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「部長、どうぞ」
「いや、いい。君が食べたまえ」
紙製カップの底に沈む、最後の唐揚げ。
いつまで経っても無くならない。
遠慮のかたまりだ。
「部長、遠慮のかたまりです。食べてください」
「私はその言葉を好かん」
「えっ、どういうことですか」
「君は、遠慮しているつもりかね」
「当然です。そもそもこの唐揚げは、部長のおごりで買っていただいたものですから。最後の一個を部長が食べるのは、当然です」
「なるほど。ではきくが、最初の一個は誰が食べた」
「僕です」
「どうして食べた」
「部長が、いいから食べろ、とおっしゃったからです」
「そうだ。その時君は食い下がらなかったじゃないか。なのにどうして今は、頑なに譲ろうとするのだ」
「最後の一個だからです」
「最初の一個とは、価値が違うというのか」
「え?いや、それは……」
「何も違わないはずだ。むしろ最初の一個の方が、出来たてで熱々でうまい分、価値が高いと言ってもいい」
部下の男は頭を抱え込んでしまった。たしかに、それもそうですね、と納得しかけたが、
「でも、やはりこの唐揚げはいただけません」
引き下がらなかった。
「なぜだ。しつこいのは、よくないぞ」
「僕が唐揚げを部長にお譲りするのには、もう一つ理由があるのです」
「なんだ、それは」
「罪悪感です」
「なるほど。勿体つけて何を言い出すかと思ったら、この上なく普通のことを言う。しかしそれについては、何も遠慮せずに食べていいと、最初に言ったではないか」
「いいえ、部長。部長がなんとおっしゃろうと、僕は、こういうことに必要以上に罪悪感を感じてしまうのです。僕はそれが嫌なのです。つまりこれは、部長への気づかいというよりも、自分のための、身勝手なお願いなのです。ですからその唐揚げは、どうか、部長に食べていただけませんでしょうか」
「君の言いたいことは分かった。つまり君は、唐揚げ一個よりも、自分の精神的な平穏を選びたいというのだろう。しかしこうは考えないのかね。私もまた、最後の一個を食べることで上司としての面目が立たなくなることを恐れている、と。部下に譲らない上司。私にそんな役回りをさせてしまうことに、罪悪感は感じないのかね」
「そこまで深く考えなくても、いいじゃありませんか」
「それを言うなら君こそだ。謙虚なのはいいが、なんでもかんでも自分が悪いように考えるその性格は、直すべきだ。いいから、食べなさい」
「いやです。部長が食べてください」
ふたりはその後も熾烈な譲り合いを続けた。それは到底おさまりそうもないように見えたが、
「あっ」
部下の男が突然何かを閃いたように声をあげた。
「部長、こういうのはどうでしょう。はんぶんこ、というのは」
「はんぶんこ………あっ」
部長はしばらく硬直した後、無言で右手を差し出した。部下の男も、差し出した。ふたりの間に固い握手が結ばれた、その時だった。
周りの観客たちが凄まじい歓声を上げ、一斉に立ち上がったのだ。見つめ合っていたふたりは握手をしたまま、観客たちが見上げる方向を向いた。
真っ白い球が、スゥーっと飛んでくる。必死で捕らえようとする観客たちの、無数の手の間をすり抜けたそれは、
すぽっ。
ふたりの目下。唐揚げのカップにすっぽりとはまった。
すでに和解していたふたりはもちろん、先ほどまでの争いの謝罪をし合った。
「すみません部長、僕がどうかしていました。部長からのご厚意を素直に受け取らず、自分が罪悪感から逃れるためなどと……。部長のお言葉に甘えて遠慮なく、いただきます」
「いやいや、私の方こそすまなかった。君の繊細さを考慮せず、無理に押しつけようとしてしまって……これは、私がいただこう」
握り合ったままカップに近づいていく手を、離してなるものかと互いに歯を食いしばりながら、ふたりは謝り続けた。
今度こそ、争いはおさまりそうになかった。少なくともホームランボールをはんぶんこしようという結論には、至らないだろう。
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