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「もしもしっ。ひまりですっ」
そう言うと、電話の向こうから、メイちゃんの声を少し大人っぽくしたような声が返ってきた。
『あ、ひまりちゃん。こんばんは。こんな夜おそくにごめんなさいね』
「いえっ。あのっ……メイちゃん、帰ってないんですか?」
『そうなのよ。ひまりちゃん、メイからなにか聞いてないかな?』
そう聞かれて、体からいっきに血をぬかれたような気分になる。
もしかしたら、わたしとケンカをしてしまったせいかもしれない。
そう思ったけれど、ひまりは言えなかった。
だって、もし本当にそれが原因で、メイちゃんが帰っていないのだとしたら。たくさんの大人たちに、ひまりはしかられてしまうかもしれない。いつもひまりに優しくしてくれるメイちゃんのお母さんにも、きっときらわれてしまう。
そう思うと、たまらなくこわかった。
「……いえ、なにも」
けっきょく、ひまりはそう答えてしまった。
大切な友だちが困っているときに、どうしてわたしはこんなに自分のことしか考えられないのだろう。
そんな自分がとても情けなくて、答えた矢先から、心底こうかいする。
『そう。ありがとう、ひまりちゃん。なにか思いついたことがあったら、教えてね』
大人っぽいわたがしの声が悲しげにそう言って、電話は切れてしまった。
放心状態のまま、階段を上がる。
部屋に入ると、ひまりはベッドにたおれこんだ。
もしもメイちゃんが、わたしとのケンカでとても落ちこんでいて、ぼーっと歩いていたら。
そこに、悪い大人がつけこんで、メイちゃん、ゆうかいされてしまうかもしれない。
そんなふうに考えて、体じゅうに寒気が走る。
ひまりはベッドから飛び起きると、うえたトラのように部屋中を歩き回って、考えをめぐらせた。
ひまりが知るなかでメイちゃんに今日起こった事件といえば、やっぱりひまりにとつぜんおこられたことだろう。
メイちゃんは、なにかなやみごとがあるとき、ひとりきりで、じっくり考えるんだと言っていた。
メイちゃんが考えごとをするとしたら、それはどこだろう。そこに行けば、なにか手がかりが見つかるかもしれない。
――ピアノに寄りかかって目をつむるとね、心が落ち着くの。まるで、ピアノになぐさめられてるみたいで。
メイちゃんの言葉を思い出して、はっとする。
あれは、ピアノコンクールで、メイちゃんがいい結果を出せなかったとき。
メイちゃんは、泣きつかれた顔で無理やり笑って、ひまりにそう打ち明けてくれた。
そのときメイちゃんは、学校の音楽室から、ひとりで出てきたのだ。
メイちゃん、まだ学校にいるのかもしれない。
ひまりは、あわててクローゼットを開けた。パーカーを急いで羽織って、部屋を出る。
どろぼうのような足取りで階段を降りると、台所では、お母さんとひなたがこちらに背を向けた状態でお茶わんを洗っていた。
「メイちゃん、心配ね」
「うん。早く帰ってくるといいね」
じゃーじゃーと、じゃぐちから水が流れる音が大きい。いまがチャンスだ。
たたたーっと、足音を立てないように台所の前を通ると、げんかんに置いてあるひまりのくつをわしづかみして、くつしたのまま、げんかんを出た。
にげるようにして門の外へ出ると、ふうっと息をはく。家のほうをうかがいながら、道路でくつをはいた。
学校へ続く道を見る。道の先は、真っ暗だった。
それもそのはず。メイちゃんのお母さんから電話があったのは、夜ご飯を食べ終えた少しあとだった。いまはきっと、夜の七時をこえているはずだ。
終わりのないトンネルのような道を前にして、ひまりはぐっとおじけづいた。
けれど、もしかしたらメイちゃんは、いまごろもっとこわい思いをしているかもしれない。
そう思ったら、お腹の底からぐわっと力がわきあがってくる。
ひまりはこぶしをぐっとにぎると、学校への道をかけていった。
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