53人が本棚に入れています
本棚に追加
***
夜ご飯を食べ終わった父親が、1万円札を5枚持って、部屋に入ってきた。
黒いズボンを履いて。
「これー!どーゆーことー!?」
「えー?なにがぁ?」
「これ、フォックが閉まらんでーこれー」
「はっはっはっ」
僕は父親のお腹を見て笑う。
夜ご飯をたくさん食べて、パンパンに膨れ上がったお腹は、かろうじでチャックが上まで上がっているが、肝心の1番上の止め具が止まっていない。
「まーでもいいか。こんで」
「いやいやいや。ほれはあかんだろ」
「えー。どーせベルトするし、上着も着とるけんここ閉めてなかってもわかれへんだろー?」
「いやいやいや」
僕は立ち上がり、父親のお腹とズボンの隙間に手を差し込む。
「パンッパンでこれ!」
笑いながらわずかに入った指を抜く。
「ほれわー。あれちゃうんー。今ご飯食べたとこやけんちゃうん」
「いやいや、そーゆー問題でないだろこのキツさわ」
「えー。金もったいないこれでいいわまぁ。ほれよりお前じょだ。ないんだったら買わなしゃーないでないかだ。急いで買わんでもいいけど、またちょっとどっか見てこいよ」
そう言って、父親がお金を部屋に置いていったのが、僕がお風呂に入る少し前のことだ。
(青木行ってみよーかー。)
(はるやまかなぁ。)
(青木とはるやまってどっちが良いんだろうか。)
なんて、考えながら、眠りについた夜。
***
あれから、3日。
僕は2度、病院に行った。
1度は、自分が行くために。
もう1度は、母親を送って行くために。
僕の母親は、免許証を持っていない。
もちろん、車もだ。
この車社会の田舎で、自転車で病院まで行くには、あまりに遠く、バスで行くにも不便な交通事情。
父親に、母親を送って行ってくれと頼まれたからだ。
半日。
半日、病院にいると、見たことのない親戚のような、親戚が、噂を聞きつけてか、様子を見に来た。
母方の祖母とは、よく付き合いをしていて、誰が誰なのかは、よくわかるけど、父方の祖母。
ばーの親戚とは付き合いがないから、はじめて見る顔ぶりばかりで。
(誰?これ?)
と、不思議に思いながら、
「ああ、はじめまして。孫のぉ……」
なんて、ぎこちなく返事をした。
酸素マスクをつけて、目を開いてはいるものの、会話をしたそうに見えて、会話をすることのできない祖母の様子を見ると、なんだか心苦しかった。
喋ろうとすると咳が出て、見たことのない親戚が話しかけて、また喋ろうとすると、言葉にならず咳だけをして、
「コンコンコン」
と、音が鳴ったら、僕はパイプベットから起き上がる。
***
「コンコンコン」
この音は、サインだ。
父親が、そう決めた。
声が出ずらい祖母が、僕たち付き添いを呼ぶ、合図。
ある時は、
「コンコンコン」
の音で、電動ベットを起こす。
ある時は電動ベットを下げて、平にする。
僕は音で呼ばれ近づき、
「ベット下げるんかー?」
と、質問すると、顔がコクンとうなずいたから、電動リクライニングの上半身の部分を、下方向に動かすボタンを押し込んだ。
***
「コンコンコン」
パイプベットに横になっていると、音がした。
僕は反射的に起き上がる。
「どしたんなー?」
話しかけながら、ベットの隣に立つ。
「おまはんっケホッケホッ」
「なんなー?ベット起こすんか?」
「おまはん。ケホケホケホ。おまケッホケホ」
「起こそうか?」
僕が聞くと、首がコクンとうなづいた。
電動ベットのリモコンを押し込むと、ばーの上半身が、ゆっくりと、起き上がる。
「よっしゃ」
言葉を聞き入れ、反射的に指をはなしリモコンをベットの上に置く。
「おまんも、すぐには無理だろうけどケッホケホ。どないかせななぁ。はぁはぁ。」
荒い息遣いで、よくわからないことを言うばー。
「何をな?」
僕は不思議に感じ、聞き返す。
「しーごと」
「え!?」
「仕事。はぁはぁ」
「え!?仕事!?」
「んーはぁ。ケホッケホッ。しーごと。はぁ。おまんは、体はどんなん?」
「体!?わいの!?」
僕は驚き、聞き返す。
「えぇ」
「ほらまぁ、薬はよーけ飲んみょるけども」
「えぇ。よーけ飲んみょんでおまんも。はぁはぁはぁあー。せこ」
顔を強くしかめ、両目を閉じるばー。
「せこいんだったら寝とけだ。下げようか?」
「いつかは、嫁さんももらわなんだらケホケホケホ。おまんケッホ。兄ちゃんもとーきょーケッホケホ。ケホッケッホいてもーて。はーはー。こっちにおるんは、はぁ。・・・おまんだけやけん」
(なんやこの人。こんな時にこんな心配しとんかい。)
「よーないよんで?病気わ?」
目を閉じたまま、声を弱々しく出したばー。
「んー。まぁ。よーないよるけん、ばーもはよ治せよ。せこそーなけんもー倒すぞ?」
「えっとなんもしてないケホッケッホケホケホ。けん、はぁはぁはぁ。いきなりはケッホ。できんだろけんケッホケホケホケホちょっとずつなぁ」
(自分が死にかけとるのにわいの心配しよんかい。)
「おぉー」
「おまんもまぁはぁ。がんばりよ」
「おおー。ベット倒すぞ?」
「ええ」
言葉と共に、首がコクンと下に下がり、僕はベットを平にする。
***
僕はパイプベットに横になり、しばらく天井を見つめた。
(こんな時に、わいの心配かい。)
(自分死にそうやのに。自分の心配せーよ。)
(急に変なこと言うなー。)
思わぬ質問に、天井を見つめていると、何故か両目に熱いような感覚がした。
が、僕は本能的にグッと何かをこらえた。
グッと体のどこかに力が入っている間も、部屋の中には咳をする音だけが流れた。
久しぶりに味わう不思議な感情を、僕はグッとこらえながら、寝がえりを打つ。
最初のコメントを投稿しよう!