花屋

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花屋

 優子と付き合って二年になる。今日は記念日デートということになっていたが、電車が遅れてしまった。なぜ肝心な時にだけ、電車というものは遅延しやすいのだろうか。長方形の鉄の箱への恨み言を我慢しながら、待ち合わせ場所の時計台に向かう。 「あっいたいた、こっちこっち!」 涼しそうな水色のワンピースを着た優子は、青空に溶けてしまいそうなくらい綺麗だった。彼女に手を振り返す。 「もう、遅いよ。十五分も待ってたんだよ?」 「それは優子が早く来すぎなんだよ。待ち合わせは一時だし」 「そんなのいつものことでしょ。いい加減学びなさいよ。ほら、映画始まっちゃうから。早く行こ!」 まだ上映まで三十分もあるというのに、二人で手を繋いで、映画館へ走る。  周りの視線が痛い。まるでバカップルを見るような目だ。しかし優子の楽しそうな横顔を見ていると、これもまた良いと思えてしまうのが難題だ。認めるしかないのか、俺たちはバカップルだと。  映画を見終わった後、二人のお気に入りのカフェに来た。苺パフェが人気の店だ。 「いやー、お腹いっぱい。疲れたー」 パフェを食べ終えた優子が、テーブルの上にこんにゃくみたいに、グダッと倒れる。  パン!唐突に、店内に乾いた音が響いた。音源は優子の頬だ。彼女は両手で自分の顔を潰していた。 「何してんの?」 「気合入れてんの!」 優子はたまに理解出来ないような行動をする。 「何のために」 「ふーう。ふん!」 またほっぺを叩いた。あんまり強く叩くと跡が残ってしまいそうで、心配になる。 「大丈夫?」 「あのさ、大事な話があるんだけど」 その口調のトーンに良くないものを感じる。まるで暗雲がカフェの天井にもくもくと広がっていくようだ。  優子の目を見る。緊張感から見開いた優子の目はその言葉が冗談ではないことを表していた。 「私たち、別れない?」 「えっ!?」 意味が分からなかった。ワタシタチワカレナイ?と音が聞こえるだけで、それが言葉だと認識出来ない。 「なんて言った?」 「私たち別れようって言った………ごめん」 私たち別れよう。今度は言葉を頭の中で消化することが出来た。それは先ほどよりも少し強い表現な気がして、涙が出てきた。恐怖と困惑の二文字で頭の中が埋め尽くされそうだ。 「なんで!今まで仲良くやってきたのに!本当は楽しくなかったのかよ!それともなんだ?浮気か!」 理不尽に対するドス黒い感情が、心の底から湧き出てくる。 「違う。私、今でも甲斐のこと好きだよ。でも」 「なんだよ、でもって!」 口調を弱めようとしてもどうしても声が大きく、低くなってしまう。やめてくれ、黙れ、俺。 「私東京に行くことになったの。だから」 「遠距離になるってか。それなら俺も東京に」 行く。と口にしようとした所であることに気づく。  俺の実家は花屋で、もうすぐ俺が店主になる予定だった。なぜなら親父はヘルニアを患ってしまっていて仕事を長くは続けられそうにないからだ。東京についていくことなんて、夢物語だ。 「………ごめんね」 「でも………遠距離でも」 「私、遠距離になったら浮気しないって保証できない。甲斐はそれでもいい?」 「そんなの!頑張れば、遠距離になったからといって」 「現実的じゃないと思う」  遠距離恋愛で別れる確率はおおよそ八割。  いつか、そんな記事を二人で見たことがある。あの時は、確かにそんなもんだろうなと納得していたが、今はあんな統計を出した野郎に一発ぶちかましたいと思う。 「なんで、東京に?」 「私、甲斐には言ってなかったけど夢があるんだ。小説家になるっていう夢」 「それで?」 「私、新人賞を取れたんだ。その関係でもう福岡には居られなくなるの。色々、打ち合わせとかあるから」 「………そうか」 俺はどうやら、ひどい勘違いをしていたらしい。  付き合って二年。彼女のことなら大抵の人よりは理解していると思っていた。だけどそれはただの傲慢で、彼女の夢さえ教えてもらえないほど、俺は信用されていなかったようだ。急に自分が恥ずかしくなる。 「どうして、そんな大事なこと、教えてくれなかったんだ?」 「だって恥ずかしいじゃん。小説家になりたいだなんて」 「そんなに!俺のことが信用出来なかったのかよ。俺はお前の夢を笑うほどクソヤロウじゃないぞ!」 「うん、分かってるけど。でも言えなかった………ごめんなさい」 「ふざけんな!俺がどれだけお前のことを!」 もはや俺は自分自身の身体をコントロール出来なくなっていた。勝手に、右こぶしが上がる。 「おい、君。そこら辺にしときなさい。他の人にも迷惑でしょうが」 いつのまにか、他の客であろう初老らしき男に腕を掴まれていた。  それと同時に、大粒の涙をこぼしている優子が視界に入る。自分が優子を泣かせたという、そして殴ろうとしていた事実に背筋が凍る。  迫りくる罪悪感。あぁ、俺は本当にクソヤロウだ。 「すいません。今すぐ出て行きます」 俺たちを見る他の客の目は、別れ際のカップルを蔑む悪魔の目をしていた。  自分の部屋のベットで、ケータイに入っている優子のメールアドレスを見る。  二年前はどれだけこのアドレスからのメッセージを待っていたことか。最初は一通書くのに三時間以上掛かってたな。  一通一通、優子から送られてきたメールを読み返す。たしかに文章が妙に気取っていて、比喩や暗喩表現が多い。しかし日が経つごとに読みやすく、面白くなっていっている。  こんなに優子が変化しているのに、気づかず、ずっと一緒に居てくれると思っていた俺が悪いのだろうな。  視界がぼやけて、寂しさが溢れてくる。また彼女と話したい、遊びたいと思わずにはいられない。でも優子にとって俺はもう、お荷物なんだろうな。  ボタンを数回押し、メアド削除のパネルを押した。さようなら、今まで付き合ってくれてありがとう。  それから俺は花屋の仕事に精を出すようになった。そろそろ親父の限界が来ているという危機感もあったが、それよりも早く優子のことを忘れたかった。 「あら、最近頑張ってるじゃない」 花の手入れをしている途中、常連客の佳代さんに話しかけられた。髪は真っ白に染まっているが、健康的な歯茎と明るい表情のおかげで、八十代にはどうしても見えない外見をしている。 「ありがとうございます。親父の後をしっかり僕が継がないといけないんで」 「そんな甲斐くんにはハイこれ」 「あっ黒糖飴だ。ありがとうございます!」 「じゃ、またくるわね」 「はい、またのご来店をお待ちしております」 佳代さんは毎回スズランの花を数本買っていく。お墓参り用だと昔、親父から聞いた記憶がある。 「おし。休んで良いぞ甲斐」 「いや、もうちょっと花束を作ってからにするよ」 「熱心なのは嬉しいんだが。あんまり働きすぎると身体に毒だぞ」 「いいんだよ。これしかやることないし」 「若いんだからクラブとかでも行ってみたらどうだ。あと居酒屋とか、出会いがあるかもしれないぞ」 「どっちも東京なら行きたいと思うけど、ここは福岡だからね」 「むぅ。福岡の田舎の方だって探せば、なかなかいいのが」 「そう私みたいなね」 店の扉の鈴が鳴る。 「母さんは普通でしょ。というか今日は帰りが早いね」 「まあね。珍しく、仕事が早々にキリついたから」 「ただ今、帰りました。たっだいまー!」 母さんの後ろからひょこっと雪が現れた。相変わらずセーラー服がよく似合う、幼い顔をしている。かわいい顔なんだから、駄洒落なんて言わなければ雪は完璧なんだけどな。 「雪も帰ってきたのか」 「今日は体育大会だったからね。ところでお兄ちゃん。その手に持ってるのは何?」 「ん、これは佳代さんから貰ったんだよ」 「黒糖飴だよね。ちょうだい!」 と言い終わる前には、俺の手から飴を奪っているのであった。 「ブドウ糖取ってしっかり勉強しろよ。せっかく私立のいい高校行ってるんだから」 「言われなくてもそうしますー!」 しかし私立の学費って高いよな。何にあんな大金を使っているのかまるで見当がつかない。まあ県内有数の進学率を誇っているのは確かなんだが。 「お兄ちゃん」 「どうした?」 妹は申し訳なさそうな目で、階段の下にいる俺に話しかけてきた。 「ごめんね!」 「何が?………黒糖飴なら気にするな。俺甘すぎるの苦手だから」 唐突に、雪は泣き出した。慌てて、慰めようとしたが何が原因なのかも分かっていない中で、効果的に慰めるのは難しく、 「どうしたんだ、雪?」 「大丈夫だからぁ気にしなくていいよぉ」 明らかに大丈夫そうではなくボロ泣きしていた。最終的には雪の泣き声を聞きつけた、母さんに子守をパスしてしまった。  家にいるのは気が引けたので、俺はなんとなく、居酒屋に行くことにした。別に親父に言われたからではないが、飲みたい気分だったのだ。  ボロボロでふとした衝撃で潰れそうな、居酒屋に入る。店前の赤提灯が暗闇に怪しく光っていた。 「いらっしゃいませー!」 その店員は金髪の若い女でいわゆるギャルって感じだった。しかし田舎特有のダサさは無く、垢抜けている印象を感じる。 「一名様ですね。どうぞこちらに」 「いや二枚様ですけど」 一名様と言われて無性に腹が立った俺は、そんな風に喋っていた。 「もう一名様は………ええと、どちらに?」 「それは貴方です」 俺は失恋して疲れていたんだ。だから許してほしい、これくらいの害悪行動は。優子にフラれてからから半年くらい経っていたけど。 「えーっと。もしかしてナンパですか」 店員にそう言われて、思わずどきりとした。自分から言い出した癖に。 「多分。状況的にはそんな感じだと思います」 心情的にはそんなつもりではなかったけど。ほぼ八つ当たりだけど。 「いいですよ。ちょうどお客さんも貴方しかいないし」  思いがけないナンパは思いがけず、成功してしまった。  店員モードから切り替わったことを知らせるようにして見せられた彼女の笑顔に、一目惚れしてしまった。  それから俺は足繁く、その店に通うようになった。生きがいという程ではないが、今では居酒屋に行くことが生活の一部となってしまっている。 「いらっしゃいませ〜。今日もお一人様ですか?」 「お二人様で」 「だーめ。今日は沢山お客さんがいるから。また空いている時にね」 「はいはい。じゃあ今日は普通に飲むよ」 「不満そうにしないの」 「してません。花いる?今日も持ってきたけど」 薔薇の花束を渡す。 「ありがとー!あとで飾っとくね」 結衣は花好きだった。タバコの煙が花に当たるのも嫌がるくらい、花を大切にしてくれる。そんな彼女を見ていると心が癒される。 「ひゅー。いい恋してんねぇ、兄ちゃんは」 俺がカウンター席でちびちび、ビールと焼き鳥を食べていると、隣のおっさんが肘でこづいてきた。 「そんな。ただ俺たちはお互い花が好きなだけですよ」 「そーんなこと言っちゃて。俺はなぁ知ってるぜ。兄ちゃんが毎回、店に来るたびに薔薇の本数を増やしてることをなぁ」 「な!?気づいてたんですか」 「あたぼうよ。あんなに分かりやすいアピールは他にないってもんよ」 「もしかして、結衣にも」 「それでも毎回花を受け取ってるんだから、もう貰いもんだなぁ。なぁ兄ちゃん、今日は何本だったんだ?」 「百六本です」 恥ずかしさで顔が、すごく暑い。  ビールを一気飲みして、少し気持ちを落ち着けようとしたが、余計に頭がクラクラしてきた。 「確か、来るたびに一本ずつ増やしてたよな。………あと二回じゃねえの!もちろんプロポーズはするんだよな」 テンションが上がり気味のおっさんの口から、噛み砕かれた謎の肉が飛んできた。急いで、そしてゆっくりと相手を気遣うように、ジョッキをおっさんのいる方向から遠ざける。 「まだ付き合ってもいないですし」 「ばっきゃろう!好きならとりあえず結婚して、後からあーだこーだ考えりゃいいんだよ」 そんな話をしていると、両手に皿を乗せた結衣がやってきた。 「お待たせしましたー。唐揚げの盛り合わせです」 「おう。旨そうだなこりゃ」 「ねえ………甲斐くん」 初めて下の名前で呼ばれた。 「はい!なんでしょうか!」 動揺しているからか、声が予想以上に大きくなる。 「はい!」って言い方なんか自衛隊みたいで変だったかな、大丈夫かな。ジョッキを持つ手が震える。 「明日と明後日、半額キャンペーンやるからね」 「へえ!それはいいね!」 それだけ言って結衣は注文をとりに他の客のところへ行ってしまった。 「おっめえ。今の実質、オーケーじゃねぇか」 「そっすね」 ジョッキのふちを噛む。それでも無慈悲に、口角は上がる一方だった。 「頑張れよ」  翌日。俺がいつも通り、花束を作っていた時だ。店の鈴が鳴ったかと思うと、高校から雪が帰ってきた。 「ただいま帰りました。たっだいまー!」  そこまでは良かった。しかし問題はその後に起きた。 「お兄ちゃん。なんと今日は雪からのサプライズがあります」 「おっ、なんだなんだ急に」 「どうぞ、お入りくださーい」 コツ、コツと足音が鳴る。 「………久しぶり。甲斐」 雪の後ろから、優子が出てきたのだ。 「………優子」 「これ、私の本。ごめん、どうしても甲斐に読んで欲しくて。駅で雪ちゃんに会ったから、いてもたっても、いられなくなっちゃって」  無事に出版されたんだな。 優子から差し出された本を手に取ろうとするが、なかなか上手く掴めない。磁石のエス同士みたいに、手が本に近づくたびに押し出される感覚がある。  違う、この本は何も悪くないんだ。そう頭で何度言い聞かせてもどうしても、この本を憎いと思ってしまう。この本さえなければ、もしかしたら今でも優子と関係を持てていたのかもしれないと。 「………お兄ちゃん」 「分かってる。大丈夫だ」 俺が本を受け取ると、何も言わずに優子は何処かに行ってしまった。引き留めはしなかった。そうしたら戻れなくなるような気がしたから。  本の内容は、花屋の女の子と小説家を目指す大学生の純愛物語だった。 「その本、面白かった?」 「分からん」 久しぶりに読書をしたせいか頭がぼーっとする。 「ねぇお兄ちゃん、ごめんね私のせいで」 「別に大丈夫だよ。むしろ久しぶりに優子の元気そうな顔見て安心したよ」 「ううん、それだけじゃなくて。私のせいでお金を稼がないといけなくなっちゃって………私のせいでお兄ちゃんと優子さんが離れ離れになって」 雪の声が震え、目が煌めき始めた。とっさに雪の頭を撫でる。 「そんなこと気にしなくていいよ。確かに優子は大事な彼女だったけど、お前も俺の大事な大事な妹なんだから」 ポケットを弄り、今日もあの人から貰った黒糖飴を雪に渡す。こいつは何も悪くないんだから、誰も悪い人なんていない。あるのは事情だけだ。 「ありがとう。でも本当にごめんね」 その日の夕方のこと。雪は友達とカラオケに行き、帰りが遅くなるとの連絡があり、親子三人で鯛焼きを食べていた時。 「なあ親父」 「ん?どうした甲斐」 「俺、結婚するかも」 あんこの少ない鯛焼きのしっぽを噛みちぎる。 「そうなの。相手は優子ちゃん?」 「やっと失恋から立ち直り気味なのに。それ以上掘り返さないでくれ、母さん。相手は居酒屋の人だよ」 「それは雪のため?あの子だいぶ気にしてるみたいだし」 「たぶん、違うよ」 俺が結婚したからといって、雪が無駄に悩み続けることを辞める確証はない。本当に気にする必要ないんだけどな。 「くっそう。俺の腰がもーちょっと強ければな。甲斐無しで店回せたんだけどな」 「別にしょうがないよ、病気は」 「ふーん、分かった。でもちゃんと好きな人と結婚した方がいいわよ、後悔するから」 「だから雪のためとかじゃないって。単に俺が結婚したいの」 「そう。後で雪に伝えとくわね」 「はい、ありがとうございまーす」  夜。居酒屋に足を運ぶ。今日はいろいろあったので、飲んで忘れたい。 「いらっしゃいませ、お一人さん」 「はは、こんばんは。今日はちょっと個室で食べてもいい?」 「いいけど。大丈夫?なんか顔が青く見えるけど」 結衣にそう言われて、自分でも体調が悪いことに気づく。優子に会ってから微妙に体が重い。 「大丈夫。多分、メンタル的なやつだと思うから」 バックから、花束を取り出して結衣に渡す。 「いつもありがと。でも、本当に体調悪かったら、ちゃんと教えてね。その………薔薇は逃げないから」  結衣の助言に従い、俺は居酒屋を早めに出た。あんに飲もうと意気込んでいたのが嘘みたいだった。というか嘘になってしまったのだけど。  空を見上げると、星が綺麗に輝いていた。外のひんやりとした空気を吸って、気持ちを落ち着かせる。  結衣が中でせわしなく働いているであろう居酒屋を見る。大丈夫、もう俺に優子への未練はないはずだ。俺は結衣が好きで、結衣も俺が好きだと………思う。だから、それ以外の余計なことを考える必要はないはずだ。  居酒屋から帰ってきて、家の扉を開けようとした時、左足に紙袋が当たった。手に取ってみると中にはワスレナグサとクロッカスの二本で出来た花束が入っていた。  花言葉はそれぞれ、愛の後悔、あなたを忘れない……………………だ。  
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