プロローグ

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プロローグ

これは三月二十一日の出来事。 思い返すと、やはりこの日の出来事がきっかけで俺の人生は大きく変化したのだ。 「あの、何かの冗談ですよね?」 脳が判断する前に、俺はそう聞き返していた。それに対する相手からの返答も、俺がこの様な危機的状況に直面している理由も理解はできていた。ただそう聞き返す事しか出来なかったのだ。 「冗談などではない。君には我が社を退職してくれと言ったんだ。明日からは出勤してこなくていいぞ?邪魔だから」 咄嗟(とっさ)に胸ぐらを掴みそうになった。結果それは叶わずしっかりとワイシャツの襟を掴み損ねた俺はこの場に居ることに耐えられなくなりそこから一目散に駆け出した。 最寄りの駅に着いた俺は今一度自分の行動を思い返してみた。 「胸ぐらを掴むのはいけないよな、やっぱり」 正確には掴んではいないが俺は少し反省していた。だいたい、こうなる事は前から予想していた訳で取り乱すのは不本意だ。感情的な人間が嫌いな俺はやはり感情的になることも嫌った。その性格のおかげかは分からないが、二十六歳にもなって喧嘩の一つもしたことない。俗に言うつまらない奴だ。 時間経過のおかげか頭に登った血も今や(ふもと)まで下山していた。 平常心を取り戻した俺は、金輪際あの職場の連中と顔を合わせなくて良いという事実に清々しいさや開放感を感じ始めていた。また今夜の夕食は何を食べようか、明日は何時に起きてやろうか、などと考え始めていたのだ。 「二郎食って帰ろ」 俺は不安と期待の入り混じる不思議な感情に支配されていた。この感情は腹を満たら、心ゆくまで眠り続けたら何処かに行ってくれるのか?そんなことを考えていたら店の前に到着していた。 「まあ明日のことは明日の俺に任せよう」 店内は大変混んでいて俺が座った席は最後の空席だった。そして席に着いてすぐ三人のお客さんが来店し、その方々は並ぶこととなった。ひょっとしたら今日の俺はついているのかも、などと考えながら、ふと周りのお客に目を向けた。改めて見ると客層は幅広く、学生、サラリーマン、中には年配のご夫婦もいた。これは珍しい。 ちなみに今日は豚ダブルにした。記念だ。 「そう、今日は退職記念日だ」 こうして3月21日は俺の邪気に当てられ無事記念日にされたのだった。すまんな。 聞き耳を立てていた訳では決してないが、俺に最後の空席を取られた哀れな三人のお客さんの会話が耳に入ってきたので、俺はそれをBGMがわりに聞くことにした。内容は以下の通りだ。 「明日朝早いよな?並ぶんだったら他の店にすれば良かったよ」 「諦めろよ。ここうまいからさ。お前も次回からは並んで食う我々の気持ちがわかるさ。あーでも明日仕事だからニンニクは入れない方がいいぞ」 「ここの店舗は初めてかなぁ。職場から近いし明日も来ようかなぁ」 やはり、今の俺からすれば哀れだった。もっとも向こうからしたら俺の方がそうなんだろうがそんな些末な事は別に気にならなかった。 「ニンニク入れますか?」 「ニンニクヤサイアブラマシマシでお願いします」 俺の辞書から仕事のふた文字は消えていた。
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