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菫が来ない日は由香の心も隙間が空いたようになる。だから、菫のことを考えて気を紛らわせる。
菫はマスターに創られたのだという。マスターは人形職人で、菫以外にもたくさんの人形を創っているらしい。まるでおとぎ話の魔法使いみたいだ、と由香は思う。
菫のことをもっと知りたい。だが、口止めでもされているのかマスターに関することは菫も口が重かった。それが、棘となって由香を刺す。菫は由香の問いよりもマスターの言いつけを優先させたのだ。
そのまま暗い思考に沈みそうになったところで、現れた客の姿に由香は慌てて意識を店に戻した。
「披露宴の花について、ちょっと相談に来たのだけど」
上谷律は以前由香が勤めていた会社の同僚である。身に纏うオフィスカジュアルは上質で、どこかのブランド物だろう。春色のそれは上品にセットされた髪形と相まって彼女によく似合っている。彼女から結婚の連絡と、披露宴で使う花の依頼を受けたのは先月だ。彼女の相手は営業部の出世頭だった男性である。
「もうちょっと安くならない?」
由香が花屋を始めてから、こういうことを言ってくる知り合いは多い。曰く、ネットではこれぐらいだった、原価はこれぐらいだろう。
花は結構値がはるが、祝い事の定番である。あまり付き合いがなかったはずの親戚にまで同じことを言われて、最近は辟易していた。
由香は愛想笑いと共にやんわりと断りを入れる。ここで怒っても利はない。向こうはSNSで店の悪口を拡散して憂さ晴らし、由香の店が潰れても気にしないだろう。こういうときはとにかく根気強く下手にでることだ。
律も今更別の店舗に変更することはあるまい。現時点でかなり破格の値段を提示してある。とはいえ、王手企業に勤めていながらこのケチさは品性を疑う。
いや、少し前の由香も同じだったのかもしれない。一流大学を出て王手企業に就職し、都会の華々しい舞台を闊歩していたあの頃は。
だが、気が付いたら他の同僚に後れを取っていた。仕事が滞り、周りからの圧力に負け、自己都合で退職届を出した。単純に仕事が肌に合わなかったのだろうが、悔しさと悲しさだけが残された。
「ちょっと、聞いているの?」
律はイライラとした態度を隠しもしない。「健司さんもちょっとは手伝ってくれてもいいじゃない」と由香にはどうしようもないことまで言い始める。健司、というのが律の相手の名前だ。前回は義親とうまくいっていないという話も聞いたし、どうせ今日も愚痴をぶちまけるのが本命だろう。
それでも、これから輝かしい新婚生活を送るのだろう彼女を羨む気持ちが、由香にはあった。
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