僕がニートを卒業しようと決めた日

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*** (じーは行ったか。) 車が走り去る音で、僕はすぐに理解した。 今日は水曜日。 老人会でカラオケをする日だ。 毎週、水曜日は、カラオケの日。 どたばたと急いで用意をする音がなくなった家の中。 いつもなら、騒音の原因が1人いなくなり、静かになる喜びを噛みしめるところだが、今日は少し違う。 静かになった家の中に、ほんの少しの感覚をあけながら、咳をし続ける音が響き続ける。 ***  「ほれ、咳いけるんか」 布団の中で我慢しきれなくなった僕は、階段を下りてすぐ扉を開き話かける。  「えぇ?エッホエホエホ」  「ほれほんだけ咳しよっていけるんか?せこーないんかだ?」  「ほらーエッホせこいわだー。ケホケホッ」 小さい体を畳の上にきょとんと座らせ、喋りながらも咳を続けるばー。 喋りながら咳をするのは、いつものことだが、今日は、何か、いつもと違う異常さを感じる。  「バン」 ストーブで温められた空気が逃げないように体を部屋の中に入れ、扉を閉めた僕は続けて口を開く。  「医者連れて行ったるわだ」  「あたしーは、ケッホケホ。こんな病気やけんなぁ。ケホケホケホ」  「こんな病気ったって、いつもよりよーけ咳しよんでないかだ。ほんだけ咳しよったらせこいだろーが!」  「ほらほおやけんど」 咳をしながら、少しハニカミながら横になるばー。  「医者連れてったるけん用意せーだ」  「ちょっとこーやってケホッ。横になっとったらケッホケホ。あたしは楽になるけんなケッホケッホケッホ。あーせこ」  「ほんだけ咳しよって寝とるだけで楽にやなるかだ!はよー用意せえ!」  「楽になるんじゃ」  「なるかだ!家で死なれたら困るんじゃわ!用意せえ!」  「死ぬったっておまはん」 咳をしながら、ほほ笑むばー。 少し腹を立てながら言葉を飛ばす僕には、合間合間で言葉よりも咳がどんどん返ってくる。  「今日はーほなけんど、ケホ。水曜日だろ。おじーさんカラオケ行たけん。ケッホケホ」  「ほなけんどしたん?」 横になっていた体を起こし、テレビ台の下に置かれた紙のような物を手に取るばー。  「あたし、ケホケッホケホッ。いつも見てもらいよるせんせケホッケホッ。金曜日やけんなぁ」 咳をしながら白い紙を広げ、何かを見はじめた。  「ほんなん関係あるかだ。ほんだけ咳しよったらとりあえず医者行かなしゃーないでないかだ。先生なんて言う人なだ紙かしてみい」 僕は咳をするばーから白い紙を受け取り、広げる。 (なんや。どれや。) 紙を広げると、曜日の次に先生の名前であろう人達の名前が書かれていて、その横には、診察時間の午前午後であろう時間が書かれている。  「なんて言う先生な?この金曜の新井や言う先生がほーか?」  「う、ケホケホケホッ」  「水曜の午前に名前書いてあるでないかだこれ。今日見てくれるんちゃうんか?」 僕は白い紙をばーの目の前にスッと差し出す。  「えぇ。名前あるんかい」 分厚いレンズの眼鏡越しに、紙を見るあいだにも咳が出続ける。  「ほんまやなぁ」  「ほな行かんかほれ、用意せー」  「ほなけんどほの先生、朝はよーに行かなエッホエホエホケホ。混んどるけん。ケホッ。今頃行ても。ケホ。見てくれるやどおや」  「いま何時なだ?」 僕はテレビの画面を見る。  「診察券どれなだ。電話して見てくれるか聞いてみるわだ」  「しん……ケッホケホケホ」  「ああ、もういいわちょっとじっとおれ。この紙に書いてある病院だろ?調べてかけるわ」 僕はスマートホンをポケットから出し、検索する。  「プルルルル。プルルルル。プルル・・・はい。板野東病院でございます」 看護師さんであろう女性の声に、後ろで咳をするばーの声が重なる。  「あっすいません。今から病院に行って新井先生に見てもらえるかどうか確認したいんですけども」 僕は喋りながら部屋から出て、扉を閉める。  「ど、どうされましたかね?」  「祖母が通院しているんですけど、体調が2~3日前からなんか悪くて、見てもらえるんだったら連れて行こうと思ってるんです」  「えーと。祖母と言うことは、今お電話されているのわ?」  「あ、孫です」  「あっ。お孫さんなんですね。すいません。じゃぁ、おばあさんのお名前と、生年月日をお願いできますか?」  「ちょっちょっと待ってくださいね」 僕は急いで扉を開く。  「ばー!生年月日いつなー!?」  「えぇ。ええと。ケッホケホ。昭和11年の、ケッホケホ。はー。1月11日」  「もしもし」  「はい」  「昭和11年の1月11日です」  「お名前よろしいですか?」  「あっ、美空よしこです」  「みそらよしこ様。少々お待ちくださいね。あっ、今現在は、どのような状態でしょうか?」  「えーと。間質性肺炎で通院してるんですけど、咳が喋れんぐらいひどー出よんです」  「それがー?2~3日前からと言うことですね?」  「はい」  「お熱はありますか?」  「熱!?熱ですか?」 僕は慌てて聞き返す。  「さんじゅうななどさんぶ」 (なんや、熱まであるんかい。)  「あ、37.3らしいです!」  「37.3℃ですね。わかりました。ちょっとお待ちくださいね」  「♪♪♪♪~♪♪♪♪~」 アンパンマンのマーチが耳に流れはじめた。  「熱もあるんか。ほなはよー病院行かなあっかだ」  「ちょっと風邪ひいただけやけん、いけるわよ」  「風邪ひいただけでほんな喋れんぐらい咳や出るかだ」  「わたしはもうこんな」  「もしもし」  「あっ!はい!」  「新井先生ですね。午前中はおられますので、午前中に来て頂ければ診察できます」  「あっ、そうですか。ほな今から急いで行きますんで、よろしくお願いします」  「あっ、はい。わかりました。それでは、お気をつけて来てくださいね」  「あっ、わかりました。失礼しますー」 僕は通話終了のボタンを押しながら口を動かす。  「ばー!見てくれるって言よるけん!」  「えぇ。ほなまぁ」  「用意せー!わいも上行って用意してくるけん」  「わかったわよ。ケッホケホケホッ。しんだいケホッ。いきとーないのに。ケホケホケホ。」 僕は咳声を聞き入れながら階段を上る。
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