞こえないように小声で語りかけた。 「海春、話から察するにその嘘はいつまでも続かない。ここは逃げた方が先決だ」 「逃げる? ここまで来て? そんなことをしてなんの意味があるのよ」 「海春は今、人魚の力がある。人魚は海の生物で一番泳ぎが早い生物だ。それで一気に海上まで逃げろ」 「む、無茶よ。いくら人魚の姿でももし途中で魔法が解けたらそこで窒息死。ゲームオーバーよ」 「でも、ここにいるよりか安全だ」 「そんなことをしたらシュンはどうするのよ。置いて逃げられないよ」 「おい。何をコソコソ話している」  二人の視線は海王に向けられる。 「聞こえたぞ。嘘だってな」  とてつもない地獄耳だった。万事休すか。  その時だった。隕石が落ちてきたような衝撃音とともに天井が破壊された。  周辺一帯が更地に変わる。それは大きな岩が直撃し、まさしく隕石そのものだ。そしてそこに現れたのは一人の人物だった。 「よう、久しぶりじゃの。シャークレイ。いや、今は海王じゃったの」 「エミリア様!」  派手に登場したエミリアの姿に周囲は注目する。  真っ先に動いたのは海春だった。 「海春か。まだ生きていたみたいだな」 「はい。エミリア様、どうしてこちらへ?」 「大切なペットの頼みじゃ」 「それって」 「エミリア。何しにここへ来た。ようやく俺様のモノになりに来たのか」 「用という訳でもない。妾はただ、忠告をしに来たに過ぎん」 「忠告だと?」 「そうじゃ。海王よ。もう、これ以上強さを求めるな。これ以上強さを求めたらこの海そのそもが消えて無くなる」 「全てはエミリア。お前を手に入れる為だ。俺様の強さ、お前の魔法が組み合わされば文字通り世界征服も夢ではないぞ」 「そんなことは興味ない」 「何を言う。約束しただろう。俺様が海王になれば求愛を認めると。そして俺様は約束通り海王の座に付いた。約束は守ってもらうぞ」 「あぁ、昔そんなことを言っておったな。あれは嘘じゃ」 「な、なんだと」 「妾は誰かと寄り添う生き方は主義ではない。自由気ままな人魚姫だ。それにどうも貴様の顔はタイプではない」  エミリアはハッキリと言い放った。それに対し、言葉にならない怒りがシャークレイを震わせた。 「大体、やり方が強引じゃ。いくら海王の座に就きたいからと前海王を殺すとは思いもしないだろ。少しは話し合いができないのか。単細胞」  追い討ちをかけるように火に油を注ぐエミリアに海春は怯える。それ以上はやめろと。 「エミリア。貴様! 裏切るつもりか」 「妾は自由気ままな人魚姫じゃ。貴様の言うことなど誰が聞くか」  その発言がスイッチとなりエミリアとシャークレイの正面衝突が勃発した。  二つの力がぶつかり合い、風圧だけで海春とシュンは飛ばされた。 「強い。巻き添えを食らう前に逃げなきゃ」  海春は辛うじて立ち上がるが、シュンは気絶していた。 「シュン! しっかり」  すぐに海春はシュンに駆け寄り身体を揺すると目を覚ました。 「海春」 「良かった。立てる? ここから離れよう」 「うん」  海春は肩を貸し二人三脚のように出口に向かう。海春一人なら逃げるのは簡単だ。しかし、シュンを抱えながら人魚の足では普通以上に時間を費やした。 「海王よ。お主のその力は敬意に値する。だが、その力に飲まれるな。海そのものを破壊しかねないと言うことは妾の城である竜宮神を破壊すると言うこと。それは断じて拒否する。だからこれ以上はバカな考えは捨てるんじゃ。それを言いに来た」 「なるほどな。自分の城を守る為に自ら乗り込んで交渉という訳か。いや、それはただのわがままに過ぎない。やめろと一方的に言うだけで俺様の望みは果たせない。そんなの誰が聞くと思う?」 「確かに。なら海王。何を望む」 「エミリアを手に入れてこの世界を支配する」 「ふ。無理じゃ。交渉にもならん。なら、力で止めるしか方法はないようじゃの」 「俺様を力で止める? それが可能な奴は存在しない。俺様こそが最強なのだから」  一見してシャークレイを止める手段はない。エミリアがまともにやりあっても叶うはずはなかった。残された選択はエミリアがその身を捧げること。それが一番丸く収まる方法だった。 「昔からそうじゃったな。自分の思い通りにならないと気が済まない。自己中極まりない」  その発言に海春はエミリア様も似たようなものだとは口が裂けても言えない。 「それは貴様もだろう。エミリアよ」  海春が言えないことをシャークレイは言い放った。 「ほう。言うではないか、海王」  再びお互いに火花が飛び散りあう。これはもはや誰にも止められない戦いになろうとしていた。  エミリアは自身の手を刃に変え、戦闘の体制に入った。エミリアは人魚の素早さと武器を兼ねそろえた攻めタイプ。  一方、シャークレイはエミリアよりも素早さは劣るが自慢のアゴと牙の破壊があり、力で圧倒する攻めタイプ。攻撃と攻撃の激突だ。決着がつくのは一瞬である。  海春はこの時、逃げたいというよりも止めたいという感情だった。  だから、考えなしに海春はエミリアとシャークレイの間に入った。 「もうやめてください。これ以上、戦うのはお互いが苦しいだけです」  両手を広げ、身を呈する精一杯の叫びだった。  時が止まったように数秒が経過した頃にエミリアは呆れ顔でこう言う。 「海春。お主は何をしておるのじゃ」 「何って争いを止めようと」 「争い? 何を大袈裟な。ただのスキンシップに大声で止める奴があるか」 「ス、スキンシップ?」  海春は血の気が引いた。これは何の冗談だと思うが、どうやら真実らしい。海春の頭では疑問で埋め尽くされた。その疑問はエミリアの言葉で解釈される。 「そうじゃ。何年の付き合いだと思っている。それくらいで喧嘩する程、子供でもない」  喧嘩ではなく殺し合いの部類に値する。しかしそれが二人にとっては単なるスキンシップなのだからその強さは怪物級である。二人の付き合いは半世紀以上。言ってみれば日常のことに値する。他人には理解しがたいものだが、それを目の当たりにした海春とシュンは腰を抜かす程だ。 「あ、あの。二人はどういう関係ですか」  海春は怯えながら聞く。 「ただの腐れ縁だな。付き合ってはおらん」とエミリアはキッパリ言い放つ。 「そろそろ俺様の花嫁になれよ」とシャークレイは呟く。 「いい加減諦めろ。妾は孤独を愛するのじゃ」  二人は慣れた口調で言い争った。 「エミリア様、どうしてここに来られたんですか」と海春は間に口を挟む。私を助けに来てくれたんですかと淡い気持ちを抱かせながらの口調である。 「おぉ、そうじゃった。こんなところで油を売っている場合じゃなかった。海春、今すぐ来い!」 「来いってどこへですか?」 「竜宮神じゃ。お前にしか出来ない仕事じゃ」 「仕事ですか? いや、私はもう竜宮神に戻るつもりは……」 「何じゃと?」 「いえ、何でもありません」  海春は凄まじいエミリアの殺気に身を引いた。しかし、それをシャークレイは許すはずもない。 「ま、待て」 「何じゃ」  エミリアはシャークレイを睨んだ。 「その小娘は俺様のモノだ。勝手に持ち出すことは許さん」 「誰がお主のモノと決めた。そんなのは知らん。さぁ、海春行くぞ」 「待てと言っているだろう」 「しつこい雄じゃな。何だ」 「海王殿にいる時点で俺様の支配下だ。その小娘は俺様が実験道具にする大事なペットだ」 「その割には随分扱いが雑のようだが?」  エミリアは海春の爪先から頭まで見ながら言う。海春の身体は傷や汚れでボロボロだ。 「うるさい。私物をどうしようと俺様の勝手だ」 「あの、忙しい中、申し訳無いのですが少しよろしいですか?」  海春は手を低くあげながら言う。 「私はただ、自分の元いた世界に帰りたいだけなのでモノ扱いで振り回されるのも嫌と言いますか、やめて頂けたらなぁと思うのですが」  その直後、エミリアとシャークレイの目元が影で隠れたことで恐怖が増す。 「えっと、あの」と海春は満更でもない表情である。 「海王、意地悪せず還してあげたらどうじゃ」 「そんなことをして深海の秘密を公言されたらどうする」 「知られたところで人間が来られる環境ではない。それとも何か? 小娘一つ還したくらいでこの深海に影響があるとでも言うのか?」 「逆に聞くが何故、こんな小娘に肩を持つ」 「海春は妾の都合のいい存在だ」 「それだけの理由か」 「そうじゃ。海春。行くぞ」 「でも私は帰らないと」 「大丈夫じゃ。仕事が終われば帰れるようにこいつに手配させる」 「そんな約束はしないぞ」 「言うことを聞いたらデートくらいは付き合ってやるぞ」 「本当か。なら小娘一人くらいなら何とかしよう」  随分とあっさりした話に唖然とする。しかし、海春は納得しない。 「あの、私だけじゃなくシュンも家族も生きている人たちみんなを還してもらえませんか」 「贅沢な願いだな。海春、良いではないか。他人は放っておけ」 「ごめんなさい。それだけはできないんです。仲間だから」  否定的なことを言われるのを覚悟した海春は目を瞑って奥歯に力を込める。 「根本的なバカ丸出しだな」  エミリアは呆れながら言い放つ。しかし、表情は穏やかだった。 「海王。海春の願いを叶えてやってくれ」 「何故、俺様がそんなことをしなくちゃならんのだ」 「ならデートはお預けじゃ」 「それは困る」 「なら聞くんだな」 「ぐぬぬぬ」  究極の選択に心が揺れる海王の姿は生涯見ることのないレアシーンである。 「決まりじゃな。行くぞ、海春」  エミリアは勝手に決めてその場を去ろうとした。 「待て。俺様も行く。そう言って逃げる気かもしれん」 「好きにしろ」  海春はエミリアの後ろについて行く形で部屋を出だ。    海王の部屋を出てすぐのことだった。  騒ぎに気付いた魚人達は部屋から出てきた海王から逃げるように通路を空ける。 「か、海王様。どちらへ?」  恐れながら一体の魚人は聞いた。 「少しここを空ける。お前達は城の警備を続けろ」 「おでかけですか。なら海王様の護衛を付けますので少々お待ちください」 「護衛などいらん。下がれ」 「いえ、そう言う訳にはいきません」 「俺様がいいと言っているんだ。文句でもあるなら言ってみろ」 「いえ、ございません」 「なら、下がれ」  魚人達は海王を避けるように退く。 「急ぐぞ。海春。時間がない」  海春はエミリアに連れられ、海王殿を出た。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加