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9-1 海を渡って
廃れた神社の境内にある岩の上に、桃色の髪の女の子が座っていた。珍妙な膝丈の馬乗り袴を穿いて、歳は十ほど。髪は肩までの長さで、頭の横に髪飾り代わりの青い布を結んでいる。
女の子は下駄をぶらぶらとさせながら、果てなく続く青い空を仰いでいた。地面は大海で隔てられているが、空は、遠くにあるという大陸まで続いているのだろうか。
誰もいない静かな境内に、軽やかな足音が複数近づいてきた。女の子――ベガは視線を下へ戻す。石階段を上り切り、褪せた朱の鳥居をくぐり現れたのは、同じ寺子屋に通う男児三名だ。
「まーた一人で遊んでんのかよ。友達いねーでやんの。ぷっぷぷー」
三人仲間になって、ばかにするように笑い合う。ベガは彼らを無視し、また空を見上げた。黒髪の人間だらけのこの島国で、異邦人のベガはとても目立つ。だからいつも彼らは、何かとからかってくる。
反応が返って来ず、つまらない男児たちは、なおもからかい続けた。
「外国人が神社に入っちゃいけないんだぞー」
「そうだそうだ!」
「外国じーん、外国じーん」
ベガはぶらぶらさせていた足に勢いをつけ、下駄を彼らの顔へ飛ばした。右端の男児の鼻にまず命中し、一人倒れる。もう片方の下駄も同様に左端の男児に命中させた。倒れた両脇の仲間に、狼狽える先頭の男児目がけ、ベガは裸足のまま岩を跳躍した。目を剥く男児の背中に着地する。腰上げした着物の裾からばたつく足を掴み、思い切り引っ張り曲げた。
「いててて! 腰の骨が、折れる!」
男の子たちは鼻血や涙を流しながら、「覚えてろよ! 暴力女!」と逃げていった。
「……ふん」
丈を短くした馬乗り袴は、動きやすく大変気に入っている。走りやすく跳ねやすい。
石畳に転がっていた下駄を履き直していると、神社への階段をまた誰かが上ってきた。
「いま、男の子たちが、逃げていったけど……」
現れたのは娘だ。綺麗な娘で、桜のような薄桃色の髪を左右に緩く結っている。ベガにとって唯一の異邦人仲間だった。海の向こうにあるという大陸が、ベガたちの生まれ故郷だ。
「ローザ。どこか、行くの?」
娘、ローザの肩には、荷を包んだ風呂敷が巻いてある。手には笠があった。着物の裾の下には脚絆が巻かれ、履き物も長距離歩きやすい草鞋だ。
「陸奥のおばさまのところにお手伝いに行くのよ。フキちゃんに、もうすぐ赤ちゃんが産まれるから。前から話してたでしょう?」
「あれ。今日からだっけ」
「そうよ。待ってたのに、なかなか帰ってこないんだから」
世話になった乳母の娘が、出産するのだ。幼い頃、そのフキという名の娘と一緒にベガとローザはよく遊んだ。
もう一人、男が階段を上ってくる。切れ長の瞳で、背が高い。サザという名の、ベガが世話になっている邸の下男だった。ローザの旅に用心棒として同行する。
ベガがローザとこの島国へ来たのは十年前、ベガがまだ赤子の頃だ。事情により元いた国で暮らせなくなったのだという。ローザもその頃、まだ七つだった。ローザは早くに自分の両親を亡くしていて、その時ベガの母に世話になったとかで、母代わりにずっとベガの世話をしてくれている。
しかし母代わりと言っても歳が近い。口うるさい姉と表現したほうが適当だ。周りからも『水天屋さんとこの姉妹』と呼ばれている。ベガの世話になっている邸の主は、水天屋という、都随一の商店を営んでいる。
「私、ひと月近く帰ってこないのよ? その間、ちゃんとお淑やかにしていないとだめよ? 男の子たちに暴力なんて振るわないで。あなたのお母さまは、それはそれはきれいな、お優しいお姫さまなんだから。あなたはその血を引いているのよ」
「……またその話?」
ローザが言うには、ベガは海の向こうの大陸の、とある国の王家の血を引いているらしい。
「あなたのお父さまとお母さまはね。とても立派な方たちなの。いつか絶対、私たちを迎えに来てくれると、約束をしたのよ」
ベガは、ちらりとローザの着物の襟元を見た。その辺りに、小さな巾着袋が隠されている。紐に繋いで首からさげ、常に持ち歩いているそれは、古いリボンだ。ベガの母から贈られたものなのだという。それを十年間、もう結ぶことすらできないほど古くなっても、袋に入れ、持ち歩いている。
(でも、迎えなんて、もうずっと来ないじゃない)
迎えが来ないままベガは来月、十一歳になる。しかし正直に口にしてもローザが哀しい顔をするだけだ。喧嘩になるほど繰り返したやりとりだった。代わりの言葉を口にした。
「ローザも、フキちゃんみたいに結婚したらいいのに」
ローザは眉をひそめた。
「私は、嫁ぐ気なんてないの」
「あたしがいるから?」
「……それだけじゃないわ」
幼い頃から、異邦人だとからかわれてきた。その度に乗り越えて来られたのは、もう一人仲間が――ローザがいたからだ。
ローザには幸せになって欲しい。このまま来ない迎えを待ちながら、ベガの世話をし続けるだけの人生になってしまうのは心配だ。自分のことを考えて欲しい。ローザも結婚し子を産む年頃だ。異国の血の容姿が気に入る男だっている。縁談がいくつも来ていることは知っていた。そしてそれらすべてを断っていることも、知っている。
ローザが笠をかぶった。
「じゃあ、行くわね。ちゃんとご飯を食べて、早く寝るのよ」
「わかってるって。気をつけてね。――サザも、いってらっしゃい」
サザが笠の下で微笑を返す。サザの腰には刀がある。彼はとても強い。道中のローザの身は安全だ。
まもなく、ベガも家へ帰ることにした。邸に着くと、何やら慌ただしかった。
「ただいまー……」
「ああ。おかえりなさい、ベガさん」
水天屋の暖簾がかかった入口をくぐると、三十歳ほどの涼やかな容貌の男が振り向いた。アサヒという名で、邸に何人もいる奉公人の一人だ。商才があり、数年後には彼は水天屋を継ぐ予定だ。
入ってすぐの広い土間は売り場となっていて、武具や異邦品などがいくつも並んでいる。この表玄関の店とは別に、都の目抜き通りにも数区画を占める水天屋の巨大な売り場がある。
ベガが生活する住居区画へは、店のある表ではなく裏の勝手口から出入りする。しかしいまは何やら店が慌ただしい様子だったため、覗いてみた。
「何かあったの?」
「うーん……。実は、大陸から帰ってきた船に、知らない者が乗り込んでいましてね」
アサヒが迷うようにしながらも明かす。
「ウィーダ港から運び入れる荷箱の中に、人がいたのに、気づかず船に載せてしまったようなんですよ。隠れて船に侵入しようとしたのかと思ったら、しかしその入っていた若者は、大怪我を負い、気を失った状態でしてね」
「……何それ。どういうこと?」
何かに追われ、怪我で逃げられず、荷に隠れでもしたのだろうか。
「理由は、目覚めた本人に訊くしかありませんね。いま、西の部屋で眠ってます。得体がしれませんから、相手が怪我を負っているとはいえ、部屋には近づかないように」
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