逃げろビートン

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           逃げろビートン     一章 がりがりの子豚 「ビートン、また、ご飯を残しているのか」 「だって、食べたくないもん」 「たくさん食べて、丸々、太りなさいと言われているのが分らないのか」 ビートンは、いつも仲間に注意されるが、直らない。 養豚場には、百匹の豚がいる。半年毎に、 四0匹が出荷される。よく肥えているトンから選ばれる。 トン達は、お祝いに連れていかれると思っている。 帰ってこないことに、疑問を持っていない。 所詮、それくらいの脳しか持っていなのいだ。 一週間後に、出荷の日が来る。誰が選ばれるかとワクワクしている。 ビートンは、かなり痩せているから、自分ではないと分かっている。 実は、ビートンは突然変異で生まれてきたのである。 脳が人間並みの大きさを持っている。 秘密にしていることがある。人間の言葉を理解できるのだ。 養豚場で働いているのは、五十台後半の安さん(やっさん)と、二十代前半の啓介である。 九州出身の安さんは、関西に住んでいたこともあって、会話に様々な方言が混ざっている。 二人は、豚小屋の側にある宿舎に住み込んでいる。専用の個室がある。キッチン、ダイニングルーム、風呂場、トイレは共用である。 二人とも独身で、食事は交代で作る。養豚場は、その悪臭のため、郊外にある。 養豚場のオーナーである金(かね)良(よし)は出荷の時だけ、やってくる。出荷する豚の状態を確認するためだ。 豚の飼育状況は所定の用紙に記入して、月に一回、町にある事務所に、FAXで送るだけである。 ビル貸し業など、他の商売もやっているようだ。長年勤めている安さんにも、実体はよく分からない。 二章(ビートンの処分) 二人は夕食のテーブルに着いている。安さんが作ったカレーだ。安さんはビール、啓介はサイダーを飲みながら、スプーンを口に運んでいる。 「ビートンは相変わらずですね」 啓介が話題を振る。安さんは黙々、食べ続けるだけで、乗ってこない。本心は焦っている。出荷日が三日後に迫っているのだ。問題はビートンだと安さんも考えている。 痩せこけた姿をみたら、金良のダミ声で、 「お前ら、何やっとんじゃ」と怒鳴るに決まっている。それだけで済むならいい。解雇の可能性もある。若い啓介には他の仕事が見つかるだろうが、安さんの歳では、転職は厳しい。 食事が済んで、タバコを一服した後、口を開いた。 「何とかせな、あかんな」 啓介は、安さんの眉間にしわを寄せた顔をじっと見つめている。 「処分するしかあれへんやろな」 「どうするんですか」 「つぶして、食べるんや」 「あんなに痩せた奴、食えますかね」 「内臓は煮込みにして、他は丸焼きやな」 「尻の穴から棒を突っ込んで、口まで通し、 焚き火であぶってな。焼けたところから切り取り、タレを付けて食うんや。旨いで」 トンたちは眠るのが早い。この時間には、全匹が眠っている。一匹だけ、二人の話に聞き耳を立てている奴がいた。ビートンである。真っ青になり、体全体を震わせている。 今日は、啓介の休日である。生活に必用なものは、車で町まで買出しに行く。片道で一時間ほど掛かる。昼前に、買い物を済ませた後、ゲームセンターで日々の憂さを晴らす。常連とも、顔見知りになっている。 「よう、啓介。調子はどうだい」 髪を左右半分、黄色と青に染め、両耳にピアス、腰パンの良太が声を掛けてくる。 「ぼちぼち」適当に受け流し、いつもの台に腰掛ける。 ゲームを始めて、一五分程で、席を立った。 「早いな」 「寝不足で気が乗らん」 帰ってきたとき、安さんはダイニングルームのテーブルに腰掛けて、ラジオを聴いていた。 安さんには、休日がない。啓介の休日には、ビールを昼と、三時の休憩に一缶、夕食のときに二缶飲む。ビール党である。タバコも吸う。啓介は、アルコールもタバコも体質に合わない。年中、サイダーばっかり、飲んでいる。 車から、ダンボール箱を室内に運び込んだ。 大型冷蔵庫や、所定の場所に収める。寝不足なのか、動きが鈍い。安さんは手伝わない。休日をもらえる啓介の仕事だと割り切っている。 「早よ、ご飯を作ってくれへんかのう」 帰ってきたばかりの啓介に催促する。 「すぐに、やりますよ」 炊飯器に残っているご飯と、買ってきたばかりのニラとハムで、焼き飯を作った。食器棚から取り出した皿をキッチンの台に、スプーンをテーブルの上に置く。フライパンから、しゃもじで焼き飯を皿に盛る。 「ワシは、そんなにいらん」 安さんの食事の量はいつも控えめだ。その分が啓介の皿に乗る。啓介もテーブルに着き、両手を合わせる。 「いただきます」 いつもより、ゆっくり食べている。 「どうしたんや。顔が眠っているぞ」 「四時頃まで、ゲームやっていたんで」 安さんは呆れた表情で、冷蔵庫にビールを取りに、腰を上げる。食器棚から取り出したグラスに、ビールを満たす。じっくり、飲みながら、焼き飯をスプーンで口に運ぶ。 食事が済んだ。片付けも啓介の役割だ。料理と食事に使った全ての物を洗う。フライパンは壁のフックに吊り下げ、その他の者は平たい籠に入れて乾かす。 啓介はテーブルに座って、サイダーを飲む。 安さんはタバコを吸っている。 「いつ、やります」 「今夜。二時頃やったら、ぐっすり寝てるやろな。静かに近付いて、喉を掻っ切るんや」 「誰がやるんです」「決まっているやろが」 一瞬、啓介の表情が固まった。啓介は、この仕事に入って一年目である。 面接のとき、「豚を育てるだけでいい」と金良は言った。コンビニの店員をしていた啓介は、うんざりしていた。 客が出入りする度に、「ラッシャイマセー」 「アリガタヤシター」という挨拶。夜間には、酔っ払いの客が入ってくる。絡んだり、ゲロを吐く客もいる。 テーブルに居座った女子高生のうざったいチャットにも、神経がささくれた。 休憩時間に、求人誌で養豚場の募集を見たとき、これだと思った。仕事が終わると、店の外で携帯を掛けた。 「求人誌を見たのですが、未だ、募集をしていますか」「何歳かね」「二十二歳です」 養豚場勤務を希望する若者などいない。明日、事務所に、面接に来るように言われた。 アパートに帰ると、店に電話した。 「母が危篤なので、実家に帰ります。すみませんが、明日から二,三日、休ませて下さい」 翌日の午前中に、金良の事務所に行った。 同僚は一人のオッサン。相手をするのは豚だけ。しかも郊外。町の人間の群れから逃れたいと思っていた啓介には、ピッタリの職場だった。 翌日の午後、すいている時間に店に寄り、母の看病のためという理由で、辞表を出した。店長は、やる気のない啓介が自分から辞めたので、ほっとした。 「母の危篤か。姑息な手など、使いよって」 苦笑いした。啓介はアパートを引き払い、養豚場の宿舎に移った。 「大人になるための儀式や。避けては通らへんで」 安さんは、アマゾン川の奥に住む未開の部族の長老みたいな威厳のある顔付きで言った。 安さんの忠告で、啓介は覚悟を決めた。 「イエッサー、軍曹。苦しまないように、ひと裂きで、仕留めますよ」 三章(逃走) 二人の会話を聞いていたビートンは、恐怖のあまり、脱糞した。 「逃げなくちゃ」高鳴る心臓を深呼吸して、 落ち着かせた。 豚小屋は五つに分かれていて、番号が打たれている。一つの部屋に、二十匹が暮らしている。これ以上だと、ストレスが溜まって、発育が悪い。安さんの意見を取り入れている。 昼の餌が済むと、一部屋ずつ、外に出される。 その間に、豚小屋を掃除する。啓介の休日の日は、安さんの担当だ。 啓介はそのときは、外に出したトンを監視している。豚小屋の周囲は、有刺鉄線で囲まれている。 掃除が終わると、使い古したフライパンをハンマーで叩く。 豚小屋に戻れという合図だ。 ビートンの部屋は五番で最後である。夜更かしをした啓介はかなり、疲労している。 ビートンは部屋を出るとき、啓介の寝ぼけた 顔を見ていた。 『もしかしたら、ごまかせるかもしれない』 絶望の淵に立たされていたビートンの運命に、一筋の光が差し込んだ。藁(わら)をも掴む思いで、胸が高鳴った。 トン達は部屋を出ると、四方八方に散っていく。狭い部屋から、解放されるうれしさで、飛び跳ねている。 養豚場の前の広場は芝生に覆われている。裏側はギンナムなど、大人の膝の高さ程の雑草が茂っている草やぶである。 トンたちの遊び場所は、広場だけだ。草やぶに入ると、捜すのが不便だからである。そのために、広場の周囲は移動式の柵で囲んである。 柵を倒して、草やぶに行こうという奴は、ケツをフライパンで叩き、制裁を与える。その罰を繰り返すことで、草やぶに行こうとするトンはいなくなった。 ビートンは、飛び出すトンたちの群れに隠れて、柵の方に走っていった。やせて、小柄なビートンは、目立たない。柵に近付くと、右の前足を使って、柵を少しずらした。その隙間をすり抜けて、柵を戻し、一目散に草やぶに向かって駈けた。 眠気がピークに達していた啓介には、気付かない動きだった。豚小屋に戻す時間になった。啓介はフライパンをハンマーで叩く。 トンたちが豚小屋に戻り始める。全匹が戻ったとき、数え始める。一番から四番の部屋までは、きちんと二十匹いた。最後の五番の部屋になった。何度数えても、十九匹しかいない。 意識がもうろうとし、疲労が限界に達し、今にも倒れそうだ。豚小屋の掃除を終えた安さんは、ダイニングのテーブルに座って、ビールを飲んでいる。 「ご苦労さん。ちゃんと、戻ったか」 「いつもの通りです」 「疲れているようやな。ビールでも飲んで、寝たらええがな」 普段、アルコールを口にしない啓介も、さすがに、一缶だけ飲んだ。 「三時に、起こすけんな」 安さんの声に押されて、啓介は部屋に向かう。 安さんは豚小屋の見回りに出掛ける。全匹戻ったか、確認するためである。 五番の部屋で、一匹足りないことに気付いた。 ビートンだ。宿舎に戻り、啓介の部屋のドアをノックする。すっかり寝込んだ啓介は、目を覚まさない。 部屋の中に入り、ほっぺたをつねった。ようやく目を開ける。 「どう・・したんですか」 「ビートンがおらへん」 『やはり、そうか』起き抜けの頭に、あのときの意識が蘇る。 「捜しに行くぞ」安さんは啓介を責めない。 怒ると、若いもんはすぐに、辞めてしまうからだ。啓介はベッドから出て、外に飛び出た安さんの後を追いかける。 『おそらく、草やぶだ』安さんは一直線に向かった。柵が少しずれているところが見つかった。 「ここから、出たのか。あのくそがき」 柵をどけて、草やぶに向かう。草やぶは養豚場の広さの約二割を占める。 「この中にいるはずや」安さんは草やぶを前にして、つぶやいた。啓介も側で眺めている。 「どうして、今日、急に逃げ出したんやろな」 「もしかしたら、ビートンは人間の言葉が分るのかもしれません」 啓介は、以前から、ビートンが自分を見て、人間みたいな表情をするのを感じていた。 「そんな、アホな」 「たぶん、突然変異だと思います」 「何や、それ」 「まれに、親と違う奴が生まれるんすよ」 「そうやとすると、まさか、お前、雌トンとやったんとちゃうやろな」 「アホなこと、言わんといて下さい」 しばらく、草やぶを見つめていた安さんの顔が輝いた。 「ええことを思い付いたわ。あいつを芸能プロダクションに売り飛ばすんや。テレビに出演して、人気タレントになれば、ええ暮しが出来るはずや。 高級マンションに住み、専用のコックを雇って、残飯ではなくて旨い料理が食えるんやで」 「銭ゲバの金良さんが、黙っていませんよ」 「捕まえても、逃げられたことにしておけば、ええがな」 「どこに、隠すのですか」「お前の部屋や」 「ビートンと一緒に暮らすんですか」 「少しの間や。何か、芸でも教えておいてくれへんか。銭が入ったら、ナンボか廻したる。 今度の出荷が済んだら、ワシは辞めるけん。ビートンを連れて、おさらばじゃ」 安さんは一歩前に出て、大声で叫んだ。 「ビートン、取引きをしようやないか。 今の話を聞いていたはずや」 数分、沈黙が経過した。何の反応もない。 「取引を拒否するのかいな。そうなら、こっちにも考えがあるわい」 「啓介、石油タンク持ってこい」 風呂を沸かすボイラーの燃料は、石油を使っている。 小型のタンクは手提げ用で、ノズルが付いている。 啓介の腰の高さのコンクリートの台に、蛇口が付いたドラム缶が置いてある。 蛇口を開けて、タンクに満たした石油をボイラーに入れる。 石油は、業者が二か月に一回、補充にくる。 啓介がタンクを持ってきた。「草やぶに撒け」 二十分程、掛けて撒いた。満タンのタンクが空になった。 安さんがポケットから、タバコと百均のライターを取り出した。 タバコに火を点けると、一吸(いっぷく)した。 「反対側に廻れ。飛び出してくるはずや」 啓介が着いたのを見計らって、吸いかけの  タバコを放り投げた。 炎が円周上を走っていく。一週すると、内側に向かって、円を埋めていく。 安さんは、ビートンが飛び出してくるのを見張っているが、成果はない。 「おーい、啓介。そっちはどうだ」 「出てきませーん」大声が返ってくる。 草やぶが全て焼けて、こげ野原になった。 「穴に潜り込んでいるかもしれへん」手分けして、捜し始める。見つからない。 「どこへ、消えたんや」 草の焦げで真っ黒な手になった啓介が近寄ってくる。 「どこにも、いません」 安さんも焦げにまみれた腕を組んで、目を瞑(つぶ)り、何かを考えている。啓介は安さんの様子を見て、一瞬、表情が硬くなった。 「引き上げよか」目を開いた安さんが、拍子の抜けるような声で言った。 翌朝の朝食後、安さんが神妙な表情で切り出した。 「明日、金良さんが来よる。その前に、はっきりさせておきたいことがあるんや。お前はもう、辞めた方がええ」 啓介の表情に驚きが走った。「ど、どうしてですか」 「わいは、知っとるんやで。お前がビートンを逃がしたんや。昨夜、わざと朝方まで、ゲームをやり.寝不足になる。 トン達を外に出したとき、ビートンは草やぶには入らずに、林の方へ逃げたんや。 林の中に入り込まれたら、捜すのは無理や。草やぶみたいに焼くこともできへん。 計画を吹き込んだのは、お前や。小屋に戻したときに、一匹足りないのは当たり前や。 お前は寝不足のせいにして、二十匹いると、 ワシに嘘の報告をした。どうや、図星やろ。ワシをなめたらあかんで」 啓介の顔は引き攣っている。しばらく経って、 口を開いた。 「すみませんでした。安さんの言う通りです。 だけど、安さん、僕の話を聞いて下さい。 ビートンは普通の豚ではないのです。 人間の心を持っています。ここに来たとき、すぐに気付きました。ビートンは特殊な言葉を話します。 僕には、それが理解できます。潰して食べると聞いたとき、逃がすことを決意しました。 申し訳ありません。金良さんが来たとき、辞表を出します」 安さんの表情が、親が子供を見るように柔らかくなった。 「啓介は優しすぎるんやな。保育園か学童保育とか、子供相手の仕事が向いていると思うわ」 「すみません」啓介の目から、涙がこぼれた。 四章 (清和の過去)  ビートンは林の中を必死に走っていた。小枝に引っ掛かり、体じゅうに擦り傷が出来ている。 林の中が全く安全とは言えないと啓介が話していた。いろんな獣や、毒虫がいるのだ。 草やぶに隠れていれば、内緒で、餌の残飯を 持ってきてやるとも言った。 しかし、養豚場から逃げたかった。何かが、そうさせているとしか思えない。 目の前に草原が見えたとき、どっと疲れが出て倒れ込んだ。 草原に出ると人目に付く。しばらく、様子を見ようと、木陰でじっとして内に眠り込んでしまった。 草原に、教会の牧師である大村が子供たちを連れて、遊びにきている。 子供たちは四歳から六歳の十名で、男女半々である。全員、母子家庭で、複雑な家庭事情を抱えている。 母親たちは、一週間に、一回しか会いに来ない。気分転換に、月に一度、外に連れ出す。予算が足りないから、お金の掛からない所を選ぶ。 何もない草原でも、子供たちは大喜びだ。 走り廻ったり、追いかけっこしたり、じゃれあいながら、やってくる。 いつものように、ドッジボールやサッカーを楽しむ。 一時間ほど遊んだ後、ランチタイムになった。 バスケットの中には、サンドゥイッチとプラスチックのコップが入っている。 二本の水筒は、冷たい紅茶で満たされている。 サンドゥイッチは信者の一人の主婦が作ってくれて、朝早く届けてくれた。 紅茶は大村が自分で作った。子供たちは各自で、コップに紅茶を注ぎ、サンドイッチを手にする。 すぐには、飲食しない。ルールがあるのだ。 ファーザー(子供たちは、そう呼んでいる)のスピーチの後だ。 「皆、このサンドイッチは、エツコおばさん が心を込めて作ってくれたものです。お礼を言いましょう。エツコおばさんありがとう」 「エツコおばさんありがとう」子供たちが繰り返す。 大村は、この子供たちと母親には、神様や聖書の話をしない。 面倒を見ているから、入信しなさいと思われるのが嫌なのだ。 信仰は、押しつけるものではないと考えている。 大村の名は清和(きよかず)という。清和が高一のとき、父親の経営していた電気店が倒産した。 ヤミ金にも手を出していた父親は、清和と母親を残して姿を消した。 残された二人も、ヤミ金の追手(おって)から、逃げた。 見知らぬ町で、安いマンスリー・マンションを借りた。 母親は求人誌で見つけたスナックで、働き始めた。 学校を辞めていた清和は、フリーターとして、短期のバイトを転々とした。 その内に、収入の高いヤクの売人になった。 やがて、ヤクの取り締まり元の準構成員に誘われ、入会した。 幹部からヤミ金の取り立て人になる指示が出た。 その頃には、高級マンションに住んでいた。 母親はアル中になり、仕事もせず、寝る以外は、酒浸りになっている。 ヤミ金の取り立てで成果を出し、正式な構成員になった。 取り立ては、鬼にならないと出来ない。払えない場合、債務者の娘や妻を売春婦にさせることもある。 最悪なケースは一家心中だ。元々、根の優しい清和の心が、次第にむしばれてきた。 酒に逃げ、母親と同じようにアル中になった。 仕事にも行かず、部屋に閉じこもって、酒に溺れた。 ある日、幹部が来た。「お前を破門する」と告げた。 辛苦から解放された清和は、アル中から立ち直った。 ぼろぼろになっていた母親を病院に入院させたが、一週間後に亡くなった。 気が付くと、近くにある教会の前に立っていた。 中から年老いた牧師が出てきて、清和に言った。「迷える子羊よ、主に全てを託しなさい」 清和は頷き、牧師に付いて教会の中に入った。 三年後、老牧師は亡くなり、清和が教会の責任者になった。 五章(魂の解放) 旨そうな匂いで、目が覚めた。立ち上がって よろよろと、子供たちの方へ歩き始める。 「子豚ちゃんがこっちへ来る」子供たちが騒ぎ出した。 ビートンは、バスケットの中に鼻を突っ込んだが、何も無い。 『ク~ン、ク~ン。おなかがへったよ~』 清和は半分だけ食べたサンドゥイッチを掌に乗せて、ビートンの前に出した。 パクっと咥(くわ)えると、ムシャと、一口咬んで飲み込んだ。 三年間も我慢してきた空腹を満たすには、あまりにも少なすぎる。 子供たちが次々と、食べかけのサンドゥイッチを差し出す。 ビートンがペロペロと平らげていく。「フウ、旨い」ようやく落ち着いた。 清和は子供たちがやったことに感激している。 「皆、優しいな。君たちも、おなかすいていたのに」 「だって、このトンちゃん、とても腹ペコみたいだもん」 『イエス様の御心は、ちゃんと伝わっている』 人は愛情に満たされると、動物さえにも優しくなるのだと思った。 満足しているビートンをよく見たとき、はっと、何かを感じた。 「このトンちゃんを連れて帰ります。お友だちになって下さい。名前はビートンにします」 「ワアー、やったー」うれしさのあまり、飛び跳ねる子供たち。 ビートンも子供たちの間を走り廻っている。 ビートンに犬小屋を住処(すみか)として与えられた。信者から、もらったものである。 教会の庭の片隅に置かれた。出入口には、分厚い布のカーテンが取り付けられている。 雨風を防ぎ、プライベ-トも保たれている。 ビートンは、この住処をとても気にいった。 ビートンが来てから、三日目の午前二時、清和が犬小屋の前に立っている。 「ビートン、起きなさい」目覚めたビートンは犬小屋を出て、不思議な表情で清和を見つめた。 「私の後から、付いてきなさい」清和と一緒に教会の中に入った。 祭壇の中央に、キリストの像が掛けられている。 清和は祭壇の前に膝を着き、両手を胸の前に 合わせる。 ビートンは傍らで、お尻を着いて座っている。 「主よ、この子豚に囚われている魂を解放して下さい」 キリストの像に向かって祈りを捧げる。 ビートンも厳かな表情で、キリストを見つめている。 清和は目を閉じ、トランス状態に入っている。 祈りの波動が教会内を満たし、壁が小刻みに振動している。 突然、ビートンが口から泡を吹いて倒れた。 仰向けになって、四本の脚をバタバタ動かしている。 キリストの像の右手の親指がピクリと動いた。 その瞬間、『ブギャー』という鳴き声を上げて、 ビートンが激しく痙攣した。 口から、透明な風船(ふうせん)のようなものが出てきた。 風船は舞い上がり、ステンドグラスを透り抜けて、闇夜の彼方に消えていった。清和が、トランス状態から覚めた。 「主よ、天にまします我が父よ。感謝致します。アーメン」 ビートンは気を失ったまま、ぐたっとしている。 清和が体をさすった。頭をクイと上げて、目を覚まし、何事もなかったように立ち上がる。 ブーブー鳴きながら、通路をうろ々している。 「ビートン、小屋に戻ろう」 清和はビートンをだっこして、ドアを開け、外へ出た。 そのまま、住処まで行って、中に降ろしてあげた。『ク~ン』ビートンは甘えて鳴いた。 『何とかうまくいった』疲労困憊になった体を引きずりながら、部屋に帰って寝た。 六章 (博の目覚め) 県立病院の第二病棟、三階の一室。四人の患者がベッドで寝ている。 三人は老人で、半植物人である。一人は近藤博という小四の男子で、全く意識がない。 三年前、近所に住む同じ小一の政彦と学校から帰宅中、突然倒れ、意識不明になった。 通りがかりの人が救急車を呼んでくれた。 政彦も一緒に乗るように、隊員に言われた。 隊員は政彦に、博が倒れたときの様子に加えて姓名、学年と組、担任と学校名を聞いた。 もう一人の隊員は、博の血圧、脈拍などを調べている。 搬送先の病院が決まると、隊員は本部に連絡した。 本部から、学校に連絡する。職員室にいた担任が、博の家に電話を掛けた。 電話に出た母親の美佐子は事情を聞くと、病院に車で駆けつけた。 博はICU(緊急治療室)で精密検査を受けている。 病院に着いた美佐子は、ICUの前にある長椅子に座わり、悲壮な顔で待った。 電光板に赤い文字で、「只今、スタッフ以外、入室出来ません」という表示が出ている。 ICUから、医者と看護士が出てきた。美佐子が詰め寄る。 「ひ、ひろしは大丈夫ですか」顔を引きつらせて、医者に尋ねる。 「生命機能に異常はありません。只、意識がない状態が続いています」 医者を見つめ返す美佐子。「会わせてもらえますか」「よろしいです」 医者に続いて、中に入る。ベッドに横たわっている息子に目が行った。 生命機能の状態を測定する三本のコードの吸盤が、体の各部に取り付けられている。 コードは三台のモニターに繋がっており、それぞれが生命機能のグラフを表示している。 「心電図、脳波、脈拍です」医者が指差しながら説明する。 「脳波のグラフだけが、直線になっていまよね。意識が無い状態を示しています」 美佐子は医者の説明をうつろに聞いた後、博に顔を近づけた。 「博、おかあさんよ!目を覚まして!お願いだから!」 美佐子の呼び掛けにも反応しない。すや々と眠っている感じだ。 美佐子は顔を上げて、医者に尋ねた。「先生、原因は分らないのですか」 「アラユルケンサヲシマシタガ、ゲンジテンデハワカリマセン。シバラク、ヨウスヲミルシカナイデスネ」 取り乱した美佐子には、医者の言葉がロボットが話す金属的な合成音に聞こえる。 看護士が椅子を持ってきてくれた。美佐子は腰掛けて、息子をじっと見ている。 医者と看護士は、すでに引き上げている。 博の父親は、博が五歳のとき、心臓麻痺で亡くなった。過労死である。 美佐子は、夫が残した生命保険とパートで生計を立てている。 夫の急死に続き、一人息子の博まで、こういう状態になって、発狂寸前になっている。 三時間後、女性の看護士が入ってきた。 「すこし休まれては。休憩室がありますから」 美佐子は、やつれた表情で、首を横に振る。 看護士は、仕方がないという表情を見せると、 立ち去った。 美佐子は宗教を信じていない。夫が亡くなったとき、知人にキリスト教の教会に誘われた。 日曜の礼拝に参加した後、牧師に入会を勧められたが、断った。 その牧師は、バラクという名前の外人で不快な感じを受けた。 今は違う。博が回復するなら、どんな神でも、仏でもすがろうと思った。 組織に縛られることを嫌う美佐子は、般若心経を一日、千回唱えることを始める。 病院では、呟く程度に抑えている。そんな美佐子を、医者や看護士は憐れに思った。 一年経ち、二年の月日が流れた。医者や看護士は、博の回復をすでに諦めている。 三年経ったある日、博が回復する夢を見た。 目を覚まして、時計を見ると、午前二時半である。 急いで着替え、病院に向かった。面会時間は午前一0時から、午後の八時までと規則がある。 止める看護士に振り切って、病室に向かう。 博のベッドにすがり付き、般若心経を唱え続ける。 三十分ほど経ったとき、透明な風船のようなものが、窓ガラスを通過してフワフワと入ってきた。 目を閉じて唱えている美佐子は、それに気が付かない。 風船が、博の鼻から入った。博の体がブルっと震え、目が開く。 「お、か、あ、さ、ん」という声が聞こえた。 博の声だ。美佐子は読経を止め、目を開けた。 博が自分を見つめている。 「ひ、ろ、ひろし」泣き叫びながら、息子にしがみ付く。 一階のセンター室の一つのモニターが、警笛を鳴らした。看護士がモニターのグラフを観る。 「先生、博君の脳波が正常に戻っています」 医者と看護士が病室に駆けつける。ドアを開けると、母親が泣きながら、息子の頭を撫でているのが目に入った。 博は退院して、家に戻った。ビートンの中にいたことを母親に話した。 美佐子は博の言うことを信じた。釈尊に祈って、博が回復したことは紛れもない事実だからだ。 世の中には、現在の科学では、解明できないことがあることを確信した。 般若心経で、この世界の真理を説いた釈尊に深く感謝し、帰依することを誓った。 七章(シモンとバラク) 教会では、子供たちが騒いでいた。ビートンがいなくなったからだ。 「ファーザー、ビートンはどこへ行ったの」 その質問は、清和の良心を槍のように突き刺した。 「分からない。今朝、小屋を見たら、いなくなっていたのです」 清和は罪の意識を感じていた。いくら、やりくりが苦しいからといえ、子供たちの気持ちを裏切ったのである。 三ヶ月前、同じ町に新しい教会が出来た。同じプロテスタントの宗派である。名前は白バラ教会という。 清和は牧師の資格を持っていない。前の老牧師バラクはルーマニア出身である。 資格を持ち、プロテスタントの日本支部から、 この町に教会を立てる認定を受けていた。 バラクが急死したので、清和が後を継いだのである。 日本支部は、清和に資格を取ることを警告してきた。そのためには、神学の専門学校に二年間通わなければならない。その費用すらなかった。 バラクに教わった指導で、運営してきたのである。 何とかやってこれたのは、清和の人柄を信者たちが信用したからだ。 白バラ教会は大きな三階建てのビルで、外観もきらびやかである。 シモンというフランス人の牧師と五人の日本人のシスターもいる。 白バラ教会に移る信者が徐々に増えてきた。 教会の運営は、信者からの寄付と支部からの 援助で成り立っている。 清和の教会は、信者からの寄付だけである。 次第に、運営が苦しくなってきた。 エリー教会という。信者の話では、エリーはバラク牧師の育て子で、清和が入会する半年前、ルーマニアにいるバラク牧師の娘夫婦に養子として、引き取られたらしい。 同じ町に住む、豚をペットにしている金持ちのK氏が、エリー教会を訪れた。 ビートンの噂を聞いたK氏は、ビートンを譲ってくれと清和に頼んだ。 清和は即座に断った。子供たちとビートンが 大の仲良しで、一緒に遊んでいるからだ。 K氏は諦め切れずに、何回も訪れて、懇願した。三百万円を出すという。 K氏が来る度に、ビートンのオツムの中に、メッセージが流れてきた。 「この男は豚肉愛好者だ。あなたを食べたがっている」 ビートンは恐怖の余り、小屋の中で脱糞した。 普通は、外にある洗面器にやる。その糞は 肥料として、庭の菜園の土に混ぜられる。 清和はその度に、ビートンに注意した。 「ビートン、ちゃんと洗面器にやりなさい」 ビートンは清和に、K氏の本性をブーブーと訴えたが、伝わらない。 増々、苦しくなる資金繰り。悩みに悩んだ結果、承諾することを決めた。 七回目に来たとき、信者相手に悩みを聞いていた。中断して、K氏と外で話を着けた。 承諾を伝えた。子供たちに気付かれないために、夜中の二時に引き取りに來るように頼んだ。 K氏は、お金はそのとき、持ってくると言って、引き上げた。 ビートンは小屋の中で、寝ている振りをして、二人の話を聞いていた。 その夜の0時。ビートンは小屋を抜け出し、 逃げた。行先は分からない。 教会から遠いところに向かって走り続けた。 白バラ教会は、子供たちを引き取ってもよいと、清和に伝えていた。 それを知った親たちは、心が動いた。白バラ教会は資金が豊富で、待遇も良い。 子供たちが嫌がった。「ファーザーと一緒にいたい」全員が泣き出した。 清和は子供たちと一緒に、白バラ教会に移ることも考えた。 バラク牧師から引き受けた、このエリー教会にも未練があった。 夜の十時、キリストの前で膝を着き、両手を合わせて祈った。 「主よ。私は子供たちの気持ちを裏切りました。この罪人をお許し下さい。また、白バラ教会に移るべきでしょうか。教えて下さい」 沈黙が通り過ぎた後、頭な中に、メッセージが入ってきた。 「明日、シモンが来ます。彼はアブラハムのように、信頼の於ける人です」 清和には、その意味を計りかねた。なぜ、信頼の於ける人だと告げるのか。 主の考えは人知を超えると思い直して、十字を切り、キリストの像に頭を下げた。 「この迷える子羊をお導き下さい」と祈り、 部屋に引き上げた。 翌日の午後過ぎ、バッグを片手に持ったシモン牧師がやってきた。私は礼拝堂で待っていた。 「今日は、清和さん」ドアを開けて私を見ると、流暢な日本語であいさつした。 「どうぞ、こちらへお掛け下さい」 礼拝堂の隅にあるテーブルに向かい合って座った。 「日本語が上手ですね」 「来日してから、五年にもなりますからね」 気さくな人柄だと感じた。昨夜のメッセージが本当だと分かった。この人なら、信頼できると思った。 「ところで、今日のご用は何でしょうか」 「子供たちと一緒に、白バラ教会に移ってもらえませんか」 「お気持ちは有難いのですが、この教会は私の恩師であるバラク牧師から、引き継いだものです。閉鎖することは出来ません」 「そのバラクのことですが、昨夜、主からメッセージを受けたのです。彼は、ある悪魔と契約を交わしています」 「え!」私は驚き、今にも月が地球に落下してくるようなショックを受けた。 シモンが嘘を付くとは思えなかった。 「あなたがここへ來る半年前です。心の隙を突かれたのでしょう。 バラクは自縛霊になって、ここの地下におり、災いをもたらしています」 K氏の訪れや、ビートンが逃げ出したことを思い浮かべた。 ビートンの逃亡はK氏と関係あると、感じていた。 信者から、K氏は豚のペットなど、飼っていないと聞いたからだ。 「どうして、自縛霊になったのでしょうか」 「この世に執着心を持っているか、くだんの悪魔に操られているか、どちらかですね」 「それで、どうしたいのですか」 「バラクを除霊します」シモンは、主婦が卵焼きを作るような自信のある表情で応えた。 「危険なので、子供たちを礼拝堂に集めて下さい」「分かりました」 外で遊んでいる者や、子供部屋にいる者に声を掛けて、一か所に集めた。 「これから、シモンさんが悪魔の手下を退治します。ここから、動かないで下さい。怖かったら、神様に祈って下さい」 全員の顔を見て、言い聞かせた。子供たちは、こくりと頷いた。 シモンはバッグから、聖書と縦が三十センチ、横が二十センチの十字架と霊水を満たした ポットを取り出して.テーブルの上に置いた。 ポットの蓋を開ける。左手に十字架を持ち、右手を聖書の上に置く。呪文を歌い始める。 ギリシャ語のようだ。ときどき、霊水を右手ですくい、周囲に振り撒く。 十数分経った頃、通路の中央辺りに,闇の塊が現れた。 「姿を現せ、バラクよ」 闇が消え、バラクの姿が浮かび上がった。 「お前は誰だ」「シモンだ。ヤウエという名の主に仕えている」 「なぜ、私を呼び出した」「お前を除霊するためだ」 「私は、ある方に頼まれてここにいる。それに、ここは私の教会だ。ここに居て何が悪い」 「バラクよ、よく聞け。人間は死すべき存在だ。お前は、その悪魔に騙されている。神の裁きを受け、地獄へ堕ちよ」 シモンはポットを両手で持って、全ての霊水をバラクに浴びせた。 バラクに何の変化も起こらない。 「お前の主(あるじ)もたいしたことないのう」 シモンの表情に焦りが出ている。最後の力を振り絞って、ギリシャ語の呪文を唱える。 バラクはあいかわらず、平然としている。 ついに、シモンがふらついて倒れた。 「フン」とあざけ笑いを見せ、勝ち誇るバラク。 そのとき、キリストの像の目から、一筋のまばゆい光がバラクに向かって放たれた。 当たった瞬間、「ギャー」という叫び声を上げ、バラクの姿が消え始める。 顔だけになったとき、ニヤっと笑った。 そして、全てが消えた。 清和がシモンに駆け寄る。「大丈夫ですか」 シモンが立ち上がって、清和の後ろを見たとき、顔が青ざめた。 清和が後ろを振り向くと、子供たちの姿が徐々に消え、数秒後に、完全に消え去った。 八章(アーモン) シリアの荒野にある地下の広場。数多くの黄金と宝石で満たされている。 宝石で装飾された玉座に座ったアーモンがいる。 アーモンは、古代シリア地域を支配する、富に執着する九階級の悪魔である。 「汝ら、神と富とに、兼事(かねつか)ふること能わず」マタイ伝六章一二四節より。 その前には、エリー教会の子供たちが、泣き疲れて座っている。「ファーザーのところに帰りたいよー」 アーモンは、子供たちを自分の奴隷にするつもりである。 「お前らは、永遠に、私の奴隷に奴隷になるのだ」貪欲さを表す笑みを浮かべている。 突然、広場の後方に、一人の男が現れた。 アーモンの顔が青ざめた。「あ、あなたは・・」 男はゆっくり、アーモンの方へ近寄っていく。 亜麻色の長い髪を肩まで垂らし、穏やかな表情をしている。周囲には、オーラが漂っている。 子供たちが、男の周囲に集まる。暖かいオーラに触れて、子供たちが活き活きとなった。 男は子供たちを後ろに下げて、アーモンの前に立った。 「お前をあそこから出してあげたのは、間違いであった。富に執着するのは構わない。 しかし、罪のない子供たちまで、奴隷にするのは許せない。地獄まで送り返してやる」 「ヒエー!お助けを。二度としません。ここにある全ての宝を差し上げます」 アーモンは膝まずき、額を地に擦り付けて懇願した。 「お前は何も分かっていない。私には、いかなる富も栄華も権力も価値がない。それゆえ、父は私に全てを委ねたのだ」 男がガリラヤ語で呪文を唱えると、アーモンが居る地底の面に、ぽっかりと穴が空いた。 アーモンは断末魔の叫びを上げながら落ちていった。叫び声が消えると穴は塞がった。 子供たちは目を丸くして見ていたが.恐怖は感じなかった。 男に大きな愛で包まれていることを分かっているからだ。 「清和さんのところに帰ろうか」「わ~い」 子供たちの表情が輝いた。男と子供たちの姿が消えた。 男と子供たちが、礼拝堂の中に現れた。男はいない。 清和はキリストの像に、子供たちの安否を 祈っていた。 「ファーザー」子供たちの声に、後ろを振り向いた。 清和の目から、涙がこぼれた。駆け寄り、一人々を抱きしめた。子供たちも泣いている。 気を取り直した清和が、男に尋ねた。 「すみません。子供たちを助けてくれて、感謝致します。ところで、あなたは、どちら様 ですか」 男は、しばらくの間、考えていたが、ようやく、決心して、語った。 「私は、キリストの兄です。しかし、父が、弟のナザルを可愛がっているため、表に出ないようにしています」 「そうなんですか・・」清和は、初めて知った事実に、驚きを隠せなかった。 「このことは、誰にも話さないで下さい」 「分かりました。安心して下さい」 「それでは、私は、天に帰ります。また、困ったことが、起きたら、助けにきます」 「有難う御座います。このお礼は、何て言ったら、いいのか分かりません」 「お礼など、必要ありません。人間を救うために、父は、私をこの世に、送られたのです」 清和は、その言葉を聞いて、感動の余り、心 が震えた。 エリー教会は閉鎖された。清和と子供たちは、白バラ教会に移った。 九章前半(ビートンと美佐子の出会い)  美佐子は残業で仕事が帰宅が遅くなった。 博には、携帯で連絡を入れてある。 夕食のオムライスは作って、冷蔵庫に入れてある。レンジでチーンして、食べるように。 誰が来てもドアを開けないように。息子の安全には、敏感になっている。 超自然現象より現実社界の方が、はるかに恐ろしいのだ。 午後の八時になっている。初冬にもなると、日のくれるのが早い。 車のヘッドライトを点けて、走っている。 県道から、自宅がある方向の道路へ、ハンドルを切った。 十五分ほど進んだとき、左側にある閉店した 書店の前に、白い犬のようなものが見えた。 今までなら、のら犬など無視する。美佐子の脳裏にビートンが浮かんだ。 「もしかしたら」車を左サイドに止めた。 車から降りて、白い動物に近付く。やはり、犬ではなくて、子豚だった。 体がかなり汚れている。前足の上に頭を乗せて、ぐったりと寝ているようだ。 「ビートン」と呼びかけた。耳をピクっとさえて、目を開けた。頭を上げて、美佐子をじっと見ている。 「ビートンでしょ。博のお母さんよ」 「く~ん」と鳴いた。「やっぱり、そうだわ」 連れて帰ることにした。だっこして、助手席に乗せた。博に携帯する。 「博、ビートンを見つけたわ。車が着いたら、外へ出てきてちょうだい」 「え!ホントなの!分かった」 興奮した声が弾(はず)んでいる。車が着くと、博が飛び出てきて、助手席のドアを開ける。 ビートンが博を見る。「ク~ン」嬉しそうな顔をする。 博はビートンをだっこして車から出し、抱きしめる。「元気だったか」 「シャワーで体を洗ってあげて」「OK」 車庫に車を入れると、家に入り、普段着に着替えた。 ビートンと自分の夕食のおかずを作った。牛肉とピーマンを炒めたものだ。 博が、バスタオルにビートンを包んで、風呂場から出てきた。 すっかり、きれいになって、気持ちよさそうな顔をしている。 「夕食にしようか。博も食べる?」「おかずだけなら」 ビートンには、ボール丼だ。ボールにご飯を入れる。その上におかずを乗せて混ぜたものだ。 キッチンの床の上に置き、そこで食べてもらう。二人は、テーブルに座って食べ始める。 かなり、おなかが空いていたらしい。すぐに、全部、平らげてしまった。 「僕の半分を上げて。さっき、オムライスを食べたから、そんなに要らない」 ボールにごはんを追加し、博の皿から半分だけ、おかずをよそおい、混ぜた。 ビートンの前に置く。すぐに、ペロリと食べ尽くす。少しは、落ち着いたようだ。 九章後半(新しい家族) 食事が済んだ後、色々尋ねた。博の言うことは、分かっているようだが、上手く応えることが出来ないようだ。 「おそらく、トンになったばかりだから、上手く話せないかも。人間で言うと、赤ちゃんくらいかな」 美佐子は感心した。例えが上手い。中学生並みの表現だ。 「ビートンに、誰かの魂が入っているのは本当だよ」 経験者の博が言うから、間違いない。その経験が息子を成長させたと思った。 「話せるまで、うちに居てもらおうか。どうするかは、その後に決めようね」 「ほんと!よかった」博が笑顔になった。 就寝の時間になった。キッチンの床に座布団を置いて、その上にうずくまった。上から、毛布を掛けてあげた。 夜中の0時。ビートンは夢を見ていた。あの悪魔が、地獄に堕ちていく夢だ。 地獄に墜ちると、念波が遮断される。ビートンが呪いから解放された。 ビートンの体がけいれんした。体が熱くなり、毛布を蹴飛ばす。 体の各部が変形し始める。徐々に、人間の体に造られていく。 髪の毛も生えてきた。皮膚も人間のものになっていく。ついに、小さな女の子の姿になった。 「おかあさん」という声が聞こえた。美佐子は夢だと思った。 もう一度、「おかあさん」と呼んでいる。確かに聞こえる。 立ち上がって、蛍光灯の紐を引っ張る。寝室の部屋に明るくなる。 キッチンのある部屋に、毛布を被った女の子が立っている。 美佐子は驚いた。「博、起きて」息子の体を揺さぶる。 「どうしたの」「あそこを見て」 博は寝ぼけ顔で女の子を見ると、「やっぱり、そうか」と言った。 「どういうこと」「本人から、聞いた方がいいよ」 キッチンの部屋のライトも点けた。女の子の顔立ちがはっきり見えた。 不安そうな表情をしている。美佐子は、博の下着、ズボン、シャツを持ってきた。 「とりあえず、これを着なさい」 女の子は、博をじっと見た。「分った。後ろを向いとくよ」 女の子が服を着ると、三人はテーブルに着いた。 表情は、まだ硬い。過な経験をしたに違いないと、美佐子は思った。 美佐子は、我が子を見るように視線を注いだ。 「大丈夫よ。何も怖いことは無いからね」 表情が少し和らいだ。美佐子のいたわりの気持ちを感じているようだ。 「暖かいココアを作ってあげようね」電機ポットに水を入れ、スイッチを入れた。 マグカップを三つ取り出し、テーブルの上に置く。 ココアの袋から、スプーンで二杯ずつ入れる。お湯を注いでいく。 「飲みなさい。暖まるわよ」 女の子は促されて、一口飲んだ。表情が少し、落ち着いた。 博と美佐子も口を付け、ココアの甘さに酔っている。 「お名前を教えてくれる」美佐子が優しく尋ねる。 「エリー」下を向いて、小さな声で応える。 「何歳なの」女の子はしばらく考えた後、口を開いた。 「あのときは、小六だったけど、今は分かんない・・」まだ、声が弱々しい。 「おそらく、中三くらいじゃないかな」博が口を挟んだ。 「どうして分かるの」美佐子が博の顔を見る。 「僕がビートンに入ったのは小一のときで、今、小四でしょう。僕の魂はビートンが生まれたときに、入ったんだよ。 豚は受精してから、半年程で生まれるから、 小六に三年を足して、そのくらいだと思う」 博は目覚めた後、図書館からいろんな本を借りて読んでいる。 「どうして、豚なんかに・・」 美佐子がつぶやいたとき、エリーの表情が引きつった。 こらえている内に、いきなり両手で顔を覆って「わー」と泣き出した。 エリーの興奮が収まるのを待って、博の説明が始まった。 「悪魔の仕業だよ」「悪魔って、実際にいるの」 美佐子が尋ねる。 「もちろん。僕の魂をビートンに入れた奴と同じにちがいない」 「アーマンです」エリーが憎しみを込めた表情で言った。 それから、彼女は世にも奇妙な、恐ろしい経験を二人に話し始めた。 エリーはバラクの教会で育った。バラクは、ルーマニア出身の牧師である。バラクの話では、門の前に小さな籠に入った赤ちゃんが捨てられていたらしい。 独身のバラクは、赤ちゃんにエリーと名付けて養子にした。 エリーはバラクの愛情を受けて、すく々と育った。 小六になった頃には、母子家庭の十人の子供も預かっていた。 しかし、小さな教会は信者数が少なく、やりくりに苦労していた。 次第に、厳しい経営難に追い込まれていった。 ついに、バラクはある決心をする。 ある夜半の二時頃、エリーがトイレに行った帰り、バラクの部屋から、話し声が聞こえてきた。 エリーは不信に思い、鍵穴に耳を当てて、盗み聞きした。 「なにやら、経営に困っているようだな」 「信者数も、寄付の額も少ない。その上、 十人の子供も預かっているのです」 「日本支部からの手当てはないのか」 「信者数に比例するから、雀の涙ほどの額で、とても足りません」 「せこいな。困った人を救うのが、キリスト教の教えじゃないのか」 「昔はそうだったけど、今は金の世の中になってしまっているのです」 「そのことは俺が一番よく知っている。それで、俺様に何の用だ」 「少し、お金を貸してもらえないかと」 「腐るほど持っているが、只ではあかん」 「上げるものと言っても、何もないですけど」 「お前が預かっている十人の子供が欲しい。 俺様の奴隷として、使いたい」 「仕方ない。いいでしょ。しかし、いなくなれば、母親たちには、どう説明すれば・・」 「その点は大丈夫だ。子供がいるという記憶を消しておく」 「私との契約は、何の意味があるんですの」 「お前は何も分かっていないな。悪魔でも、何でも勝手に出来ないの。 ちゃんと、手続きを踏む必要がある訳よ。勝手に出来たら、世の中、メチャクチャになってしまうじゃないか」 「なるほど。それが私との契約ということですね」 「その通りだ。それじゃ、この書類にサインしてくれ」 「住所と生年月日と、趣味とかも書きますか」 「そんなの、いらん。名前だけでいい」 「それじゃ、名前の欄にバラクと書きますよ」 「ちょっと、待った。ペンはこれを使え。インクはお前の血だ」 アーモンは内ポケットから、鳥の羽のペンを取り出した。 「これはアンデス山脈の頂上にだけ生息しているジンガー鳥の羽だ」 「血はどこから?」「お前の舌を切り取る」 「ウヘー、そんなアホな」「冗談だ」 「びっくりした。痛くないところがいいんですけど・・」 「手を出せ」アーモンは、バラクの左手首を掴むと、掌を鋭い爪で引っ掻いた。 バラクは、滲みだした血をペン先に付けてサインした。 「これで、契約は完了した。どのくらい借りたい」 「できたら、金の延べ棒を一本、お願いしたいのですが」 「あんたな。子供の養育費も要らなくなる。何に、そんな大金を使うのか」 「キャバクラでも、行こうと。日本に来てから、仕事一筋だったので、息抜きしたいのです」 「分かった。明日持ってくる。そのとき、子供たちも連れていくぞ」 「分かりました」 「それから、こんなこと言いたくないけど、お前の口臭、クサイぞ。歯周病に罹っている。 それじゃ、信者が増える訳ないよ。歯科院に行って、治療しろ。一日に何回、歯磨きしているのか」 「寝る前に、一回だけですけど」 「だめだ。毎食後、おやつの後も、三分以内にしないと。歯間ブラシも使って、歯茎の根元の食べかすもクリーニングしなさい」 「分かりました。金が入ったら、歯科院に 行きますよ」 エリーは二人の話を聞いて、驚き、気を失っった。 その音を聞いた二人がドアを開けると、エリーが倒れていた。 「この女の子は誰だ」「私の養子のエリーです」 「まずいな。契約の話を聞かれてしまったらしい。契約は当事者以外に聞かれると、無効になってしまうのだ」 「エ~!かなり、まずい状況ですね」 「そういう決まりなんだ。それと、この子にも罰を与えねばならない」 「それは止めてくれ!」 「だめだ。ルールなんだ。ルールを破ると、俺様の魔力は衰えていく」 「罰って、何をするんですか」 「豚の胎児と、取り替える」 アーモンがエリーを抱いて、部屋の中に入れた。「ドアを閉めてくれ」バラクが閉める。 気を失ったままのエリーに向かって、呪文を唱え始める。古代シリア語だ。 十分ほど経つと、エリーの姿が消えた。代わりに豚の胎児が現れた。 「こいつは、番犬のケンタロウスに食わせる」 「エリーはどこへ行ったんですか」バラクは悲壮な表情で尋ねる。 「どこかの養豚場の妊娠している豚の子宮の中だ」 「私はどうなります」「お前は三年後に死ぬ。ここで、自縛霊になって、人間に災いを与え続けろ」 そう言うと、アーモンは姿を消した。バラクは、悪魔と関わりを持つと、ろくなことがないと悟った。 エリーは話し終えると、疲れたのか、口を閉ざした。 「そうだったのか。僕がビートンの中にいたとき、時々、別の魂を感じていたよ。それがエリーだったんだ」 「博の魂が解放されて、エリーの意識が表に出てきたんだね」美佐子が続ける。 「ねえ、エリー。もし、よかったら、私の養子にならない。あなたを見ていると、自分の娘のような気がするの」 「僕も、お姉ちゃんが欲しい」博も嬉しそうだ。 エリーは涙を流して、頷いた。美佐子は立ち上がり、エリーの傍に行った。 エリーを立たせて、力強く抱きしめた。エリーも美佐子を抱きしめる。 「おかあさん」「エリー」二人は泣き続けた。 み) 十章(サタンの言い分) 地獄に堕とされたアーモンが、空洞を歩いていくと、大きな広間に出た。 広間の奥は高台になっている。後ろは岩の壁である。 高台の中央に置かれた玉座に、サタンが座っている。 「よう、アーモン。お前は、反乱の罪を情状酌量で一年の牢獄に許されて、地上にいるんじゃなかったのか」 「それが、まあ、いろいろありまして」 「何か、悪さでもやったんやろ。ホンマのことを言え。相談に乗ってやるがな」 アーモンは、エリー教会で起きた騒動から、ガリラヤの男に地獄に落とされたことまで、いろいろ話した。 「子供に手を出したのは、まずかったな。 あの男は子供に悪さする奴には、容赦ないで。 本来なら、お前は灰にされてるはずや」 「ウへ~!コワ! しかし、地獄堕ちで済んだのは、なぜだろ」 「お前の心に、エリーへの愛情が残っているからや」 「エリーには、悪いことしたなと思ってます。 ところで、兄貴はカウンセラーになったら、繁盛するんじゃないですかね」 「ワシは地獄の大統領みたいなもんやで。いろんな仕事をこなさなあかんのや」 「そうですか。暇そうに見えますが。あ、そうそう。聞きたいことがあるんですよ」 「何やねん」 「エリー教会で、シモンがバラクに霊水をぶっかけたのに、全然、平気だったんすよ。どうしてですかね」 「バラクって、お前と契約しようとした奴か」 「そうです。結局はキリスト像の目から出た光線に焼かれて、灰になりましたがね」 「おそらく、シモンはヤウエのおやじから、 霊水をもらったと思う。 シモンはおやじの方を頼りにしているんや」 「おやじには、もう、力が無いということですか」 「人類が生まれて、二十万年は経っとる。 おやじは、今、養老院に入っているはずや。 そんなもうろくジジーに何が出来んねん」 「どうして、倅(せがれ)に頼まないのですかね」 「会社と同じよ。二代目をこの若造がと思っている重役がよくいるやろ」 「二代目は、先代派の連中と対立する、戦国時代にもよくあるパターンですね」 「そや。人間は、いつの時代でも、身内、国家、民族、部族、階級、宗教間で、争っているんや」 「兄貴は意外と学があるんですね。見直しましたよ」 「俺は元々、ヤウエおやじの第一の子分、まあ、専務みたいな地位だったんや」 「ふ~ん。なぜ、反乱を起こして、地獄の堕とされたんですか」 「そこや。よう聞いてくれた。ちょいと長い話になるが、聞いてくれや」 「お前、アダムとイブを知っとるか」 「そりゃ、知っていますよ。最初の人間でしょ」 「二人をそそのかして、禁断のリンゴの実を 食べさせた奴は、誰だか分かるか」 「もちろん。今、前にいる兄貴じゃないすか」 「それや。ワシが言いたいのは。デタラメの、嘘八百の、詐欺師顔負けの作り話のことなんや」 「事実と違うんですか。ちゃんと、旧約聖書という本に載っていますよ」 「その旧約聖書が、真っ赤な嘘の塊やねん」 「旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教,イスラム教の聖典ですよ。そんなこと言って、大丈夫ですかね」 「ワシを誰やと思っているんや。地獄の帝王、サタン様やで。文句があるなら、地獄に来いちゅうねん」 「まあ、落ち着いて下さい。兄貴とやりあえるのは、ヤウエの倅だけですよ。 最後には、ハルマゲドンですよね。面白そうだな。隠れて見ておきます」 「ワシが言いたいことは、別なことや。お前と話していると調子が狂うわ」 サタンは立ち上がって、近くにある冷蔵庫から、ビールを二缶取ってきて、一缶をアーモンに渡した。 「頭を冷やしてから、続きを話す。お前も飲め」 サタンはぐいと、いっきに半分程、飲み干した。アーモンは一口だけ、飲んだ。 「冷蔵庫とか、電気とか、どうやって、手に入れていますの」 「ここの岩盤には、レアーメタルが含まれているんや。それを、地上で会社を作って、世界中に販売してんねん。 電気もコードを引いてきてある。もちろん、電気代もきちんと払っとるで」 『やっぱ、銭か。銭があったら、何でも 出来るってことか』アーモンは改めて思った。 「OK.さっきの話の続きや。そうそう、旧約聖書やったな。 あれは人間が書いた創り話や。人間がヤウエや、俺やお前を創ったんや」 「え~。ホンマですの。そしたら、我々は実体ではないということですね」 「その通りや。分かっとるやんけ。ワシが人間を堕落させたというのも嘘や。 人間は己の悪心を俺のせいにしてきたんや。 この俺が一体、何をしたちゅうねん。反乱を起こさせたのもヤウエの陰謀や。 自分の地位が脅かされると疑心暗鬼になっていたんや。 そして、人間の女に産ませた倅を天国の棟梁の地位に就かすために、ワシを地獄に落したんや。 まあ、それは許したる。歳食ってきたら、ああなるんや。秀吉でもそうやったやろ。 国も固まっていないのに、朝鮮出兵や。家康に天下取られるのは当然やで。 ワシが心配しているのは、人類の未来やねん。 今の世界を見て、どない思う。欲にまみれて、 銭に振り廻されて、みさかいが着かなくなっているやろ。 世界中、争いや。核ミサイルで、お互いに脅しまくっている。このままでは、人類は数千年で滅びるで」 「新約聖書では、ハルマゲドンの後、救世主が復活して、善人は天国に召し上げられ、悪人は地獄に堕されると載っていますが」 「ヨハネの黙示録やろ。それも、あいつの妄想や。 こんな狭いところに、世界中の悪人が入るか。人類の七割は悪人やで」 「滅びてもいいんじゃないですか。どうせ、我々は実体じゃ無いし」 「ワシも最初はそう、考えていた。お前、清和って知っているやろ」 「あのエリー教会の牧師ですか。今は、白バラ教会に移っているけど。そいつがどうしたんですか」 「ワシは、あいつに心を打たれた。あいつのような人間が増えていったら、希望はある」 「兄貴は、ほんまはいいキャラなんですね。 倅と組んだら、どうですか」 「あいつは、おやじから洗脳されて、ワシを全ての悪の根源にしていやがる。 あいつは、清和みたいな人間からパワーをもらっているんや。 だから、そういう人間をこっそりと手助けしていくしかないのや。 倅にばれると、おやじみたいに疑心暗鬼起こされて何されるか分からへん。 おやじから受け継いだパワーは桁はずれだからな」 サタンは、目を閉じると、永遠の瞑想に入った。 十一章前半(モーロック) 「汝、その子女に火の中を通らしめて、これをモーロックにささぐることを絶えて為(せ)ざれ。「レビ記一八章二一節」 モーロックはアンモン人の崇拝した火の神で、その像(姿)は牛頭人体であり、この名は「王」 を意味する。 夜中の0時。清和が白バラ教会の礼拝堂で、例のガリラヤ人と話している。他には誰もいない。 「子供たちを救ってくれて、感謝致します」 「私は為すべきことをしただけです。礼には及びません」 「主よ、私はあなたを心から崇拝し、一生、あなたに仕えるつもりです」 「今や、父が己の姿を元にして創造した人間どもは、科学とやらの力を信じ、 私や父の教えに耳を傾ける者が減りつつある。 清和さん、この現状をどう思いますか」 「この前、シモンさんがバラクに霊水を掛けても、何の効果が無かったですよね。その辺も原因の一つだと思いますが」 「確かに、老齢の父の力は衰えている。しかも、本人は自覚していない。主治医に依ると、 痴呆症も進んでいるようだ」 「シモンさんなど、年配の牧師たちは、おとう様の力をまだ、信じています」 「その通りだ。実はそのことで、困っているのだ。父には引退を勧めているのだが、聴いてもらえない」 「宗教改革をなさったらどうですか。我々プロテスタントがローマカトリックに行ったように」 「カトリックでは、若くて美人の母上を信仰している。私は母上を信頼しているから、カトリックとはもめたくない」 「問題は、プロテスタントのお父様派の牧師たちですね。思い切って、破門にしたらどうですか」 「考えてみる。過去にスリップして、モーセに相談しにいってみるよ」 翌日、清和が深夜、礼拝堂で祈っていると、 ガリラヤ人が現れた。 「どうでした。モーセさんとのお話しは」 「相談どころか、ムチャ怒られた。ヘブライ人の神を多民族の神にしたと」 「気持ちは分りますね。ヘブライ人は幾多の試練を克服し、お父(とう)様の信頼を得て『十戒』を契約できたのですから」 「そうだな。私の考えが甘かった」ガリラヤ人は遠目をして、思案に暮れている。 「やはり、自分自身で決めるしかあるまい」 「主よ。おっしゃる通りです」 「お前が言うように、第二の宗教改革を実行しよう」 「やっと、ご決断が付きましたか」 「善は急げだ。メッセージの聖霊を送ろう」 「ちょっと待って下さい。反宗教改革を仕掛けてくるかもしれません」 「どういうことだ」 「彼らが手を組んで、他の神を担ぎ出してくる可能性があります」 「私の他に、私に勝る神がいるというのか」 「好みの問題です。今、入信したら、宝クジを十万円、当選させるという手を使っている神様もいます」 「乗り換え、十万円キャッシュ・バックという、スマフォの販促コピーみたいだな」 「そういう時代なんですよ。パンだけでも生きていけると考えている人間が増えています」 「早く、真の信仰に目覚めさせないと、アーマンのクソ野郎みたいに堕落するぞ」 「私の戦略を述べてもいいですか」 「いいだろう、述べてみよ」 「お父様派の牧師たちを、いっきに灰にしてしまうのです」 「何という、恐ろしいことを」 「奴らがサタンを担ぎだしてくることもあり得ます」「まさか」 「何人かの人間は、サタンがおとう様の陰謀で地獄へ墜とされたことを知っています。 人類の未来を本気で心配していることも」 「・・・」 「主よ。今こそ、決断の時です。あなたの刻(とき)がやってきたのです」 ガリラヤ人はしばらくの間、瞑想をしていた。 やがて、目を開き、清和の顔を見つめた。 「今、我が始祖のアブラハムから、メッセージが届いた。お前の言う通りに行えということだ」 「いつ、実行されます」 「今日は疲れている。天国へ帰って寝たい。 天国には、私の派閥と父の派閥の天使がいる。 父の派閥の奴らも、一緒に灰にする。 三日後の0時だ。私の力を思い知らせてやる」 清和は、ガラリア人の気迫に芯から震えた。 「成功を祈ります」清和の言葉に頷くと、姿が消えた。 清和は部屋に帰って、部屋のドアをロックした。念のためだ。 あくびをすると、清和がモーロックに変身した。「しめ々、旨くいきそうだ」 十一章 新世界① 翌日、ナザル(主の名前)は、傘下にある天使たちを集めた。 「私は、おやじ派の天使たちを灰にする。君たちは、地上にいるおやじ派の牧師たちを灰にしてくれ」 「了解!」天使たちは、意気盛んに応えた。 「明日の0時に決行する。おやじ派の連中には、気付かれないように注意しろ」 0時前に、全員が集合した。おやじ派の天使たちは寝ている。 まさか、私がクーデターを起こすとは、砂の粒ほども考えていないのだろう。 「用意はいいか。目標を間違えるなよ。おやじ派の牧師の顔は、昼間、スマフォで確認したはずだ。それを思い浮かべろ。一人で百人、 灰にするだけだ」 天使たちは、スマフォを早送りして、再確認している。 ナザルは、おやじ派の天使たちの宿舎に目を向けた。 「下界に目を向けて、集中しろ。今から、コーランを唱える」 「すみません。それって、イスラム教の祈りではないですか」 「戦闘は、イスラム教徒が強い。キリスト教は愛の宗教だからな。異教でも、利用できるものは利用する。そこが、私とおやじと違うところだ」 全員が頷く。ナザルの革新的な考えに、惹かれて参加した天使たちだ。 ナザルはコーランの「我、アラーに命を捧げん」をアラビヤ語で唱えた。 「一,二,三の後に、ダー!だ。分かったな」 「すみません。それ、アントニオ猪木っぽいですけど」別の天使が尋ねる。 「私は猪木のファンなんだよ。これが、一番気合いが入るのだ」 「了解しました」天使たちは、ナザルの信長みたいな性格を承知している。 「それでは、いくぞ」「一,二,三、ダー!」全員が叫んだ。 天使たちの目から、放射された光の束が下界へ、ナザルの光が宿舎へ向かって伸びていった。 その光が目標に当たった瞬間、目標にされた全ての存在が灰になった。 清和(モーロック)はアーモンから、サタンが自分を尊敬していると聞いた。 アーモンは情報料として、金貨一枚をもらった。 清和はサタンに会いたいと考えていた。おやじ派の天使たちと牧師らは、灰になった。 戦略の次の手だ。サタンとナザルの闘い、つまり、ハルマゲドンを仕掛けて、共倒れさせる。 その後、俺様がこの世界の王(キング)となるのだ。 アーモンに、サタンとの取次ぎを頼んだ。 アーモンは承諾して、金貨二枚をもらった。 地獄の広間で、会議が開かれている。サタン派の天使たちで、埋め尽くされている。サタンの緊急の招集命令で集まってきた。 彼らもサタンと一緒に、ナザルのおやじの陰謀で、地獄に堕とされたのだ。 ナザルのクーデターについては、アーモンから知らされた。五枚の金貨をやった。 「こんな大事な情報に、たった五枚か」と ぶつくさ言ったから、けっとばした」 「諸君、天国でクーデターが起こった。ナザルがおやじ派の天使の連中を灰にした。同派の牧師らも灰にしたそうだ。私は決断した。今こそ、復讐のチャンスが来たと。 長年に渡るこの地獄での苦闘。諸君らの努力で、どうにか、生活は良くなった。しかし、そういう問題ではない。 我々が舐めさせられたあの侮辱を思い出せ。 一方的に反逆の罪を着せられ、悪の権化にされた。奴は、それを人間どもに吹き込んだ。 我々は堕天使と呼ばれ、人間どもの自ら成した悪行も、我々のせいにされてきた。 我々は,耐えて、耐え抜いてきた。 全ては、息子に帝王の座を譲り渡すための、おやじの画策だ。我々は、その犠牲にされたのだ」 サタンの頬は、涙で濡れている。天使たちの中からも、すすり泣く声が聞こえてくる。 気を取り戻し、毅然として、サタンは続ける。 「追放の時、まだ若かったおやじの武器、あの雷(いかずち:サンダー)には、我々は手も足も出なかった。 ひたすら、あいつが前以て開けておいた地獄へ逃げ込むしかなかった。 我々は、いつか来たる復讐の日に備えて、着々と準備をしてきた。 地獄の岩盤に含まれる様々な金属から特殊な合金を鋳造し、あのサンダーを防ぐ盾とその他の武器を創り上げた。 そして、毎日、戦闘訓練に明け暮れた。 諸君!ついにハルマゲドンの日がやってきたのだ。例え、灰になろうとも、名誉を取り戻すために闘おうではないか!」 「オウ!」天使らの意気盛んな轟が、地獄中に響き、地上では世界中で、地震が起こった。  十一後半 新世界② 激しい地震だった。収まった後、テレビを点けた。 「今回の地獄の原因を、世界中の科学者が調査中ですが、まだ、解明されていません」 「博は、今回の地震について、どう思う」 「何となくだけど、不気味さを感じる」 「私も、そう」エリーが同調する。二人とも、ビートンの中にいたせいか、動物的勘が持っている。 夜半過ぎ、三人とも、ぐっすり寝ている。 ソフトボール程の淡い光の球が寝室の部屋に現れた。 その光の球が、エリーの頭の中に溶け込むように入り込んだ。 サタンがハルマゲドンを決意したことをアーマンがモーロックに伝えた。 アーマンは金貨二枚要求したが、取次ぎが必要なくなったから、そのとき渡した金貨で、貸し借り無しだと断った。 「モーロックの野郎、せこいやっちゃな」 モーロックは、ハルマゲドンの後、勝った方を全滅させることを計画する。 勝利者でも、エネルギーをかなり消耗しているはずだ。そこを狙うのだ。 そのためには、各地の悪魔を傭兵として、雇う必要がある。金が要る。 奴らは脅威の魔術を持っている。賃金は高額だ。 その資金がない。アーモンから借りることにした。 「アーモン、話がある。悪魔の傭兵を集める金を貸してくれないか。見返りは、キングになって世界を制覇したら、お前を財務大臣に任命する。税収の一0%を給料にしてもよい」 「三割」「アホか。財政が破綻するぞ」 「じゃ、他の金融機関から借りて下さい」 人間がハルマゲドンに関わる訳がない。すでに、噂は広まっている。 「この野郎、足元を見やがって。二割だ。これが限界だ」 「まあ、いいでしょう。契約書にサインしてもらえますか」 モーロックは、アーモンが出した契約書にサインした。曲がった釘みたいな、幼稚な字である。 「学校に行っていないでしょう。四歳の子供でも、こんな字、書きませんよ」 モーロックは赤面した。キングになったら、書道教室に通おうと心に決めた。 「それで、いくらくらい、必要ですか」 「百名、雇う予定だ。一人当たり、金の延べ棒、十本。全部で、千五十本だな」 「五十本は、何に使うのですか」 「十の隊に分けて、分隊長に五本追加するのだ」 「分りました。明日までに用意します」 百名の募集に、百八十名が応募した。書類選考で決めた。時間がない。ハルマゲドンは、迫っている。抽選で決めたという返事を出した。 戦闘では、灰にされる可能性もあると書き添えて脅しておいた。 サタン軍やナザル軍に、参加されたら困るのだ。 ナザルなら、悪魔でも雇うだろう。おやじ派の天使を灰にした奴だ。 両軍の力は拮抗していると分析している。 傭兵を雇って、一方的に勝負が付いて、力が保存されると困るのだ。 モーロックはスマフォで、サタンに「会って話したいことがある」という連絡を入れた。 電話番号は金貨一枚を払って、アーマンから聞き出していた。 清和(モーロック)を気に入っているサタンは喜んで、OKの返事を出した。 「地獄の門の番人は、買収してある。ワシからも連絡しとくけん。そうやな、明日の午後の三時はどうやねん」 「いいですよ。じゃ、お願いします」 清和が地獄の広間に着くと、サタンが笑顔で迎えた。 「よう来てくれた。前から、会いたかったんですわ」 「アーマンさんから、話は聞いています。ルシファーさんが、人類に深い愛を持っているということを」 (ルシファーは、サタンの本名で、「光輝く」という意味の古代ヘブライ語である。 地獄に堕とされてから、「敵」という意味のサタンと呼ばれるようになった) 「照れくさいな。まあ、いろ々な事情がありますねん」 「これ、よければ」清和が手提げ袋の中から、 菓子箱を取り出してサタンに手渡した。 「何だんねん」 「紅芋タルトです。沖縄に旅行に行った信者さんからもらったお土産です」 「これは、わざわざ。さあ、こっちに座りなはれ」 サタンは、清和をテーブルに招いた。ポットとカップを二個持ってきて、テーブルの上に置いた。 ポットから、カップに緑茶を注いだ。さっき、もらった紅芋タルトの箱を開けた。 「やっぱ、甘いお菓子には、緑茶が合いますわ。どうぞ、遠慮なく」 紅芋タルトを一個取って、口にする。「ウマ!」 清和も食べている。「美味しいですね」 緑茶を飲みながら、サタンが話しかける。 「話したいことって、何ですの」 「ハルマゲドンが始まるそうですね」清和が本題に入った。 「まあ、そろそろやな。今、開戦の日時と場所の交渉をしてるところや」 「そのことで、来たのです。今から、お話しすることは極秘にしてもらえますか」 サタンはカップをテーブルに置き、身を乗り出してきた。 「もちろんや。誰にも話せへん。指切りげんまん、してもいいで」 「それは子供のやることです。実話ですね、私が預かっている軍隊があるんですよ」 「十字軍とかの類か」「違います。天使のです」 「天使って、ナザルの軍隊以外におるんかい」 「ナザル派がおやじ派の天使たちを灰にしたとき、事前に気付き、逃げ出した連中がいるんですよ」 「何名くらいや」「百名です」 「多いな。今、そいつらはどこにおるんや」 「それは言えません。知られると、ナザルのサンダーで、灰にされてしまいます」 「あれは、凄まじい破壊力を持っているぞ。天国を追放されたとき、反撃した連中は全員、おやじに、灰にされてしもうた。ナザルは おやじから、あの武器を伝授されたんや」 「ハルマゲドンのとき、その一00名をルシファーさんの援軍に使って下さい」 「え!何でやねん。あんたは、ナザル派ちゃいまんの」 「ナザルのクーデターまでは、そうでした。 天使たちは全員、おやじさんに創造されたのです。言わば、ナザルと兄弟です。兄弟を何のためらいもなく灰にするとは、悪魔でもしないことです。そんな奴は、灰にすべきです」 「よう言った。その通りや。あいつの非道は おやじ譲りや。ワシも、あの親子にどんなに ひどい目にあわされてきたか・・」 サタンは、こらえきれずに涙を流した。 清和は、サタンの長年のつらい思いを噛みしめる表情で見つめている。 サタンの気持ちの落ち着きを待って、清和は切り出した。 「ルシファーさん、お願いがあるのです。 サンダーを防ぐ盾を貸してもらえませんか」 「かまへん、百名くらいの分なら、予備があるけん、持っていきなはれ」 「そしたら、明日、反ナザル派の天使たちに取りにこさせます」 「分かった。用意しとくわ。それと、ちょいと言いにくいけど・・あの紅いもタルト、もう一箱残ってへんかな。あんな旨いもん、食べたことあらへん」 「いいですよ。一0箱もらいましたから、明日、三箱持たせますよ」 「おおきに。あんな旨いもん、食ったら、ハルマゲドンなんかどうでもよくなってくるわ」 「ルシファーさん、しっかりして下さいよ」 「じょうだんや。清和さんの軍隊が付いたら、 勝利はこっちのもんやで」 「じゃ、この辺でおいとまします。それから、 開戦の日時と場所が決まったら、連絡下さい」 「OK.メールを入れとくわ」 十二前半(モーロックの戦略) 清和は白バラ教会に戻った。自分の部屋の中で、次の手を考えている。 今度は、ナザルに仕掛けるか。サタンと同じ手は使えない。 帝王の息子だけあって、サタンほど単純ではない。慎重にいくべきだ。 奴の弱点は何だ。そうだ!母親のマリエルを信頼していると言ってたな。 マリエルから、からめていくか。モーロックは戦術を考え続けた。 ナザルのおやじである天帝は、一度ギリシャ神話の女神、フローディアと浮気をしたことがある。 発覚して離婚騒動になった。結局、世間の手前、離婚には至らなかった。 夫婦は別居することになった。それが、カトリックとプロテスタントが分離した本当の原因である。 マルチン・ルターの宗教改革は世間の目をごまかすために、ローマ教皇が打った芝居である。  清和(モーロック)はマリエルに近付く手段を考えた。 旦那と別居して、五百年も男日照りになっているはずだ。 天帝を怖れて、マリエルに言い寄る天使や修道士はいないだろう。 清和は平日に、隣町にあるカトリック教会に出掛けた。 日曜礼拝では、多くの信者が訪れて、自分を知っている人に出会うかもしれない。 神父に自分がかつて犯した罪を償いと言った。 懺悔(ざんげ)室に通された。 プライバシーを守るために、外に声が聞こえないような分厚い壁で作られている。 中からロックすると、外部からは開けられないようになっている。 机に真向いになって座ると、涙を流しながら、長年、良心を苦しめていた罪を告白した。 神父は只、頷きながら聞いているだけだ。 全て、話し終えた。 「あなたの罪は許されました」神父は厳かな表情で諭した。 清和は思わず、晴れやかな表情になった。成り切っている。天性的な役者である。 「あの・・入会したいのですが」 「今度からは、日曜の礼拝に参加して下さい」 「ありがとう御座います」深く頭を下げた。 「すみません、礼拝堂を見せてもらえますか」 「いいですよ」 礼拝堂には、キリストの像では無く、レンブラントが描いたマリエルの大きな絵が、掲げられている。 「キリストの像はないのですね」 「カトリックでは、母親のマリエルを信仰の対象にしていますので」 清和はマリエルの目をじっと見つめた。マリエルの目がキラリと光った。 「それでは、こんどの日曜日に来ます」礼を述べて、教会を後にした。 翌日の夜半の二時。清和は懺悔室に居た。目の前には、マリエルがいる。 「とても美しい方ですね」「お上手ですね」 上品な笑みを返す。 「あなたを見た瞬間、恋に落ちました」 清和は女ゴロシである。こういうセリフはズバリと言った方が、美女には効果があると、経験的に知っている。 マリエルの右手を取る。甲の部分に軽くキスをする。 顔を上げて、マリエルの目をじっと見つめる。 蒼い瞳の中に、炎が揺らいでいる。男を求める女の性(さが)の現れだ。 体を抱いて引き寄せると、優しくキスした。 次に舌を入れる。 マリエルも舌をからませてくる。十分に堪能した後、マリエルの服と下着を脱がせた。 秘部は、すでに濡れている。清和も裸になって、服を床に敷く。 マリエルをその上に寝かせた。豊かな乳房の乳首を舌先で転がす。 「ア!」うめき声をもらす。清和は性技に長けている。 人妻の信者に手を出したことも何度かある。 体中を舐めまくった後、秘部に舌をはわす。 舌を丸めて、中に入れ、クリをつつく。 性欲に飢えきっていた女体は、狂ったように清和の性技に反応している。 「は・や・く」秘部への挿入は最後だ。今度は、フェラをさせる。 清和は立ち上がった。マリエルは膝を着いて、両手で掴んだペニスをしゃぶりまくる。 ペニスの先を舐めたり、喉元まで頬張って ごしごし、フェラのピストン運動をする。 そろそろ、決めようと思った。マリエルを仰向けに寝かせる。 秘部は潮でずぶ濡れだ。息子をゆっくりと、インサートして、静かにピストンを始める。 「ア、ア、ア、」マリエルが呻く。マリエルの両脚を肩の上に乗せる。 息子が膣の奥まで届く。次第にピストン運動が激しくなっていく。 「ア~!イク!イク!」マリエルの爪が清和の背中に食い込む。 清和がぴたっと、腰の動きを止める。マリエルの体を四つん這いにさせる。 後ろから攻める。ここで清和の体が変身した。 顔はそのままだが、体はイグアナになっている。 ペニスは二本ある。一本は秘部に、もう一本はアヌスに挿入した。 ピストン運動が始まる。強弱の変化に加えて、 浅く、深く突いていく。 マリエルは白目を剥いている。「ア!ア!ア~」 最期の突きを決めたとき、マリエルはエクタシーに達し、失神した。 マリエルが意識を取り戻したとき、清和は人間の体に戻っていた。 神に準じる身分でも、所詮は女である。マリエルは清和の性の奴隷になった。 「あなたは、人間ではありませんね」 「私の名前はモーロックです。イラクを住処とする火の神です」 「私に近付いた理由は何ですか。申してみよ」 「ハルマゲドンが始まろうとしています。現在、ナザル軍とサタン軍の力は拮抗しています。 私はサタンに頼まれて、一00名の悪魔の傭兵を集めました。このままでは、ナザル軍は負けます。 サタンが支配者になったら、この世は終わりです。 傭兵をナザル様の配下に置くことをナザル様に伝えて貰いたいのです」 「モーロックよ、何が望みじゃ。それに、ナザルは父から、サンダーの秘術を取得しています。 あの武器で、サタンと堕天使を地獄へ突き落したのです」 「ところが、サタンはサンダーを防ぐことが出来る楯を開発したのです」「まさか」 「本当です。地獄にある数種類のレアメタルの合金で造りあげたのです。一00名の傭兵にも配っています」 「確かに、これでは、負けるかもしれない!。戦略を詳しく教えて下さい」 「傭兵軍は雲の中に隠れています。ハルマゲドンが始まったら、ナザル軍に合同して、サタン軍を攻めるのです。 パニック状態のサタン軍は、傭兵軍の魔術で掻きまわされ、ナザル軍の赤い光線で灰になるでしょう。勝利は確実です」 「よく、分かりました。それで、あなたの望みは何ですか」 「地獄の支配者になることです。レアメタルが、世界中で高価で取引されているのです」 「サタンがいなくなれば、管理する者が必要です。そなたの戦略で勝利すれば、ナザルも許可するでしょう。 もう一つ、条件があります」「何でしょう」 「時々、私を抱いてくれませんか」 「もちろん、喜んで」 「今日、もう一度、お願いできません?」 モーロックは、エネルギーを使い果たしていたが、最期の詰めだと思って、承諾した。 おなごの性欲の凄さを改めて思い知った。 十二後半(ゾロアスターからの預言) 翌日、マリエルからメールが届いた。ナザルからの伝言である。 清和の戦略を受け入れた。闘いに勝てば、地獄の管理者に任命してもよいという内容だった。 地獄は父が創ったものであり、管理者として、不適切な行為を行った場合は、職位を剥奪するという条件も添えられていた。 これで、準備は整ったと思った。一時間後、サタンからメールが届いた。 ハルマゲドン開始の日時と戦闘の場所に関した内容である。 二日後の十時。場所は太平洋の上空である。 その日は、太平洋及び上空での船舶と飛行機などの運行は禁止することを人類に通知してある。 場所の選択は、神や悪魔などを信じなくなりつつある人類への警告と同時に、人類に対する安全性から選んだそうだ。 すでに、両サイドとも、SNSを通して、自らの正当性を訴え続けている。 クリスチャン達は、主であるナザル軍への応援メッセージを世界中へメールで送っている。 サタンの言い分を信じている人々も意外と多い。 他の宗教の信者が、捨てアカウントを使って、 キリスト教の分裂を図っているというニュースも流れている。 ネット社界のマイナス面だ。あらゆる現象には、プラスとマイナスの二面性がある。 ある国がSNSを利用して、他国に内政干渉し始めている。 清和は、自分がこの世界のキングになっても、同じことの繰り返しではないかと自問した。 清和に、あの晩の不思議な出来事が蘇った。 清和がモーロックと一体になったのは、信頼していたバラクが、モーロックと契約したことを知ったからだ。 牧師までもが、神を裏切るのか。そういう神が信頼できるのか。 自分が救われたと思っていたのは、錯覚ではないのか。発狂寸前まで、悩み続けた。 外に出て、思索を続けていた。満月の晩だった。突然、月が語りかけてきた。 「清和よ、お前が新しい神に成りなさい。 モーロックと合体し、その力を利用すればよい。キングになったとき、モーロックと分離せよ。あいつは私が灰にしてやる」 「それは、十戒に反することです」 「あいつは、お前を利用しているのだ。キングに成れば、お前を灰にするつもりだ」 「まさか、そんなことを」 「お前は心根が優しく、純粋過ぎる。奴はサタンが気にいっているお前を利用しているだけだ」 「あなたは、いったい、いかなる存在ですか」 「ゾロアスターだ。神々の原型である。お前には、ヤウエよりも優れた力を与えよう。 全ての人類が幸福に成れる、平和共存の世界を創るのだ。それが、お前の使命だ」 月が雲に隠れ、ゾロアスターの声は途絶えた。 十二章後半(絶対絶命) 三日後の十時。太平洋の上空の東西に、黒い斑点が見え始めた。 次第に、雨雲のような大きさになっていく。 東側にはナザル軍、西側にはサタン軍が陣どっている。 アーモンが一週間前に、独占中継を行う放送局を入札で決めていた。 人間どもには、望遠鏡などで直接見ると、ナザルのサンダーが発する光で、瞳を焼かれるぞと脅しておいた。 アメリカのNNCが、自国の国家予算の百年分の価格で落とした。 NNCは、闘いが一時間程で終わると、旧約聖書から判断した。 画面の二割でCMを流し、一分間で米国の国家予算の十年分を支払う。 NNCは世界中の大企業に、スポンサー募集を呼び掛けた。 一千社が申し込んだ。抽選に当たった六十社と契約した。六十分の内、どこの一分を取るかも、抽選で決める。 企業にとっては、大きな賭けである。勝負が一時間未満で終わる場合もあり得る。 前払いのスポンサー料は返ってこない。そういう契約である。 一方、アーモンはサタンとナザルに、話を持ち掛けていた。 闘いの前に、アトラクションをやって、時間を引き延ばせという内容だ。 いずれが勝つにしろ、大企業に損害を与えて、 反感を買うのは、芳しくないと説いた。 サタンとナザルは同意した。天使たちはグループに分かれて、合唱、創作ダンス、マジック・ショウを披露した。 堕天使たちは、そーらん節の踊り、和太鼓の乱れ打ち、漫才や落語を熱演した。 彼らのパフォーマンスは、NNCから配信されたテレビやスマフォを観ている世界中の人々を感動させた。 アトラクションの間に、にわかに近付いてきた山ほど大きい雲の中には、傭兵軍が潜んでいた。 サタンとナザルは、それに気付いている。しかも、モーロックの計略通りに二人とも、自分の味方だと信じている。自分を善人だと思っている人々は、ナザル軍を応援している。 悪人だと思っている人々は、両軍が相討ちし、灰になることを願っている。 善人が天国に行くのは癪にさわるし、地獄にも行きたくないからだ。 アーモンが親元となって、賭けを始めていた。 九対一の割合で、ナザル軍の勝利を予想している。ほとんどの人間が、自分を善人だと信じているのだ。その中には、殺人犯、詐欺師、強姦魔、泥棒、人さらい、闇金業者、変質者、すりなどの、善人の仮面を被っている悪党どもがいた。 三百名のサタン軍と同数のナザル軍の闘争、ハルマゲドンが始まった。 ナザルは、モーロックがマリエルに伝えたことを確認しようと思った。 サンダーで、攻撃を仕掛けてみる。呪文を唱えると、稲光が天空を走った。それを掴まえて、サタンに投げた。 サンダーはナザルのコントロールで、全ての敵の体を貫いて灰にし、ナザルの掌に戻ってくる。サタンの持っている盾は、サンダーを跳ね返した。全ての堕天使の盾も跳ね返した。 ナザルは焦った。傭兵軍に、前以て打ち合わせてあった合図を送った。 傭兵軍は動かない。「なぜだ?」混乱で、顔が引きつっているナザル。 サタン軍が、サタンを中心にして、球体を作った。盾を背負って、外側に向けている。 回転しながら、猛スピードで襲ってきた。固い盾に削られて、次々と天使が灰になっていく。  十三後半(ミズラ神) 『このままでは、全滅だ』とナザルは思った。 『あの武器を使うしかない』と判断した。 自身をサンダーに変身させた。アトミックサンダーという。 光速(三八万キロ/秒)で進む。光は一秒間で、地球の赤道を七回半、廻る。サンダーが一メーター前後に対して、アトミックサンダーは東京タワー程の大きさだ。 物体が衝突するときの対象に与える衝撃力は、質量と速さに比例する。ナザルが投げるサンダーは、槍を音速(約六五0m/秒)で投げた程度の破壊力である。 アトミックサンダーがいかに凄まじい破壊力を持っているかが分かるはずだ。逆に、相手の質量が大きくて固い場合、作用反作用の法則で、ナザルが受ける衝撃力も大きくなる。 最悪の場合、灰になる可能性がある。 直径が東京ドーム程の球体に、アトミックサンダーが衝突した。ダイヤモンドよりも固い盾が幾重にも重なっている。 球体を貫いた。木端(こっぱ)微塵(みじん)になって、堕天使が灰になって、太平洋に落ちていく。生き残っていた天使が、ひん死のナザルを抱いて、ハワイ島に連れていった。 生き残った三十名の天使たちが、周りを囲んで、悲壮な表情でナザルを見つめている。 天使たちも球体にかすられて、傷ついている。 そのとき、雲の中に潜んでいた百名の傭兵軍が、天空に姿を現した。イグアナ姿のモーロックが指揮をとっている。 清和は分離されて、住処の牢に閉じ込められていた。 「思惑通りに行ったわい。サタン軍も灰になり、ナザルもあの様だ。全員残らず、灰にしてやれ」 「イエッサー」傭兵の悪魔軍団が様々な武器を手にして、ハワイ島に向かおうとした。 思わぬことが起こった。サタンと三十名の堕天使が、ハワイ諸島の小島から、飛び上がってきたのだ。傭兵軍団の前に立ちはだかったサタン軍は全員、傷を負っている。 「おのれ、モーロック。よくも騙しやがったな」 「サタンちゃん、よう生きとったな」 「アトミックサンダーが突き刺さる瞬間、 仲間が犠牲になって、三十名とワシを逃がしてくれたんや。少しは傷ついて、この様や」 「聞くも涙の話やんけ。あんさんも、あのヤウエのどら息子たちも、もう終わりやで。こいつらが灰にしてくれるわ」 「大阪弁はワシのキャラや。勝手に使わんといてくれる」 「ゴメンナチャイ。あんた、何で出てきたの。隠れておれば、灰にならんでもすむのに」 「ワシら元天使とおんどれ悪魔の違いやねん。ワシらとナザルたちは兄弟や。兄弟が殺られるの、黙って見ておられるかい!」 「スバライ!超、感動しちゃった。一緒に灰になってもらいまひょか」 「大阪弁、しゃべるなっちゅうの。なんぼゆうたら、分かりまんの」 「よか、よか。気にせんといて。者ども、半分はハワイ島に向かえ。いっきに、やっちゃうんよ!う~ん、サイコーの気分。これで、ワタイがこの世界のキングになるのよ。オー、ホ、ホ、ホ」 サタンらとハワイ島にいる天使たちには、闘う力が残っていない。 悪魔軍団に、なぶり殺しにされるのか。天使と堕天使は、自殺が出来ないのだ。 カトリックも、自殺を禁止している。最後の審判のとき、自殺者は復活できないのである。 絶対絶命の状態だ。モーロックのようなクソ野郎がキングになったら、人間たちの世界が地獄になってしまう。 この世には神や仏はいないのか。ハワイ島でくたばり掛けているのは、神の子ではなかったのか。 聖書では、この世界は神が創造したと記されている。被造物の悪魔に、なぜ、神がやられるねん。やっぱり、聖書はライトノベルのファンタジーか。人間らも、でっち上げの創り話に騙されてきたんや。 待てよ。聖書を書いたのは、人間やんけ。ほなら、人間は己の創り話を信じてしまったんかいな。 ああ!何がなんだか分からへん。サタンは、目の前に迫った最後の時にも拘わらず、様々な想いがオツムの中を流れていく自分を不思議に思った。 その時、思いもよらない出来事が起こった。世界中の人々も、驚き、桃の木、山椒の木、目を見張った。 小学高学年くらいの女の子が、空中に現れたのである。 ハワイ島に向かい掛けた悪魔の軍団も、その場で止まって、少女を見ている。 「おねえちゃん、迷子になったの。ここは、危ないから、地上に降りてちょうだい」 モーロックが気持ち悪い声で、優しく話し掛けた。 「黙りなさい」威厳の籠った言葉は、闘争の当事者だけではなく、世界中の視聴者を震撼 させた。 「私の名前はミズラ。古代アーリア人の第二神格である。宿っている少女の名前はエリーだ」 「古代アーリア人って何ですの」味方ぽいと感じたサタンが、期待を込めて尋ねた。 「光輝くという意味のルシファーでさえ、知らないとは情けない」 サタンは、この生意気なクソガキがと思ったが、ヒスを起こされたらあかんと自分を抑えた。 「簡単に言えば、インド・ヨーロッパ語族です」 悪魔らと天使たちは、更に、分からないという表情をしている。 「ヨーロッパ人とインド人、イラン人の共通の先祖です。カザフスタンにあるアラル海の近辺にいた民族です。詳しいことは、後でググって下さい」 『後でって言われても、灰になったら、出来る訳ないやん』という気持ちを抑えて、 「あの・・どちらの味方ですか」とサタンは尋ねた。 十四章(天国と地獄の和解)  「私は人類を救いに来ました」 それから、ミズラ神はモーロックに顔を向けた。 「モーロックよ。お前と悪魔軍団を楽しいところへ送ってやる」 「どこですの」「あの燃えたぎる太陽の中だ」 「熱いところは、苦手なんですけど」 「熱さを感じることはない。一瞬で、灰になるのだ」 「ヒエ~!何ちゅうことするんですか、この鬼!」 「私は鬼ではない。古代アーリア人の神格、ミズラ神だ」 「ボス、こんなガキの言うこと、信じちゃだめですぜ。八つ裂きしてやりましょう」 「それよりも、あの魔術でブラックホールに送ってやるべ」「いいっすね~」 モーロックと三十名の悪魔軍団が、ミズラ神を中心になるように囲んだ。 ミズラ神は、籠の中にいるネズミのようだ。 悪魔軍団がギリシャ語で、ラップ調の呪文を歌い始めた。 「ヤーヤ マーヌ ワラバーヤガ ワッター シグトゥ ジャマサンケー ヤナワラバー ミンブルカッティ ヤルサンドゥイ ア!ウリ!ウリ! クダカーマンジュウ  サッサー イヤ! スリ! スリ!」 サタン軍団は少し離れたところで、楽しそうに見ている。紅いもタルトを食べてから、沖縄ファンになったサタンは、ラジコで沖縄民謡を毎日聞いていた。この唄が沖縄民謡をラップ調にアレンジしたものだと分かった。 『ハビルの奴、英語は得意だとほざいていたが、ギリシャ語が分かれへんから、出身地の沖縄民謡を使いやがったな』 呪文が三回繰り返されたとき、ミズラ神の姿が消えた。その直後、籠も消えた。 上空を見ると、ミズラ神が浮かんでいる。サタン軍団の前に降りてきた。ポカンとしているサタン軍団の面々。サタンが尋ねる。 「あいつらは、どこに消えたんすか」 「私を放り込もうとしたブラックホールです。 ブラックホールに吸い込まれた物体やエネルギーは、抜け出ることはない。奴らは永遠に閉じ込められるのだ」 「どんな手を使ったんすか」「返しの呪文だ」 「それ、何でんの?」 「秘術だけど、特別に教えてやろう。今から、唱える。ポッポー ハトポッポー マメガホシーカ ソラヤルゾー これだけだ」 サタンは、このクソガキがと思ったが、もしかしたら、ほんまかもしれへんと思い直した。 「おおきに。今度、使ってみますわ」 「ハワイ島に降りてみようか。ナザルが心配だ」一行は、ハワイ島に向かった。 ナザルを取り囲んでいる天使たちの表情は、暗い。ナザルの状態が更に悪化している。 このままでは、時間の問題だと全員が思っている。 いきなり、上空から、サタン軍団とミズラ神が降りてきた。彼らと悪魔軍団の闘いは、見ていたが、敵なのか、味方なのかは、未だはっきりしない。 三十名の天使軍団は、ナザルを守るように、立ちはだかった。 「心配するな。我々はあなた方の味方である」 ミズラ神が慈悲を帯びた表情で声かけると、天使たちの表情が和らいだ。 「ナザルの状態は、どないやねん」 サタンもナザルに近寄り、顔を覗く。 「これは、かなりやばいな」眉間に皺を寄せる。サタンがミズラ神を見つめる。 「分かっている」ミズラ神がパチンと指を鳴らした。 ベッドに寝たヤウエが現れた。看護婦が一人付いている。天国の老人ホームの病棟から、やってきたのだ。 ヤウエもかなり衰弱している。三年前から、病棟に移されている。 「長時間は無理です」と看護婦が職務調に言った。それをゆっくりあげた手で制したヤウエが、「息子をここに連れてきてくれ」と頼んだ。 数人の天使たちが、ナザルを板の上に載せて、 ベッドの傍に連れてきた。 ヤウエは右手をナザルの額に置き、呼び掛けた。 「我が息子よ。私の命をお前に与える」 ヤウエの体が光り輝き、右手から、光がナザルの体に移っていく。それと同時に、ヤウエの光が弱まっていく。 ナザルの体が痙攣した。やがて、目を開けた。全員が喜びの声を上げた。 「板を地面に降ろしてくれ」ナザルが口を開いた。板が降ろされると、ナザルは立ち上がり、父親の傍に行った。看護婦が聴診器を胸に当てている。耳からヘッドフォーンを外すと、首を静かに横に振った。 「パパ。お願いだから、灰にならないで!」 父親の頭を撫でながら、泣き声で喚いている。 「ルシファーを呼んでくれ」息も絶え絶えに言った。 ナザルがサタンに目で合図を送ると、サタンが側にきた。 「ルシファーよ。私を許してくれ。我が子可愛さに、お前に罪を被せ、地獄へ追いやった。 今まで、罪の意識に苛まされてきた」 その言葉を聞いた瞬間、サタンの長年の憎しみが消え去った。 「もう、いいっすよ。ワシも息子さんに嫉妬していたんですわ。水に流して、仲良くしまひょ」 ヤウエの目尻から、涙が流れた。ナザルに顔を向ける。 「ナザル、お前を我がままに育て過ぎた。モーロックなどのクズに騙されるとは情けない。 改心せよ。ここにいるミズラ神の上位にいる ゾロアスターは、我々、神々の始祖である。 我が無き後は、ミズラ神に従え」 「パパ!僕はパパがいないとだめなんだ。 お願いだから、ずっと生きていて!」 「ナザルよ、よく聞きなさい。森羅万象は生成変化し、消え去る。神と言えども、同じだ。 インドの釈尊の教えを学べ。キリスト教に取り入れ、新しい宗教を創るのだ。その時期が来ている。私が去るのは、その意味があるのだよ」 「ワシも付いていまっせ。二人で協力して頑張ろうやないか」サタンがナザルの肩を抱く。 「それでは、私は無に戻る。しかし、お前の心の中で、共にいると思いなさい。マリエルを頼むぞ」 ヤウエは息を引き取った。ベッドの上に、ダイヤモンドの粒が残っていた。 ナザルは袋の中に、それらを入れ、懐に仕舞い込んだ。 ミズラ神がパチンと指を鳴らすと、清和が現れた。 「この者を許してやれ。モーロックに騙されたのだ」 「申し訳ありませんでした」涙を流して、謝る清和の肩をサタンが叩いた。 「ええやんか。わしらも一杯食わされたんや。 その代わりと言ったらなんやが、あの紅いもタルト、頼めんかの」 「全然、OKですよ。沖縄の店舗に注文掛けておきます」 「出来たら、百箱くらい、なんとか」 清和は一瞬、ムっときたが、「いいですよ」と作り笑いで応えた。ミズラ神がいつの間にか消えていた。 エリーが、家から一キロくらい離れた草原にいる。 「あれ、なぜ、ここにいるのかしら」 エリーは夢から覚めてような感じを受けた。 美佐子と博が、車でやってきた。 「ずいぶん、捜したわよ」三人は抱き合って、笑い泣きした。 「お家に帰ろうか。今日の昼ご飯、何がいい」 「ハンバーグとグラタン食べたいな」 「僕もそれでいいよ」 朝方は天国と地獄の軍団に覆われていたが、今は青空が広がっている。三人は車に乗って、自宅に向かった。ラジオから、暴動が収まり、復旧作業が始まっているという。 美佐子は、今回の人類最大の危機にも、全く動じなかった。彼女には、釈尊が守ってくれるという信念があるからだ。二人の子供には、釈尊を信じることを強制しようとは思っていない。信仰とは、無信仰も含めて、本人が決めるべきだと考えているからだ。 一五章(意志への力) 県立病院の第四棟は、精神科専用である。 三~五階に、入院患者の部屋がある。 一階では、外来も受け付けている。各個室には、カメラが取り付けられ、二階にあるセンターで監視している。 四階の一二番の個室に、小六の少女が一ヶ月前から、入院している。名前をエリーという。 医者と美佐子が、モニターを観ている。エリーが子豚のぬいぐるみを相手に、一人芝居をやっている。 エリーの部屋には、机とパソコンが置かれている。パソコンの側には、ワイファイが置かれ、ネットも使える。 エリーは投稿サイト「スタンドバイミー」に、 作品を投稿している。作品名は「逃げろ ビートン!」である。ビートンが提案して、二人で作っている。エリーが書いて、後でビートンが読み、手直しのアドバイスをするという形だ。 「ビートン、一四章を書き上げたわ。見てくれる」 「いいよ。その間、休んでいて」エリーは、ビートンを椅子に座らせ、画面を開いてあげる。 「エリー、全部読んだよ」ベッドで横になっていたエリーは、体を起こした。 「どうかしら。締切が迫っていたので、急いで書いちゃったけど」 「悪くはないよ。ちょっとムズイ表現もあるけど、サタンのオチャラケの押さえになっていると思う」 ビートンは、かなりのセンスを持っている。前世は、アメリカの短編小説家だったらしい。 「面白さの中に、深淵なテーマをさりげなく入れておく。そのタイミングが大事なんだ」 「ここまで頑張ってこれたのも、ビートンのおかげよ。後は、最終章だけだわ。入賞したら、二人で半分っこしようね」 「僕はお金なんて、要らない。エリーの役に立つだけで、満足なんだ」 「分かった。お母さんに、半分あげるわ」 「先生、エリーは治りますか」 憔悴した顔で、美佐子が医者に目を向ける。 「何とも言えませんね。精神の病は、原因を特定するのが難しいのです。心の中の問題ですから」 エリーが入院したのは、一ヶ月前の十一月二五日である。 急に、何かに取り付かれたようになった。美佐子にも、弟の博にも、口をきかず、話しかけても反応しない。父親は三年前に、過労から來る心不全で、亡くなっている。 美佐子は、エリーを県立病院に連れていった。 医者は診断の後、こう説明した。 「父親の死も、遠因だとは思いますが、直接の原因ではありません。最近、変わったことは無かったですか」 美佐子はしばらく、顎を指で挟んで考えていたが、思い付いたように、口を開いた。 「この子は、幼い頃から、蝶や蛾に興味を持っていました。一ヶ月前から、全国大会のために、ヨナグニサン、沖縄の方言で、アヤミハビルという世界最大の蛾の研究に没頭していました」 「もしかしたら、アヤミハビルというユーザーの生き魂に、取りつかれているのかもしれません。ビートンとの会話からすると、最終章の公開が終われば、治る可能性があります」 美佐子の表情が緩んだ。 年が明けて、一月四日の午前中、美佐子がモニターを観ているときのことである。 「あれ、ここ、どこなの。どうして、私、ここにいるの。誰か助けてー」 エリーがドアを叩いている。 「先生、来て下さい。エリーが元に戻ったみたいです」 医者がモニターで確認すると、看護士と美佐子を連れて個室に向かった。ドアを開けると、エリーが美佐子に抱き着き、泣き出した。 医者がエリーを診察室に連れて入った。美佐子は外で待っている。 二十分くらいして、医者とエリーが出てきた。 「もう、大丈夫です。正常に戻っています。 念のために、一週間後、診察に来て下さい」 「ありがとうございます」美佐子は医者に深々と、頭を下げた。 エリーの手を取り、「おうちに帰ろう」と言った。 出口に向かい掛けたエリーが振り返り、医者をちらっと見た。 医者は、エリーの瞳にヨナグニサンが映っているのを観た瞬間、体が氷のように固まった。 「近藤さん、ちょっと待って下さい!」 「どうしたのですか」 「来週から、学会の会議があることを忘れていました。別の病院の紹介状を書きますから、少し待ってくれませんか」 「よろしいですよ」美佐子の返事も聞かずに、医者は診察室に入っていった。 診察室の前にある長椅子に座って待っている間に、エリーが切り出した。 「ヨナグニサンの記念館があるY島に行ってみたいわ。今年の夏休みに連れていってくれない」 「いいわよ。博も喜ぶはず」 医者は「国家安全保障局」宛てに、手紙を書いている。 「この少女はたいへん危険です。Y島にある記念館で、標本にされているヨナグニサンを生き返らせ、巨大化させるつもりです。そいつらは、世界中で毒粉を撒き散らし、人類を全滅させるでしょう」 書き終えると、封筒に入れて、糊で封じた。 ドアをを開けて、待っている美佐子に渡した。 「この病院は最先端の医療施設です。安心して下さい」 「そうですか。何から何まですみません」 「よかったね、エリー」エリーは、こくりと頷いた。二人は医者に頭を下げた後、外に出た。 駐車場に着くと、車に乗って走らせた。病院の敷地から出たとき、エリーが紹介状を破り捨てた。 「ばかな奴だ」「全くだわ」 美佐子も薄笑いして、同調する。我々、蛾だって同じよ。仲間を繁殖させる権利があるわ。それを標本にしやがって。今度は、毒粉で殺した人間どもを標本にしてやる」 「楽しみね」美佐子は目を輝かせながら、エリーの言葉に応じた。     一章 がりがりの子豚 「ビートン、また、ご飯を残しているのか」 「だって、食べたくないもん」 「たくさん食べて、丸々、太りなさいと言われているのが分らないのか」 ビートンは、いつも仲間に注意されるが、直らない。 養豚場には、百匹の豚がいる。半年毎に、 四0匹が出荷される。よく肥えているトンから選ばれる。 トン達は、お祝いに連れていかれると思っている。 帰ってこないことに、疑問を持っていない。 所詮、それくらいの脳しか持っていなのいだ。 一週間後に、出荷の日が来る。誰が選ばれるかとワクワクしている。 ビートンは、かなり痩せているから、自分ではないと分かっている。 実は、ビートンは突然変異で生まれてきたのである。 脳が人間並みの大きさを持っている。 秘密にしていることがある。人間の言葉を理解できるのだ。 養豚場で働いているのは、五十台後半の安さん(やっさん)と、二十代前半の啓介である。 九州出身の安さんは、関西に住んでいたこともあって、会話に様々な方言が混ざっている。 二人は、豚小屋の側にある宿舎に住み込んでいる。専用の個室がある。キッチン、ダイニングルーム、風呂場、トイレは共用である。 二人とも独身で、食事は交代で作る。養豚場は、その悪臭のため、郊外にある。 養豚場のオーナーである金(かね)良(よし)は出荷の時だけ、やってくる。出荷する豚の状態を確認するためだ。 豚の飼育状況は所定の用紙に記入して、月に一回、町にある事務所に、FAXで送るだけである。 ビル貸し業など、他の商売もやっているようだ。長年勤めている安さんにも、実体はよく分からない。 二章(ビートンの処分) 二人は夕食のテーブルに着いている。安さんが作ったカレーだ。安さんはビール、啓介はサイダーを飲みながら、スプーンを口に運んでいる。 「ビートンは相変わらずですね」 啓介が話題を振る。安さんは黙々、食べ続けるだけで、乗ってこない。本心は焦っている。出荷日が三日後に迫っているのだ。問題はビートンだと安さんも考えている。 痩せこけた姿をみたら、金良のダミ声で、 「お前ら、何やっとんじゃ」と怒鳴るに決まっている。それだけで済むならいい。解雇の可能性もある。若い啓介には他の仕事が見つかるだろうが、安さんの歳では、転職は厳しい。 食事が済んで、タバコを一服した後、口を開いた。 「何とかせな、あかんな」 啓介は、安さんの眉間にしわを寄せた顔をじっと見つめている。 「処分するしかあれへんやろな」 「どうするんですか」 「つぶして、食べるんや」 「あんなに痩せた奴、食えますかね」 「内臓は煮込みにして、他は丸焼きやな」 「尻の穴から棒を突っ込んで、口まで通し、 焚き火であぶってな。焼けたところから切り取り、タレを付けて食うんや。旨いで」 トンたちは眠るのが早い。この時間には、全匹が眠っている。一匹だけ、二人の話に聞き耳を立てている奴がいた。ビートンである。真っ青になり、体全体を震わせている。 今日は、啓介の休日である。生活に必用なものは、車で町まで買出しに行く。片道で一時間ほど掛かる。昼前に、買い物を済ませた後、ゲームセンターで日々の憂さを晴らす。常連とも、顔見知りになっている。 「よう、啓介。調子はどうだい」 髪を左右半分、黄色と青に染め、両耳にピアス、腰パンの良太が声を掛けてくる。 「ぼちぼち」適当に受け流し、いつもの台に腰掛ける。 ゲームを始めて、一五分程で、席を立った。 「早いな」 「寝不足で気が乗らん」 帰ってきたとき、安さんはダイニングルームのテーブルに腰掛けて、ラジオを聴いていた。 安さんには、休日がない。啓介の休日には、ビールを昼と、三時の休憩に一缶、夕食のときに二缶飲む。ビール党である。タバコも吸う。啓介は、アルコールもタバコも体質に合わない。年中、サイダーばっかり、飲んでいる。 車から、ダンボール箱を室内に運び込んだ。 大型冷蔵庫や、所定の場所に収める。寝不足なのか、動きが鈍い。安さんは手伝わない。休日をもらえる啓介の仕事だと割り切っている。 「早よ、ご飯を作ってくれへんかのう」 帰ってきたばかりの啓介に催促する。 「すぐに、やりますよ」 炊飯器に残っているご飯と、買ってきたばかりのニラとハムで、焼き飯を作った。食器棚から取り出した皿をキッチンの台に、スプーンをテーブルの上に置く。フライパンから、しゃもじで焼き飯を皿に盛る。 「ワシは、そんなにいらん」 安さんの食事の量はいつも控えめだ。その分が啓介の皿に乗る。啓介もテーブルに着き、両手を合わせる。 「いただきます」 いつもより、ゆっくり食べている。 「どうしたんや。顔が眠っているぞ」 「四時頃まで、ゲームやっていたんで」 安さんは呆れた表情で、冷蔵庫にビールを取りに、腰を上げる。食器棚から取り出したグラスに、ビールを満たす。じっくり、飲みながら、焼き飯をスプーンで口に運ぶ。 食事が済んだ。片付けも啓介の役割だ。料理と食事に使った全ての物を洗う。フライパンは壁のフックに吊り下げ、その他の者は平たい籠に入れて乾かす。 啓介はテーブルに座って、サイダーを飲む。 安さんはタバコを吸っている。 「いつ、やります」 「今夜。二時頃やったら、ぐっすり寝てるやろな。静かに近付いて、喉を掻っ切るんや」 「誰がやるんです」「決まっているやろが」 一瞬、啓介の表情が固まった。啓介は、この仕事に入って一年目である。 面接のとき、「豚を育てるだけでいい」と金良は言った。コンビニの店員をしていた啓介は、うんざりしていた。 客が出入りする度に、「ラッシャイマセー」 「アリガタヤシター」という挨拶。夜間には、酔っ払いの客が入ってくる。絡んだり、ゲロを吐く客もいる。 テーブルに居座った女子高生のうざったいチャットにも、神経がささくれた。 休憩時間に、求人誌で養豚場の募集を見たとき、これだと思った。仕事が終わると、店の外で携帯を掛けた。 「求人誌を見たのですが、未だ、募集をしていますか」「何歳かね」「二十二歳です」 養豚場勤務を希望する若者などいない。明日、事務所に、面接に来るように言われた。 アパートに帰ると、店に電話した。 「母が危篤なので、実家に帰ります。すみませんが、明日から二,三日、休ませて下さい」 翌日の午前中に、金良の事務所に行った。 同僚は一人のオッサン。相手をするのは豚だけ。しかも郊外。町の人間の群れから逃れたいと思っていた啓介には、ピッタリの職場だった。 翌日の午後、すいている時間に店に寄り、母の看病のためという理由で、辞表を出した。店長は、やる気のない啓介が自分から辞めたので、ほっとした。 「母の危篤か。姑息な手など、使いよって」 苦笑いした。啓介はアパートを引き払い、養豚場の宿舎に移った。 「大人になるための儀式や。避けては通らへんで」 安さんは、アマゾン川の奥に住む未開の部族の長老みたいな威厳のある顔付きで言った。 安さんの忠告で、啓介は覚悟を決めた。 「イエッサー、軍曹。苦しまないように、ひと裂きで、仕留めますよ」 三章(逃走) 二人の会話を聞いていたビートンは、恐怖のあまり、脱糞した。 「逃げなくちゃ」高鳴る心臓を深呼吸して、 落ち着かせた。 豚小屋は五つに分かれていて、番号が打たれている。一つの部屋に、二十匹が暮らしている。これ以上だと、ストレスが溜まって、発育が悪い。安さんの意見を取り入れている。 昼の餌が済むと、一部屋ずつ、外に出される。 その間に、豚小屋を掃除する。啓介の休日の日は、安さんの担当だ。 啓介はそのときは、外に出したトンを監視している。豚小屋の周囲は、有刺鉄線で囲まれている。 掃除が終わると、使い古したフライパンをハンマーで叩く。 豚小屋に戻れという合図だ。 ビートンの部屋は五番で最後である。夜更かしをした啓介はかなり、疲労している。 ビートンは部屋を出るとき、啓介の寝ぼけた 顔を見ていた。 『もしかしたら、ごまかせるかもしれない』 絶望の淵に立たされていたビートンの運命に、一筋の光が差し込んだ。藁(わら)をも掴む思いで、胸が高鳴った。 トン達は部屋を出ると、四方八方に散っていく。狭い部屋から、解放されるうれしさで、飛び跳ねている。 養豚場の前の広場は芝生に覆われている。裏側はギンナムなど、大人の膝の高さ程の雑草が茂っている草やぶである。 トンたちの遊び場所は、広場だけだ。草やぶに入ると、捜すのが不便だからである。そのために、広場の周囲は移動式の柵で囲んである。 柵を倒して、草やぶに行こうという奴は、ケツをフライパンで叩き、制裁を与える。その罰を繰り返すことで、草やぶに行こうとするトンはいなくなった。 ビートンは、飛び出すトンたちの群れに隠れて、柵の方に走っていった。やせて、小柄なビートンは、目立たない。柵に近付くと、右の前足を使って、柵を少しずらした。その隙間をすり抜けて、柵を戻し、一目散に草やぶに向かって駈けた。 眠気がピークに達していた啓介には、気付かない動きだった。豚小屋に戻す時間になった。啓介はフライパンをハンマーで叩く。 トンたちが豚小屋に戻り始める。全匹が戻ったとき、数え始める。一番から四番の部屋までは、きちんと二十匹いた。最後の五番の部屋になった。何度数えても、十九匹しかいない。 意識がもうろうとし、疲労が限界に達し、今にも倒れそうだ。豚小屋の掃除を終えた安さんは、ダイニングのテーブルに座って、ビールを飲んでいる。 「ご苦労さん。ちゃんと、戻ったか」 「いつもの通りです」 「疲れているようやな。ビールでも飲んで、寝たらええがな」 普段、アルコールを口にしない啓介も、さすがに、一缶だけ飲んだ。 「三時に、起こすけんな」 安さんの声に押されて、啓介は部屋に向かう。 安さんは豚小屋の見回りに出掛ける。全匹戻ったか、確認するためである。 五番の部屋で、一匹足りないことに気付いた。 ビートンだ。宿舎に戻り、啓介の部屋のドアをノックする。すっかり寝込んだ啓介は、目を覚まさない。 部屋の中に入り、ほっぺたをつねった。ようやく目を開ける。 「どう・・したんですか」 「ビートンがおらへん」 『やはり、そうか』起き抜けの頭に、あのときの意識が蘇る。 「捜しに行くぞ」安さんは啓介を責めない。 怒ると、若いもんはすぐに、辞めてしまうからだ。啓介はベッドから出て、外に飛び出た安さんの後を追いかける。 『おそらく、草やぶだ』安さんは一直線に向かった。柵が少しずれているところが見つかった。 「ここから、出たのか。あのくそがき」 柵をどけて、草やぶに向かう。草やぶは養豚場の広さの約二割を占める。 「この中にいるはずや」安さんは草やぶを前にして、つぶやいた。啓介も側で眺めている。 「どうして、今日、急に逃げ出したんやろな」 「もしかしたら、ビートンは人間の言葉が分るのかもしれません」 啓介は、以前から、ビートンが自分を見て、人間みたいな表情をするのを感じていた。 「そんな、アホな」 「たぶん、突然変異だと思います」 「何や、それ」 「まれに、親と違う奴が生まれるんすよ」 「そうやとすると、まさか、お前、雌トンとやったんとちゃうやろな」 「アホなこと、言わんといて下さい」 しばらく、草やぶを見つめていた安さんの顔が輝いた。 「ええことを思い付いたわ。あいつを芸能プロダクションに売り飛ばすんや。テレビに出演して、人気タレントになれば、ええ暮しが出来るはずや。 高級マンションに住み、専用のコックを雇って、残飯ではなくて旨い料理が食えるんやで」 「銭ゲバの金良さんが、黙っていませんよ」 「捕まえても、逃げられたことにしておけば、ええがな」 「どこに、隠すのですか」「お前の部屋や」 「ビートンと一緒に暮らすんですか」 「少しの間や。何か、芸でも教えておいてくれへんか。銭が入ったら、ナンボか廻したる。 今度の出荷が済んだら、ワシは辞めるけん。ビートンを連れて、おさらばじゃ」 安さんは一歩前に出て、大声で叫んだ。 「ビートン、取引きをしようやないか。 今の話を聞いていたはずや」 数分、沈黙が経過した。何の反応もない。 「取引を拒否するのかいな。そうなら、こっちにも考えがあるわい」 「啓介、石油タンク持ってこい」 風呂を沸かすボイラーの燃料は、石油を使っている。 小型のタンクは手提げ用で、ノズルが付いている。 啓介の腰の高さのコンクリートの台に、蛇口が付いたドラム缶が置いてある。 蛇口を開けて、タンクに満たした石油をボイラーに入れる。 石油は、業者が二か月に一回、補充にくる。 啓介がタンクを持ってきた。「草やぶに撒け」 二十分程、掛けて撒いた。満タンのタンクが空になった。 安さんがポケットから、タバコと百均のライターを取り出した。 タバコに火を点けると、一吸(いっぷく)した。 「反対側に廻れ。飛び出してくるはずや」 啓介が着いたのを見計らって、吸いかけの  タバコを放り投げた。 炎が円周上を走っていく。一週すると、内側に向かって、円を埋めていく。 安さんは、ビートンが飛び出してくるのを見張っているが、成果はない。 「おーい、啓介。そっちはどうだ」 「出てきませーん」大声が返ってくる。 草やぶが全て焼けて、こげ野原になった。 「穴に潜り込んでいるかもしれへん」手分けして、捜し始める。見つからない。 「どこへ、消えたんや」 草の焦げで真っ黒な手になった啓介が近寄ってくる。 「どこにも、いません」 安さんも焦げにまみれた腕を組んで、目を瞑(つぶ)り、何かを考えている。啓介は安さんの様子を見て、一瞬、表情が硬くなった。 「引き上げよか」目を開いた安さんが、拍子の抜けるような声で言った。 翌朝の朝食後、安さんが神妙な表情で切り出した。 「明日、金良さんが来よる。その前に、はっきりさせておきたいことがあるんや。お前はもう、辞めた方がええ」 啓介の表情に驚きが走った。「ど、どうしてですか」 「わいは、知っとるんやで。お前がビートンを逃がしたんや。昨夜、わざと朝方まで、ゲームをやり.寝不足になる。 トン達を外に出したとき、ビートンは草やぶには入らずに、林の方へ逃げたんや。 林の中に入り込まれたら、捜すのは無理や。草やぶみたいに焼くこともできへん。 計画を吹き込んだのは、お前や。小屋に戻したときに、一匹足りないのは当たり前や。 お前は寝不足のせいにして、二十匹いると、 ワシに嘘の報告をした。どうや、図星やろ。ワシをなめたらあかんで」 啓介の顔は引き攣っている。しばらく経って、 口を開いた。 「すみませんでした。安さんの言う通りです。 だけど、安さん、僕の話を聞いて下さい。 ビートンは普通の豚ではないのです。 人間の心を持っています。ここに来たとき、すぐに気付きました。ビートンは特殊な言葉を話します。 僕には、それが理解できます。潰して食べると聞いたとき、逃がすことを決意しました。 申し訳ありません。金良さんが来たとき、辞表を出します」 安さんの表情が、親が子供を見るように柔らかくなった。 「啓介は優しすぎるんやな。保育園か学童保育とか、子供相手の仕事が向いていると思うわ」 「すみません」啓介の目から、涙がこぼれた。 四章 (清和の過去)  ビートンは林の中を必死に走っていた。小枝に引っ掛かり、体じゅうに擦り傷が出来ている。 林の中が全く安全とは言えないと啓介が話していた。いろんな獣や、毒虫がいるのだ。 草やぶに隠れていれば、内緒で、餌の残飯を 持ってきてやるとも言った。 しかし、養豚場から逃げたかった。何かが、そうさせているとしか思えない。 目の前に草原が見えたとき、どっと疲れが出て倒れ込んだ。 草原に出ると人目に付く。しばらく、様子を見ようと、木陰でじっとして内に眠り込んでしまった。 草原に、教会の牧師である大村が子供たちを連れて、遊びにきている。 子供たちは四歳から六歳の十名で、男女半々である。全員、母子家庭で、複雑な家庭事情を抱えている。 母親たちは、一週間に、一回しか会いに来ない。気分転換に、月に一度、外に連れ出す。予算が足りないから、お金の掛からない所を選ぶ。 何もない草原でも、子供たちは大喜びだ。 走り廻ったり、追いかけっこしたり、じゃれあいながら、やってくる。 いつものように、ドッジボールやサッカーを楽しむ。 一時間ほど遊んだ後、ランチタイムになった。 バスケットの中には、サンドゥイッチとプラスチックのコップが入っている。 二本の水筒は、冷たい紅茶で満たされている。 サンドゥイッチは信者の一人の主婦が作ってくれて、朝早く届けてくれた。 紅茶は大村が自分で作った。子供たちは各自で、コップに紅茶を注ぎ、サンドイッチを手にする。 すぐには、飲食しない。ルールがあるのだ。 ファーザー(子供たちは、そう呼んでいる)のスピーチの後だ。 「皆、このサンドイッチは、エツコおばさん が心を込めて作ってくれたものです。お礼を言いましょう。エツコおばさんありがとう」 「エツコおばさんありがとう」子供たちが繰り返す。 大村は、この子供たちと母親には、神様や聖書の話をしない。 面倒を見ているから、入信しなさいと思われるのが嫌なのだ。 信仰は、押しつけるものではないと考えている。 大村の名は清和(きよかず)という。清和が高一のとき、父親の経営していた電気店が倒産した。 ヤミ金にも手を出していた父親は、清和と母親を残して姿を消した。 残された二人も、ヤミ金の追手(おって)から、逃げた。 見知らぬ町で、安いマンスリー・マンションを借りた。 母親は求人誌で見つけたスナックで、働き始めた。 学校を辞めていた清和は、フリーターとして、短期のバイトを転々とした。 その内に、収入の高いヤクの売人になった。 やがて、ヤクの取り締まり元の準構成員に誘われ、入会した。 幹部からヤミ金の取り立て人になる指示が出た。 その頃には、高級マンションに住んでいた。 母親はアル中になり、仕事もせず、寝る以外は、酒浸りになっている。 ヤミ金の取り立てで成果を出し、正式な構成員になった。 取り立ては、鬼にならないと出来ない。払えない場合、債務者の娘や妻を売春婦にさせることもある。 最悪なケースは一家心中だ。元々、根の優しい清和の心が、次第にむしばれてきた。 酒に逃げ、母親と同じようにアル中になった。 仕事にも行かず、部屋に閉じこもって、酒に溺れた。 ある日、幹部が来た。「お前を破門する」と告げた。 辛苦から解放された清和は、アル中から立ち直った。 ぼろぼろになっていた母親を病院に入院させたが、一週間後に亡くなった。 気が付くと、近くにある教会の前に立っていた。 中から年老いた牧師が出てきて、清和に言った。「迷える子羊よ、主に全てを託しなさい」 清和は頷き、牧師に付いて教会の中に入った。 三年後、老牧師は亡くなり、清和が教会の責任者になった。 五章(魂の解放) 旨そうな匂いで、目が覚めた。立ち上がって よろよろと、子供たちの方へ歩き始める。 「子豚ちゃんがこっちへ来る」子供たちが騒ぎ出した。 ビートンは、バスケットの中に鼻を突っ込んだが、何も無い。 『ク~ン、ク~ン。おなかがへったよ~』 清和は半分だけ食べたサンドゥイッチを掌に乗せて、ビートンの前に出した。 パクっと咥(くわ)えると、ムシャと、一口咬んで飲み込んだ。 三年間も我慢してきた空腹を満たすには、あまりにも少なすぎる。 子供たちが次々と、食べかけのサンドゥイッチを差し出す。 ビートンがペロペロと平らげていく。「フウ、旨い」ようやく落ち着いた。 清和は子供たちがやったことに感激している。 「皆、優しいな。君たちも、おなかすいていたのに」 「だって、このトンちゃん、とても腹ペコみたいだもん」 『イエス様の御心は、ちゃんと伝わっている』 人は愛情に満たされると、動物さえにも優しくなるのだと思った。 満足しているビートンをよく見たとき、はっと、何かを感じた。 「このトンちゃんを連れて帰ります。お友だちになって下さい。名前はビートンにします」 「ワアー、やったー」うれしさのあまり、飛び跳ねる子供たち。 ビートンも子供たちの間を走り廻っている。 ビートンに犬小屋を住処(すみか)として与えられた。信者から、もらったものである。 教会の庭の片隅に置かれた。出入口には、分厚い布のカーテンが取り付けられている。 雨風を防ぎ、プライベ-トも保たれている。 ビートンは、この住処をとても気にいった。 ビートンが来てから、三日目の午前二時、清和が犬小屋の前に立っている。 「ビートン、起きなさい」目覚めたビートンは犬小屋を出て、不思議な表情で清和を見つめた。 「私の後から、付いてきなさい」清和と一緒に教会の中に入った。 祭壇の中央に、キリストの像が掛けられている。 清和は祭壇の前に膝を着き、両手を胸の前に 合わせる。 ビートンは傍らで、お尻を着いて座っている。 「主よ、この子豚に囚われている魂を解放して下さい」 キリストの像に向かって祈りを捧げる。 ビートンも厳かな表情で、キリストを見つめている。 清和は目を閉じ、トランス状態に入っている。 祈りの波動が教会内を満たし、壁が小刻みに振動している。 突然、ビートンが口から泡を吹いて倒れた。 仰向けになって、四本の脚をバタバタ動かしている。 キリストの像の右手の親指がピクリと動いた。 その瞬間、『ブギャー』という鳴き声を上げて、 ビートンが激しく痙攣した。 口から、透明な風船(ふうせん)のようなものが出てきた。 風船は舞い上がり、ステンドグラスを透り抜けて、闇夜の彼方に消えていった。清和が、トランス状態から覚めた。 「主よ、天にまします我が父よ。感謝致します。アーメン」 ビートンは気を失ったまま、ぐたっとしている。 清和が体をさすった。頭をクイと上げて、目を覚まし、何事もなかったように立ち上がる。 ブーブー鳴きながら、通路をうろ々している。 「ビートン、小屋に戻ろう」 清和はビートンをだっこして、ドアを開け、外へ出た。 そのまま、住処まで行って、中に降ろしてあげた。『ク~ン』ビートンは甘えて鳴いた。 『何とかうまくいった』疲労困憊になった体を引きずりながら、部屋に帰って寝た。 六章 (博の目覚め) 県立病院の第二病棟、三階の一室。四人の患者がベッドで寝ている。 三人は老人で、半植物人である。一人は近藤博という小四の男子で、全く意識がない。 三年前、近所に住む同じ小一の政彦と学校から帰宅中、突然倒れ、意識不明になった。 通りがかりの人が救急車を呼んでくれた。 政彦も一緒に乗るように、隊員に言われた。 隊員は政彦に、博が倒れたときの様子に加えて姓名、学年と組、担任と学校名を聞いた。 もう一人の隊員は、博の血圧、脈拍などを調べている。 搬送先の病院が決まると、隊員は本部に連絡した。 本部から、学校に連絡する。職員室にいた担任が、博の家に電話を掛けた。 電話に出た母親の美佐子は事情を聞くと、病院に車で駆けつけた。 博はICU(緊急治療室)で精密検査を受けている。 病院に着いた美佐子は、ICUの前にある長椅子に座わり、悲壮な顔で待った。 電光板に赤い文字で、「只今、スタッフ以外、入室出来ません」という表示が出ている。 ICUから、医者と看護士が出てきた。美佐子が詰め寄る。 「ひ、ひろしは大丈夫ですか」顔を引きつらせて、医者に尋ねる。 「生命機能に異常はありません。只、意識がない状態が続いています」 医者を見つめ返す美佐子。「会わせてもらえますか」「よろしいです」 医者に続いて、中に入る。ベッドに横たわっている息子に目が行った。 生命機能の状態を測定する三本のコードの吸盤が、体の各部に取り付けられている。 コードは三台のモニターに繋がっており、それぞれが生命機能のグラフを表示している。 「心電図、脳波、脈拍です」医者が指差しながら説明する。 「脳波のグラフだけが、直線になっていまよね。意識が無い状態を示しています」 美佐子は医者の説明をうつろに聞いた後、博に顔を近づけた。 「博、おかあさんよ!目を覚まして!お願いだから!」 美佐子の呼び掛けにも反応しない。すや々と眠っている感じだ。 美佐子は顔を上げて、医者に尋ねた。「先生、原因は分らないのですか」 「アラユルケンサヲシマシタガ、ゲンジテンデハワカリマセン。シバラク、ヨウスヲミルシカナイデスネ」 取り乱した美佐子には、医者の言葉がロボットが話す金属的な合成音に聞こえる。 看護士が椅子を持ってきてくれた。美佐子は腰掛けて、息子をじっと見ている。 医者と看護士は、すでに引き上げている。 博の父親は、博が五歳のとき、心臓麻痺で亡くなった。過労死である。 美佐子は、夫が残した生命保険とパートで生計を立てている。 夫の急死に続き、一人息子の博まで、こういう状態になって、発狂寸前になっている。 三時間後、女性の看護士が入ってきた。 「すこし休まれては。休憩室がありますから」 美佐子は、やつれた表情で、首を横に振る。 看護士は、仕方がないという表情を見せると、 立ち去った。 美佐子は宗教を信じていない。夫が亡くなったとき、知人にキリスト教の教会に誘われた。 日曜の礼拝に参加した後、牧師に入会を勧められたが、断った。 その牧師は、バラクという名前の外人で不快な感じを受けた。 今は違う。博が回復するなら、どんな神でも、仏でもすがろうと思った。 組織に縛られることを嫌う美佐子は、般若心経を一日、千回唱えることを始める。 病院では、呟く程度に抑えている。そんな美佐子を、医者や看護士は憐れに思った。 一年経ち、二年の月日が流れた。医者や看護士は、博の回復をすでに諦めている。 三年経ったある日、博が回復する夢を見た。 目を覚まして、時計を見ると、午前二時半である。 急いで着替え、病院に向かった。面会時間は午前一0時から、午後の八時までと規則がある。 止める看護士に振り切って、病室に向かう。 博のベッドにすがり付き、般若心経を唱え続ける。 三十分ほど経ったとき、透明な風船のようなものが、窓ガラスを通過してフワフワと入ってきた。 目を閉じて唱えている美佐子は、それに気が付かない。 風船が、博の鼻から入った。博の体がブルっと震え、目が開く。 「お、か、あ、さ、ん」という声が聞こえた。 博の声だ。美佐子は読経を止め、目を開けた。 博が自分を見つめている。 「ひ、ろ、ひろし」泣き叫びながら、息子にしがみ付く。 一階のセンター室の一つのモニターが、警笛を鳴らした。看護士がモニターのグラフを観る。 「先生、博君の脳波が正常に戻っています」 医者と看護士が病室に駆けつける。ドアを開けると、母親が泣きながら、息子の頭を撫でているのが目に入った。 博は退院して、家に戻った。ビートンの中にいたことを母親に話した。 美佐子は博の言うことを信じた。釈尊に祈って、博が回復したことは紛れもない事実だからだ。 世の中には、現在の科学では、解明できないことがあることを確信した。 般若心経で、この世界の真理を説いた釈尊に深く感謝し、帰依することを誓った。 七章(シモンとバラク) 教会では、子供たちが騒いでいた。ビートンがいなくなったからだ。 「ファーザー、ビートンはどこへ行ったの」 その質問は、清和の良心を槍のように突き刺した。 「分からない。今朝、小屋を見たら、いなくなっていたのです」 清和は罪の意識を感じていた。いくら、やりくりが苦しいからといえ、子供たちの気持ちを裏切ったのである。 三ヶ月前、同じ町に新しい教会が出来た。同じプロテスタントの宗派である。名前は白バラ教会という。 清和は牧師の資格を持っていない。前の老牧師バラクはルーマニア出身である。 資格を持ち、プロテスタントの日本支部から、 この町に教会を立てる認定を受けていた。 バラクが急死したので、清和が後を継いだのである。 日本支部は、清和に資格を取ることを警告してきた。そのためには、神学の専門学校に二年間通わなければならない。その費用すらなかった。 バラクに教わった指導で、運営してきたのである。 何とかやってこれたのは、清和の人柄を信者たちが信用したからだ。 白バラ教会は大きな三階建てのビルで、外観もきらびやかである。 シモンというフランス人の牧師と五人の日本人のシスターもいる。 白バラ教会に移る信者が徐々に増えてきた。 教会の運営は、信者からの寄付と支部からの 援助で成り立っている。 清和の教会は、信者からの寄付だけである。 次第に、運営が苦しくなってきた。 エリー教会という。信者の話では、エリーはバラク牧師の育て子で、清和が入会する半年前、ルーマニアにいるバラク牧師の娘夫婦に養子として、引き取られたらしい。 同じ町に住む、豚をペットにしている金持ちのK氏が、エリー教会を訪れた。 ビートンの噂を聞いたK氏は、ビートンを譲ってくれと清和に頼んだ。 清和は即座に断った。子供たちとビートンが 大の仲良しで、一緒に遊んでいるからだ。 K氏は諦め切れずに、何回も訪れて、懇願した。三百万円を出すという。 K氏が来る度に、ビートンのオツムの中に、メッセージが流れてきた。 「この男は豚肉愛好者だ。あなたを食べたがっている」 ビートンは恐怖の余り、小屋の中で脱糞した。 普通は、外にある洗面器にやる。その糞は 肥料として、庭の菜園の土に混ぜられる。 清和はその度に、ビートンに注意した。 「ビートン、ちゃんと洗面器にやりなさい」 ビートンは清和に、K氏の本性をブーブーと訴えたが、伝わらない。 増々、苦しくなる資金繰り。悩みに悩んだ結果、承諾することを決めた。 七回目に来たとき、信者相手に悩みを聞いていた。中断して、K氏と外で話を着けた。 承諾を伝えた。子供たちに気付かれないために、夜中の二時に引き取りに來るように頼んだ。 K氏は、お金はそのとき、持ってくると言って、引き上げた。 ビートンは小屋の中で、寝ている振りをして、二人の話を聞いていた。 その夜の0時。ビートンは小屋を抜け出し、 逃げた。行先は分からない。 教会から遠いところに向かって走り続けた。 白バラ教会は、子供たちを引き取ってもよいと、清和に伝えていた。 それを知った親たちは、心が動いた。白バラ教会は資金が豊富で、待遇も良い。 子供たちが嫌がった。「ファーザーと一緒にいたい」全員が泣き出した。 清和は子供たちと一緒に、白バラ教会に移ることも考えた。 バラク牧師から引き受けた、このエリー教会にも未練があった。 夜の十時、キリストの前で膝を着き、両手を合わせて祈った。 「主よ。私は子供たちの気持ちを裏切りました。この罪人をお許し下さい。また、白バラ教会に移るべきでしょうか。教えて下さい」 沈黙が通り過ぎた後、頭な中に、メッセージが入ってきた。 「明日、シモンが来ます。彼はアブラハムのように、信頼の於ける人です」 清和には、その意味を計りかねた。なぜ、信頼の於ける人だと告げるのか。 主の考えは人知を超えると思い直して、十字を切り、キリストの像に頭を下げた。 「この迷える子羊をお導き下さい」と祈り、 部屋に引き上げた。 翌日の午後過ぎ、バッグを片手に持ったシモン牧師がやってきた。私は礼拝堂で待っていた。 「今日は、清和さん」ドアを開けて私を見ると、流暢な日本語であいさつした。 「どうぞ、こちらへお掛け下さい」 礼拝堂の隅にあるテーブルに向かい合って座った。 「日本語が上手ですね」 「来日してから、五年にもなりますからね」 気さくな人柄だと感じた。昨夜のメッセージが本当だと分かった。この人なら、信頼できると思った。 「ところで、今日のご用は何でしょうか」 「子供たちと一緒に、白バラ教会に移ってもらえませんか」 「お気持ちは有難いのですが、この教会は私の恩師であるバラク牧師から、引き継いだものです。閉鎖することは出来ません」 「そのバラクのことですが、昨夜、主からメッセージを受けたのです。彼は、ある悪魔と契約を交わしています」 「え!」私は驚き、今にも月が地球に落下してくるようなショックを受けた。 シモンが嘘を付くとは思えなかった。 「あなたがここへ來る半年前です。心の隙を突かれたのでしょう。 バラクは自縛霊になって、ここの地下におり、災いをもたらしています」 K氏の訪れや、ビートンが逃げ出したことを思い浮かべた。 ビートンの逃亡はK氏と関係あると、感じていた。 信者から、K氏は豚のペットなど、飼っていないと聞いたからだ。 「どうして、自縛霊になったのでしょうか」 「この世に執着心を持っているか、くだんの悪魔に操られているか、どちらかですね」 「それで、どうしたいのですか」 「バラクを除霊します」シモンは、主婦が卵焼きを作るような自信のある表情で応えた。 「危険なので、子供たちを礼拝堂に集めて下さい」「分かりました」 外で遊んでいる者や、子供部屋にいる者に声を掛けて、一か所に集めた。 「これから、シモンさんが悪魔の手下を退治します。ここから、動かないで下さい。怖かったら、神様に祈って下さい」 全員の顔を見て、言い聞かせた。子供たちは、こくりと頷いた。 シモンはバッグから、聖書と縦が三十センチ、横が二十センチの十字架と霊水を満たした ポットを取り出して.テーブルの上に置いた。 ポットの蓋を開ける。左手に十字架を持ち、右手を聖書の上に置く。呪文を歌い始める。 ギリシャ語のようだ。ときどき、霊水を右手ですくい、周囲に振り撒く。 十数分経った頃、通路の中央辺りに,闇の塊が現れた。 「姿を現せ、バラクよ」 闇が消え、バラクの姿が浮かび上がった。 「お前は誰だ」「シモンだ。ヤウエという名の主に仕えている」 「なぜ、私を呼び出した」「お前を除霊するためだ」 「私は、ある方に頼まれてここにいる。それに、ここは私の教会だ。ここに居て何が悪い」 「バラクよ、よく聞け。人間は死すべき存在だ。お前は、その悪魔に騙されている。神の裁きを受け、地獄へ堕ちよ」 シモンはポットを両手で持って、全ての霊水をバラクに浴びせた。 バラクに何の変化も起こらない。 「お前の主(あるじ)もたいしたことないのう」 シモンの表情に焦りが出ている。最後の力を振り絞って、ギリシャ語の呪文を唱える。 バラクはあいかわらず、平然としている。 ついに、シモンがふらついて倒れた。 「フン」とあざけ笑いを見せ、勝ち誇るバラク。 そのとき、キリストの像の目から、一筋のまばゆい光がバラクに向かって放たれた。 当たった瞬間、「ギャー」という叫び声を上げ、バラクの姿が消え始める。 顔だけになったとき、ニヤっと笑った。 そして、全てが消えた。 清和がシモンに駆け寄る。「大丈夫ですか」 シモンが立ち上がって、清和の後ろを見たとき、顔が青ざめた。 清和が後ろを振り向くと、子供たちの姿が徐々に消え、数秒後に、完全に消え去った。 八章(アーモン) シリアの荒野にある地下の広場。数多くの黄金と宝石で満たされている。 宝石で装飾された玉座に座ったアーモンがいる。 アーモンは、古代シリア地域を支配する、富に執着する九階級の悪魔である。 「汝ら、神と富とに、兼事(かねつか)ふること能わず」マタイ伝六章一二四節より。 その前には、エリー教会の子供たちが、泣き疲れて座っている。「ファーザーのところに帰りたいよー」 アーモンは、子供たちを自分の奴隷にするつもりである。 「お前らは、永遠に、私の奴隷に奴隷になるのだ」貪欲さを表す笑みを浮かべている。 突然、広場の後方に、一人の男が現れた。 アーモンの顔が青ざめた。「あ、あなたは・・」 男はゆっくり、アーモンの方へ近寄っていく。 亜麻色の長い髪を肩まで垂らし、穏やかな表情をしている。周囲には、オーラが漂っている。 子供たちが、男の周囲に集まる。暖かいオーラに触れて、子供たちが活き活きとなった。 男は子供たちを後ろに下げて、アーモンの前に立った。 「お前をあそこから出してあげたのは、間違いであった。富に執着するのは構わない。 しかし、罪のない子供たちまで、奴隷にするのは許せない。地獄まで送り返してやる」 「ヒエー!お助けを。二度としません。ここにある全ての宝を差し上げます」 アーモンは膝まずき、額を地に擦り付けて懇願した。 「お前は何も分かっていない。私には、いかなる富も栄華も権力も価値がない。それゆえ、父は私に全てを委ねたのだ」 男がガリラヤ語で呪文を唱えると、アーモンが居る地底の面に、ぽっかりと穴が空いた。 アーモンは断末魔の叫びを上げながら落ちていった。叫び声が消えると穴は塞がった。 子供たちは目を丸くして見ていたが.恐怖は感じなかった。 男に大きな愛で包まれていることを分かっているからだ。 「清和さんのところに帰ろうか」「わ~い」 子供たちの表情が輝いた。男と子供たちの姿が消えた。 男と子供たちが、礼拝堂の中に現れた。男はいない。 清和はキリストの像に、子供たちの安否を 祈っていた。 「ファーザー」子供たちの声に、後ろを振り向いた。 清和の目から、涙がこぼれた。駆け寄り、一人々を抱きしめた。子供たちも泣いている。 気を取り直した清和が、男に尋ねた。 「すみません。子供たちを助けてくれて、感謝致します。ところで、あなたは、どちら様 ですか」 男は、しばらくの間、考えていたが、ようやく、決心して、語った。 「私は、キリストの兄です。しかし、父が、弟のナザルを可愛がっているため、表に出ないようにしています」 「そうなんですか・・」清和は、初めて知った事実に、驚きを隠せなかった。 「このことは、誰にも話さないで下さい」 「分かりました。安心して下さい」 「それでは、私は、天に帰ります。また、困ったことが、起きたら、助けにきます」 「有難う御座います。このお礼は、何て言ったら、いいのか分かりません」 「お礼など、必要ありません。人間を救うために、父は、私をこの世に、送られたのです」 清和は、その言葉を聞いて、感動の余り、心 が震えた。 エリー教会は閉鎖された。清和と子供たちは、白バラ教会に移った。 九章前半(ビートンと美佐子の出会い)  美佐子は残業で仕事が帰宅が遅くなった。 博には、携帯で連絡を入れてある。 夕食のオムライスは作って、冷蔵庫に入れてある。レンジでチーンして、食べるように。 誰が来てもドアを開けないように。息子の安全には、敏感になっている。 超自然現象より現実社界の方が、はるかに恐ろしいのだ。 午後の八時になっている。初冬にもなると、日のくれるのが早い。 車のヘッドライトを点けて、走っている。 県道から、自宅がある方向の道路へ、ハンドルを切った。 十五分ほど進んだとき、左側にある閉店した 書店の前に、白い犬のようなものが見えた。 今までなら、のら犬など無視する。美佐子の脳裏にビートンが浮かんだ。 「もしかしたら」車を左サイドに止めた。 車から降りて、白い動物に近付く。やはり、犬ではなくて、子豚だった。 体がかなり汚れている。前足の上に頭を乗せて、ぐったりと寝ているようだ。 「ビートン」と呼びかけた。耳をピクっとさえて、目を開けた。頭を上げて、美佐子をじっと見ている。 「ビートンでしょ。博のお母さんよ」 「く~ん」と鳴いた。「やっぱり、そうだわ」 連れて帰ることにした。だっこして、助手席に乗せた。博に携帯する。 「博、ビートンを見つけたわ。車が着いたら、外へ出てきてちょうだい」 「え!ホントなの!分かった」 興奮した声が弾(はず)んでいる。車が着くと、博が飛び出てきて、助手席のドアを開ける。 ビートンが博を見る。「ク~ン」嬉しそうな顔をする。 博はビートンをだっこして車から出し、抱きしめる。「元気だったか」 「シャワーで体を洗ってあげて」「OK」 車庫に車を入れると、家に入り、普段着に着替えた。 ビートンと自分の夕食のおかずを作った。牛肉とピーマンを炒めたものだ。 博が、バスタオルにビートンを包んで、風呂場から出てきた。 すっかり、きれいになって、気持ちよさそうな顔をしている。 「夕食にしようか。博も食べる?」「おかずだけなら」 ビートンには、ボール丼だ。ボールにご飯を入れる。その上におかずを乗せて混ぜたものだ。 キッチンの床の上に置き、そこで食べてもらう。二人は、テーブルに座って食べ始める。 かなり、おなかが空いていたらしい。すぐに、全部、平らげてしまった。 「僕の半分を上げて。さっき、オムライスを食べたから、そんなに要らない」 ボールにごはんを追加し、博の皿から半分だけ、おかずをよそおい、混ぜた。 ビートンの前に置く。すぐに、ペロリと食べ尽くす。少しは、落ち着いたようだ。 九章後半(新しい家族) 食事が済んだ後、色々尋ねた。博の言うことは、分かっているようだが、上手く応えることが出来ないようだ。 「おそらく、トンになったばかりだから、上手く話せないかも。人間で言うと、赤ちゃんくらいかな」 美佐子は感心した。例えが上手い。中学生並みの表現だ。 「ビートンに、誰かの魂が入っているのは本当だよ」 経験者の博が言うから、間違いない。その経験が息子を成長させたと思った。 「話せるまで、うちに居てもらおうか。どうするかは、その後に決めようね」 「ほんと!よかった」博が笑顔になった。 就寝の時間になった。キッチンの床に座布団を置いて、その上にうずくまった。上から、毛布を掛けてあげた。 夜中の0時。ビートンは夢を見ていた。あの悪魔が、地獄に堕ちていく夢だ。 地獄に墜ちると、念波が遮断される。ビートンが呪いから解放された。 ビートンの体がけいれんした。体が熱くなり、毛布を蹴飛ばす。 体の各部が変形し始める。徐々に、人間の体に造られていく。 髪の毛も生えてきた。皮膚も人間のものになっていく。ついに、小さな女の子の姿になった。 「おかあさん」という声が聞こえた。美佐子は夢だと思った。 もう一度、「おかあさん」と呼んでいる。確かに聞こえる。 立ち上がって、蛍光灯の紐を引っ張る。寝室の部屋に明るくなる。 キッチンのある部屋に、毛布を被った女の子が立っている。 美佐子は驚いた。「博、起きて」息子の体を揺さぶる。 「どうしたの」「あそこを見て」 博は寝ぼけ顔で女の子を見ると、「やっぱり、そうか」と言った。 「どういうこと」「本人から、聞いた方がいいよ」 キッチンの部屋のライトも点けた。女の子の顔立ちがはっきり見えた。 不安そうな表情をしている。美佐子は、博の下着、ズボン、シャツを持ってきた。 「とりあえず、これを着なさい」 女の子は、博をじっと見た。「分った。後ろを向いとくよ」 女の子が服を着ると、三人はテーブルに着いた。 表情は、まだ硬い。過な経験をしたに違いないと、美佐子は思った。 美佐子は、我が子を見るように視線を注いだ。 「大丈夫よ。何も怖いことは無いからね」 表情が少し和らいだ。美佐子のいたわりの気持ちを感じているようだ。 「暖かいココアを作ってあげようね」電機ポットに水を入れ、スイッチを入れた。 マグカップを三つ取り出し、テーブルの上に置く。 ココアの袋から、スプーンで二杯ずつ入れる。お湯を注いでいく。 「飲みなさい。暖まるわよ」 女の子は促されて、一口飲んだ。表情が少し、落ち着いた。 博と美佐子も口を付け、ココアの甘さに酔っている。 「お名前を教えてくれる」美佐子が優しく尋ねる。 「エリー」下を向いて、小さな声で応える。 「何歳なの」女の子はしばらく考えた後、口を開いた。 「あのときは、小六だったけど、今は分かんない・・」まだ、声が弱々しい。 「おそらく、中三くらいじゃないかな」博が口を挟んだ。 「どうして分かるの」美佐子が博の顔を見る。 「僕がビートンに入ったのは小一のときで、今、小四でしょう。僕の魂はビートンが生まれたときに、入ったんだよ。 豚は受精してから、半年程で生まれるから、 小六に三年を足して、そのくらいだと思う」 博は目覚めた後、図書館からいろんな本を借りて読んでいる。 「どうして、豚なんかに・・」 美佐子がつぶやいたとき、エリーの表情が引きつった。 こらえている内に、いきなり両手で顔を覆って「わー」と泣き出した。 エリーの興奮が収まるのを待って、博の説明が始まった。 「悪魔の仕業だよ」「悪魔って、実際にいるの」 美佐子が尋ねる。 「もちろん。僕の魂をビートンに入れた奴と同じにちがいない」 「アーマンです」エリーが憎しみを込めた表情で言った。 それから、彼女は世にも奇妙な、恐ろしい経験を二人に話し始めた。 エリーはバラクの教会で育った。バラクは、ルーマニア出身の牧師である。バラクの話では、門の前に小さな籠に入った赤ちゃんが捨てられていたらしい。 独身のバラクは、赤ちゃんにエリーと名付けて養子にした。 エリーはバラクの愛情を受けて、すく々と育った。 小六になった頃には、母子家庭の十人の子供も預かっていた。 しかし、小さな教会は信者数が少なく、やりくりに苦労していた。 次第に、厳しい経営難に追い込まれていった。 ついに、バラクはある決心をする。 ある夜半の二時頃、エリーがトイレに行った帰り、バラクの部屋から、話し声が聞こえてきた。 エリーは不信に思い、鍵穴に耳を当てて、盗み聞きした。 「なにやら、経営に困っているようだな」 「信者数も、寄付の額も少ない。その上、 十人の子供も預かっているのです」 「日本支部からの手当てはないのか」 「信者数に比例するから、雀の涙ほどの額で、とても足りません」 「せこいな。困った人を救うのが、キリスト教の教えじゃないのか」 「昔はそうだったけど、今は金の世の中になってしまっているのです」 「そのことは俺が一番よく知っている。それで、俺様に何の用だ」 「少し、お金を貸してもらえないかと」 「腐るほど持っているが、只ではあかん」 「上げるものと言っても、何もないですけど」 「お前が預かっている十人の子供が欲しい。 俺様の奴隷として、使いたい」 「仕方ない。いいでしょ。しかし、いなくなれば、母親たちには、どう説明すれば・・」 「その点は大丈夫だ。子供がいるという記憶を消しておく」 「私との契約は、何の意味があるんですの」 「お前は何も分かっていないな。悪魔でも、何でも勝手に出来ないの。 ちゃんと、手続きを踏む必要がある訳よ。勝手に出来たら、世の中、メチャクチャになってしまうじゃないか」 「なるほど。それが私との契約ということですね」 「その通りだ。それじゃ、この書類にサインしてくれ」 「住所と生年月日と、趣味とかも書きますか」 「そんなの、いらん。名前だけでいい」 「それじゃ、名前の欄にバラクと書きますよ」 「ちょっと、待った。ペンはこれを使え。インクはお前の血だ」 アーモンは内ポケットから、鳥の羽のペンを取り出した。 「これはアンデス山脈の頂上にだけ生息しているジンガー鳥の羽だ」 「血はどこから?」「お前の舌を切り取る」 「ウヘー、そんなアホな」「冗談だ」 「びっくりした。痛くないところがいいんですけど・・」 「手を出せ」アーモンは、バラクの左手首を掴むと、掌を鋭い爪で引っ掻いた。 バラクは、滲みだした血をペン先に付けてサインした。 「これで、契約は完了した。どのくらい借りたい」 「できたら、金の延べ棒を一本、お願いしたいのですが」 「あんたな。子供の養育費も要らなくなる。何に、そんな大金を使うのか」 「キャバクラでも、行こうと。日本に来てから、仕事一筋だったので、息抜きしたいのです」 「分かった。明日持ってくる。そのとき、子供たちも連れていくぞ」 「分かりました」 「それから、こんなこと言いたくないけど、お前の口臭、クサイぞ。歯周病に罹っている。 それじゃ、信者が増える訳ないよ。歯科院に行って、治療しろ。一日に何回、歯磨きしているのか」 「寝る前に、一回だけですけど」 「だめだ。毎食後、おやつの後も、三分以内にしないと。歯間ブラシも使って、歯茎の根元の食べかすもクリーニングしなさい」 「分かりました。金が入ったら、歯科院に 行きますよ」 エリーは二人の話を聞いて、驚き、気を失っった。 その音を聞いた二人がドアを開けると、エリーが倒れていた。 「この女の子は誰だ」「私の養子のエリーです」 「まずいな。契約の話を聞かれてしまったらしい。契約は当事者以外に聞かれると、無効になってしまうのだ」 「エ~!かなり、まずい状況ですね」 「そういう決まりなんだ。それと、この子にも罰を与えねばならない」 「それは止めてくれ!」 「だめだ。ルールなんだ。ルールを破ると、俺様の魔力は衰えていく」 「罰って、何をするんですか」 「豚の胎児と、取り替える」 アーモンがエリーを抱いて、部屋の中に入れた。「ドアを閉めてくれ」バラクが閉める。 気を失ったままのエリーに向かって、呪文を唱え始める。古代シリア語だ。 十分ほど経つと、エリーの姿が消えた。代わりに豚の胎児が現れた。 「こいつは、番犬のケンタロウスに食わせる」 「エリーはどこへ行ったんですか」バラクは悲壮な表情で尋ねる。 「どこかの養豚場の妊娠している豚の子宮の中だ」 「私はどうなります」「お前は三年後に死ぬ。ここで、自縛霊になって、人間に災いを与え続けろ」 そう言うと、アーモンは姿を消した。バラクは、悪魔と関わりを持つと、ろくなことがないと悟った。 エリーは話し終えると、疲れたのか、口を閉ざした。 「そうだったのか。僕がビートンの中にいたとき、時々、別の魂を感じていたよ。それがエリーだったんだ」 「博の魂が解放されて、エリーの意識が表に出てきたんだね」美佐子が続ける。 「ねえ、エリー。もし、よかったら、私の養子にならない。あなたを見ていると、自分の娘のような気がするの」 「僕も、お姉ちゃんが欲しい」博も嬉しそうだ。 エリーは涙を流して、頷いた。美佐子は立ち上がり、エリーの傍に行った。 エリーを立たせて、力強く抱きしめた。エリーも美佐子を抱きしめる。 「おかあさん」「エリー」二人は泣き続けた。 み) 十章(サタンの言い分) 地獄に堕とされたアーモンが、空洞を歩いていくと、大きな広間に出た。 広間の奥は高台になっている。後ろは岩の壁である。 高台の中央に置かれた玉座に、サタンが座っている。 「よう、アーモン。お前は、反乱の罪を情状酌量で一年の牢獄に許されて、地上にいるんじゃなかったのか」 「それが、まあ、いろいろありまして」 「何か、悪さでもやったんやろ。ホンマのことを言え。相談に乗ってやるがな」 アーモンは、エリー教会で起きた騒動から、ガリラヤの男に地獄に落とされたことまで、いろいろ話した。 「子供に手を出したのは、まずかったな。 あの男は子供に悪さする奴には、容赦ないで。 本来なら、お前は灰にされてるはずや」 「ウへ~!コワ! しかし、地獄堕ちで済んだのは、なぜだろ」 「お前の心に、エリーへの愛情が残っているからや」 「エリーには、悪いことしたなと思ってます。 ところで、兄貴はカウンセラーになったら、繁盛するんじゃないですかね」 「ワシは地獄の大統領みたいなもんやで。いろんな仕事をこなさなあかんのや」 「そうですか。暇そうに見えますが。あ、そうそう。聞きたいことがあるんですよ」 「何やねん」 「エリー教会で、シモンがバラクに霊水をぶっかけたのに、全然、平気だったんすよ。どうしてですかね」 「バラクって、お前と契約しようとした奴か」 「そうです。結局はキリスト像の目から出た光線に焼かれて、灰になりましたがね」 「おそらく、シモンはヤウエのおやじから、 霊水をもらったと思う。 シモンはおやじの方を頼りにしているんや」 「おやじには、もう、力が無いということですか」 「人類が生まれて、二十万年は経っとる。 おやじは、今、養老院に入っているはずや。 そんなもうろくジジーに何が出来んねん」 「どうして、倅(せがれ)に頼まないのですかね」 「会社と同じよ。二代目をこの若造がと思っている重役がよくいるやろ」 「二代目は、先代派の連中と対立する、戦国時代にもよくあるパターンですね」 「そや。人間は、いつの時代でも、身内、国家、民族、部族、階級、宗教間で、争っているんや」 「兄貴は意外と学があるんですね。見直しましたよ」 「俺は元々、ヤウエおやじの第一の子分、まあ、専務みたいな地位だったんや」 「ふ~ん。なぜ、反乱を起こして、地獄の堕とされたんですか」 「そこや。よう聞いてくれた。ちょいと長い話になるが、聞いてくれや」 「お前、アダムとイブを知っとるか」 「そりゃ、知っていますよ。最初の人間でしょ」 「二人をそそのかして、禁断のリンゴの実を 食べさせた奴は、誰だか分かるか」 「もちろん。今、前にいる兄貴じゃないすか」 「それや。ワシが言いたいのは。デタラメの、嘘八百の、詐欺師顔負けの作り話のことなんや」 「事実と違うんですか。ちゃんと、旧約聖書という本に載っていますよ」 「その旧約聖書が、真っ赤な嘘の塊やねん」 「旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教,イスラム教の聖典ですよ。そんなこと言って、大丈夫ですかね」 「ワシを誰やと思っているんや。地獄の帝王、サタン様やで。文句があるなら、地獄に来いちゅうねん」 「まあ、落ち着いて下さい。兄貴とやりあえるのは、ヤウエの倅だけですよ。 最後には、ハルマゲドンですよね。面白そうだな。隠れて見ておきます」 「ワシが言いたいことは、別なことや。お前と話していると調子が狂うわ」 サタンは立ち上がって、近くにある冷蔵庫から、ビールを二缶取ってきて、一缶をアーモンに渡した。 「頭を冷やしてから、続きを話す。お前も飲め」 サタンはぐいと、いっきに半分程、飲み干した。アーモンは一口だけ、飲んだ。 「冷蔵庫とか、電気とか、どうやって、手に入れていますの」 「ここの岩盤には、レアーメタルが含まれているんや。それを、地上で会社を作って、世界中に販売してんねん。 電気もコードを引いてきてある。もちろん、電気代もきちんと払っとるで」 『やっぱ、銭か。銭があったら、何でも 出来るってことか』アーモンは改めて思った。 「OK.さっきの話の続きや。そうそう、旧約聖書やったな。 あれは人間が書いた創り話や。人間がヤウエや、俺やお前を創ったんや」 「え~。ホンマですの。そしたら、我々は実体ではないということですね」 「その通りや。分かっとるやんけ。ワシが人間を堕落させたというのも嘘や。 人間は己の悪心を俺のせいにしてきたんや。 この俺が一体、何をしたちゅうねん。反乱を起こさせたのもヤウエの陰謀や。 自分の地位が脅かされると疑心暗鬼になっていたんや。 そして、人間の女に産ませた倅を天国の棟梁の地位に就かすために、ワシを地獄に落したんや。 まあ、それは許したる。歳食ってきたら、ああなるんや。秀吉でもそうやったやろ。 国も固まっていないのに、朝鮮出兵や。家康に天下取られるのは当然やで。 ワシが心配しているのは、人類の未来やねん。 今の世界を見て、どない思う。欲にまみれて、 銭に振り廻されて、みさかいが着かなくなっているやろ。 世界中、争いや。核ミサイルで、お互いに脅しまくっている。このままでは、人類は数千年で滅びるで」 「新約聖書では、ハルマゲドンの後、救世主が復活して、善人は天国に召し上げられ、悪人は地獄に堕されると載っていますが」 「ヨハネの黙示録やろ。それも、あいつの妄想や。 こんな狭いところに、世界中の悪人が入るか。人類の七割は悪人やで」 「滅びてもいいんじゃないですか。どうせ、我々は実体じゃ無いし」 「ワシも最初はそう、考えていた。お前、清和って知っているやろ」 「あのエリー教会の牧師ですか。今は、白バラ教会に移っているけど。そいつがどうしたんですか」 「ワシは、あいつに心を打たれた。あいつのような人間が増えていったら、希望はある」 「兄貴は、ほんまはいいキャラなんですね。 倅と組んだら、どうですか」 「あいつは、おやじから洗脳されて、ワシを全ての悪の根源にしていやがる。 あいつは、清和みたいな人間からパワーをもらっているんや。 だから、そういう人間をこっそりと手助けしていくしかないのや。 倅にばれると、おやじみたいに疑心暗鬼起こされて何されるか分からへん。 おやじから受け継いだパワーは桁はずれだからな」 サタンは、目を閉じると、永遠の瞑想に入った。 十一章前半(モーロック) 「汝、その子女に火の中を通らしめて、これをモーロックにささぐることを絶えて為(せ)ざれ。「レビ記一八章二一節」 モーロックはアンモン人の崇拝した火の神で、その像(姿)は牛頭人体であり、この名は「王」 を意味する。 夜中の0時。清和が白バラ教会の礼拝堂で、例のガリラヤ人と話している。他には誰もいない。 「子供たちを救ってくれて、感謝致します」 「私は為すべきことをしただけです。礼には及びません」 「主よ、私はあなたを心から崇拝し、一生、あなたに仕えるつもりです」 「今や、父が己の姿を元にして創造した人間どもは、科学とやらの力を信じ、 私や父の教えに耳を傾ける者が減りつつある。 清和さん、この現状をどう思いますか」 「この前、シモンさんがバラクに霊水を掛けても、何の効果が無かったですよね。その辺も原因の一つだと思いますが」 「確かに、老齢の父の力は衰えている。しかも、本人は自覚していない。主治医に依ると、 痴呆症も進んでいるようだ」 「シモンさんなど、年配の牧師たちは、おとう様の力をまだ、信じています」 「その通りだ。実はそのことで、困っているのだ。父には引退を勧めているのだが、聴いてもらえない」 「宗教改革をなさったらどうですか。我々プロテスタントがローマカトリックに行ったように」 「カトリックでは、若くて美人の母上を信仰している。私は母上を信頼しているから、カトリックとはもめたくない」 「問題は、プロテスタントのお父様派の牧師たちですね。思い切って、破門にしたらどうですか」 「考えてみる。過去にスリップして、モーセに相談しにいってみるよ」 翌日、清和が深夜、礼拝堂で祈っていると、 ガリラヤ人が現れた。 「どうでした。モーセさんとのお話しは」 「相談どころか、ムチャ怒られた。ヘブライ人の神を多民族の神にしたと」 「気持ちは分りますね。ヘブライ人は幾多の試練を克服し、お父(とう)様の信頼を得て『十戒』を契約できたのですから」 「そうだな。私の考えが甘かった」ガリラヤ人は遠目をして、思案に暮れている。 「やはり、自分自身で決めるしかあるまい」 「主よ。おっしゃる通りです」 「お前が言うように、第二の宗教改革を実行しよう」 「やっと、ご決断が付きましたか」 「善は急げだ。メッセージの聖霊を送ろう」 「ちょっと待って下さい。反宗教改革を仕掛けてくるかもしれません」 「どういうことだ」 「彼らが手を組んで、他の神を担ぎ出してくる可能性があります」 「私の他に、私に勝る神がいるというのか」 「好みの問題です。今、入信したら、宝クジを十万円、当選させるという手を使っている神様もいます」 「乗り換え、十万円キャッシュ・バックという、スマフォの販促コピーみたいだな」 「そういう時代なんですよ。パンだけでも生きていけると考えている人間が増えています」 「早く、真の信仰に目覚めさせないと、アーマンのクソ野郎みたいに堕落するぞ」 「私の戦略を述べてもいいですか」 「いいだろう、述べてみよ」 「お父様派の牧師たちを、いっきに灰にしてしまうのです」 「何という、恐ろしいことを」 「奴らがサタンを担ぎだしてくることもあり得ます」「まさか」 「何人かの人間は、サタンがおとう様の陰謀で地獄へ墜とされたことを知っています。 人類の未来を本気で心配していることも」 「・・・」 「主よ。今こそ、決断の時です。あなたの刻(とき)がやってきたのです」 ガリラヤ人はしばらくの間、瞑想をしていた。 やがて、目を開き、清和の顔を見つめた。 「今、我が始祖のアブラハムから、メッセージが届いた。お前の言う通りに行えということだ」 「いつ、実行されます」 「今日は疲れている。天国へ帰って寝たい。 天国には、私の派閥と父の派閥の天使がいる。 父の派閥の奴らも、一緒に灰にする。 三日後の0時だ。私の力を思い知らせてやる」 清和は、ガラリア人の気迫に芯から震えた。 「成功を祈ります」清和の言葉に頷くと、姿が消えた。 清和は部屋に帰って、部屋のドアをロックした。念のためだ。 あくびをすると、清和がモーロックに変身した。「しめ々、旨くいきそうだ」 十一章 新世界① 翌日、ナザル(主の名前)は、傘下にある天使たちを集めた。 「私は、おやじ派の天使たちを灰にする。君たちは、地上にいるおやじ派の牧師たちを灰にしてくれ」 「了解!」天使たちは、意気盛んに応えた。 「明日の0時に決行する。おやじ派の連中には、気付かれないように注意しろ」 0時前に、全員が集合した。おやじ派の天使たちは寝ている。 まさか、私がクーデターを起こすとは、砂の粒ほども考えていないのだろう。 「用意はいいか。目標を間違えるなよ。おやじ派の牧師の顔は、昼間、スマフォで確認したはずだ。それを思い浮かべろ。一人で百人、 灰にするだけだ」 天使たちは、スマフォを早送りして、再確認している。 ナザルは、おやじ派の天使たちの宿舎に目を向けた。 「下界に目を向けて、集中しろ。今から、コーランを唱える」 「すみません。それって、イスラム教の祈りではないですか」 「戦闘は、イスラム教徒が強い。キリスト教は愛の宗教だからな。異教でも、利用できるものは利用する。そこが、私とおやじと違うところだ」 全員が頷く。ナザルの革新的な考えに、惹かれて参加した天使たちだ。 ナザルはコーランの「我、アラーに命を捧げん」をアラビヤ語で唱えた。 「一,二,三の後に、ダー!だ。分かったな」 「すみません。それ、アントニオ猪木っぽいですけど」別の天使が尋ねる。 「私は猪木のファンなんだよ。これが、一番気合いが入るのだ」 「了解しました」天使たちは、ナザルの信長みたいな性格を承知している。 「それでは、いくぞ」「一,二,三、ダー!」全員が叫んだ。 天使たちの目から、放射された光の束が下界へ、ナザルの光が宿舎へ向かって伸びていった。 その光が目標に当たった瞬間、目標にされた全ての存在が灰になった。 清和(モーロック)はアーモンから、サタンが自分を尊敬していると聞いた。 アーモンは情報料として、金貨一枚をもらった。 清和はサタンに会いたいと考えていた。おやじ派の天使たちと牧師らは、灰になった。 戦略の次の手だ。サタンとナザルの闘い、つまり、ハルマゲドンを仕掛けて、共倒れさせる。 その後、俺様がこの世界の王(キング)となるのだ。 アーモンに、サタンとの取次ぎを頼んだ。 アーモンは承諾して、金貨二枚をもらった。 地獄の広間で、会議が開かれている。サタン派の天使たちで、埋め尽くされている。サタンの緊急の招集命令で集まってきた。 彼らもサタンと一緒に、ナザルのおやじの陰謀で、地獄に堕とされたのだ。 ナザルのクーデターについては、アーモンから知らされた。五枚の金貨をやった。 「こんな大事な情報に、たった五枚か」と ぶつくさ言ったから、けっとばした」 「諸君、天国でクーデターが起こった。ナザルがおやじ派の天使の連中を灰にした。同派の牧師らも灰にしたそうだ。私は決断した。今こそ、復讐のチャンスが来たと。 長年に渡るこの地獄での苦闘。諸君らの努力で、どうにか、生活は良くなった。しかし、そういう問題ではない。 我々が舐めさせられたあの侮辱を思い出せ。 一方的に反逆の罪を着せられ、悪の権化にされた。奴は、それを人間どもに吹き込んだ。 我々は堕天使と呼ばれ、人間どもの自ら成した悪行も、我々のせいにされてきた。 我々は,耐えて、耐え抜いてきた。 全ては、息子に帝王の座を譲り渡すための、おやじの画策だ。我々は、その犠牲にされたのだ」 サタンの頬は、涙で濡れている。天使たちの中からも、すすり泣く声が聞こえてくる。 気を取り戻し、毅然として、サタンは続ける。 「追放の時、まだ若かったおやじの武器、あの雷(いかずち:サンダー)には、我々は手も足も出なかった。 ひたすら、あいつが前以て開けておいた地獄へ逃げ込むしかなかった。 我々は、いつか来たる復讐の日に備えて、着々と準備をしてきた。 地獄の岩盤に含まれる様々な金属から特殊な合金を鋳造し、あのサンダーを防ぐ盾とその他の武器を創り上げた。 そして、毎日、戦闘訓練に明け暮れた。 諸君!ついにハルマゲドンの日がやってきたのだ。例え、灰になろうとも、名誉を取り戻すために闘おうではないか!」 「オウ!」天使らの意気盛んな轟が、地獄中に響き、地上では世界中で、地震が起こった。  十一後半 新世界② 激しい地震だった。収まった後、テレビを点けた。 「今回の地獄の原因を、世界中の科学者が調査中ですが、まだ、解明されていません」 「博は、今回の地震について、どう思う」 「何となくだけど、不気味さを感じる」 「私も、そう」エリーが同調する。二人とも、ビートンの中にいたせいか、動物的勘が持っている。 夜半過ぎ、三人とも、ぐっすり寝ている。 ソフトボール程の淡い光の球が寝室の部屋に現れた。 その光の球が、エリーの頭の中に溶け込むように入り込んだ。 サタンがハルマゲドンを決意したことをアーマンがモーロックに伝えた。 アーマンは金貨二枚要求したが、取次ぎが必要なくなったから、そのとき渡した金貨で、貸し借り無しだと断った。 「モーロックの野郎、せこいやっちゃな」 モーロックは、ハルマゲドンの後、勝った方を全滅させることを計画する。 勝利者でも、エネルギーをかなり消耗しているはずだ。そこを狙うのだ。 そのためには、各地の悪魔を傭兵として、雇う必要がある。金が要る。 奴らは脅威の魔術を持っている。賃金は高額だ。 その資金がない。アーモンから借りることにした。 「アーモン、話がある。悪魔の傭兵を集める金を貸してくれないか。見返りは、キングになって世界を制覇したら、お前を財務大臣に任命する。税収の一0%を給料にしてもよい」 「三割」「アホか。財政が破綻するぞ」 「じゃ、他の金融機関から借りて下さい」 人間がハルマゲドンに関わる訳がない。すでに、噂は広まっている。 「この野郎、足元を見やがって。二割だ。これが限界だ」 「まあ、いいでしょう。契約書にサインしてもらえますか」 モーロックは、アーモンが出した契約書にサインした。曲がった釘みたいな、幼稚な字である。 「学校に行っていないでしょう。四歳の子供でも、こんな字、書きませんよ」 モーロックは赤面した。キングになったら、書道教室に通おうと心に決めた。 「それで、いくらくらい、必要ですか」 「百名、雇う予定だ。一人当たり、金の延べ棒、十本。全部で、千五十本だな」 「五十本は、何に使うのですか」 「十の隊に分けて、分隊長に五本追加するのだ」 「分りました。明日までに用意します」 百名の募集に、百八十名が応募した。書類選考で決めた。時間がない。ハルマゲドンは、迫っている。抽選で決めたという返事を出した。 戦闘では、灰にされる可能性もあると書き添えて脅しておいた。 サタン軍やナザル軍に、参加されたら困るのだ。 ナザルなら、悪魔でも雇うだろう。おやじ派の天使を灰にした奴だ。 両軍の力は拮抗していると分析している。 傭兵を雇って、一方的に勝負が付いて、力が保存されると困るのだ。 モーロックはスマフォで、サタンに「会って話したいことがある」という連絡を入れた。 電話番号は金貨一枚を払って、アーマンから聞き出していた。 清和(モーロック)を気に入っているサタンは喜んで、OKの返事を出した。 「地獄の門の番人は、買収してある。ワシからも連絡しとくけん。そうやな、明日の午後の三時はどうやねん」 「いいですよ。じゃ、お願いします」 清和が地獄の広間に着くと、サタンが笑顔で迎えた。 「よう来てくれた。前から、会いたかったんですわ」 「アーマンさんから、話は聞いています。ルシファーさんが、人類に深い愛を持っているということを」 (ルシファーは、サタンの本名で、「光輝く」という意味の古代ヘブライ語である。 地獄に堕とされてから、「敵」という意味のサタンと呼ばれるようになった) 「照れくさいな。まあ、いろ々な事情がありますねん」 「これ、よければ」清和が手提げ袋の中から、 菓子箱を取り出してサタンに手渡した。 「何だんねん」 「紅芋タルトです。沖縄に旅行に行った信者さんからもらったお土産です」 「これは、わざわざ。さあ、こっちに座りなはれ」 サタンは、清和をテーブルに招いた。ポットとカップを二個持ってきて、テーブルの上に置いた。 ポットから、カップに緑茶を注いだ。さっき、もらった紅芋タルトの箱を開けた。 「やっぱ、甘いお菓子には、緑茶が合いますわ。どうぞ、遠慮なく」 紅芋タルトを一個取って、口にする。「ウマ!」 清和も食べている。「美味しいですね」 緑茶を飲みながら、サタンが話しかける。 「話したいことって、何ですの」 「ハルマゲドンが始まるそうですね」清和が本題に入った。 「まあ、そろそろやな。今、開戦の日時と場所の交渉をしてるところや」 「そのことで、来たのです。今から、お話しすることは極秘にしてもらえますか」 サタンはカップをテーブルに置き、身を乗り出してきた。 「もちろんや。誰にも話せへん。指切りげんまん、してもいいで」 「それは子供のやることです。実話ですね、私が預かっている軍隊があるんですよ」 「十字軍とかの類か」「違います。天使のです」 「天使って、ナザルの軍隊以外におるんかい」 「ナザル派がおやじ派の天使たちを灰にしたとき、事前に気付き、逃げ出した連中がいるんですよ」 「何名くらいや」「百名です」 「多いな。今、そいつらはどこにおるんや」 「それは言えません。知られると、ナザルのサンダーで、灰にされてしまいます」 「あれは、凄まじい破壊力を持っているぞ。天国を追放されたとき、反撃した連中は全員、おやじに、灰にされてしもうた。ナザルは おやじから、あの武器を伝授されたんや」 「ハルマゲドンのとき、その一00名をルシファーさんの援軍に使って下さい」 「え!何でやねん。あんたは、ナザル派ちゃいまんの」 「ナザルのクーデターまでは、そうでした。 天使たちは全員、おやじさんに創造されたのです。言わば、ナザルと兄弟です。兄弟を何のためらいもなく灰にするとは、悪魔でもしないことです。そんな奴は、灰にすべきです」 「よう言った。その通りや。あいつの非道は おやじ譲りや。ワシも、あの親子にどんなに ひどい目にあわされてきたか・・」 サタンは、こらえきれずに涙を流した。 清和は、サタンの長年のつらい思いを噛みしめる表情で見つめている。 サタンの気持ちの落ち着きを待って、清和は切り出した。 「ルシファーさん、お願いがあるのです。 サンダーを防ぐ盾を貸してもらえませんか」 「かまへん、百名くらいの分なら、予備があるけん、持っていきなはれ」 「そしたら、明日、反ナザル派の天使たちに取りにこさせます」 「分かった。用意しとくわ。それと、ちょいと言いにくいけど・・あの紅いもタルト、もう一箱残ってへんかな。あんな旨いもん、食べたことあらへん」 「いいですよ。一0箱もらいましたから、明日、三箱持たせますよ」 「おおきに。あんな旨いもん、食ったら、ハルマゲドンなんかどうでもよくなってくるわ」 「ルシファーさん、しっかりして下さいよ」 「じょうだんや。清和さんの軍隊が付いたら、 勝利はこっちのもんやで」 「じゃ、この辺でおいとまします。それから、 開戦の日時と場所が決まったら、連絡下さい」 「OK.メールを入れとくわ」 十二前半(モーロックの戦略) 清和は白バラ教会に戻った。自分の部屋の中で、次の手を考えている。 今度は、ナザルに仕掛けるか。サタンと同じ手は使えない。 帝王の息子だけあって、サタンほど単純ではない。慎重にいくべきだ。 奴の弱点は何だ。そうだ!母親のマリエルを信頼していると言ってたな。 マリエルから、からめていくか。モーロックは戦術を考え続けた。 ナザルのおやじである天帝は、一度ギリシャ神話の女神、フローディアと浮気をしたことがある。 発覚して離婚騒動になった。結局、世間の手前、離婚には至らなかった。 夫婦は別居することになった。それが、カトリックとプロテスタントが分離した本当の原因である。 マルチン・ルターの宗教改革は世間の目をごまかすために、ローマ教皇が打った芝居である。  清和(モーロック)はマリエルに近付く手段を考えた。 旦那と別居して、五百年も男日照りになっているはずだ。 天帝を怖れて、マリエルに言い寄る天使や修道士はいないだろう。 清和は平日に、隣町にあるカトリック教会に出掛けた。 日曜礼拝では、多くの信者が訪れて、自分を知っている人に出会うかもしれない。 神父に自分がかつて犯した罪を償いと言った。 懺悔(ざんげ)室に通された。 プライバシーを守るために、外に声が聞こえないような分厚い壁で作られている。 中からロックすると、外部からは開けられないようになっている。 机に真向いになって座ると、涙を流しながら、長年、良心を苦しめていた罪を告白した。 神父は只、頷きながら聞いているだけだ。 全て、話し終えた。 「あなたの罪は許されました」神父は厳かな表情で諭した。 清和は思わず、晴れやかな表情になった。成り切っている。天性的な役者である。 「あの・・入会したいのですが」 「今度からは、日曜の礼拝に参加して下さい」 「ありがとう御座います」深く頭を下げた。 「すみません、礼拝堂を見せてもらえますか」 「いいですよ」 礼拝堂には、キリストの像では無く、レンブラントが描いたマリエルの大きな絵が、掲げられている。 「キリストの像はないのですね」 「カトリックでは、母親のマリエルを信仰の対象にしていますので」 清和はマリエルの目をじっと見つめた。マリエルの目がキラリと光った。 「それでは、こんどの日曜日に来ます」礼を述べて、教会を後にした。 翌日の夜半の二時。清和は懺悔室に居た。目の前には、マリエルがいる。 「とても美しい方ですね」「お上手ですね」 上品な笑みを返す。 「あなたを見た瞬間、恋に落ちました」 清和は女ゴロシである。こういうセリフはズバリと言った方が、美女には効果があると、経験的に知っている。 マリエルの右手を取る。甲の部分に軽くキスをする。 顔を上げて、マリエルの目をじっと見つめる。 蒼い瞳の中に、炎が揺らいでいる。男を求める女の性(さが)の現れだ。 体を抱いて引き寄せると、優しくキスした。 次に舌を入れる。 マリエルも舌をからませてくる。十分に堪能した後、マリエルの服と下着を脱がせた。 秘部は、すでに濡れている。清和も裸になって、服を床に敷く。 マリエルをその上に寝かせた。豊かな乳房の乳首を舌先で転がす。 「ア!」うめき声をもらす。清和は性技に長けている。 人妻の信者に手を出したことも何度かある。 体中を舐めまくった後、秘部に舌をはわす。 舌を丸めて、中に入れ、クリをつつく。 性欲に飢えきっていた女体は、狂ったように清和の性技に反応している。 「は・や・く」秘部への挿入は最後だ。今度は、フェラをさせる。 清和は立ち上がった。マリエルは膝を着いて、両手で掴んだペニスをしゃぶりまくる。 ペニスの先を舐めたり、喉元まで頬張って ごしごし、フェラのピストン運動をする。 そろそろ、決めようと思った。マリエルを仰向けに寝かせる。 秘部は潮でずぶ濡れだ。息子をゆっくりと、インサートして、静かにピストンを始める。 「ア、ア、ア、」マリエルが呻く。マリエルの両脚を肩の上に乗せる。 息子が膣の奥まで届く。次第にピストン運動が激しくなっていく。 「ア~!イク!イク!」マリエルの爪が清和の背中に食い込む。 清和がぴたっと、腰の動きを止める。マリエルの体を四つん這いにさせる。 後ろから攻める。ここで清和の体が変身した。 顔はそのままだが、体はイグアナになっている。 ペニスは二本ある。一本は秘部に、もう一本はアヌスに挿入した。 ピストン運動が始まる。強弱の変化に加えて、 浅く、深く突いていく。 マリエルは白目を剥いている。「ア!ア!ア~」 最期の突きを決めたとき、マリエルはエクタシーに達し、失神した。 マリエルが意識を取り戻したとき、清和は人間の体に戻っていた。 神に準じる身分でも、所詮は女である。マリエルは清和の性の奴隷になった。 「あなたは、人間ではありませんね」 「私の名前はモーロックです。イラクを住処とする火の神です」 「私に近付いた理由は何ですか。申してみよ」 「ハルマゲドンが始まろうとしています。現在、ナザル軍とサタン軍の力は拮抗しています。 私はサタンに頼まれて、一00名の悪魔の傭兵を集めました。このままでは、ナザル軍は負けます。 サタンが支配者になったら、この世は終わりです。 傭兵をナザル様の配下に置くことをナザル様に伝えて貰いたいのです」 「モーロックよ、何が望みじゃ。それに、ナザルは父から、サンダーの秘術を取得しています。 あの武器で、サタンと堕天使を地獄へ突き落したのです」 「ところが、サタンはサンダーを防ぐことが出来る楯を開発したのです」「まさか」 「本当です。地獄にある数種類のレアメタルの合金で造りあげたのです。一00名の傭兵にも配っています」 「確かに、これでは、負けるかもしれない!。戦略を詳しく教えて下さい」 「傭兵軍は雲の中に隠れています。ハルマゲドンが始まったら、ナザル軍に合同して、サタン軍を攻めるのです。 パニック状態のサタン軍は、傭兵軍の魔術で掻きまわされ、ナザル軍の赤い光線で灰になるでしょう。勝利は確実です」 「よく、分かりました。それで、あなたの望みは何ですか」 「地獄の支配者になることです。レアメタルが、世界中で高価で取引されているのです」 「サタンがいなくなれば、管理する者が必要です。そなたの戦略で勝利すれば、ナザルも許可するでしょう。 もう一つ、条件があります」「何でしょう」 「時々、私を抱いてくれませんか」 「もちろん、喜んで」 「今日、もう一度、お願いできません?」 モーロックは、エネルギーを使い果たしていたが、最期の詰めだと思って、承諾した。 おなごの性欲の凄さを改めて思い知った。 十二後半(ゾロアスターからの預言) 翌日、マリエルからメールが届いた。ナザルからの伝言である。 清和の戦略を受け入れた。闘いに勝てば、地獄の管理者に任命してもよいという内容だった。 地獄は父が創ったものであり、管理者として、不適切な行為を行った場合は、職位を剥奪するという条件も添えられていた。 これで、準備は整ったと思った。一時間後、サタンからメールが届いた。 ハルマゲドン開始の日時と戦闘の場所に関した内容である。 二日後の十時。場所は太平洋の上空である。 その日は、太平洋及び上空での船舶と飛行機などの運行は禁止することを人類に通知してある。 場所の選択は、神や悪魔などを信じなくなりつつある人類への警告と同時に、人類に対する安全性から選んだそうだ。 すでに、両サイドとも、SNSを通して、自らの正当性を訴え続けている。 クリスチャン達は、主であるナザル軍への応援メッセージを世界中へメールで送っている。 サタンの言い分を信じている人々も意外と多い。 他の宗教の信者が、捨てアカウントを使って、 キリスト教の分裂を図っているというニュースも流れている。 ネット社界のマイナス面だ。あらゆる現象には、プラスとマイナスの二面性がある。 ある国がSNSを利用して、他国に内政干渉し始めている。 清和は、自分がこの世界のキングになっても、同じことの繰り返しではないかと自問した。 清和に、あの晩の不思議な出来事が蘇った。 清和がモーロックと一体になったのは、信頼していたバラクが、モーロックと契約したことを知ったからだ。 牧師までもが、神を裏切るのか。そういう神が信頼できるのか。 自分が救われたと思っていたのは、錯覚ではないのか。発狂寸前まで、悩み続けた。 外に出て、思索を続けていた。満月の晩だった。突然、月が語りかけてきた。 「清和よ、お前が新しい神に成りなさい。 モーロックと合体し、その力を利用すればよい。キングになったとき、モーロックと分離せよ。あいつは私が灰にしてやる」 「それは、十戒に反することです」 「あいつは、お前を利用しているのだ。キングに成れば、お前を灰にするつもりだ」 「まさか、そんなことを」 「お前は心根が優しく、純粋過ぎる。奴はサタンが気にいっているお前を利用しているだけだ」 「あなたは、いったい、いかなる存在ですか」 「ゾロアスターだ。神々の原型である。お前には、ヤウエよりも優れた力を与えよう。 全ての人類が幸福に成れる、平和共存の世界を創るのだ。それが、お前の使命だ」 月が雲に隠れ、ゾロアスターの声は途絶えた。 十二章後半(絶対絶命) 三日後の十時。太平洋の上空の東西に、黒い斑点が見え始めた。 次第に、雨雲のような大きさになっていく。 東側にはナザル軍、西側にはサタン軍が陣どっている。 アーモンが一週間前に、独占中継を行う放送局を入札で決めていた。 人間どもには、望遠鏡などで直接見ると、ナザルのサンダーが発する光で、瞳を焼かれるぞと脅しておいた。 アメリカのNNCが、自国の国家予算の百年分の価格で落とした。 NNCは、闘いが一時間程で終わると、旧約聖書から判断した。 画面の二割でCMを流し、一分間で米国の国家予算の十年分を支払う。 NNCは世界中の大企業に、スポンサー募集を呼び掛けた。 一千社が申し込んだ。抽選に当たった六十社と契約した。六十分の内、どこの一分を取るかも、抽選で決める。 企業にとっては、大きな賭けである。勝負が一時間未満で終わる場合もあり得る。 前払いのスポンサー料は返ってこない。そういう契約である。 一方、アーモンはサタンとナザルに、話を持ち掛けていた。 闘いの前に、アトラクションをやって、時間を引き延ばせという内容だ。 いずれが勝つにしろ、大企業に損害を与えて、 反感を買うのは、芳しくないと説いた。 サタンとナザルは同意した。天使たちはグループに分かれて、合唱、創作ダンス、マジック・ショウを披露した。 堕天使たちは、そーらん節の踊り、和太鼓の乱れ打ち、漫才や落語を熱演した。 彼らのパフォーマンスは、NNCから配信されたテレビやスマフォを観ている世界中の人々を感動させた。 アトラクションの間に、にわかに近付いてきた山ほど大きい雲の中には、傭兵軍が潜んでいた。 サタンとナザルは、それに気付いている。しかも、モーロックの計略通りに二人とも、自分の味方だと信じている。自分を善人だと思っている人々は、ナザル軍を応援している。 悪人だと思っている人々は、両軍が相討ちし、灰になることを願っている。 善人が天国に行くのは癪にさわるし、地獄にも行きたくないからだ。 アーモンが親元となって、賭けを始めていた。 九対一の割合で、ナザル軍の勝利を予想している。ほとんどの人間が、自分を善人だと信じているのだ。その中には、殺人犯、詐欺師、強姦魔、泥棒、人さらい、闇金業者、変質者、すりなどの、善人の仮面を被っている悪党どもがいた。 三百名のサタン軍と同数のナザル軍の闘争、ハルマゲドンが始まった。 ナザルは、モーロックがマリエルに伝えたことを確認しようと思った。 サンダーで、攻撃を仕掛けてみる。呪文を唱えると、稲光が天空を走った。それを掴まえて、サタンに投げた。 サンダーはナザルのコントロールで、全ての敵の体を貫いて灰にし、ナザルの掌に戻ってくる。サタンの持っている盾は、サンダーを跳ね返した。全ての堕天使の盾も跳ね返した。 ナザルは焦った。傭兵軍に、前以て打ち合わせてあった合図を送った。 傭兵軍は動かない。「なぜだ?」混乱で、顔が引きつっているナザル。 サタン軍が、サタンを中心にして、球体を作った。盾を背負って、外側に向けている。 回転しながら、猛スピードで襲ってきた。固い盾に削られて、次々と天使が灰になっていく。  十三後半(ミズラ神) 『このままでは、全滅だ』とナザルは思った。 『あの武器を使うしかない』と判断した。 自身をサンダーに変身させた。アトミックサンダーという。 光速(三八万キロ/秒)で進む。光は一秒間で、地球の赤道を七回半、廻る。サンダーが一メーター前後に対して、アトミックサンダーは東京タワー程の大きさだ。 物体が衝突するときの対象に与える衝撃力は、質量と速さに比例する。ナザルが投げるサンダーは、槍を音速(約六五0m/秒)で投げた程度の破壊力である。 アトミックサンダーがいかに凄まじい破壊力を持っているかが分かるはずだ。逆に、相手の質量が大きくて固い場合、作用反作用の法則で、ナザルが受ける衝撃力も大きくなる。 最悪の場合、灰になる可能性がある。 直径が東京ドーム程の球体に、アトミックサンダーが衝突した。ダイヤモンドよりも固い盾が幾重にも重なっている。 球体を貫いた。木端(こっぱ)微塵(みじん)になって、堕天使が灰になって、太平洋に落ちていく。生き残っていた天使が、ひん死のナザルを抱いて、ハワイ島に連れていった。 生き残った三十名の天使たちが、周りを囲んで、悲壮な表情でナザルを見つめている。 天使たちも球体にかすられて、傷ついている。 そのとき、雲の中に潜んでいた百名の傭兵軍が、天空に姿を現した。イグアナ姿のモーロックが指揮をとっている。 清和は分離されて、住処の牢に閉じ込められていた。 「思惑通りに行ったわい。サタン軍も灰になり、ナザルもあの様だ。全員残らず、灰にしてやれ」 「イエッサー」傭兵の悪魔軍団が様々な武器を手にして、ハワイ島に向かおうとした。 思わぬことが起こった。サタンと三十名の堕天使が、ハワイ諸島の小島から、飛び上がってきたのだ。傭兵軍団の前に立ちはだかったサタン軍は全員、傷を負っている。 「おのれ、モーロック。よくも騙しやがったな」 「サタンちゃん、よう生きとったな」 「アトミックサンダーが突き刺さる瞬間、 仲間が犠牲になって、三十名とワシを逃がしてくれたんや。少しは傷ついて、この様や」 「聞くも涙の話やんけ。あんさんも、あのヤウエのどら息子たちも、もう終わりやで。こいつらが灰にしてくれるわ」 「大阪弁はワシのキャラや。勝手に使わんといてくれる」 「ゴメンナチャイ。あんた、何で出てきたの。隠れておれば、灰にならんでもすむのに」 「ワシら元天使とおんどれ悪魔の違いやねん。ワシらとナザルたちは兄弟や。兄弟が殺られるの、黙って見ておられるかい!」 「スバライ!超、感動しちゃった。一緒に灰になってもらいまひょか」 「大阪弁、しゃべるなっちゅうの。なんぼゆうたら、分かりまんの」 「よか、よか。気にせんといて。者ども、半分はハワイ島に向かえ。いっきに、やっちゃうんよ!う~ん、サイコーの気分。これで、ワタイがこの世界のキングになるのよ。オー、ホ、ホ、ホ」 サタンらとハワイ島にいる天使たちには、闘う力が残っていない。 悪魔軍団に、なぶり殺しにされるのか。天使と堕天使は、自殺が出来ないのだ。 カトリックも、自殺を禁止している。最後の審判のとき、自殺者は復活できないのである。 絶対絶命の状態だ。モーロックのようなクソ野郎がキングになったら、人間たちの世界が地獄になってしまう。 この世には神や仏はいないのか。ハワイ島でくたばり掛けているのは、神の子ではなかったのか。 聖書では、この世界は神が創造したと記されている。被造物の悪魔に、なぜ、神がやられるねん。やっぱり、聖書はライトノベルのファンタジーか。人間らも、でっち上げの創り話に騙されてきたんや。 待てよ。聖書を書いたのは、人間やんけ。ほなら、人間は己の創り話を信じてしまったんかいな。 ああ!何がなんだか分からへん。サタンは、目の前に迫った最後の時にも拘わらず、様々な想いがオツムの中を流れていく自分を不思議に思った。 その時、思いもよらない出来事が起こった。世界中の人々も、驚き、桃の木、山椒の木、目を見張った。 小学高学年くらいの女の子が、空中に現れたのである。 ハワイ島に向かい掛けた悪魔の軍団も、その場で止まって、少女を見ている。 「おねえちゃん、迷子になったの。ここは、危ないから、地上に降りてちょうだい」 モーロックが気持ち悪い声で、優しく話し掛けた。 「黙りなさい」威厳の籠った言葉は、闘争の当事者だけではなく、世界中の視聴者を震撼 させた。 「私の名前はミズラ。古代アーリア人の第二神格である。宿っている少女の名前はエリーだ」 「古代アーリア人って何ですの」味方ぽいと感じたサタンが、期待を込めて尋ねた。 「光輝くという意味のルシファーでさえ、知らないとは情けない」 サタンは、この生意気なクソガキがと思ったが、ヒスを起こされたらあかんと自分を抑えた。 「簡単に言えば、インド・ヨーロッパ語族です」 悪魔らと天使たちは、更に、分からないという表情をしている。 「ヨーロッパ人とインド人、イラン人の共通の先祖です。カザフスタンにあるアラル海の近辺にいた民族です。詳しいことは、後でググって下さい」 『後でって言われても、灰になったら、出来る訳ないやん』という気持ちを抑えて、 「あの・・どちらの味方ですか」とサタンは尋ねた。 十四章(天国と地獄の和解)  「私は人類を救いに来ました」 それから、ミズラ神はモーロックに顔を向けた。 「モーロックよ。お前と悪魔軍団を楽しいところへ送ってやる」 「どこですの」「あの燃えたぎる太陽の中だ」 「熱いところは、苦手なんですけど」 「熱さを感じることはない。一瞬で、灰になるのだ」 「ヒエ~!何ちゅうことするんですか、この鬼!」 「私は鬼ではない。古代アーリア人の神格、ミズラ神だ」 「ボス、こんなガキの言うこと、信じちゃだめですぜ。八つ裂きしてやりましょう」 「それよりも、あの魔術でブラックホールに送ってやるべ」「いいっすね~」 モーロックと三十名の悪魔軍団が、ミズラ神を中心になるように囲んだ。 ミズラ神は、籠の中にいるネズミのようだ。 悪魔軍団がギリシャ語で、ラップ調の呪文を歌い始めた。 「ヤーヤ マーヌ ワラバーヤガ ワッター シグトゥ ジャマサンケー ヤナワラバー ミンブルカッティ ヤルサンドゥイ ア!ウリ!ウリ! クダカーマンジュウ  サッサー イヤ! スリ! スリ!」 サタン軍団は少し離れたところで、楽しそうに見ている。紅いもタルトを食べてから、沖縄ファンになったサタンは、ラジコで沖縄民謡を毎日聞いていた。この唄が沖縄民謡をラップ調にアレンジしたものだと分かった。 『ハビルの奴、英語は得意だとほざいていたが、ギリシャ語が分かれへんから、出身地の沖縄民謡を使いやがったな』 呪文が三回繰り返されたとき、ミズラ神の姿が消えた。その直後、籠も消えた。 上空を見ると、ミズラ神が浮かんでいる。サタン軍団の前に降りてきた。ポカンとしているサタン軍団の面々。サタンが尋ねる。 「あいつらは、どこに消えたんすか」 「私を放り込もうとしたブラックホールです。 ブラックホールに吸い込まれた物体やエネルギーは、抜け出ることはない。奴らは永遠に閉じ込められるのだ」 「どんな手を使ったんすか」「返しの呪文だ」 「それ、何でんの?」 「秘術だけど、特別に教えてやろう。今から、唱える。ポッポー ハトポッポー マメガホシーカ ソラヤルゾー これだけだ」 サタンは、このクソガキがと思ったが、もしかしたら、ほんまかもしれへんと思い直した。 「おおきに。今度、使ってみますわ」 「ハワイ島に降りてみようか。ナザルが心配だ」一行は、ハワイ島に向かった。 ナザルを取り囲んでいる天使たちの表情は、暗い。ナザルの状態が更に悪化している。 このままでは、時間の問題だと全員が思っている。 いきなり、上空から、サタン軍団とミズラ神が降りてきた。彼らと悪魔軍団の闘いは、見ていたが、敵なのか、味方なのかは、未だはっきりしない。 三十名の天使軍団は、ナザルを守るように、立ちはだかった。 「心配するな。我々はあなた方の味方である」 ミズラ神が慈悲を帯びた表情で声かけると、天使たちの表情が和らいだ。 「ナザルの状態は、どないやねん」 サタンもナザルに近寄り、顔を覗く。 「これは、かなりやばいな」眉間に皺を寄せる。サタンがミズラ神を見つめる。 「分かっている」ミズラ神がパチンと指を鳴らした。 ベッドに寝たヤウエが現れた。看護婦が一人付いている。天国の老人ホームの病棟から、やってきたのだ。 ヤウエもかなり衰弱している。三年前から、病棟に移されている。 「長時間は無理です」と看護婦が職務調に言った。それをゆっくりあげた手で制したヤウエが、「息子をここに連れてきてくれ」と頼んだ。 数人の天使たちが、ナザルを板の上に載せて、 ベッドの傍に連れてきた。 ヤウエは右手をナザルの額に置き、呼び掛けた。 「我が息子よ。私の命をお前に与える」 ヤウエの体が光り輝き、右手から、光がナザルの体に移っていく。それと同時に、ヤウエの光が弱まっていく。 ナザルの体が痙攣した。やがて、目を開けた。全員が喜びの声を上げた。 「板を地面に降ろしてくれ」ナザルが口を開いた。板が降ろされると、ナザルは立ち上がり、父親の傍に行った。看護婦が聴診器を胸に当てている。耳からヘッドフォーンを外すと、首を静かに横に振った。 「パパ。お願いだから、灰にならないで!」 父親の頭を撫でながら、泣き声で喚いている。 「ルシファーを呼んでくれ」息も絶え絶えに言った。 ナザルがサタンに目で合図を送ると、サタンが側にきた。 「ルシファーよ。私を許してくれ。我が子可愛さに、お前に罪を被せ、地獄へ追いやった。 今まで、罪の意識に苛まされてきた」 その言葉を聞いた瞬間、サタンの長年の憎しみが消え去った。 「もう、いいっすよ。ワシも息子さんに嫉妬していたんですわ。水に流して、仲良くしまひょ」 ヤウエの目尻から、涙が流れた。ナザルに顔を向ける。 「ナザル、お前を我がままに育て過ぎた。モーロックなどのクズに騙されるとは情けない。 改心せよ。ここにいるミズラ神の上位にいる ゾロアスターは、我々、神々の始祖である。 我が無き後は、ミズラ神に従え」 「パパ!僕はパパがいないとだめなんだ。 お願いだから、ずっと生きていて!」 「ナザルよ、よく聞きなさい。森羅万象は生成変化し、消え去る。神と言えども、同じだ。 インドの釈尊の教えを学べ。キリスト教に取り入れ、新しい宗教を創るのだ。その時期が来ている。私が去るのは、その意味があるのだよ」 「ワシも付いていまっせ。二人で協力して頑張ろうやないか」サタンがナザルの肩を抱く。 「それでは、私は無に戻る。しかし、お前の心の中で、共にいると思いなさい。マリエルを頼むぞ」 ヤウエは息を引き取った。ベッドの上に、ダイヤモンドの粒が残っていた。 ナザルは袋の中に、それらを入れ、懐に仕舞い込んだ。 ミズラ神がパチンと指を鳴らすと、清和が現れた。 「この者を許してやれ。モーロックに騙されたのだ」 「申し訳ありませんでした」涙を流して、謝る清和の肩をサタンが叩いた。 「ええやんか。わしらも一杯食わされたんや。 その代わりと言ったらなんやが、あの紅いもタルト、頼めんかの」 「全然、OKですよ。沖縄の店舗に注文掛けておきます」 「出来たら、百箱くらい、なんとか」 清和は一瞬、ムっときたが、「いいですよ」と作り笑いで応えた。ミズラ神がいつの間にか消えていた。 エリーが、家から一キロくらい離れた草原にいる。 「あれ、なぜ、ここにいるのかしら」 エリーは夢から覚めてような感じを受けた。 美佐子と博が、車でやってきた。 「ずいぶん、捜したわよ」三人は抱き合って、笑い泣きした。 「お家に帰ろうか。今日の昼ご飯、何がいい」 「ハンバーグとグラタン食べたいな」 「僕もそれでいいよ」 朝方は天国と地獄の軍団に覆われていたが、今は青空が広がっている。三人は車に乗って、自宅に向かった。ラジオから、暴動が収まり、復旧作業が始まっているという。 美佐子は、今回の人類最大の危機にも、全く動じなかった。彼女には、釈尊が守ってくれるという信念があるからだ。二人の子供には、釈尊を信じることを強制しようとは思っていない。信仰とは、無信仰も含めて、本人が決めるべきだと考えているからだ。 一五章(意志への力) 県立病院の第四棟は、精神科専用である。 三~五階に、入院患者の部屋がある。 一階では、外来も受け付けている。各個室には、カメラが取り付けられ、二階にあるセンターで監視している。 四階の一二番の個室に、小六の少女が一ヶ月前から、入院している。名前をエリーという。 医者と美佐子が、モニターを観ている。エリーが子豚のぬいぐるみを相手に、一人芝居をやっている。 エリーの部屋には、机とパソコンが置かれている。パソコンの側には、ワイファイが置かれ、ネットも使える。 エリーは投稿サイト「スタンドバイミー」に、 作品を投稿している。作品名は「逃げろ ビートン!」である。ビートンが提案して、二人で作っている。エリーが書いて、後でビートンが読み、手直しのアドバイスをするという形だ。 「ビートン、一四章を書き上げたわ。見てくれる」 「いいよ。その間、休んでいて」エリーは、ビートンを椅子に座らせ、画面を開いてあげる。 「エリー、全部読んだよ」ベッドで横になっていたエリーは、体を起こした。 「どうかしら。締切が迫っていたので、急いで書いちゃったけど」 「悪くはないよ。ちょっとムズイ表現もあるけど、サタンのオチャラケの押さえになっていると思う」 ビートンは、かなりのセンスを持っている。前世は、アメリカの短編小説家だったらしい。 「面白さの中に、深淵なテーマをさりげなく入れておく。そのタイミングが大事なんだ」 「ここまで頑張ってこれたのも、ビートンのおかげよ。後は、最終章だけだわ。入賞したら、二人で半分っこしようね」 「僕はお金なんて、要らない。エリーの役に立つだけで、満足なんだ」 「分かった。お母さんに、半分あげるわ」 「先生、エリーは治りますか」 憔悴した顔で、美佐子が医者に目を向ける。 「何とも言えませんね。精神の病は、原因を特定するのが難しいのです。心の中の問題ですから」 エリーが入院したのは、一ヶ月前の十一月二五日である。 急に、何かに取り付かれたようになった。美佐子にも、弟の博にも、口をきかず、話しかけても反応しない。父親は三年前に、過労から來る心不全で、亡くなっている。 美佐子は、エリーを県立病院に連れていった。 医者は診断の後、こう説明した。 「父親の死も、遠因だとは思いますが、直接の原因ではありません。最近、変わったことは無かったですか」 美佐子はしばらく、顎を指で挟んで考えていたが、思い付いたように、口を開いた。 「この子は、幼い頃から、蝶や蛾に興味を持っていました。一ヶ月前から、全国大会のために、ヨナグニサン、沖縄の方言で、アヤミハビルという世界最大の蛾の研究に没頭していました」 「もしかしたら、アヤミハビルというユーザーの生き魂に、取りつかれているのかもしれません。ビートンとの会話からすると、最終章の公開が終われば、治る可能性があります」 美佐子の表情が緩んだ。 年が明けて、一月四日の午前中、美佐子がモニターを観ているときのことである。 「あれ、ここ、どこなの。どうして、私、ここにいるの。誰か助けてー」 エリーがドアを叩いている。 「先生、来て下さい。エリーが元に戻ったみたいです」 医者がモニターで確認すると、看護士と美佐子を連れて個室に向かった。ドアを開けると、エリーが美佐子に抱き着き、泣き出した。 医者がエリーを診察室に連れて入った。美佐子は外で待っている。 二十分くらいして、医者とエリーが出てきた。 「もう、大丈夫です。正常に戻っています。 念のために、一週間後、診察に来て下さい」 「ありがとうございます」美佐子は医者に深々と、頭を下げた。 エリーの手を取り、「おうちに帰ろう」と言った。 出口に向かい掛けたエリーが振り返り、医者をちらっと見た。 医者は、エリーの瞳にヨナグニサンが映っているのを観た瞬間、体が氷のように固まった。 「近藤さん、ちょっと待って下さい!」 「どうしたのですか」 「来週から、学会の会議があることを忘れていました。別の病院の紹介状を書きますから、少し待ってくれませんか」 「よろしいですよ」美佐子の返事も聞かずに、医者は診察室に入っていった。 診察室の前にある長椅子に座って待っている間に、エリーが切り出した。 「ヨナグニサンの記念館があるY島に行ってみたいわ。今年の夏休みに連れていってくれない」 「いいわよ。博も喜ぶはず」 医者は「国家安全保障局」宛てに、手紙を書いている。 「この少女はたいへん危険です。Y島にある記念館で、標本にされているヨナグニサンを生き返らせ、巨大化させるつもりです。そいつらは、世界中で毒粉を撒き散らし、人類を全滅させるでしょう」 書き終えると、封筒に入れて、糊で封じた。 ドアをを開けて、待っている美佐子に渡した。 「この病院は最先端の医療施設です。安心して下さい」 「そうですか。何から何まですみません」 「よかったね、エリー」エリーは、こくりと頷いた。二人は医者に頭を下げた後、外に出た。 駐車場に着くと、車に乗って走らせた。病院の敷地から出たとき、エリーが紹介状を破り捨てた。 「ばかな奴だ」「全くだわ」 美佐子も薄笑いして、同調する。我々、蛾だって同じよ。仲間を繁殖させる権利があるわ。それを標本にしやがって。今度は、毒粉で殺した人間どもを標本にしてやる」 「楽しみね」美佐子は目を輝かせながら、エリーの言葉に応じた。
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