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***
予定通り、9時に家を出た僕たちは、9時30分には病院に着いた。
予定通りにいかなかったことと言えば、じーにばーの容態が良くないと伝えた時に、
「わしも行く」
と、言いだしたことだ。
自分の、車でだ。
我が家のじーは、よく事故を起こす。
もう80歳も過ぎているし、危ないだろうと思い、僕は必至に自分の車で病院まで行くことを止めた。が、朝に何か用事のあるじーは、昼から自分で行くらしい。
「運転するな」
「危ない」
言葉が通じなかった。
予定通りにいかなかったのはそのことであって、今は予定通りにエレベーターに乗って、母親と2人で廊下を歩き、少しドキドキしながら、ゆっくりと扉を開く。
ばーを起こしたら、悪いから。
***
いつものお見舞いのように、寝ているかもしれないばーを、起こさないようにゆっくり扉を開いて、物静かに歩くものの、本当によく寝ているのか目を開かない。
「ばーさんよー寝とんなー」
小声で僕に話しかける母親。
「ほーやな。ほんまに起きんな」
反射的に僕も小声で返す。
閉まっているカーテンを開け、カバンをパイプベットの上に置こうとすると、視界に入る。
(あー?これが注射器か?)
おもちゃの注射器のような、太い注射器が、横方向になり装置のような物にはめ込まれている。
「マスク変わったんやなぁ」
「ああ。そうそう。ってかこれ、普通に喋ってもいけるんちゃうかな?」
「ほーでー?」
小声だった母親が、地声に近いボリュームで声を出す。
「ほんまに寝とんやなーこれ」
「なー。ほんまに寝とるなこれ」
2人で、はじめて見る光景に、驚き戸惑う。
***
パイプベットに、2人で座った。
父親が、寝ていた形跡がある。
毛布がパイプベットのすみに置かれている。
どこかで買ったのだろう。
母親と2人、何をするでもなくパイプベットに座っていると、液体が流れる。
「ちょっとかーはん」
「なにー?」
「寝とってもおしっこはするんやなー」
ベットの右側に吊るされた袋めがけて、管の中を黄色い液体が流れていく。
「ほんまやなぁ」
驚き、食い入るように見る母親が、僕の左肩を叩く。
「ちょっとゆーや!ばーさん血が出よるわよ」
「え!?」
驚いて声を返す。
「ばーさん血が出たわよ。いけるんこれ」
「え?どこから?」
「血尿よ。ほれここ」
母親が、おしっこを溜める袋を指さす。
「ほんまやな」
黄色い液体に、赤が少し混じっている。
「まだ出よるわよ!ほれ!」
「ほんまやな」
管の中を、赤い液体が流れる。
「これって看護婦に言わんでもいいんで?」
「んー?どうなんだろ?一応言うた方が良いんかな?」
「言うた方が良いんちゃうん血尿やー」
心配そうに母親が言った。
「ほなどうしよう?ナースコール?ほれか直接言うてこよか?」
「詰所に言いに行くってことでー?」
「そうそう」
「まぁー。ちょっとほこのボタン押してみーだ」
「ほなまぁ」
僕は立ち上がり、寝ているばーを起こさないように気配を消しながらナースコールのボタンを押す。
「・・・・・・はい。どうされましたか?」
(大きい声やな。)
ばーの頭の上のスピーカーから、看護師さんの声がした。
「あのー、すいません。血尿が出たみたいなんですけども」
「血尿ですか?」
「はい」
「わかりました。ほなちょっと見に行きますね」
雑音とともに、会話が途切れると、少しの時間の経過のあとに扉がノックされる音がして、看護師さんが部屋に入ってきた。
「どうされましたかー?」
「これ、血尿がさっき出たみたいなんですけども」
僕はおしっこが入った袋を指さす。
「あー。ほんまやねぇ」
看護師さんは、体を前かがみにして確認しながら声を出し、ばーの股間に繋がっているであろう管をスッと引っ張った。
(雑に引っ張るな。ほんだけ雑に引っ張っていけるもんなんかこれ?)
管を真上に引っ張ると、重力に従って、また少し赤い液体が流れる。
「ああー。ほんまやね。これやね。たぶん薬の副作用と思います」
(なんや軽いノリやなぁ。)
僕は、はじめて見る血尿に驚いていたが、看護師さんは、日常会話を楽しんでいるかのような明るいトーンで声を出した。
「一応先生に報告しときますねー。また何かあったらね、いつでも呼んでください」
管の位置を少しいじって背を向けた。
「これって寝とっても出るもんなんですね」
母親が看護師さんの背中に向いて話しかけた。
「はい?」
「今ってこれ寝とんでしょ?」
「そうですね。薬で寝てるような状態になりますねー」
「寝とってもおしっこは出るんですね」
「そうですね。またなんか異常があったら、またボタン押してくださいね」
スッと体の向きを変えて扉に向いて足を進める。
***
特に何をするでもなく、本当に寝ているのか、何の反応もないばーを前に、
「そろそろ帰るか」
なんて話をしていた時、
「コンコン」
と、ノックの音のあとに、介護士さんであろう人が2人病室に入ってきた。
ビニール手袋に、ビニールエプロン。
またオムツの交換に来たのかと悟った僕は、できるだけ見ないように携帯電話の画面を見る。
「すごいなぁ。薬って。あんだけ体触られても起きーへんのやなぁ」
「んー?んー」
1人の人に、体を持ち上げられている。
「ちょっと、ちょっと」
少し小声で、母親が僕を呼ぶ。
「ばーさんうんこしとるわよ」
「えぇ!?」
驚いて、思わず目線をベットに向ける。
「ほんまやな」
白いオムツの上に、茶色い物体が見える。
「寝とるのにうんこも出るんやなぁ。人間の体って、不思議やなー」
「ほんまやな。出るんやな」
見ちゃいけないと思い、目線をスッとそらす。
「私も、あないなったら終わりやなぁ」
「何がぁ?」
「私もあないなったらもうあかんなぁ」
「え?」
「人間、飲み食いできて、歩けてってできなんだら。あないなったら死んだほうがいいな」
「うーーん」
「あたしがあないなったら世話やせんでいいけんな」
「え!?」
「生きとっても迷惑かけるだろーけん殺してよ」
「うーん」
「息しよるだけやもんなぁ」
「うーん」
「ほんでまた、この人やもすごい仕事やなぁ」
「うん」
「ちゃんとお尻も拭いてくれて、すごいなーこんな人」
「うん。ほんまに、これだけはわいもよー真似せんと思う」
「こんな人やは、良い死に方できるんだろうなぁ。人の世話する仕事は、すごいわ」
「ほんまなぁー」
2人きりになった病室で、いつもよりちょっと、小声で話す。
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